ここから本文です

スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫今月のお寺

すべて表示

イメージ 1

仏光寺・絵系図 既に「尼〇〇」の表記が見える。本願寺三代覚如長男、存覚のかかわりが明らかなものである)

中世研究が進んで、古代から女性が相続権を有していたことが明らかになっている。

例えば仏光寺派では、九代を7代の了源上人の御連れ合いの了明尼が継がれている。在家仏教としての真宗に於いては当然であるが、歴代に女性住職が存在しない宗派も多い。仏光寺・興正寺においても江戸期にはこれが覆い隠されてしまう。

仏教が神仏習合で支配思想になるにつれて、邪淫戒が意識される。次に、存覚上人の「女人往生聞書」から考察しうる「五障説」の浸透、大乗仏教として輸入された「女性差別思想」が「触穢思想」からジェンダー化し、やがて家父長制が成立してくる南北朝期に、竜樹が既に説いたとされる三従説(中国古代にもある説ー『大戴礼記(だたいらいき)』本命篇に「家に在りては父に従い、人に適ぎては夫に従い、夫死しては子に従う」がセットされて、ヒンズー由来といわれるインドの「五障三従」説が強化された定説として、社会へ浸透してくると、従来の歴史学はいう。

しかし、これを丁寧に考察している史料や論文は未だ少なく、定説化されているとは言い難い。

そこで次に戒(法)名を調べて見ると、以下の例がうかぶ

安養院殿如実妙観大禅定(院殿号・道号・戒名・位号)北条政子
妙善坊慶山常眞(坊号・道号・戒名)日野富子
融誓→慶壽院(釈)鎮永(院号・法名)本願寺10世・證如母


北条政子は13世紀。日野富子は15世紀。そして慶壽院は16世紀の女性。それぞれに戒(法)名は、「妙観」「常真」「鎮永」で原則通りの名乗りである。ジェンダーは成立していないことがわかる。
 
もちろん程度の差があり便宜的であったり、不十分な論理だてかもしれないが、法然上人の遊女教化の伝説にあるよう、僧侶・仏教者は大乗経典における「女性差別」を意識しながらも、法においては男女平等を求め続けていたと理解される。
 
これらの程度を同時代の社会例と照らし合わせつつの解読は、私の手に余るが、やはり、江戸期の檀家制度において、在家仏教を標し社会からも「穢き宗旨」「危険な宗門」と視られる、真宗こそが、「かわた差別」のみならず、ジェンダー差別を最も現象化し易かったといえるのではないか。



書庫その他の最新記事

すべて表示

  • (著書から多くを学んだ前門様のお師匠、 中村元先生) さて、「北伝仏教」から、仏像と荘厳を伴って「経典」を受け入れた倭国・大和朝廷である。 従って、天竺・震旦間での文化と言語体系の差異には、当然ながら鈍感であった。 さらには、仏教の発祥地である北部インドや、仏教教団がどういう歴史を辿ったかについても、遅れて知ること ...すべて表示すべて表示

  • (玄奘三蔵→道昭→行基という師弟関係) では古代の日本ではどうだろう。 北伝仏教は朝鮮半島の高句麗・新羅・百済と伝播して、6世紀に日本へ伝来する。 既におわかりのように、これは仏像を礼拝する仏教である。大蔵経が一時に輸入されたわけではない。以前指摘したように、古神道は「崇める」行為そのものが帰依の実態であるから、トツクニの異形の神 ...すべて表示すべて表示

  • ( 北魏・386‐534 は、中国仏教のエポックであった。日本の仏像に北魏形式が多いことは知られる) 大乗仏教は、戒律を形成して小集団を維持し、そこで独自の仏教解釈を主張し合って大衆への教化をおきざりにしいている仏教教団への批判として形成された。 釈尊の入滅から500年たった頃のことであった。実在の釈迦を帰依の対象とする有 ...すべて表示すべて表示

ブログリンクブログリンク

更新

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事