中嶋真澄のこころ日記

自分探しとは、自分を捨てることと見つけたり。2012

「貧しい者は幸い」なのか? 「ナザレのイエス 貧しき者の希望」覚書2


ルカ伝における、貧しい人々へのイエスの祝福のことばは、こうである。
 
   「貧しい人々は幸いである。
   神の国はあなたがたのものである。
   今飢えている人々は、幸いである、
   あなた方は満たされる。
   今泣いている人々は、幸いである、
   あなたがたは笑うようになる。」ルカ6−20
 
 この祝福の言葉は、本書によると「イエスが終末時のメシアであること、彼の現臨をもって、旧約聖書の預言が成就され、神の王的支配が今早やじまっていることを前提している」。イザヤ書61−1にて、『主は私を遣わして、貧しい者たちに福音を宣べ伝えさせた』という預言の言葉が成就されたということになる。
 
イエスの周りに集まってきたのは、パレスチナの貧乏なユダヤ人たち。福音を伝えた彼ら自身貧しかった
本書より:
「彼らは飢えと悲嘆と、病気によって印づけられた自分たちの貧困の状況を、神の目には憤激のタネであると考えた。」「このようは悲惨な生活は神の手に由来するものではない。神はこのような荒廃に間もなく終わりを告げられる。神の支配が来れば、貧困による飢えと苦難はすぎさるのだ。」
 
 そして、「奇跡が起こる」のである。共観福音書には、多くの人がイエスとその弟子たちによって癒されたという記述がみられる。
 
貧困は、聖書の中では、飢餓及び悲嘆と同義的に語られている。いわゆる乞食と呼ばれた赤貧の人々、飢えてはいるが乞食たちよりは上にいる者たちのグループ、仕事にありつけない日雇い労働者、逃亡奴隷、経済的な理由から故郷を失った人たち、税負担、凶作、借金のために経済的窮地に追い込まれた小農、売春婦。
 
売春婦には、貧しい親から売り渡された者、戦争でとらえられた女など、自ら好んで売春婦になるわけではない。と同時に、貧しい者たちもそうだろう。
 
しかし、当時の法律家、学者、福音書には「パリサイ派」と呼ばれる人々など、教養のある人々、上流階級の人々は、「貧しい者」を罪人として蔑む。
 
イエスは、そういった「蔑まれた人々」の友となる。
 
「神の国が到来すれば貧困は過ぎ去る。なぜならば、それは神から来るものではない。現在の惨状は一時的なもの。その惨状の日は、いつか終わる。いま困窮が闇のように広がっているが、幸福はそれとな時ぐらい光り輝いてくる・・・。」
 
著者はこう述べる。「ユートピアを思い描くこの能力こそ創造的な行為なのである。」
 
しかし、ただちに「それは、貧しい者たちへの単なる慰めにすぎないのではないか。満たされなかった願望を満たしてくれるものとみなすにすぎないのではないか。あるいは神をルサンチマンの道具とするのでは?」という疑問が差し出される。
 
「神は死んだ」とツアラトウストラに語らせたニーチェは、キリスト教を奴隷道徳と呼びはしなかったか? ルサンチマンを晴らすための・・・
 
著者は、ここで今日的な視点に立ち、こう述べる。
 
「イエスの弟子たちが抱いていた希望と実際の行動を、われわれ自身も生きたものにすべく試みることができる。」と。我々の言葉とものの見方で表現し、行動することができるし、またそうしなければならないと。
 
すなわち、「権力者がもはや弱い者を押し切って己が利を図ることのないような未来があることに希望を託すこと。人間の生存を脅かし、殺害し、欺いて生命を奪うことは永劫にわたって不当なこととされてゆくという希望を持つこと。人間が自分自身の無力さに直面しても絶望する必要はないのだとうこと。このことを我々は神の支配への希望と呼ぶ。貧しい者と無力な者たちには互いの間で、そのような意味での大いなる奇跡を行う力があると信じる。」と。
 
困窮とはいまも抑圧と憎悪と暴力と収奪とが生み出す困窮でもある・・・・・
 
・・・こうして、少しずつ『ナザレのイエス 貧しき者の希望』を読み解きながら、
テレビで連日のように報道される親子の餓死や原発事故現場へ日雇い的に招集された人々のことなどに思いがいく。昨年の震災で困難な状況に陥っている人々のニュースもなおとぎれることがない。
 
その一方で、企業ぐるみの不正や名のある人々の自己の利益追求のための行為が報じられる。明るみに出るのは氷山の一角かもしれない。
 
一個のパンすら買うことができず、飢え死にする人が21世紀の日本社会に存在する。少し前まで、成長と発展を誇り、繁栄におごり高ぶっていた日本である。
 
虐待の把握がなされていても、見過ごされる子供がいる。親もまた、困窮と病的状態にあるのだろう。福祉課などの人々は何をしているのだろうか。
 
再び、著者の言葉にもどろう:
 
「権力者がもはや弱い者を押し切って己が利を図ることのないような未来があることに希望を託すこと。人間の生存を脅かし、殺害し、欺いて生命を奪うことは永劫にわたって不当なこととされてゆくという希望を持つこと。人間が自分自身の無力さに直面しても絶望する必要はないのだとうこと。このことを我々は神の支配への希望と呼ぶ。貧しい者と無力な者たちには互いの間で、そのような意味での大いなる奇跡を行う力があると信じる。」
 
 
 
 
 
 
 

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