今回の震災について思うこと・2
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テレビで報道されている被災地の震災直後から今日までの様々な映像は、ひどいところばかりを厳選して放送しているのではないかと方々で囁かれています。
視聴率を稼ぐためにはインパクトと同情が効果があるからとか、そんな事を考えている方もいらっしゃるかもしれません。
断じてそれは違います。
テレビに映る大半は、きれいなとこだけを厳選しているみたいなものです。
本当に悲惨な部分は、とてもではないがテレビでは映せません。
私は今回岩手への里帰りの際に陸前高田市と大船渡市の惨状を目の当たりにしてきました。
テレビで放送されたとおり、町は一面瓦礫に埋もれ、建物は流され、かつての生活の痕跡が微塵も感じられなくなってしまった場所も多々ありました。
しかし、モニターを通して視覚と聴覚のみを使って得る情報と、任意の場所へ行ける手段を確保して、その場所に立って五感を全て使って得られる情報では、違和感の塊が臓腑の奥から噴き出すようなあの感覚の感じ方が全く、本当に、雲泥の差といっていいほどに違います。
私が年に数度は訪れていた下船渡漁港は、そもそも車で行くことができなくなってしまっていました。
大津波警報が発令され、大慌てで閉められたであろう漁港への入り口だった水門は閉ざされたままで、私はすっかり手すりがひしゃげてしまった堤防へ登る階段を伝い、漁港と外界を隔てるコンクリートの壁の向こうへとようやく辿り着いたのでした。
そこには、かつての景色は当然のように残ってはいませんでした。
全てを根こそぎ波に奪われ、何も手がつけられないまま、ただ放置され続ける瓦礫。
その光景は、正直、正視に耐えないものでしたがある程度の覚悟はできていました。
ですが、身体の深部から襲い来る違和感はとてつもなく、何かが違う、何かが違うと、この漁港全体を覆う雰囲気がかつてと全く異なったものになっていると、警報にも似た感覚が訴えてきました。
それは、テレビからは決して伝わってこないもの、その場所を知る者にしか解らないもの、記憶というフィルターを通して初めて理解できるものでした。
辺り一面に立ち込める、何かの生き物が腐敗するにおい、すなわち死臭。
生まれて初めて嗅ぐそのにおいは、生命感や爽快さという言葉とは全く対称の位置にあるものでした。
魚のにおいはどこの漁港も強弱はあれどしていましたが、ここで鼻腔に突き刺さるものは、今までのどの漁港でも嗅いだことのない、全く想像していないものでした。
そして、音。
釣り糸を垂れながら岸壁に座っていると、必ずどこかから聞こえてきた漁船の軽快なエンジン音や水しぶきの音、そしてすぐ後ろにあった民家から聞こえていた生活の音、人がそこにいるんだという、当たり前の音が、全く聞こえないのです。
ただ風が渡る音と、漁港内に浮かんだままになっている瓦礫に水が当たる音、そして時折上空を旋回しながら狂ったように鳴くカモメの声だけしか、私の耳には届きませんでした。
静寂。
人がいない、そして音がしないというのがこれほどの寂寥感を心に突き刺してくるものだと初めて知りました。
特に自分の記憶していたものとシンクロするものが何も存在しない空間での出来事だという事実が、吐き気がするほどのリアリティーを伴って、違和感という形で私を押しつぶしにかかっているかのようでした。
テレビでは、静寂を伝えられないのです。
記憶を伝えられないのです。
本来なら目の前に広がっていたカキの養殖棚が全く無くなってしまったことは、その光景を知っている人しか違和感として捉えられないのです。
海に、全く波紋が立たないことを変だと思うことはできないのです。
私はしばらく、その違和感を消化できずに根元から折れて横倒しになった外灯を眺めていました。
これらは、どう頑張ってもみなさんが感じることのできない事実なのです。
言い換えれば、テレビの報道はまだ見せられる部分を厳選し、見た人の心にできるだけ痕を残さないように細心の注意を払って作られているのです。
それは、全く悪いことではありませんし、これからもそうして欲しいと願います。
全てをつまびらかにすること、それは決して正しいことではないのです。
私は大船渡市で見た、県道の脇、高さ5メートルほどの場所にある家を忘れることができないと思います。
津波はその高さ5メートルの法面をたやすく乗り越え、家の1階部分をねこそぎ破壊していました。
そこまでは、辛いですが被災地の只中にあってはよくある光景でした。
ですが、その家には他の同様の被害を受けた家屋とは決定的に違うものがありました。
残った外壁一面にスプレーで書かれた、『壊してください コワシテクダサイ』の文字。
この家は修理できないと断定した家主さんが書いたものだと思われますが、その気持ちを考えると、とてもではないですが耐えられるものではありませんでした。
苦労して働いて、家族のために建てた家の壁に、自分の手で壊してくださいと書かなければならない人の気持ちが想像できますか?
作り上げたものに、大事に培ってきたものに、自分の手で引導を渡さなければならない悲痛な覚悟・決意がそう簡単にできますか?
私は、被災地の現状を写真に収めて思いとともに公開することは、どのような効果があるかは解りませんし、本当に微力なアクションだとは思いますが、私に被災地のために、故郷のためにできるわずかなことのひとつだと信じて写真を撮りました。
ですが、どうしてもその家にだけはカメラを向けることができませんでした。
家主さんの思いが、あまりに伝わってきてしまったから。
ましてや、こんな光景はテレビではとてもではないけど悲惨すぎて、映すことなんかできなかったんだと思います。
テレビは、被災地のひどい部分ばかりを映しているのではなく、むしろ、その逆なんです。
まとまりのない文章になってしまって本当に申し訳ありませんが、私は、ぜひ物見遊山ではなく、覚悟と語り部となる決意とともに、できるだけ多くの方に被災地を訪れてほしいと思います。
一度目にするのと、対岸の火事という認識のまま過ごすのとでは、今回の震災の捉え方が大きく変わります。
生まれ変わる前のこの時間は、決して辛い時間ではないはずなんです。
その時間の経過を、できるだけ多くの人に感じてもらいたい。
それが、今回被災地を訪れての、私のストレートな感情、そして願いです。
最後に、悲惨な部分だけではなく、同じく報道されなかったであろう、私が見た復興への確かな槌音もお伝えしておきます。
下船渡漁港から何分か大船渡市街地に向かったところには、まだ手付かずの瓦礫が道路の両脇を埋め尽くしていました。
ところが、その瓦礫が一部ぽっかりと口を開けたように消えている場所がありました。
そこは、海からほんの20メートル〜30メートル、旧国道の脇にある1軒のガソリンスタンドでした。
なんと、瓦礫に挟まれた空間に、営業中。と力強く手書きで書かれた看板が道路に向かって立っていました。
窓ガラスも全て無くなってしまった建物で、レジも無く、現金手渡しで、小ぎれいな制服に身を包んだ店主さんが、地元の方にガソリンを給油していらっしゃいました。
店主さんもお客さんも、笑っていました。
愉快に、ではなく、本当ににこやかな顔で、力強く笑っていました。
私は、その光景を見て、理由も無く大丈夫だと確信しました。
私の大好きな大船渡は、もう元通りにはならない、でも、そのかわりに、新しい町を作り上げる人と、その原動力となる笑顔が、ここにはちゃんと戻ってきている。
今はまだその音は小さいけれど、きっと、みんなが心の手を差し伸べて、その後押しに支えられて、槌音はもっともっと大きくなって、いつかその音が町の賑わいの音に変わる。
絶対に!
心は、負けてない!
私は、そう感じながら、大船渡の町を後にしました。
写真は、2009年9月に下船渡漁港にて撮影した、漁船とカキの養殖棚です。
この光景が一日も早く見られますように…。
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