「孤独」を支える妻の存在 サッカー日本代表監督、岡田武史
「孤独」を支える妻の存在 サッカー日本代表監督、岡田武史
「本当に孤独な1カ月半でした。どんなときも励ましてくれた家族が支えでした」 1997年11月16日。マレーシアで日本が悲願のサッカーW杯出場を決めた日、日本代表監督の岡田武史(53)は目を潤ませながら、インタビューに答えた。 後に「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる歴史的瞬間、2つ年上の妻、八重子は神奈川県内の自宅で長男とテレビ中継にくぎ付けになった。 [フォト] 「せめてハチに…」岡田監督“ハエ”発言に犬飼会長苦笑 「どんなにダメなときでも勇気を持ってやり抜いた主人を誇りに思います」 おしどり夫婦を絵に描いたような2人のやりとりは、ワイドショーの格好の“ネタ”となり、この日を境に平凡な岡田家の生活は一変する。それは、普段クールな岡田でさえ、舞い上がってしまう予想外の出来事だった。 岡田が八重子と出会ったのは早稲田大学2年のとき。サッカーファンだったという八重子は岡田の試合をたびたび観戦していたが、知人に紹介され、サッカーで悩む岡田の相談を受けるようになった。そして、いつしか親しくなり、真剣に交際を始めるようになる。 ただ、1浪して早大政経学部に進んだ岡田は入学当初、サッカー部ではなく、同好会の「稲穂キッカーズ」に所属した。高校時代、ユース日本代表にも選ばれた岡田だったが、浪人時代の1年間、サッカーはまったくせず、体重も10キロ以上増えた。 ようやく受験勉強から解放され、上下関係の厳しい体育会系とも距離を置きたいとの思いがあったのだろう。当時の心境について、岡田は早大のインタビューで語ったことがある。 「最初は学生生活をエンジョイしようと思ってたんですよね。そうしたらたまたまサッカー協会の人に会って、『協会の金でユースに行かせたのは将来への投資だ』とすごく怒られたんです。それで『今からサッカー部に行け』と言われて入った。1年生の時は練習についていくのが必死で、ものすごくしんどかったですね」 大学サッカー界の名門として知られる早稲田。ハードな練習はともかく、伝統校ならではの礼儀を重んじる雰囲気には、当時の岡田も困惑していたようだ。 早大の1年上の先輩、京都サンガFC監督の加藤久(54)は、練習中に桃をかじった新人部員への罰として、グラウンドを延々と走らされた岡田のふくれっ面が忘れられないという。 「なんでおれも走らなきゃいけないんだ」 早大出身の作家、五木寛之の小説「青春の門」を中学時代に読んであこがれ、早大を志望したという岡田。小説のストーリーとは異なり、サッカーに明け暮れ、色気のない大学生活を送る日常に、悩んだ時期もあっただろう。 そんな岡田にいつも寄り添い、聞き役に徹してくれた八重子の存在は、サッカーを続けていく上で、大きな支えになったことは想像に難くない。 昭和55年2月。大学卒業を間近に控えたこの時期に、岡田は八重子と結婚した。古河電工への就職も決まっていたが、岡田はあえて学生結婚を選んだ。 3月、東京都内で開かれた披露パーティーは、かしこまらない雰囲気で、出席者の多くが普段着姿だった。早大サッカー部の同級生は、パーティーの最中に岡田が「就職したら上司に仲人を頼まないといけないし、しがらみができるのは嫌だから」と打ち明けてくれたことを今でも覚えている。 結婚後は、けがに苦しんだ岡田の治療に付き添い、ドイツへのコーチ留学にも同行した八重子。代表監督になってからは、常に矢面に立つ孤独な指揮官を笑顔で迎えた。 「どれだけ多くの日本人に批判されても、タマゴを投げられたりしても、家族だけは『ご苦労さま』って迎えてくれるという自信があったんです。そうした帰る場所がなかったら、あれだけのプレッシャーには耐えられなかったかもしれません」 98年のフランス大会後、岡田は代表監督当時を振り返り、こう述べている。だがこれ以降、岡田の口から「家族」が語られることはほとんどなくなった。その理由は、岡田を最も悩ます「マスコミ」との距離感にある。 |








