3組めのマタイ
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J.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV.244
ゲルリンデ・サーマン(ソプラノ1) マリー・クイケン(ソプラノ2) ペトラ・ノスカイオヴァ(アルト1) パトリツィア・ハルト(アルト2) クリストフ・ゲンツ(テノール1:福音史家) ベルンハルト・フンツィカー(テノール2) ヤン・ファン・デル・クラッベン(バス1:イエス) マルクス・ニーダーマイア(バス2) エミリエ・デ・フォフト(リピエーノ、下女、ピラトの妻) オリヴィエ・ベルテン(ペテロ、ピラト、祭司長2) ニコラス・アクテン(ユダ、大祭司カヤバ、祭司長1) ラ・プティット・バンド シギスヴァルト・クイケン(指揮) 録音時期:2009年4月5-9日 録音場所:Predikherenkerk, Leuven, Belgium HMVのレヴューより
〜マタイ受難曲は異文化人たる我々にとって、西洋キリスト教文化の根源を理解する鍵となる作品です。従ってNr.1 ’Kommt’から、裏切り、捕縛、裁判、拷問、処刑を経て、Nr.65のアリアまで、螺旋状に駆け上がって行くこの世にも不思議な物語に、音楽によって聴き手を導いてしまう力を持つ演奏でなければ、本来的な意味を持ち得ないものだと思います。S.Kuijken/La Petit Bandeの演奏は、本当にすべてが美しい、マタイ受難曲ってこんなに美しい曲だったか、と思わせてしまう程。それもネオンサインのような人工的な華美さと対極の、たとえばクリスマス深夜ミサのロウソクの一つ一つのゆらめきのような、あるいは路傍の草花のような、信仰と真心以外からはでてこない美しさに満ちあふれています。〜
〜美しい…それにしても美しい…!私にとっては,リヒターとレオンハルトの2組が聳え立っているが,こと美しさに関しては,2組とも霞んでしまうほど。〜
〜一聴すると淡々と進行しているように見えて、実はその曲想の描き方の何と言う純真無垢さ。恣意的な箇所はいささかもなく、どこをとっても敬虔な祈りに満ち溢れた至高・至純の美しさを湛えていると言える。〜
HMVのレヴューに書かれた賛辞をみて、何とか入手しようとヤフオクで2,600円で落札 。
作曲家:武満徹(1930−1996)
心の奥深いところで、いつもコダマのように響いていたマタイ受難曲が、人生の帳がまさに降りようとしていた時、一人病床に伏す武満氏の部屋に、静かに厳かに流れ出したのだ。長大な曲でもあり放送されることも少ない曲なのに抜粋ではなく全曲が。
NHKの放送ディレクターは武満氏の状況を知っていてこの日のプログラムを決めたわけではない。
いつものように見舞い客があればラジオをつけることはなかっただろう。
あまりの大雪のために夫人の浅香さんさえ来られなかった。
前夜から東京では年に1回あるかないかの大雪を降らせたのは誰なのか。すべては一つ一つが独立した時に起こり、武満氏はマタイの世界に何にも妨げられることも無く浸りきることが出来たのだ。
この決して二度と起こりえない「瞬間の真実」を「意味のある偶然」ととらえないでどんな理解の仕方があるだろうか。
人が生きていく途上で、時には死を目前に一瞬一瞬を刻む中で、その人の命を躍動させるような不思議な出来事に遭遇することがある。
科学の世界で「真実」と言う時、その「真実」は追試験や再現試験によって同じ事象を再現できる一般性、普遍性を持たなければならない。
そうした出来事は、幻覚や偶然であっても、あるいは奇跡と呼びたくなるような不思議な偶然の重なり合いで
あっても、その人にとっては絶大な意味を持つものとなる。たとえ他者は同じような経験をすることが出来なくとも
(つまり再現不可能の1回限りの出来事であっても)当人にとってはその出来事は否定しようのない真実として体験されたものなのだ。
それを「瞬間の真実」と言うのだと
文芸春秋2007年1月号 柳田邦男氏「最期の瞬間まで命を全うした感動の記録」より引用
昭和天皇から本田美奈子まで |



