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前回の金石文2−5に、当日、追記しました。見直してください。
図の文字は、一字ではなく、二字です。
東大寺山鉄剣の銘文
原文
中平囗囗。五月丙午。造作囗刀。百練清剛。上応星宿。下避不祥。
(囗は不詳の文字。)
文字資料
古代史発掘6 小野山節編「古墳と国家の成立ち」講談社昭和50年
この文献の東大寺山鉄剣の項は、金関恕が、担当者です。
七海の解釈
中平二年。五月丙午。造作丶又刀。百練清鋼。上応星宿。下避不祥。
注記 丶は、主の古字です。漢音チュ、呉音シュの音です。
図の二字は、支、文では、ありません。埼玉稲荷山鉄剣で、「丶」は、頻繁に出てきました。
丶(主)と又(有)の二字を、一字のように見せています。
図は、さびがついていますが、よくみれば、判別できます。
以下、解説します。
1 造とは、みやっこ、御家っ子のこと。和迩氏です。(後述)
造作と続けて読まない事。
2 丶又は、主又(チュウユウ)。「しゅゆう」主の有という人物です。
又=有。ユウの音です。
例示、有は、中国では人名に冠してつける。善にも悪にも使用。有虞氏であれば、虞氏で、ソグド人です。交易で儲けた大金持ちです。
日本では、善が大巳貴尊で、悪が義理の兄達の八十神です。有狗奴、有拘奴の系譜が示されています。この場合、魏志にいう狗奴國の協力とみます。
3 天理市のこの土地は、和邇氏の拠点です。
また、南に穴師兵頭神社あり、孔子(あなじ)は、風の別名です。
神武天皇は、山越えして日の出方向を背にし、東の谷から西の倭盆地へ入って、暗雲の中、突然、風穴が空き、金鶏が出てこれに助けられた。この土地を孔舎衛(色衛は龍衛)としている。大阪側での戦いのときは、日下は、孔舎衙で、日に向かうのがよくなかったと、反省していた。この貢献で、穴師は山代國造となる。神武紀には、すでに刀があります。
4 造が主有の刀を作った。言い換えますと、和邇氏が穴師兵頭神社の鍛冶主「又」という人物に作らせた。龍神山あり。山代國造天目一命の後裔が協力していると考えます。
A この刀は、公孫氏から貰った物ではない
1 丶又を、支と観た京都大学福山敏男。
2 文と解したのは、京都大学梅原末治、大阪府弥生文化博物館の金関恕、東京大学西嶋定生の三人です。
これらの結果は、根拠なしの記述で、間違っています。
なぜならば、崇神62年に、塩乗津彦が登場するからです。
和邇氏の乙国葺は、この刀をもって、任那の宰相についている。これを「みこともち」と称す。そして、崇神62年、子の塩乗津彦と交代している。
なお、和邇氏は第五代孝昭天皇の後裔、のちの仲哀紀で、福岡県岡垣町の岡県主熊鰐は、和邇の兄弟で、仲哀天皇と神功皇后を迎える。この地も拠点です。また、対馬にも、鰐津があります。
B 任那へ派遣の和邇氏
中平二年(184年)この年は、中国で、黄巾の乱の年です。
時代は、開化天皇と卑弥呼です。
開化が亡くなって、崇神62年、任那の宰相に、塩乗津彦がゆく。
184年には、すでに、任那があります。
東大寺山鉄剣は、父・乙國葺のために、184年に作ったのでしょう。
では、いつから任那ガ在るのでしょうか。
その60年前、124,64、後4年、前56・・・切りがないから止め、息(や)めます。・・・これは、おそろしく、古い?
なお、崇神の時代も卑弥呼です。次の垂仁の始めの頃も、卑弥呼で、卑弥呼は、247年11月20日に、崩御しています。(先述)
とにかく、先学が、根拠なしに、書くこと自体が異常です。
公孫氏が、主又刀を下賜するという可笑しな話でした。
なぜならば、すでに、倭奴國は、後漢の光武帝から、57年に金印をもらっていて、柵封しています。いまさら、一介の遼東軍事・公孫氏から、刀を貰う事が、可笑しいと判断できます。
みなさん、学者が何の依拠なし。あるいは、中国文献の記載が間違いと、云っておきながら、根拠を示さずに記載する学者の見解を疑ってください。稚拙、幼稚と看做します。鵜呑み、または、素通りしないでください。
逆に、ここから、新展開が可能です。
任那問題は、難題としておきますが、意外と簡単に解けるかもしれません。
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