名前のない馬鹿 -A Fool With No Name-

今回の話は、長くなりそうです。 小説を書いているような気持ちになってきました(笑)。

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オレがうつになりまして・5

4.崩壊 ― spiral fall ―
 
これはここの場所から動かしてはいけない、このラインから外に出てはいけない、お前はここに書かれた動線以外のルートを歩いてはいけない、加工は効率を考えずに決められた順番でしか行ってはいけない、このルールブックに書かれている以外の行動には宮内の許可が必要…。
 
宮内の敷設したルールは、ものの見事に一部の方向にはその効果を発揮しました。
完全に、私の作業上の自由は奪われました。
私は、何も出来なくなりました。
完全に、息の根を止められました。
地面に貼られた2メートル×3メートルほどの白いラインテープの内側だけが私のいて良い場所であり、動きをわずかでも止めることやそのエリアから出ることは全て仕事上のムダと評価されるようになりました。
全く印刷を知らない、更に全く現場を知らないまま今まで過ごしてきた宮内が考えた、効率とは全くかけ離れた、彼の考える効率の良いルール。
今まで私が培ってきたノウハウや技術はすべてと言っていいほど否定され、彼の思う印刷作業というものを具現化させる空間が、そこに出来上がりました。
当然、現場の意見を全く組み入れないで作られた作業ルールを遵守することで生産効率は更に落ち、私は数字とルールの両方に追い詰められていきました。
苦悩の日々が続き、このままではおかしくなってしまうのではないかと思い始め、私は宮内にもっと現場に立ち返ったルールにして欲しいと懇願しました。
しかし彼に何を言っても無駄で、決まって帰ってくる彼の言葉はこういうものでした。
 
どんなに納得のいかないものでも、俺たち管理者が結果を出すことを目的として考えたルールは、現場のやつらが何を言おうが絶対効果があるんだから、それに従ってまずはやって、不具合が出たらそのときはそのときで考えればいい。
 
やってみたけど、だめだったんだよ。
この恐ろしく限られた条件の中でどれだけ知恵を絞っても、与えられた材料が少なすぎて改善できないんだよ。
どうして、現場で知恵を絞って長いこと働いてきた人間の意見は否定されるばかりで、加味される事は無いのだろう。
どうして、不具合が起きてから直すのではなく、問題が起きないルール作りをしないのだろう。
どうして、そこまで根拠の無い論理や自信を吐き出せるんだろう。
どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどう
 
この時点で、私は死ぬことにしました。
 
もういいや、疲れた。
さすがにこれは残してくれとか、ここは動かさないで欲しいとか、言っても全て俺はお前よりも立場が上だから、お前は作業員でしかないのだから従うのが社会のルールだの一点張りで却下される。
宮内は私を呼び出し、印刷工程全体でお前の能力が占めている部分は少ないし、このまま行ったらお前は必要なくなるから覚悟はしておけとも言われた。
 
じゃあ、もういいじゃないか、消えよう。
消えてしまえば楽になるから。
 
私は、夜、国道4号線に架かる橋の上に立ちました。
下はかなりの速度で走り抜ける車のテールランプが次々と赤く尾を引いていました。
私は手すりに手をかけようとしましたが、その時は不思議と怖いとか後悔とかそういったものはありませんでした。
ただ、ひどく寂しかったのを覚えています。
そして、恐ろしいほどに冷静になっていたそのときの私の頭には、きっと命を絶つという事に対していくつかの?マークが浮かんでいたのだと思います。
そんなこともあってか、流れ続けるテールランプを眺めながら私はこんな事を考えました。
 
きっと宮内は笑うだろう、俺を死なせたことを後悔はしないだろう…。
 
次の瞬間から、とめどない疑問が私の中に浮かび上がり始めました。
 
待て、宮内を後悔させるために俺は死ぬ?
違う、楽になるためだ。
楽になるって何なんだ?
しがらみから開放されることだ。
俺を縛るしがらみはとは何だ?
無能な人間が考え、強制させられているルールだ。
俺が解放されたいのは、本当にそのルールか?
解らない。
自分で決めたルールじゃないのか?
俺が。
誰にも嫌われたくない、苦労は報われるという理念が作り出したルールじゃないのか?
俺は。
報われない苦労もある、時には嫌われることも必要じゃないか?
存在を否定されたくない。
俺の意見や主義・主張はどこにある?
外側には無い、表面にも無い、内側だけに存在してる。
主義や主張を飲み込むことで、イイヒトを演じ続けてきたんじゃないのか?
それが生き抜く術だった、仕方ない。
仕方ない結果を受け入れて、仕方ない死を選んで、俺の周りは仕方ないで済むか?
…。
俺の独善で決めたルールで、勝手に周りを巻き込んで、それは俺の知る誰かの行動に似ていないか?
…宮内。
このままじゃ、俺は、あいつだ。 自分のエゴで迷惑をかけるだけなんだ。
 
……………。
 
しばらくテールランプが見えないようにぎゅっと硬く目をつぶり、橋の上で私は、延々とこんな自問自答を繰り返し続けました。
宮内と同じような行動はしたくなんかない。
私は、私として自我を持った一個の人間なんだ。
今は、生きよう。
少しぐらい抵抗してみよう。
私の心は決まりました。
 
私は、手すりから離れて橋を渡り、そのまま車に乗り込み、妻の待つ家へと帰りました。
生きることを、決断しました。
戦うことを、決断しました。

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オレがうつになりまして・4

3.   圧力 ― bind my freedom ―
 
福島センターの幕開けは、それは悲惨なものでした。
大きな期待を受け導入されたPAD印刷システムはオペレーターそのものがおらずノウハウも解らずという状態でほとんど稼動せず、結果としてシルク印刷技術者である私だけがまともに加工ができるという状態になり、加えて先述の非効率な作業台での作業を強制された結果として、北部センターでこなしていた加工量などとても再現できずに、日に日に注文は溜まり、センター開設から1ヶ月を待たずして、納期は5日程度だったものが20日を越えるまでになっていました。
当然お客様や各地の営業マンからの怒涛のようなクレームの電話が鳴り止まず、結果として少しでも納期の遅れを取り戻すためにと毎日深夜や明け方までの残業に加え、土曜日の出勤・残業は当たり前、日曜日も私だけが出社してひたすら納期解消に向けて作業をしていました。
当然Mさんは管理者を自称しているために休みの日もあまり出勤せず、せっかく加工技術を持っている人間が二人いるのに仕事は進まないという悪循環がえんえんと続いていました。
私は開設当初のゴタゴタはある程度予測していたのですが、まさかここまでひどい状態になるとは思いもよらず、偏頭痛に悩まされる日々が続いていました。
ようやくPAD印刷システムが軌道に乗りはじめ、ある程度の大口物件を任せられるようになり、それに伴いシルク印刷の負担が少しずつ減り、納期解消のめどが立ち始めた頃には既にカレンダーは8月になっていました。
そしてこの頃に、ちょっとした事件が起きました。
 
Mさんのセンター長ならびにリーダーという役職の解任・一般作業者への降格。
 
福島工場としてみれば、一向にノウハウを教えず、自身も加工作業に参加せず、管理者だと鼻を高くして立場にあぐらをかき、仕事中にふらふらと抜け出して姿をくらまし、暇さえあればタバコを吸い、あまつさえ会社内に勝手に多くの私物を持ち込んだりしているような、生産性の全く無い人間は必要なかったのでしょう。
結果として、Mさんは新たにセンターの管理者となった朝原部長の下で、私と同じいち作業者として働くこととなったのでした。
それには彼のプライドも大きく傷ついたようで、指示だけをしていれば良い立場を奪われ、今までは好きな時間に好きなだけ吸えていたタバコが、決められた時間と決められた場所でしか吸えなくなったことに憤慨している様子がありありと見て取れました。
毎日イライラし、人を見下したような発言が多くなっていきました。
しかしそれでもMさんはまともに加工をすることはありませんでした。
印刷には版という、いわゆる印刷の元になるものが必要なのですが、Mさんは製版の机に座ったまま、いっこうに印刷加工をしようとはしませんでした。
そんなものは俺がわざわざするような仕事じゃない、と言わんばかりに。
 
仕事をしたくない人にいつまでも期待していても仕方がないので、とりあえず私はひたすらに作業をし続けました。
そんな忙しい日々を過ごす中で季節は秋へと移り変わり、私もようやく土曜日も休めるようになって、趣味の釣りを含めた岩手への帰省もできるようになっていました。
ただ、この頃から新たな根深い問題が鎌首をもたげ始めていました。
 
“ルール”との戦い。
 
社会には規範となるルールというものが存在し、それに沿った形で人間はコミュニティーを構築しているというのは、意識はしなくとも理解はしていることだと思います。
しかしルールには大別してふたつの種類があり、明文化されたルールと、“暗黙の”ルールというものが存在します。
私達シルク印刷技術者はどちらかというと仕事上のルールは、手作業という特性から後者の暗黙のルールを尊重し、俗に言う許容範囲というものを少し広めに設定していました。
少し文字がかすれた、少し印刷位置がズレた、少し角度がついたなど、見た目ではほぼ解らないような瑣末な問題は、許容範囲として容認していました。
しかし福島工場では、旧世代の技術であるシルク印刷のルールは排斥し、次世代を担うPAD印刷こそが新しい印刷のルールを策定する基準とするのにふさわしいという結論に達したのでした。
そして精度の高い、ズレの無い印刷を行えるPAD印刷を基準とした印刷基準書なるものが完成し、私もその精度を基準として印刷の良・不良判定が行われるようになりました。
結果として、私が印刷していた精度ではその何割かが福島工場基準では不良品という扱いを受けるようになり、私は誤差2ミリまでという、機械並みの精度での印刷をしなければならなくなりました。
私はそれに応えようと一生懸命に印刷精度を上げる訓練をし、それまでは暗黙のルールで容認されていた良品を、会社の基準に沿った良品になるように仕上げるように意識を変えて仕事をしました。
 
これによりただでさえ悪かった生産性が更に下降の一途を辿り、雪が舞う頃にはシルク印刷は使えないという意見がちらほらと聞こえるようになっていた反面、PAD印刷は2台目の機械を設置して大口の物件を以前より増産できるようになっていました。
当然“使えない”シルク印刷を行っている私への風当たりは強くなり、何でこんなに生産性が低いのか、何でこんなに不良が発生するのかと管理者から問われる日々が続きました。
私は少なくともそのあたりの問題には理解があるであろうMさんに助言を求めようとしましたが、その頃にはMさんは完全に会社から相手にされておらず、それでも俺はお前らとは違う立場なんだと虚勢を張り続けるまでになってしまっており、彼の助言程度では私の意見が通るとはとても思えないほどにまでシルク印刷そのものの信用が失墜していました。
 
それに加え、朝原部長の下で新たに私達の工程のラインリーダーとなった宮内(仮名)という男性がいました。
朝原部長は社内で相当な権勢を誇る人物であり、彼の鶴の一声で作業方法やその他の重要事項が一瞬にして変更されてしまうなどという事はしょっちゅう起きており、彼のことは従業員みんなが憎々しく思っていながらもその後の仕打ちが恐ろしいために誰も逆らえずに辛酸を飲み続けるしかないという状態でした。
その朝原部長の子飼いの懐刀が宮内でしたので、虎の威を借るなんとやらの宮内にも、誰も文句が言えなくなっていたのでした。
ちなみに宮内の人間性を社内で聞いた多方面からの評価を総合的に判断し、更に私が直接彼と仕事をしてみて感じた率直な感想を加え、あくまで客観的に列挙すると以下の通りです。
 
とにかく無能・一切の反省や後悔をしない・独善的・ワンマン・上にへつらい下に辛辣・他人を見下す・他者の意見は自分より劣るので聞かない・自信過剰・考えずに思いつきで物事を言う朝令暮改思考・他人をルールで縛るが自分はそのルールを平気で反故にする・立場の弱い派遣の女の子とねんごろになる・部下が困っていても見ぬふりをする・叱らず起こらず怒鳴りつける・自分はもの凄く仕事ができると思っている…
 
など、悪行や愚行の枚挙にいとまが無いほどの人間でした。
一言で言うと、どうしようもないほどに頭が悪く、決して人の上に立たせてはいけない人、というのが彼を知る人たちの統一された評価です。
これが恐ろしいことに、彼の上に立つ朝原部長がほぼ一緒の人間性で、まさに同じ穴の狢という言葉がぴったりと当てはまるような上司と部下でした。
 
更に問題なのがこの宮内という男は福島工場の改善担当責任者というポストにあり、自主研修会という名前がつけられた改善活動集団を率いる立場だったことでした。
改善担当責任者である彼の目は、当然のように生産性が低く不良を散発するシルク印刷工程に向けられました。
そこからはひたすら彼の改善アイディアだけが採用された自主研修会による私への攻撃が始まりました。
ちなみに実際は自主研修会とは名ばかりで、宮内の考えた改善アイディアを否応無しに実行せざるを得ないような集団でした。
トヨタ方式という名のルールが私をがんじがらめに絡め取り、私は自分自身を自我を持たない、ラインを構成するひとつの機械としての存在価値しかないと思うようになってしまいました。
そして、自分でも気づかぬうちに徐々に内側が壊れていったのでした。

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オレがうつになりまして・3

 2     改悪 ― fear ―
 
福島へ引っ越す少し前に、私は事前の打ち合わせのため福島センターを一度訪れました。
その際に工場内をひととおり案内されたのですが、案内役の朝原部長(仮名)が真っ先に言った一言が私の脳裏に焼きつきました。
 
「君が持っているシルク印刷技術は、間もなく過去のものになるから。」
 
突然この人は何を言い出すんだと思いましたが、黙って聞いてみることにしました。
すると、朝原部長が続けて言うことには、どうやらこの福島センターでは今まで私達が行ってきたシルク印刷技術に代わる、機械を用いることにより印刷の知識が無い素人でも簡単に同等のクオリティーで印刷が行えるという、画期的な印刷技術(PAD印刷システム)を導入するため、ゆくゆくは印刷の本流がPAD印刷に収れんされてゆくだろうとのことでした。
 
まあ、この時点では私はそんな技術があるんだな程度の認識しかなく、正直言って特に何の感慨も無かったので、じゃあ私もいずれそのシステムを使って印刷するんだろうなどと考えていました。
ただ、朝原部長は付け加えて、移行期間というものは年単位で必要であり、何より私とMさんの持つ、指定された色を作り出す調色能力と印刷に関わる基本的な知識はPAD印刷にも不可欠なものなので、今までどおり印刷作業を行いながらノウハウを他の人に教えてあげて欲しいと頼まれました。
朝原部長のこの物言いで、既に嫌な予感はしていました。
もしかすると、今まで私達がやってきたことはあらゆる形で否定されてしまうのではないかと。
 
そして、ここが君たちの新しい加工場だと言われ、広々とした空間に案内された瞬間、私は言葉を失ってしまいました。
北部センターでは一度に最大で筐体を80個ほど積載できる可動式の作業台を用いていたのですが、福島センターにはそれとは似ても似つかないような、どんなに頑張っても筐体を20個も乗せられないような小さな台がいくつか置かれており、それにはシルク加工用と書かれた紙が貼ってありました。
 
この説明だけでは解りづらいと思いますが、これから書くことを少し想像していただければ、いかにこの作業台が使いづらいかが何となく解ると思います。
例えば、100リットルの水をA地点からB地点まで台車に乗せて運ぶ場合、5リットルの容器に入れて20回運ぶのと、20リットルの容器に入れて5回運ぶのでは、AB間を運ぶ時間が同じだとすれば20リットルの容器で運んだほうがはるかに効率がよいのです。
 
要するに、細かい作業しか行えないよりは、大は小をを兼ねるという考えである程度大規模な物的移動をしたほうが、実際はるかに生産性が向上するので、各センターでは大容量の作業台を用いていたのです。
しかしそのとき目の前に広がっていたのは、見渡す限りそれとは逆の、現場の意見が全く採用されていない非効率な生産方法でした。
ひと目見ただけで解る、あまりの生産効率の悪さに愕然としていると、私がこの作業台を設計したんですよ、と、満面の笑顔で一人の男性が近寄ってきました。
門間(仮名)と名乗るその男性に、私は見覚えがありました。
彼は1ヶ月ほど前、福島センターでの作業の参考にさせていただきたいということで、北部センターではどのような道具を使って加工しているのかを見学に来た人でした。
そしてここに来る前にすでに他のセンターも見学させていただいているのだとも言っていました。
たくさん写真を撮り、いろいろと印刷上の問題点などを聞かれ、私の使っている作業台などの寸法もしっかりと採寸していった彼が、どうしてこんな愚にもつかないようなモノを作ってしまったのか、私には全く解りませんでした。
 
この疑問に関しては後に飲み会の席で彼の口から直接知ることとなるのですが、門間さんは、自分の考えやセンスに間違いは無いという根拠の無い自信を強く持っていることに加え、いかにも工場の人間らしい考えを持っていて、機械を使えば作業性が上がると盲信するあまりに、手作業でちまちま印刷を行っている私達のその行為自体を軽んじて蔑視している人だったのです。
当然、センターに見学に来ている間も私達の作業を軽んじながら見ていたようでした。
また、今まで福島工場で働いてみて、この考えは大なり小なりこの福島工場の管理者を名乗る上層部のほとんどに共通して見られる認識ということが解りました。
ですので、彼にとってはいくら現場を見学しようが、見下している相手が使っている道具などは非効率なものでしかなく、自分がそれらの悪いところを排除して作り上げた、この画期的な作業台こそが印刷に最も適しているとの結論に至ったようでした。
しかしその時点では彼の人間性などは全く知り得ませんでしたので、ただただその非効率な作業台が平気でここに存在していることが不思議でなりませんでした。
 
まあ、それから間もなく知ることとなったのですが、その不思議を解くカギは、驚くほど身近にありました。
先に福島工場へ赴任していたMさんでした。
Mさんはセンター長兼ラインリーダーの扱いで鳴り物入りで福島工場に赴任し、センター開設の準備はその大半が彼の指示で進んでいたようなところがあったのでした。
当然、それなりの地位を与えられたMさんに門間さんも作業台の話をしたそうですが、Mさんは提示された非効率な作業台にすんなりOKを出したようなのです。
その理由が、自分はセンターの管理者であり、現場作業は自分より下の人間だけが行うことになるので、(自分の手が煩わされることは無いため)どんな道具を作って頂いても構わないからというものでした。
そしてそんなちゃらんぽらんな状態で用意された道具はそれだけではなく、洗浄槽や印刷台に至るまでほぼ全ての作業に関わる道具が、悪い方向にリニューアルされていました。
それからしばらくセンターの説明を朝原部長と門間さんがしていましたが、ほとんど私の耳には入ってきませんでした。
ただ、このような条件でこれからどうやって生産性を上げていけばいいんだという恐怖感だけが私の中で渦巻いていました。
 
そして、その恐怖感が全く払拭されないまま、2008年5月、30年以上を過ごした岩手に別れを告げ、私達夫婦は福島へと引っ越したのでした。

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オレがうつになりまして・2

1.     発端 ― always alone ―
 
私は、手作業による特殊な印刷(シルクスクリーン印刷)を生業とする、いわゆる職人です。
会社の特性上どんなものに印刷しているのかは申し上げられませんが、例えば事業を立ち上げたときや創立記念日などに配られる湯のみなどの粗品に、会社の名前やマークなどが入っていますが、まあ、大雑把にああいった感じの印刷を行っています。
 
27歳のとき、私は生まれ故郷の岩手県で、現在籍を置いている会社に現地での中途採用という形で採用されました。
そしてこのシルク印刷技術を学ぶこととなるのです。
会社の規模は100人を少しばかり上回る程度で、日用品から衛生用品などまで実に幅広く商品を扱う卸問屋のような会社です。
その中の主力商品のひとつに私が印刷を施している物があるのですが、岩手でその印刷加工を行う場所はちょっとした作業場といった感じの規模でした。
所帯としては私・センター責任者のTさん(職人)・事務員(嘱託社員)・軽作業を行うパートさんが2人という、実に小さなもので、東北・北海道と関東の一部の仕事を一手に請けており、名前は北部センターと呼ばれていました。
ちなみにこの会社には北部センターよりも少し規模の大きい中部センターと西部センター、そして業務委託をしている首都圏センターという加工場があり、この4つのセンターと本社の管理部を併せてひとつの部署を形成していました。
 
そして私が入社してから1年を待たずしてTさんは中部センターへ転勤となり、代わりにそれまで中部センターの責任者であったMさん(職人)が赴任してきました。
このMさんという人がこの会社での最初の壁でした。
まずもって仕事に対する考えが甘く、好き嫌いや主観でしか物事を判断しない人だったため、貴重な戦力だったパートさんがノイローゼになり、最終的に「あなたとはとてもじゃないが仕事ができない」とMさんに言い残して会社を去ってしまいました。
そしてそこからはMさんの好みに合った女性ばかりを人間性などを度外視して採用し、彼女らの機嫌を取りながら私を蔑視するような方向に言葉巧みに誘導し、更にもともとどこまでも仕事をサボれる性格だった事務員を囲い込み、ほんの半年でMさんのハーレムが構築され、ものの見事に私はセンター内で孤立しました。
Mさんは完全に私のことを無視し、仕事も教えず、私が会社で声を発する行為は朝と帰りの挨拶と、パートさんと交わす仕事上の二言三言のやり取りのみとなり、この頃から私は偏頭痛の兆候が出始めました。
ちなみに後で知ることとなるのですが、このTさんは中部センターで全く同じことを行い、そりが合わない男性社員(職人)をセンター全員でいじめ抜き、その男性のやる気を完全に失わせてしまったせいで生産能力が激減し、センター存続の危機に陥っていたのだそうです。
そこでTさんが中部センターを立て直すために選ばれ、当時一番規模の小さかった北部センターにMさんを送り込むことにより、生産に与える被害を最小限に食い止める措置がとられたのだそうです。
しかしそれを知らないMさんの愚行はエスカレートするばかりで、最終的にはパートさんが帰った午後3時以降、定時で仕事が終わるまで事務員と二人でコーヒーと菓子を楽しみながら世間話をし続けるまでに落ちぶれていました。
しかし、私はかたくなに文句ひとつ言いませんでした。
感情的になったやつの負け、というのが私の信念であり、最後は文句も言わずまじめにコツコツやり続けたやつが信頼されるというのは、今まで所属した会社でもいやと言うほど見てきました。
そして、曲がったことをやっているやつはまじめにやりぬいたやつの正論には絶対に勝てないという自信もありました。
そしてそれから4年、転機は突然訪れました。
 
筐体製造元との事業統合による福島センターの開設・北部センターの閉鎖。
 
私達が印刷を施すもの(筐体・きょうたい)は、福島県にある関連会社の福島工場で一括製造されています。
筐体を製造している場所で印刷を行えば移送コストが大幅に削減できる上に、同じ東北にあるという事で各センターやお客様への配送も同じランタイムで行えるという願ってもない好条件に統合の話はあっという間に進み、気づけば私には福島へ転勤するか会社を辞めるかのふたつの選択肢しか残されていませんでした。
ここでひとつおかしな点を挙げておきます。
転勤か退職かという選択肢は、本来はあってはいけないと思うのです。
普通なら、他の部署への異動という選択肢もあって然るべきだと私は思うのですが、会社はそれを許しませんでした。
辞めるか転勤するか、さあどっちだと当時の部門のトップに詰め寄られ、私は転勤(出向)という選択肢を選びました。
さてそういう話になってからいざ北部センターに立ち返ってみると、今まで甘やかされてきたパートさんたちは突然(閉鎖の1ヶ月以上前ですが)の解雇通告に怒り狂い、会社からは雇い主側の都合での退職扱いにした上で特例として退職金もいくばくか支払うという条件にもかかわらず、不当解雇だ訴訟だと騒ぎ始める始末でした。
そんな中、パートさんへの解雇通告後わずか3日で福島センター立ち上げのためにMさんは一足早く転勤して行き、完全に冷静さを失ったパートさんたちと事務員、そして私が北部センターに残されました。
私は今までMさんと二人でこなしてきた、繁忙期とも重なったかなりの量の印刷を一人で行った上に、センターの閉鎖に必要な書類や契約解除などの作業を行い、本社や関連会社との折衝や関係機関への根回しおよび引っ越しの見積もりから段取りに至るまでの全ての業務を行った挙句に、不当解雇だと騒ぎ続けるパートさんへの、法的手段も踏まえた穏便かつ堅実な対応までをも総務部門から求められました。
Mさんがいなくなってからの一ヶ月間の残業時間は、タイムカードに記録したものだけで180時間を超えました。
今だから言えるのですが、本当に、よくやったと自分でも思います。
お客様へ納期をほぼ遅らせることなく出荷し、会社からの急を要する要求にも全てできる限りの手法で対応し、センター閉鎖に必要な手続きを遅滞なく行い、パートさんには不当解雇ではないと納得した上で退職手続きをとってもらい、考えうる最も安いコストで岩手から福島へのセンター引っ越しを行い、加えてほぼ休みが無い状態で福島まで賃貸物件の下見に訪れ、自分たちの住まいを契約したのです。
 
この時点での私の頭の中には、不平等という言葉がどす黒く渦巻いていました。
なぜ楽をするやつはとことん楽ができるのか、反面、なぜまじめに頑張るやつがこれほど辛い思いをしなければならないのか。
そして、北部センター最後の1週間で今まで我慢していたものがついにあふれ出し、私は当時の統括部長に現在自分が置かれている状況と、今までのMさんの暴挙を吐露し、Mさんがこのままの人間性では、福島センターに行っても私はきっとまともな仕事ができなくなると訴えてしまいました。
それに対して統括部長から返ってきた言葉は、
「福島工場には今までと違ってたくさんの人がおり、あなたは、その中から自分に合う人をじっくりと判断して選ぶことができます。少なくともこれからはMさんだけに捕われる必要は無くなるはずですし、ここまでやり抜いてくれたあなたに期待しています、どうか頑張って下さい。」
というものでした。
この言葉が私を勇気付けてくれました。
 
しかし、この言葉に後押しされて心機一転頑張ろうと乗り込んだ福島工場では、これまで以上の地獄が待ち受けていたのでした。

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オレがうつになりまして・1

発症 − At first, must be understand. − 
 
四月も半ばに差し掛かった頃、それは突然私を襲いました。
激しい偏頭痛と倦怠感が身体の中で渦巻き、そしてそれまで私を支えていたはずのやる気というものが、朝、ほとんど眠れなかった身体を揺さぶり起こすアラームを半分やけ気味に止めた私の中から、すっかり抜け落ちてしまっていました。
今までの私の状態からはまるで考えられない、まるで自分を構成する物的要因の全てが実体の無い抜け殻のように感じてしまうような、言いようのない虚脱感でした。
確かに昨日の帰宅は深夜一時を回っていました。
しかし、そのぐらいの時間まで働くことなど、今までにも数えるのが面倒くさくなるほどありましたし、何よりその時点で私を包み込んでいたのは疲労ではなく、絶望に似た不快な感覚でした。
今日出荷すべきもののうち8割以上を前日の夜に完成させ、これから5日先までの出荷予定を把握して、加工日程をイメージして…。
昨日もいつもと変わらない仕事でした。
しかし、その日の朝はどうしても私は会社に行く気が起きませんでした。
そこで、私は会社に電話をして半日休みを貰い、偏頭痛をかき消す薬を貰いに心療内科を予約して、指定された時間に病院へ向かいました。
そこでの先生との対話の中で、私は違和感を覚えました。
思っている言葉が出てこないだけでなく、自分の声が聞き取りづらいほどに低く、小さいのです。
診察時間は1時間近くにまで及びました。
心理テストのようなものや血液検査まで行われました。
そして、下された結論は中程度〜重程度のうつ病というものでした。
 
うつ病? 私が?
 
自分に下された診断結果が信じられず、どうしてもそれを受け入れることができないでいる私に、ここに入ってきたときから解っていましたよ、というような先生の優しいほほえみがひどく悲しく映りました。
どうやら、最低でも2ヶ月は会社を休み、完全療養の期間が必要とのことでした。
その日は4月11日でしたので、6月中旬までは会社を休まなければいけないという重い現実が私にのしかかってきました。
堂々と会社を休める、という安易な自分と、じゃあ自分のやっていた仕事は誰がやるんだという恐怖感・背徳感にさいなむ自分がいるのがはっきり解りました。
しかしその比率は圧倒的に後者のほうが大きく、私は思わずさすがに2ヶ月は休めないという意志を伝えました。
先生は少し寂しそうな顔をして、私の状態は自分が思っているほどに軽いものではないということを、遠まわしにやんわりと教えてくれました。
ですが、私は何とかお願いして、先生に以下の内容の診断書を書いてもらうようにしました。
 
①うつ病と診断する
②今日より4月いっぱいを休養期間とするが、延長される可能性は充分にありうる
③週に一度以上の通院およびカウンセリングならびに向精神薬の服用による治療を続ける
④5月1日より会社へ復帰できるかどうかの判断は、4月最終週の診察時に行うものとし、回復の兆候が強く見られれば復帰しても良いと判断する
 
私は、自分は精神的にタフだと思っていましたし、以前に死にたいという願望に捕われたときも、同僚の言葉で完全に立ち直ることができたという自負もありました。
そんな私の心根がぼっきりと折れてしまったような喪失感に押しつぶされそうになりながら、私は家に帰り今回の診断結果について工場長と部署の関係者にメールを送り、そのまま布団にくるまりました。
そしてここからすっかり活力を失ってしまった私の周りで、色々な人の色々な側面があからさまに露呈しはじめ、結果として話が思いも寄らぬ方向へと勝手に走り出してしまうのです。
今回は、今まで私は心の暗部を恥と認識してしまっていたせいで、できるだけ陽気に明るく文章をつづってきた自分をいったん封印し、どうして私がこんな状態になってしまったかを、根っこの部分からほぐして話したいと思います。
半分は自分に言い聞かせながら過去を思い出し、原因を探求するセルフカウンセリングのような内容になってしまいますし、捉えようによっては単なる愚痴になってしまうことも考えられます。
決して楽しい中身ではないですが、もし自分がうつになりかけてしまっていたりしたときに、その事実にはっと気づいてもらえたら良いなと思いながら、ゆっくりとつづっていこうと考えています。
よろしければ、お付き合い下さい。

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