かぐやひめ語録

月に還ります。みなさん、今までありがとう。

懐かしいベティさん

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大切な人との出会いって、どこにあるかわからないものだ。
 
I'm Betty.  という彼女に出会ったのは、約25年前、阪急電車の車内だった。
金髪のおかっぱ頭、派手な色彩の服装、つぶらな瞳・・・え?この人、外人かな?日本人かな?と、目がとまった。
 
降りた駅が同じだった。どちらからともなく目が合って、目があったら、にっこり笑い合った・・・「ベティです。」と、自己紹介する彼女は私より25歳ほど年長の65歳だった。
 
それから、お付き合いが始まる。なぜ、電話番号を尋ねたのか、もう、思いだせない。しばらくして「胃がんの手術をする」ときいて、心配でたまらず、お見舞いにかけつけた。
 
病室の外から、彼女の姿を見つけた私の不安げな目が、ベティさんの心に焼きついたそうだ。
 
ベティさんは、青春時代を大東亜戦争で奪われた世代。大好きな英語を習うことができなかった。
どうしても、英語を習いたくて、神戸港に行き、英語圏の人と見れば話しかけ、英語を習得したと言う。
丸顔で、外国コミックのベティさんに似ているので、自分で名付けた。
 
ベティさんの生涯は「苦労を絵に描いたようだった」
許婚者はシベリアに抑留されて、もどらなかった。伐採する大木の下敷きで亡くなったと、あとから知った。
 
だから、もう、幸せになろうとは考えなくなって、誰でもいいから、心静かに暮らせる地味な人と結婚しようと思った。
 
でも、心静かに暮らすには、夫となった人は、気が弱過ぎて、職を転々とし、彼女の細腕で、所帯を切り盛りするしかなかった。どん底の貧乏生活の中で希望と誇りだけは捨てなかった。
 
平成元年、元町の高架下で、色の浅黒い海外からの研修生に出会った。英語で話しかけると、須磨のインターナショナルセンターに宿泊し、数か月の予定で職業訓練を受けるという。
日本の滞在期間が短いために、日本人と知り合いにもなれず、ホームシックでさびしくてたまらないと、研修生は打ち明けた。
 
それを聞くと、ベティさんは、矢も楯もたまらず、インターナショナルセンターに彼を訪ねた。研修生たちは大喜びで、以後、センターへの慰問と、自宅(軒が傾いたような文化住宅)に研修生を招待することを、続けて、「日本のお母さん」と呼ばれるようになった。
 
ある日、ベティさんが、一緒にセンターにいってほしいと言うので、一緒に行った。ベティさんは、研修生との交流に夢中だったけれど、私には、センター職員のうさんくさいものを見る目つきが突き刺さった。
 
貧しい身なりのおばあさんが定期的にやってくる、これは、何が目的だろうか?「宗教の布教?」「金目当て?」そういう目つきだった。
 
ベティさんは、自分の貧しかったつらい暮らしと、貧しい国から研修に来る人々の淋しさが重なって、彼らがいとおしくて、いとおしくてたまらなかった。
「今度は、折り紙を教えよう」「次は、浴衣をもっていって着せてあげよう」「手芸もいいな」と、夢をふくらませるばかり。
職員の目つきには、まったく気付かなかった。
 
あしかけ7年が過ぎた。
センター側も、ついに彼女の「まこと心」に打たれた。
兵庫県知事から、ベティさんに感謝状が届いたのだ。
長年のベティさんの献身へのお礼だった。個人で、受けるのは高額の寄付をしたどこかの社長さんと、二人きり異例の受賞だった。
 
 
嬉しくて、私は、親しい新聞記者にその話をした。ベティさんの功績が新聞に載ると、今度は国際ソロプチミスト協会から「女性ボランティア賞」をあげるという連絡が来た。
 
こうして、長い長い苦しい人生に心をこめて生きた一人の女性に、ついに晴れの時代がやってきた。夫婦で新幹線でデズニーランドの傍のホテルに招待され、表彰を受けた。
ベティさんは「もったいない、もったいない」といって、いつも、拾っている「荒ごみ」の中から見つけた真っ赤なブレザーで、出かけた。
よく似合っていたが、参加者は、まさか彼女が「ごみ」を着てきたとは夢にも思わなかっただろう。
 
「グリーン車のチケットをくれたんやで」と、興奮するご主人さまの様子に「よかったね、頑張ってきた甲斐があったね」と、祝福した。平成6年年末。
 
あくる平成7年1月17日。午前5時46分。大激震。
 
被害状況がだんだんはっきりしてきて、ラジオのAM神戸のアナウンサーが、「歩いてくる途中の家は全部倒壊していました・・・」というのを聞いた瞬間、ベティさんの文化住宅が、まさにそこにあることを思い出した。

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