河村市長の南京虐殺はなかった発言と交流停止トラブルの背景
|
河村市長の南京虐殺はなかった発言と交流停止トラブルの背景
南京事件については、これまで多くの資料を集めてきたが、そろそろ現実に収れんしていくべき時である。ところが、現実がはっきりしないために、両極の意見があり、河村氏はその一方を披歴してしまった。南京市の共産党幹部は、名古屋市との交流を停止した。
日中歴史共同研究こそが、それを収れんさせるはずのものである。思考にも分裂があるのである。思考が分裂していると、集団的な忘却が起こることがある。双方の集団的な記憶喪失、集団的解離の背景には、集団分裂があるのである。これは収斂させねばならない。
日中歴史共同研究報道 中国でNHKが中断 中国国内の報道
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/31015696.html 南京事件の犠牲者数を、日本側は数万から20万人、中国側は30万人余とした。 天安門の記載、戦後史がカットされたことの報道が、中国でNHKが中断されたようだ。 「日本、侵略戦争認めた」 歴史研究報告で中国メディア
2010年2月1日19時2分 http://www.asahi.com/international/update/0201/TKY201002010303.html しかし、歴史学というのは、数々の日記、公文書、手紙を丹念にあたっていく学問だ。否定はできない。下記にあげるような数々の証拠があった。
南京事件の日中共同歴史研究報告書 公開されず 続報 2009/12/25(金)
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/30597335.html 昨日の朝日は、南京大虐殺を双方が認めたことを強調していたし、4)は、発言を訂正させるまで日本側が強く出ていることが初めて分かる記事だ。 要は、南京までは戦前なので、1月に公表されるということである。天安門など戦後が1月になっても公表されない。南京事件については両論併記で報告書に記述される。 外務省 日中歴史共同研究(概要) http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html (5)2009年12月、第4回全体会合(最終会合)を実施し、今期の歴史共同研究は終了。会合では研究成果の発表方法(自国語論文を2010年1月中に、翻訳版をその後数ヶ月以内に発表)につき一致するとともに、その一部を発表した。 (6)2010年1月31日、両国委員による自国語論文(報告書)を発表。
4)南京攻略と南京虐殺事件 参謀本部では河辺虎四郎作戦課長に加え多田参謀次長らが、さらなる作戦地域の拡大に反対していた。部内では制令線を撤廃し、南京攻略に向かうか否か激論となった。結局、中支那方面軍の再三の要求が作戦部の方針を南京攻略に向けさせた20。 11月15日、第10軍は「独断追撃」の敢行を決定し、南京進撃を開始した。松井中支那方面軍司令官もこれに同調し、軍中央を突き上げた。参謀本部では多田参謀次長や河辺作戦課長が、進行中のトラウトマン工作を念頭に、南京攻略以前に和平交渉による政治的解決を意図していたが、進撃を制止することは困難であり、12月1日、中支那方面軍に南京攻略命令が下った。12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。翌13日、南京を占領した。 この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(「難民区」)に避難し、また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた21。 国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、首都南京からの撤退には蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。首都衛戍司令官に任命された唐生智は、当初は南京の死守方針であり、松井司令官の開城投降勧告を拒否したが、12月11日、蒋介石から撤退の指示を受けると、12日に各所の防衛指揮官に包囲突破による撤退を命じた22。しかし、計画通り撤退できた部隊はわずかで、揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて「難民区」に逃れた23。 中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定(下記に飛ぶ) 19 井本熊男『作戦日誌で綴る支那事変』芙蓉書房、1984 年、161−79 頁。
20 南京戦史編集委員会編『南京戦史』(増補改訂版)偕行社、1993 年、17-20 頁。 21 孫宅巍主編『南京大屠殺』北京出版社、1997 年、72−73、83 頁。笠原十九司『南京事件』岩波書店、1997 年、120 頁。米国メディアの報道(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』青木書店、1992 年、387−388、390、394、431−432、473−475 頁など)。 22 唐生智「南京防衛の経過」(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集Ⅰ』(増補改訂版)偕行社、1993年)623−26 頁。蒋介石の南京死守作戦の強行は、ソ連の軍事的介入を期待していたため、とする指摘もある(笠原十九司「国民政府軍の構造と作戦」中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005 年、281−82 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日抗戦の第1 年」116−18頁。前掲、楊『我尋真実的蒋介石』240−41 頁)。 23 唐司令官は、陣地の死守を命じ揚子江の無断の渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まり、多くの兵士が徒死するにいたった(前掲、孫宅巍主編『南京大屠殺』70−71、76、78 頁。臼井勝美『新版 日中戦争』中央公論社、2000 年、83−85 頁)。 (つづき)して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しかし、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上(松井司令官に対する判決文では10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている24。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している25。
日本軍による暴行は、外国のメディアによって報道されるとともに、南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ26、さらに陸軍中央部にも伝えられていた。その結果、38 年1 月4 日には、閑院宮参謀総長名で、松井司令官宛に「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」との異例の要望が発せられたのであった27。 虐殺などが生起した原因について、宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側に、俘虜(捕虜)の取扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、また軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食糧や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略奪行為が生起し、それが軍紀弛緩をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている28。戦後、極東国際軍事裁判で松井司令官が、南京戦犯軍事法廷で谷寿夫第6 師団長が、それぞれ責任を問われ、死刑に処せられた。一方、犠牲が拡大した副次的要因としては、中国軍の南京防衛作戦の誤りと、それにともなう指揮統制の放棄・民衆保護対策の欠如があった29。南京国際安全区委員長のジョン・ラーベは、唐司令官は「無分別にも、兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないか」と懸念し、中国国民の生命を省みない国民政府・軍首脳の無責任さを批判していた30。 さて、首都南京の占領は「勝利者」意識を日本の朝野に広め、事変の収拾方策や和平条件に大き(下記に飛ぶ) 24 秦郁彦『南京事件』中央公論社、2007 年増補版、317−19 頁。
25 日本で刊行された最も包括的な資料集は、南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集Ⅰ、Ⅱ』(増補改 訂版、偕行社、1993 年)であり、第16 師団長・中村今朝吾の日記、上海派遣軍参謀長・飯沼守の日記、歩兵第30 旅団長・佐々木到一の手記、中支那方面軍司令官・松井石根の陣中日記などを収めている。 26 石射猪大郎東亜局長は、38 年1 月6 日の日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」と記していた(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社、1993 年、240 頁)。 27 前掲、『南京戦史』(増補改訂版)398−99 頁。 28 前掲、秦『南京事件』103−07 頁。捕虜の取扱いも、殺害、解放、労役と部隊により異なっていた(原剛「いわゆる『南京事件』の不法殺害」軍事史学会編『日中戦争再論』錦正社、2008 年、139−55 頁)。 北博昭『日中開戦』中央公論社、1994 年、54−68 頁。笠原十九司『南京難民区の百日』岩波書店、1995年、25−54 頁。 29 孫宅巍(笠原十九司訳)「南京防衛軍と唐生智」(藤原彰ほか編著『南京事件を考える』大月書店、1987年)153−58 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日作戦の第1 年」113−22 頁。笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」(洞富雄ほか編『南京大虐殺の研究』晩聲社、1992 年)214−41 頁。 30 ジョン・ラーベ(平野卿子訳)『南京の真実』講談社、1997 年、83−90 頁。なお、日中の「建設的対話」と「共通の理解」という観点から事件をとらえた研究として、楊大慶「南京アトロシテイズ」(劉傑ほか編『国境を越える歴史認識』東京大学出版会、2006 年、139−68 頁)。 (つづき)な影響を与えた。近衛内閣が12月末の閣議で決定した「支那事変対処要綱」にも華北や上海周辺を政治的にも、経済的にも日本の強い影響下におくという、勝利者としての意識が反映している31。 (以下略) 名古屋市との交流停止=河村市長の発言受け―中国南京市
時事通信 2月22日 1時39分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120222-00000009-jij-int 【北京時事】中国江蘇省南京市政府は21日夜、河村たかし名古屋市長が20日、市役所を表敬訪問した姉妹都市の南京市共産党委員会幹部と会談した際、旧日本軍による1937年の南京事件は「なかったのではないか」と述べたことを受け、名古屋市との交流を一時停止すると明らかにした。 南京市政府が外事弁公室報道官の話として南京市のミニブログ「微博」で発表した。それによると「河村市長は南京大虐殺の史実を否定し、南京人民の感情を著しく傷つけた」と批判している。 下記も御覧ください。
紛争資料 ジョン・マギーが撮影した南京の映像
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/29119418.html ゲオルクローゼンは、ヒトラー宛にマギーの映像も送っているが、ドイツでは現存していない。これがアメリカ公文書館で見つかっている。 紛争資料3 外務省のつかんでいた南京情報
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/16920650.html 紛争資料1 ダーディン記者の南京レポート
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/16807870.html |





停止なのか、一時停止なのか。
河村氏発言、南京市が名古屋との交流を一時停止
読売新聞 2月22日(水)1時57分配信
【中国総局】中国の華僑向け通信社「中国新聞社」(電子版)によると、中国江蘇省南京市政府は21日夜、1937年に起きた南京事件について、「虐殺はなかった」と河村たかし名古屋市長が発言したことを受け、同市との交流を一時停止することを明らかにした。名古屋市と南京市は友好都市提携を結んでいる。
2012/2/22(水) 午後 5:59 [ 中村 伊佐奈 ]
中国各紙が22日朝刊の1面トップで報じ、特集記事の掲載も始めた。初報となった前日の紙面では慎重な扱いだったが。
河村市長の発言があったのは20日午前。中国共産党南京市委の劉志偉常務委員ら訪日代表団に「一般的な戦闘行為はあったが、南京事件というのはなかったのではないか」と語った。
中国外務省は同日午後、「南京大虐殺には動かぬ証拠がある」などと表明。中国各紙の21日朝刊はこの反論を淡々と報じた。南京の党機関紙・南京日報こそ1面で扱ったが、外務省と代表団の見解を約280字のみ。「歴史の教訓をくみ取り、中日友好につなげることを希望する」と抑制気味だった。
潮目が変わったのは21日午後。中国版ツイッター「微博」の南京市政府公式アカウントに「訪日団は弱腰だ」などの批判が殺到。発言のあとに訪問団が河村市長とプレゼントを交換している写真が出回り「反論もしないでほほえんでいる」と書き込まれた。朝日
2012/2/23(木) 午後 0:13 [ 中村 伊佐奈 ]
(つづき)北京の新京報、京華時報は22日、1面トップの扱い。南京の現代快報の1面には「名古屋にノーを」との大見出しが躍り、発言を撤回しない河村市長を「頑固者」と断じた。南京では3月に日本政府が主催する南京ジャパンウイークが予定され、名古屋の女性アイドルグループ・SKE48の公演の準備も進むが、「問題の処理を誤れば影響が出かねない」(中国紙記者)との見方も出ている。(上海=奥寺淳)
2012/2/23(木) 午後 0:15 [ 中村 伊佐奈 ]
<河村名古屋市長>南京事件発言 SKE48公演に影響も
毎日新聞 2月24日(金)2時7分配信
名古屋市を中心に活動するアイドルグループ「SKE48」が、3月に南京市で開かれる日中友好イベント「南京ジャパンウイーク」に参加できるかどうか、関係者が気をもんでいる。中国にもグループの熱狂的ファンがいるが、南京事件を巡る河村たかし市長の発言の影響がどこまで広がるか予測できないからだ。所属事務所のAKSの担当者は取材に「今のところ中止は考えていないが、何が起きるか分からない。南京側がイベントはダメだと言うこともあり得る」と困惑を隠さなかった。
南京ジャパンウイークは在上海日本総領事館が主催し、09年を除き07年から毎年開かれている。5回目の今年は3月9〜11日の予定。SKEの出演日は公表されていないが、メンバー68人のうち16人が参加する。総領事館職員は「日中友好40周年の節目なので姉妹都市の名古屋から元気なグループを呼んだのに、市民の反発で混乱を来す恐れもある。市長発言はタイミングが悪すぎた」とぼやいた。【丸山進】
2012/2/24(金) 午前 10:00 [ 中村 伊佐奈 ]
河村市長発言、石原知事「正しい」 南京虐殺否定問題
東京都の石原慎太郎知事は24日の会見で、名古屋市の河村たかし市長が南京虐殺を否定する発言をしたことについて「正しい。彼を弁護したい」と述べた。
石原知事は、南京陥落の数日後に現地に入った評論家らから聞いた話として、「死体はあったけど、山と積むような死体は見たことがなかった」と指摘。「相手も無抵抗に近かっただろうけど、あれだけの(旧日本軍の)装備、期間で40万の人を物理的に絶対殺せっこない」と話した。
石原知事は衆院議員時代の90年に米誌のインタビューで南京虐殺を「中国人が作り上げたうそだ」と発言している。
2012/2/24(金) 午後 11:41 [ 中村 伊佐奈 ]
<河村市長>「礼儀欠いた」 中国の批判報道に戸惑い
毎日新聞 2月25日(土)2時31分配信
名古屋市の河村たかし市長が、南京事件を否定した自身の発言について「礼儀を欠いた」と関係者に反省の言葉を漏らしていることが24日、分かった。27日の定例記者会見で、発言について遺憾の意を示す方向で検討している模様だ。ただ、発言の撤回はしない方針で、事態収拾につながるかは微妙だ。
河村市長は24日、記者団に「市民に迷惑がかかるのは心が痛む。市民の生活を守るのが市長の責任」と発言の影響拡大への懸念を表明した。
2012/2/25(土) 午前 7:47 [ 中村 伊佐奈 ]
日中関係、国交正常化から40年経ってもこんなに脆い―米メディア
Record China 2月25日(土)7時27分
24日、米メディアは、国交正常化40周年を迎えた日本と中国だが、その関係はかなり脆くて弱いと論じた。写真は22日、江蘇省南京市にある南京大虐殺記念館。
2012年2月24日、米ボイス・オブ・アメリカは、国交正常化40周年を迎えた日本と中国だが、その関係はかなり脆くて弱いと論じた。華字紙・中文導報が伝えた。以下はその内容。
河村たかし名古屋市長が20日、江蘇省南京市政府の表敬訪問を受けた際、「南京事件はなかったのではないか」と発言し、中国側の強い反発を招いた。この事件は両国関係の脆弱性をくっきりと浮き立たせたといえる。
代表団側はその場では何も反論しなかったようだ。この事件が中国に伝わると、ネットユーザーたちは「日本を滅ぼせ」など激しい言葉で一斉に日本側を批判。これと同時に、すぐに反論しなかった代表団長にも不満の声が上がった。
官製メディアの環球時報が行った民意調査によると、98%が「河村市長に制裁を与えるべき」と回答、同紙も社説で「河村市長の謝罪と
2012/2/25(土) 午前 8:44 [ 中村 伊佐奈 ]
中国外交部の報道官はこの決定に対し、「理解と支持」を表明。官製メディアも「中国外交部の職員が面会に訪れた日本の外務省職員に対し、河村市長の発言は中国人民の気持ちを著しく傷つけた、と強い不満を表明した」と報道した。
日本側はこの時、「河村市長の発言は日本政府の立場を代表するものではない。日本政府の一貫した立場は、日本が過去の植民統治と侵略の期間中、非戦闘人員に対して殺害や略奪を行ったことは否定できない」と表明したという。
2012/2/25(土) 午前 8:49 [ 中村 伊佐奈 ]
日中交流イベントが延期=名古屋市長発言への批判受け―南京
【上海時事】中国江蘇省南京市で9日から開催される予定だった日中共催イベント「南京ジャパンウィーク」の延期が、1日決まった。1937年の南京事件を否定した名古屋市の河村たかし市長の発言に対する批判が中国国内で高まる中、交流イベントの開催は困難と判断したとみられる。(時事通信)
2012/3/1(木) 午後 9:56 [ 中村 伊佐奈 ]
河村名古屋市長、「南京大虐殺」否定発言について撤回の意思がないことをあらためて示す
フジテレビ系(FNN) 3月2日(金)19時13分配信
名古屋市の河村市長による、いわゆる「南京大虐殺」を否定する発言は、AKB48の姉妹グループで、名古屋を中心に活動するSKE48にまで拡大した。
SKE48が参加して、3月9日から開かれる予定だった中国でのイベントが延期となった。
そのイベントは、日中国交正常化40周年を記念して開かれる予定だった「南京ジャパンウイーク」。
SKEの公演のほか、日本語のスピーチコンテストや、和服の試着イベントなどが計画されていた。
河村市長は1日、「(南京ジャパンウイークは中止?)中止ではなく、延期ということで聞いております」と述べた。
このイベントは、2007年から過去4回開催されていて、関係者は事態の鎮静化を待って、開催できるかを検討しているが、その見通しは立っていない状況。
この決定に、中国のインターネットでは、さまざまな反応が見られる。
「もっと強硬に! 庶民は、中止を支持します」、「つべこべ言わずに中止せよ」という声
2012/3/2(金) 午後 10:37 [ 中村 伊佐奈 ]
12 『美国外交文件』中国社会科学出版社、1998 年版、410-412 頁。
13 『中国事変陸軍作戦史』第1 巻第2 分冊、北京、中華書局、1979 年版、109 頁。
14 現存の資料によると、第16 師団、第114 師団第66 連隊、第13 師団第103 旅団にはみな当時日本軍に捕虜虐殺の命令が確かにあったことを示す証拠が残っている。程兆奇「日軍屠殺令研究」『近代史研究』(2002年第6 期)を参照。
15 「中島今朝吾日記」南京戦史編輯委員会編『南京戦史資料集』?、東京、偕行社、1993 年版、222 頁、王衛星編『日本官兵日記』〔張憲文主編『南京大虐殺資料集』(8)〕江蘇人民出版社、2005 年、280 頁。
16 笠原十九司『南京難民区百日』岩波書店、1995 年、216 頁。
17 章開源編訳『天理難容―美国伝教師眼中的南京大屠殺(1937-1938)』南京大学出版社、1999 年、15-17頁。
18 路易斯・S・C・史密斯『南京戦禍写真』〔南京大屠殺史料編輯委員会・南京図書館編輯『侵華日軍南京大屠殺史料』江蘇古籍出版社〕357,358 頁。
2012/3/3(土) 午前 9:20 [ 中村 伊佐奈 ]
(北京老学生さんより、中国版。つづき)
19 『南京大屠殺敵人罪行調査委員会第十区調査小組委員会弁法、委員名単及抗属調査表』(1946 年7 月)南京市档案館所蔵、全宗号1004,目録号1,巻号382。
20章開源編訳『天理難容―美国伝教師眼中的南京大屠殺(1937-1938)』南京大学出版社、1999 年、18 頁。
21 明妮・魏特琳(南京師範大学南京大屠殺研究中心翻訳)『魏特琳日記』(1937 年12 月24 日)江蘇人民出版社2000 年、209 頁。約翰・拉貝(拉貝日記翻訳組約)『拉貝日記』江蘇人民出版社、1997 年、279 頁。
22路易斯・S・C・史密斯『南京戦禍写真』〔南京大屠殺史料編輯委員会・南京図書館編輯『侵華日軍南京大屠殺史料』江蘇古籍出版社〕、286,287 頁。
23 「中島今朝吾日記」、南京戦史資料編纂委員会編;『南京戦史資料集』? 東京、偕行社、1993 年版、226頁、王衛星編『日本官兵日記』〔張憲文主編『南京大屠殺資料集』(8)江蘇人民出版社、2005 年284 頁。
2012/3/3(土) 午前 9:25 [ 中村 伊佐奈 ]
(つづき)
24 「遠東国際軍事法廷判決書」、張憲文主編『南京大屠殺史料集』(7)。楊夏鳴編『東京審判』〔江蘇人民出版社、2005 年、607-608 頁。
25 「軍事法廷対戦犯谷寿夫的判決書及附件」(1947 年3 月10 日)国民政府軍令部戦史会档案、中国第二档案館所蔵五九三/870。胡菊栄編『南京審判』〔張憲文主編『南京大屠殺史料集』(24)〕江蘇人民出版社、2006 年、389 頁。
2012/3/3(土) 午前 9:30 [ 中村 伊佐奈 ]
中国版翻訳315ページだ。知らないことがたくさん書かれている。
外務省ページより
2012/3/3(土) 午前 9:41 [ 中村 伊佐奈 ]