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バイブルメッセージ(旧約)

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マラキ書3章―神様への全幅の信頼をもって生きる

心がなごむバイブルメッセージ950



【マラキ書3章】
3:7 あなたたちは先祖の時代から/わたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると/万軍の主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように立ち帰ればよいのか、と。
3:8 人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら/どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と/献納物においてである。


マラキ書と言えば…“什一献金”を思い浮かべるクリスチャンがたくさんいるのではないでしょうか。その御言葉がこの箇所です。それは、「立ち帰れ!」という神様の悔い改めの勧告に関連して教えられました。

神の掟を離れ、それを守ろうとしない人々に向って、神様は、「立ち帰れ、わたしに」と呼びかけ、「あなたたちはわたしを偽っている」と警告しました。しかし、人々は、「どのように立ち帰ればよいのか」、そもそも「どのようにあなたを偽っていますか」と、自分たちの罪や偽善を認めるどころか、気づいてさえいない状態だったのです。

このとき人々は、生活もままならない状況に不満を覚え、神様への不信感でいっぱいになっていました。十一献金なんかしちゃいられない、そんなことしたって何になるって言うんだ!と人々は思っていたのです。

しかし、神様は言われました。

3:10 十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。

「これによって、わたしを試してみよ」…これは「わたしを信頼せよ」という呼びかけです。つまり、十分の一の献げ物とは、神様への信頼を意味しているのです。神様は、主に信頼する者たちのために、必ず、天の窓を開き、祝福を限りなく注いで下さるという信仰、それが十分の一の献げ物の意味なのです。

神様は、私たちがそのような信頼と信仰を神様に置いて生きることを願っておられます。そのとき、溢れるばかりの祝福が天から注がれる、それが神様の約束なのです。

3:11 また、わたしはあなたたちのために/食い荒らすいなごを滅ぼして/あなたたちの土地の作物が荒らされず/畑のぶどうが不作とならぬようにすると/万軍の主は言われる。
3:12 諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと/万軍の主は言われる。

あなたはこの約束を信じていますか。そして、神様に全幅の信頼を置いて生きていますか。

主の恵みと平安が豊かにありますように!
平塚修久

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マラキ書2章―神様を疲れさせる?

心がなごむバイブルメッセージ949



【マラキ書2章】
2:17 あなたたちは、自分の語る言葉によって/主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う/どのように疲れさせたのですか、と。…


人間の語る言葉が、天地を造られた神様を疲れさせるなんて、不思議な気がしませんか。人を愛する神様は、人間の一挙手一動をご覧になって、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、褒め称えたりして下さる方なのです。

では、いったいどんな言葉が、主を疲れさせていたのでしょうか?

2:17…あなたたちが/悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか/主は彼らを喜ばれるとか/裁きの神はどこにおられるのか、などと/言うことによってである。

悪を行う者が栄え、まじめに主に仕えて来た自分たちが苦労しているなんておかしいじゃないか! 神様の裁きなんてないのだ! 神様は悪を行う者を喜ばれるのだ、という人々の不満と不信の声が、主を疲れさせていたのです。

いや、声だけならまだましだったのかも知れません。彼らの根深い不満と不信は、すでに行動に現れていたのです。それは主に仕える祭司たちにまで及んでいました。本来ならば神の真理を教えて人々を罪から立ち返らせる役目を果たすべき祭司たちが、「道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせ」(8節)、「民のすべてに軽んじられる価値なき者」(9節)となってしまっていたのです。

そればかりではありません。主に仕える祭司を軽んじる民もまた、大きく道を踏みはずしていました。彼らは、経済的に有利な異邦人の娘をめとり、そのためにユダヤ人の妻を離縁することまでしていたのです。これは妻への裏切りであるとともに、夫婦の誓約をした神様に対する裏切りでもありました(10〜15節)。

周りの状況が自分の思うようにならないとき、人は、不平不満でいっぱいになって、神様の御心と公儀を疑い、自分の好き勝手な道を歩み始めるのではないでしょうか。その結果、生きる希望と意欲を失い、倦怠と自暴自棄の日々を送ることになってしまうのです。

自分の思いを優先させるとき、私たちは、神様の御前にへりくだることを忘れます。悲劇は、そこから生まれるのです。

2:16 わたしは離婚を憎むと/イスラエルの神、主は言われる。離婚する人は、不法でその上着を覆っていると/万軍の主は言われる。あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたたちは裏切ってはならない。

主の恵みと平安が豊かにありますように!
平塚修久

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マラキ書1章―神様の愛への不信

心がなごむバイブルメッセージ948



【マラキ書1章】
1:1 託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉。
1:2 わたしはあなたたちを愛してきたと/主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように愛を示してくださったのか、と。…


神殿再建後、久しい年月が流れていました。しかし、人々の生活は一向に良くならず、しだいに貧富の差も大きくなり、社会には不正や悪がはびこるようになっていました。そんな中、以前は熱心に主に仕えた人々の信仰もしだいに冷めて来つつあったのです。そして、彼らは神様に対し不信感や疑問を持つようになっていました。

神様が私たちを愛しているなんて本当だろうか?
もし神様が愛なら、どうしてこんなことばかり起こるのだろうか?
神様は私たちの願いをぜんぜんかなえてくれないじゃないか!

この疑問に対して与えられた神様の答えは、イスラエルへの選びの愛でした。
「エサウはヤコブの兄ではないかと/主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ。わたしは彼の山を荒廃させ/彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした。」(1:2〜3)

神様はイスラエルを愛し選ばれました。それゆえ、彼らをエジプトから救い出し、カナンの地で素晴らしい繁栄を与えられたのです。それは彼らが優秀だったからでも、努力したからでもありませんでした。それはただ神様の愛と恵みによる賜物だったのです。

しかし、人々は、状況が自分たちの思い通りにならないことにいら立ち、神様の愛を疑いました。そのため、なんと彼らは、神様の祭壇に汚れたパンや目のつぶれた動物、足が傷ついたり病気の動物を献げていたのです。なんという侮辱! なんという恩知らずでしょうか! その上、彼らは、「我々はどのようにして御名を軽んじましたか」(6節)と言って開き直りさえしたのです。

なんと煩わしいことか!献げさえすりゃいいんだろう!…これが彼らの信仰?でした。そして、自分たちが神様に対してしていることは棚上げにして、神様が自分たちにしてくれないことに不平・不満をぶつけていたのです。はたしてこれが信仰と言えるでしょうか?

信仰とは、神様の愛への心からの感謝であり、それゆえに神様に最高のものを進んで献げようとする愛であり、そして、神様の恵みへの全幅の信頼と従順なのです。

主の恵みと平安が豊かにありますように!
平塚修久

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ゼカリヤ書14章―「その日」を待ち望む

心がなごむバイブルメッセージ947



【ゼカリヤ書14章】
14:7 しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある。
14:8 その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。
14:9 主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。


ゼカリヤ書は、「その日」と呼ばれる勝利と希望の日を指し示して終わります。その日は、光に溢れる日であり、命の泉が湧き出る日であり、主が地上のすべてを治める王となられる日です。そんな主の日が、やがて必ずやって来ることを、ゼカリヤは確信をもって高らかに宣言したのです。

ゼカリヤの生きた時代のイスラエルは、かろうじて自治は認められていたものの、大国ペルシャの支配下に置かれた厳しい時代でした。いや、この時代に限らず、ダビデとソロモン後のイスラエルは、常に周りを大国に囲まれて、国家の安全が脅かされ、偶像崇拝の誘惑と影響を受け、信仰的・倫理的に低迷・退廃した時代を過して来たのです。そのため、「都は陥落し、家は略奪され、女たちは犯され、都の半ばは捕囚となって行く」(2節)ということさえ起きてしまったのです。

しかし、それでもイスラエルは地上から消え去ることはありませんでした。それは、「しかし、民の残りの者が/都から全く断たれることはない」(2節)と言われている人々が常に残されていたからです。

いったい彼らを支えていたものは何でしょうか? それは、ゼカリヤを始め多くの預言者たちが語っていた「その日」への希望が底力となって、人生を力強く導き支え続けていたのではないでしょうか。つまり、「民の残りの者」とは、どのような時にも「その日」が来ることを信じ続けた人々なのです。

「そのときは…夕べになっても光がある」(7節)と言われているように、「その日」を信じる者は、たとえ夕べの暗闇の中にあっても、希望の光を見失うことはありません。神様の約束への信仰が希望を湧き上がらせて、暗闇の時代を強く生き抜く力となるのです。

今、私たちはどうでしょうか。この複雑で困難な時代を真実に生き抜く力は昔も今も変わることはありません。主の御言葉への信頼、「その日」を信じる信仰から湧き上がる希望、それが私たちを現代の「民の残りの者」としてくれるに違いありません。

神様の恵みと平安が豊かにありますように!
平塚修久

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ゼカリヤ書13章―罪と汚れを洗い清める泉

心がなごむバイブルメッセージ946



【ゼカリヤ書13章】
13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。
13:2 その日が来る、と万軍の主は言われる。わたしは数々の偶像の名をこの地から取り除く。その名が再び唱えられることはない。また預言者たちをも、汚れた霊をも、わたしはこの地から追い払う。


前章に続き、「その日」と呼ばれる終末におけるイスラエルの救いと勝利の預言が語られています。「罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる」とは、キリスト・イエスの十字架の御業によって、救いの道すなわち罪の赦しと永遠の命の道が開かれたことを指して言われた預言です。

こんこんと湧き出る泉が、どのような濁りや汚れもきれいに洗い流してしまうように、主イエス様の十字架は、どのような罪も汚れも赦し清めて、信じる者を永遠の命に生きる者として下さるのです。

そればかりではありません。キリストの十字架の勝利は、私たちを赦し清めるだけでなく、人間を罪と汚れに陥れる偶像を取り除き、また偽預言者や悪霊たちを追い払ってくれるものであることが預言されています。

しかし、ここで私たちが心しておくべきことが語られています。

13:4 その日、預言者たちは皆、預言をしても自分の幻のゆえに恥を受け、欺くための毛皮の外套を着るのをやめ、
13:5 「わたしは預言者ではない、土を耕す者だ。わたしは若いときから土地を所有している」と言う。
13:6 また、「あなたの胸にあるこの傷はどうしたのか」と問われると、「それは友人の家で受けたものだ」と答えるであろう。

これは、現代の偽預言者たちは、すぐにそれと分かる様相をしているのではなく、ごく普通の姿形で私たちの周りに存在しているということが警告されているのではないでしょうか。

人の目にはいかにも善いもののように見えるものがあります。しかし、それが私たちを神様から引き離し、罪と汚れと絶望に陥れるものとなることがあるのです。それが私たちに神様への信頼と従順をもたらすものとなるかどうか、きちんと見分ける目と心が大切ではないでしょうか。

神様の恵みと平安が豊かにありますように!
平塚修久

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