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前回、山中鹿介は出雲の真山山麓で生まれたという伝承がある、と書きましたので、今回は鹿介の出生地を探ってみたいと思います。
まず前回触れた真山です。
この真山は現在の島根県松江市にあり、毛利元就の出雲侵攻のときに激戦が繰り広げられた白鹿城のすぐ隣に位置します。
真山は、毛利氏の白鹿城攻めのさいに向城として使われ、白鹿城陥落後は、水の手を切られた白鹿城のかわりに要衝として機能しました。
尼子勝久の出雲入国時には、勝久が拠点とした城でもあります。
鹿介はこの真山のふもとで生まれたといいますが、具体的に真山山麓のどこで生まれたのかは伝わっていないようです。
従って、鹿介の生まれ育った住居等の遺構などは特定されておらず、実地調査もしようがないので、今のところただの伝承としか言い様がありません。
真山のほかにも鹿介の出生の地と言われている場所があります。
そのひとつが、鰐淵寺の山麓です。
鰐淵寺というのは現在の出雲市にあり、戦国時代には山を挟んで南西に位置する出雲大社と結び付き、その別当寺をつとめて相当な力を持った名刹です。
この鰐淵寺の山麓誕生説は、おそらく「雲陽軍実記」の記述からきているのではないかと思われます。
「雲陽軍実記」は1580年頃に尼子氏の旧臣・河本隆政が記したとされるもので、鹿介の直接の出生誕は書かれていないものの、山中勘兵衛勝重なる人物が鰐淵寺山麓に住んでいたという記述があります。
この勘兵衛勝重は「山中系図」の話のときに触れたように、鹿介の祖父とされる満盛に比定される人物ですから、山中一族がここに住んでいたのだという推測が生まれたのでしょう。
しかしながら「雲陽軍実記」では鹿介と勝重の関係については明記されていませんし、そもそも同書は問題が多く、記述をそのまま信じることはできません。
そして真山山麓と同様、鰐淵寺山麓にも具体的に鹿介生誕地が比定されているわけではないため、実地調査による特定もできません。
従って、こちらも今のところ伝承の域を出ないといったところです。
さらに、いまひとつ誕生地に比定されている場所があります。
これは以前にも記事にしたことがありますが、尼子氏の居城であった富田城のある月山の北麓です。
月山北麓付近は新宮谷と呼ばれていて、奥には尼子経久の次男、尼子国久一族の居館跡があります。
その新宮谷の入口ちかくに、山裾を削平して作られた敷地があり、そこに山中氏の屋敷があったとされているのです。
安来市のウェブサイトによれば、「古文書、系図等の調査から」この場所が山中氏の屋敷跡に比定されたということです。
ただ、安来市のサイトのいう古文書というのが、具体的にどういう古文書で、それをどのように分析したのかは分かりませんので、ここでその妥当性を云々することはできません。
この月山北麓の屋敷跡は国久の館跡に比べれば見劣りはしますが、それでも敷地面積や立地からすると、かなり身分の高い武士の住まいであったと推測できます。
それを裏付けるように、この屋敷跡からは調査の結果、朝鮮半島の陶器の破片が数点見つかっているようです。
尼子宗家の平時の住居であったとされる富田城里御殿跡からは、多量の朝鮮半島産陶器が出土していることからも、尼子氏が積極的に大陸貿易にかかわっていたと考えられていますが、それを加味して考えれば、この屋敷跡の主は大陸貿易に直接かかわっていた人物かもしれません。
しかし、「竹生島奉加帳」の件で触れたように、天文年間の山中氏、すなわち鹿介の父もしくは祖父の代の山中氏は、その地位がさほど高かったとは思えません。
鹿介自身は後に尼子軍の首脳となりますが、鹿介が活躍したのは義久の末年から勝久の代にかけてで、この頃の尼子氏に大陸貿易をする余裕など無かったはずです。
従って、この屋敷跡が山中氏の屋敷跡であったと考えるには少々抵抗があります。
ただ、「甫庵太閤記」に鹿介は富田庄で生まれたという記述があります。
「甫庵太閤記」とは1626年に儒学者の小瀬甫庵が記した豊臣秀吉の伝記です。
鹿介と秀吉との接点は織田軍の中国攻めのときだけですが、「甫庵太閤記」にはなぜか山中鹿介の伝記が異様に詳しく書かれています。
これは、甫庵が一時期出雲松江藩に仕えていた関係もあるのかもしれません。
ともかく、鹿介個人の生誕について触れたもっとも古い書物がこの「甫庵太閤記」なので、これに従って鹿介は富田庄生まれだとするのが一般的のようです。
「甫庵太閤記」にしても後世の記述ですのでそのまま信じることはもちろんできませんが、鹿介の出生地は月山北麓の屋敷跡ではないにしても、月山近辺であった可能性は十分に考えられると思います。
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