横尾忠則講演会「デザインからアートへ」
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福岡ミュージアムウィークのイベントの一環として行われた横尾忠則講演会「デザインからアートへ」を、17日に福岡アジア美術館で聴いた。
約90分の講演のうち、前半は作品の画像を見ながらの説明で、後半が一般的な話と質疑応答。充実した内容だった。参加者は200人を超えていたのではないだろうか、盛況だった。
わたしが横尾忠則の名前を初めて知った天井桟敷や状況劇場のポスターは1966年頃で、横尾忠則30歳頃の作品。これらのポスターについては「突然変異的」だという説明だった。
デザインからアート(絵画)への転換(画家宣言)からの30年間について、多くの絵を見ながらていねいに説明。傾向の違う絵を同時に描くというが、自分の中に小さな自分がたくさんいて、1人づつ引っぱりだして着て描く、という感じだという。
Y字路がたくさん描かれているが、作品で印象は大きく異なる。しかしそれらはいずれもそれぞれに強烈な印象を残す。
後半はテレビで見た東山魁夷の「道」の解説の話から入って、絵を描く態度・見る態度について語る。以下、その話の概要。
テレビで見た「道」の解説は、自然主義的に過ぎた。
画家はそういうものではなくて、フォルムとして捉えている。セザンヌの静物はその典型で、1つの絵にいろんな角度からの視点があるのがキュービズムに繋がる。
絵を自然主義的に見るということは頭で見ているということで、絵の真髄は伝わらない。
画家は頭では見ておらず言葉を排除して、肉体と感覚によって理解する。画家が無心の状態で描いた絵を、見る側が考えを持ち込むために絵画的現実を見逃してしまっている。
ロダンの彫刻を見るときは、塊り(ポジ)を見ると同時に、空間(ネガ)を見ないとダメだ。マチスの描く木の葉は、その間を通して見える空がみごとな形になっている。
中村歌右衛門の女形は空気が変わるが、それは指の動き1つで空間を動かすような力だ。
ダンスやバレエのうまい人は、ポジと同時にネガを作ってしまう。モーリス・ベジャールのダンスは、ネガである空間も含めてのダンスだ。
描く側の人間には相当修行が必要だが、見る側も見る感性を育てる修行が要る。ピカソは、ピカソと同じ感性でないとわからない。
三流の鑑賞者は、三流以下はわかるが二流以上はわからない。絵を見ることは人間性を極めることと関係がある。
チベットの砂絵は描くことが目的で、完成したら壊してしまう。
描いている間が重要で、「見せる」ことも含めて「・・・のために」では遊べない。いい絵はすべて遊んでいる。
以上、講演の概要を書いた。
訥々とした話し振りの中にたくさんの含蓄が詰まった、充実した講演だった。
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