鵺鳥鳴く

『だが、やるなら全力をそれに注ぎたまえ』――J.D.サリンジャー

学問・哲学

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]

東のエデン監督「今の若者はニコ動でクリエイトした気になっている」への批判

東のエデン監督「今の若者はニコ動でクリエイトした気になっている」
http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/1498980.html

この記事ではニコ動なりコミケなりが批判されているけれども、
あえてここで基盤そのものをぶち壊してみる試みをやってみたいなあと。
いや、別になんか尖った意見を見つけたのでなんとなく批判して遊びたいだけ。
目標としては二次創作とニコ動の地位向上がなんとかかんとか。


まずは、君らクリエイター自身は集団制作で大きなものを作ってる気になっているけれども、
そもそも集団制作である時点で君らは何一つ作れてないのではないの?
だいぶ前に共同幻想を使って批判をしてみたけれども、
共同幻想へと昇華した段階で誰一人として司令官が存在せず、
企画と言う信仰の対象とも言うべき言葉の定義が曖昧な、超越的所記に振り回されてるだけじゃん。
これってクリエイティブではないし、単純作業と同じだよね。
意見出しとかクリエイティブだし、裁量が認められてる範囲ではクリエイティブと思うかもしれないけど、
結局それも企画という信仰の対象として大仏を大人数で掘ってるのと同じじゃん。
水かきとかハスの有る無しで揉めるのは日常茶飯事だと考えると、
共同幻想のあるべき姿しか浮かび上がらないよね。
(正直、こういう結論に達したので発表が\(^0^)/状態で無理やりオチ付けたわけだけど)


この段階でもはやトレースと同じ現象が生じるわけだけれども、
他にも企画とは何かの問いかけに答えることできないじゃん。
企画書を読んだとしても具体的な完成形は個人個人で異なるし、
価値観や経験などのバイアスによって大きく変動するよね。
その状態での制作はなんら二次創作と変わらないよね。
ましてやそれが膨大な書かれたものと読まれたものの組み合わせだとすれば、
個人がその企画に対して及ぼす範囲そのものは極めて限定的で、
その企画全体の様相は個人の段階で知ることはまず不可能だよね。
その状態で企画とはなんですか、と個人に問いかけたところで、
「企画とは企画である」という超越的所記のようなトートロジーに陥るし、
仮にさまざまな言葉を組み合わせてそれっぽい論理を並べ立てたとしても、
「企画とは規格である」という説明にしかならないじゃん。
もしその説明がトートロジーにならないのであれば、
我々クリエイターは誰とも意見の衝突を起こさずに作ることができるはず。

(しかし、それでも制作行為が不純物混じりの大仏作りから折り鶴に変わっただけで、
大人数が関わる以上、トレース作業であることには変わりないけど)


ついでに書いちゃうと、制作行為そのものは二次創作と同じような借り物の表現を使ってるのは変わらないよね。
アニメであれば監督だったり、ゲームであればディレクター数人だったり。
下で作業してる人はその人たちの表現を借りてきて作業してるわけだし、
ましては世界観設定なりそういう設定の類から何もかも借りて制作を行っているわけだから、
やっぱり二次創作となんら変わりはないじゃん。
おまけに最終的に監督すら不在になるし。
あえてそれでもクリエイターの作業が高尚と思ってしまうのは、
大金を落としてくれるスポンサーと会社を敬うユーザの構図が存在してるからだよね。
大規模な商行為から生じる――とは言え一個人からは全く見えないのでチヤホヤ感は、
例え同人活動を通した個人による商行為を行わなかったとしても成功による快楽は十分に得られる。
正直なところ、売れた売れないで高尚かどうかなんて決めることはできないよね。
下手すると一部分しか、つまり完成品は誰一人として作れないのだから
クリエイターの作る大きな作品が二次創作より劣るというより、
その作品は単独で完成させることができない以上、二次創作に劣っているとも言えるよね。


ここでまたテクスト論を取り上げると、
作品そのものが大多数の読まれたもの(人々の価値観)と書かれたもの(成果物)によって織り成されたものだとすれば、
作品そのものの境界って物凄く曖昧になるよね。
仮に書かれたものだけによって作品が構成されるのならば、
例えば作品に込められたイデオロギーやメッセージはすべて無に帰してしまう。
現実としてそれはあり得ないので、やはりその両者の組み合わせなのかもしれないけれども、
じゃあそのイデオロギーやメッセージはどこから来るかと言うと、
やっぱり今まで読んできた、触れてきたものによる価値観の蓄積の一部からじゃないかなと。
じゃあ、それもやっぱり作品の一部なんじゃないの?
となるとやっぱり著者は誰だって話になる。
読まれたものですらその作品の参加者となってしまう。
じゃあ、クリエイターが作っている作品はどこへ行ってしまうの、という議論になってしまうわけだ。
そんな中でクリエイター連中は作品を作っていると錯覚しているけれども、
実際のところはあなただけじゃなく、あなたの中にある人々によって作られてるわけじゃん。
そうなると猶更商業作品が高尚とも言えなくなっちゃうんじゃないの?


言うこともなくなったのでまとめると、
アニメみたいな大規模制作かつ商業的な作品って言うまでも高尚じゃないし、
価値観による揺さぶりによって作品を制作する以上、
巧妙な盗作・パクリによって作られてるのだから二次創作とあんまり変わらないよね。
むしろ、二次創作と一次創作の境界線は曖昧になっちゃうし、
そうである以上、どちらかに優劣をつけると必ず完成させられている二次創作のほうが優秀だよね。

(かと言って、著者が込めたメッセージが読者に伝わるとも限らず、
読者によってすべての意味が決定しまうと言えるわけだけれども)

なので、二次創作が愚劣だと思うのは間違いだよ。
とは言いつつも二次創作も同じ問題にはぶち当たるけどね。



という話でした。
割とこういうことで語れることが増えたので、勉強も進んでるなと実感したり。
自分もクリエイターである以上、考えなければならないわけで、
当然のことながら空っぽの状態での思索はたかが知れていて、
哲学や評論、分析の方法を身に着けることで新しい作品作りの地平を見つけることができるんじゃないかなと。
ここで哲学馬鹿にする人たちが実際にいたり、
経験主義的なところで哲学は無効だとする考え方もあったり、
その対抗と言うか、その人たちとは違う考え方を会得することでその世代を乗り越えられるかなと思ってる。

(経験主義の批判は割と簡単で、あなたの体験の中でしか語れないのであれば、
全ては体験の中でしか表現することができず、新たな表現を行うことは不可能に近いとか言ってみる)

と言うより、むしろその人たちを乗り越える存在でなければ、
新しいことをするのは全く不可能なんじゃないかなって思いながらやり始めてる。割と最近。
なんかこう、泥舟でゲーム業界諸共沈みかけてるところが物凄く怖い。
正直、大金と時間をかけてるのに粗製乱造しかしてないと思うし、
これちょっと本当に買いたいなって思うゲームがないのってどうかなって思う。
今のところ衝動買いでしかゲーム買ってないし。
ここらへんとても何とかしたい。
だから自分で作らなきゃどうにもならんなあと。
ゲームやりたいのにやりたいゲームがないのはどうかと思うよ、ほんとに。
読みたい本はいっぱいあるのに。ちょっと変だよ。


(眠いなと思いながら書いてたらぐずぐず引きずってしまった……)

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

クリエイターの死について書いてみました

ここからダウンロードできるはず……。
https://sites.google.com/site/grgsiberia/kontentsu/hyouron

いわゆるバルトのテクスト論が集団制作になると、
書かれた物が書かされた物と読まされた物としてまた織物になってますよ、
という話をしたかったわけだ。
まあ、クリエイターの死自体はどちらかと言うと添え物で、
むしろこちらを強調したいわけだがいかんせん、内容が内容だけに心配である。

そんなこんなでうだうだしてたらこんな時間に……。
風呂入るのも迷惑な時間だな……。

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

大学の課題で書いた随筆みたいな奴

 インターネットを利用している人口の割にはその利用している人たちやその人たちの関係を対象とする研究や学問が少ないような気がする。
 ――民俗学という学問がある。郷土の歴史や行事、風習、生活などを収集し、日本の風土や日本人の共通的な特徴を導き出す学問である。この学問の意義とは、恐らく日本に根付いた日本人の本質というものを見極めることだとなのだと思う。
 そこで僕はインターネット民俗学というものを提唱してみようと思う。インターネット民俗学とは、掲示板やSNSでの交流、あるいは個人サイトの情報を収集し、それらから日本人のインターネット上での生活や活動などの共通事項を見出す学問である。そしてこの学問の意義とは、インターネットと言う相手の姿かたちが見えず、日本全国隔たり無く一つのコミュニティに参加することができるもう一つの世界に根付いた日本人の本質を見極めることにある。
 民俗学と共に研究することで日本人とは何か、日本人はいったい何を考えているのか、という日本人の本質により一層近づけるのではないのだろうかと思う。また、日本人に適したマーケティング活動など経済学への応用、日本人が好む美術的作品など商業芸術への応用などなど、さまざまな学問や活動に応用できるのではないかと僕は思う。

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

偏差値教育における母性原理の中の父性原理――ゆとり教育について

母性原理とは、全てを平等に包み込む本能のこと。
父性原理とは、切捨てることにより個人の自立を促す本能のこと。

偏差値教育はどちらかというと母性原理に近い。
全ての生徒が平等に学問を受けることができ、かつ平等に受験をすることができる。
生徒個人はその生徒と言う集団によって包み込まれ、かつその中で何かしら行動を起こしている。
その行動と言うのがいわゆる受験や偏差値教育。

受験の特徴として大学をランク付けすることにより序列というものを生徒たちに与えていることが挙げられる。
ある集団があればそこには必ず序列が発生する。
母性原理ならば序列を排除して平等という価値が与えられるようにも思えるが、もし仮に父性原理で動いているのであれば全ての序列とは無関係であるはずだ。
つまり、集団そのものを切り捨てて孤独になることにより自立が達成される。
これにより序列が母性でも父性でもないという矛盾が生じてしまう。
ところがよく考えてみて欲しい。
序列と言うものはある『集団』の中にでしか発生しない。
つまり、母性原理の中でしか序列が発生し得ないのだ。

教育にも一定の特徴がある。
全ての生徒は単位を取らなくてはならず、そして教科書に沿ったテストを行う必要である。
受験制度と言うものは厳しいものであり、テストで高い点数を取らなくてはならない。
ましてや大学に入るための点数を確保することは生徒の義務である。
これも同じく、平等に包み込んでいるため母性原理にかなっている。
父性原理であればもう少し個人主義的なテストを実施しているだろう。

そう、母性原理の中にある父性原理とはまさしく総合的学習や特別活動といった授業のことなのだ。
これこそゆとり教育の本髄とも言えるだろう。
しかし、やはり均一な内容の授業を教師は受けさせていることもあり、より父性にかなった授業は行われていないのが現状である。

例えば、ある学校では総合学習の時間に公民館で伝統芸能に触れたとしよう。
これもやはり母性原理と言えるだろう。
なにせ、全ての生徒は同じ伝統芸能に触れなければならず、伝統芸能に対して興味が湧かなければあまり意味のある授業とは言えないだろう。好きな生徒は別として。

では理想とは何か?
例えば生徒に長期的なプランニングを立てさせて好きな勉強をし、そして発表するのである。
これは好きなゲームの攻略法でも相対性理論のノートでも構わない。
好きなことをやらせるのだ。
そして好きなことが何か分からないとき、あるいは取り組みに対するヒントが欲しいときにだけ教師が介入するのだ。

なぜ好きなことなのか?
人はたいてい好きなことに対しては精力的である――読者諸氏に好きなことがあることを願いたい。
これを利用し、より自立的でオリジナリティに溢れ、そして発想豊かな活動を行える。
アメリカのハイスクールでは好きな授業を選べるられれば、自分の好きなようにレポートを提出する課題もあると聞いた。
(とは言うものの、アメリカも学歴社会ではあるが)

受験のための教育こそ子供たちの学力を低下させているに他ならない。
偏差値と言うものはあくまで偏差値教育が施された場所にのみ通用する文句のようなものであり、大学生となってはほとんど無縁と等しく、学力低下と嘆くのは勘違いも甚だしい。
大学と高校は別物であり、そしてやりたくもない勉強をやらされて覚えていろというのも酷な話である。

ただやはり母性原理と言うものは教育において欠かせない存在でもある。
教師の指導範囲と言うものも限られている上に、もし生徒それぞれがバラバラな勉強をしていては教師の手が足りない。
そういう意味では数学も国語も一律としてやらせるしかない。必要悪なのだ。

しかし、総合学習について忘れてはならないこと、ヒントが欲しいときにだけ教師が介入する、ということだ。
これならば生徒自身に自由な発想で自由に取り組むことができる。
そのうえ教師の負担も少ないと言えるだろう。

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

できの良い人間とは

まず誰もが彼に良い印象を与え、経験や知識から最善の方法を導き出すことができる。
彼は客観的な視点からのみならず、主観的な視点からでさえも良好な状態を持っている。
彼は自分が良いと思うものを承認し、敬意を表す。
絶えず選択し、捨てることによって知識や経験とすることができ、常にそれを活かすことができる。
そして何より、忘れることができる。
悪いことがあったら忘れ、つまらないことがあれば忘れる。
次のときのためにすぐ立ち直ろうとする。

罪もない、悪もない、彼は実に健全な精神の持ち主なのだ。
彼は何をしても良き人にならざるを得ないのだ。

彼とはいったい誰のことか? 人間のことである。
人間こそ、そうならざるを得ない存在なのである。


参考:この人を見よ(フードリヒ・ニーチェ)

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]


.
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

GRGSIBERIA
人気度

ヘルプ

Yahoo Image

  今日 全体
訪問者 8 88130
ブログリンク 0 7
コメント 0 152
トラックバック 0 34
検索 検索

開設日: 2006/5/29(月)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.