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一方そのころ、我が日本はどんな姿だったのか?

漢書 卷二十八下 地理志第八下 燕地条

然東夷天性柔順 異於三方之外 
故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫 
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云

後漢書 列傳 卷八十五 東夷列傳

倭在 韓東南 大海中、依山島為居、凡百餘國。
自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、
國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。

倭は韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為り、およそ百余国あり。
武帝の朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳を通ずる者、三十ばかりの国ありて、
国ごとに皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺国に居す。


大陸に点在した国々は、郡県制以後、県として皇帝直属の都市となりましたが、その東端が楽浪郡であり、そこから先はまだ皇帝に属さない交易都市が展開していました。
すなわち、正史に記されるところの「国」です。
都から最果てに位置する郡には、その先の異民族の国々との折衝窓口の任務が兼任されていました。

詳しいことは不明ながら、楽浪郡には、二千年以上前の時点で「倭人」の「国」が百余国と伝えられていたのです。
内三十国の使者は、直接楽浪郡へ行っていました。それらの国々の長がみな「王」と自称したということは、いかに皇帝経済が日本列島まで影響を与えていたかを示す証拠です。
「王」が「国」のボスであるという呼称は中国語だからです。岡田英弘氏は日本側の国々も華僑が開いた、と言っていますが、実際三十国のうちいくつかはそうなのかもしれません。
国々の長たちは、その呼称を真似たのでしょう。今も昔も日本人は外来語が大好きです。
それまでは自分を「社長」と呼ばせていた企業のトップが「C・E・O」と名乗り始めるようなものです。

そして、倭国(倭人の国々)の王の上に君臨する「大倭王」は「邪馬臺國」に住まいする、と。

秦以前において「国」は「城郭都市」で「中国」は「首都」でした。
秦漢において「城郭都市」は「県」となり、また「国」は「邦」に代わって都市を包括する広域を指す言葉となり、「中国」は「中原」と同義となりました。

郡県制の下に属さない日本側は「国」は「国」のままで「交易都市」のことであり、その「首都を表す言葉」も「“国”を包括する広域」を示す言葉もなく、中国史書ではみな同じく「国」と表記されました。
中国国内とは事情の違う他民族の政治形態を表す中国語などありませんから当然のことです。
たとえば、彼らが倭人の都のことを「倭の中国」と書くわけありませんよね。
「お前ら倭人の大倭王は“どこ”に住んでいるあるか?」「ヤマトです」→「ヤマト国」
「ヤマトはどこにあるか?」「イナです」→「イナ国」という調子です。

これが「邪馬臺國」を分かりづらくする要因の一つとなりました。


建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。
倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見。

建武中元二年(57年)、倭奴国(の使者が)貢を捧げて朝賀した。
使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。

安帝の永初元年(107年)、
倭国王の帥升ら、奴隷百六十人を献じ、
願いて見えんことを請う。


「倭奴国」を「わのなこく」と読むのが一般的なようですが、根拠がありません。
後漢書の記載順から言えば、

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 
國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國

が先(書き出し)であり、また、そもそもが「東夷伝」「倭」の記事なのですから、「倭の」◯国などと書かなくても、どこの話をしているのかは最初からわかっています。
この後、地誌が延々と続き、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀」と、続くのですから、いまさら「“倭の”奴國」などと断りを入れる必要などかけらも無いのです。

従って「倭奴」を国名と考えるのが当然です。
「倭奴国」と他の史書の「奴国」を、どうしても同一国だと解釈したい人が「わの“なこく”」と読むことに固執するのでしょう。

そして、後漢書の「倭奴国」と次に出てくる「倭国」は意味が違います。
「倭奴国」は、このように一国の固有名詞です。次の「倭国」は「倭の国々」という意味です。
正史の漢文に「国」と「国々」の単数形複数形の書きわけがないことは、繰り返し見てきました。前後の文脈で判断するのです。
前漢に接触していた倭の国が30余国、という話なのですから、その中で一番南に位置するのが倭奴国、という説明なのです。

後漢書において「邪馬臺国」と「倭奴國」と帥升(あるいは帥升等)が王であるところの「倭国」との区別は明確ではありません。
はっきりしているのは「邪馬臺國に居するのが大倭王」であるということだけです。
仮に全部が一緒だった場合、倭奴國の都が邪馬臺であり、その何代目かの王が帥升、ということになります。


『隋書』倭国伝

倭國 在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王 
夷人不知里數 但計以日
其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也

邪靡堆に都す 魏志謂うところの邪馬臺なるもの也

「邪馬臺國」とは「国」と表記されているが、実態は「都」「首都名」なのです。
倭の国々の王の上に君臨する大倭王の国が「倭奴國」であり、その大倭王が都する「倭奴國の首都」が「邪馬臺」であるという解釈が可能なのです。
旧唐書における「倭國者、古倭奴國也」の「倭奴國」は、その地理や「置一大率 檢察諸國 皆畏附之」などの特徴から見ても、魏志倭人伝での「邪馬臺國」のことと理解できるからです。


日本の歴史において「大和」と「倭」の関係性は不明のままです。
これが全くの同一地域を言うのなら、邪馬台国畿内説の人々には大歓迎されるのですが、誰がどう見てもその特徴が一致しません。
そこで、国史に関心が沸き起こった江戸時代に、大和以外のヤマト地名を探して邪馬臺探しがなされたりしたのです。

阿波古代史においては、魏志倭人伝上の「邪馬臺國」、すなわち卑弥呼の都は「神山町」であるという主張が強いのはご存じの方はご存知(そりゃそうだ)かと思います。
八倉比売神社の鎮座する徳島市国府町だという人もいます。

拙ブログでは、最近、『隋書』の記述から見て、「邪靡堆」は「吉野川河口付近」と断定?しました。
「付近」とは、せいぜいそこから日帰りで行って戻れる距離(目的の行事時間を含めて)という意味です。
仁徳天皇の記事では、天皇が淡路島で詠まれた歌の景色からみて、そこに詠まれる「我が国」(つまり倭のこと)は、最低でも香川県を含む東四国海岸部の範囲であると書きました。

また、式内社「倭大国魂神社」の鎮座や、古事記での大国主命の物語の解読から、「倭」は吉野川上流である「旧美馬郡」とする主張もなされており、もちろん私もそう結論しています。

「それではヤマトの位置は阿波説内においてもばらばらではないか?」「都合が良すぎるのではないか?」と言われそうです。

そのようなことはありません。誰であっても、古事記を一読すればすぐわかるでしょう。

 ヤマトは移動する からです。


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平安京以来、都に御所が置かれ、東京には皇居が置かれ、天皇が代替わりしても都は移動しませんが、それ以前は神代の昔から(少なくとも天孫降臨以後)オオキミが変わるたびにその宮都は移動していたのです。
皇居のある場所をヤマトと呼ぶのです。

たとえば、神武天皇はヤマトにはいなかったのです。
ヤマトにいた王は邇藝速日命です。
すなわち、高天原からの正統な王位継承者は邇藝速日命だったことが、その「地名」から判明します。

現在のように法律で皇位継承順位が決まっていたわけではありません。大王の血を引く男系男子にはみな等しくその最低限の資格があったのです。
現在の皇室典範では、天皇が崩御されないかぎり皇太子が天皇に即位することはありません。
ところが昔日においては譲位は普通のことだったのです。

邇藝速日命がの王だったということは、先代の大王から正式に譲位を受けたという事実を示します。
邇藝速日命が倭の地を選んで宮を建てたのではなく、邇藝速日命が宮都としたから、その地が倭と呼ばれたのです。
伊波礼琵古命は那賀須泥毘古との戦いを経て、その邇藝速日命から大王位を譲位され、初めて高天原と下界「ヤマト()とナカ(那賀)=葦原中国」の統一王となり初代天皇を名乗ったのです。
高天原から王権が天下った後、このときまで第一次南北朝時代だったということです。


邇藝速日命のヤマトは大国主命の物語に登場するヤマトと同じです。
阿波古事記研究会がいうように、大国主命が高志(板野郡)の沼河比売に求婚した際、近くの海岸部にいた正妻の須勢理毘売命をなだめるために詠んだ歌に

「出雲より倭国に上りまさむとして束装し立たす時」

とあるからです。この一行で「高志」を中心に当時の「倭」と「出雲」の位置関係が判明します。


本来のヤマトは移動するのが慣例だったのです。
私は式年遷宮の原点もそこにあると考えています。
神宮を遷宮することを代わりとすることで、都を固定させたのでしょう。
同時に地名を移すこともやめ、奈良大和は最後のヤマトになったのです。



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上古の日本の姿を知りたいと思った時、まず史料とすべきものは8世紀の記紀となりますが、当然それらが編纂された時代以前の歴史は、各氏族間に何世紀も語り継がれた神話や伝承となります。
もっとリアリティのある史料を求めると、中国史料を参考にするほかないのです。

その中でも、いわゆる魏志倭人伝は、つとに有名ですが、これは『三国志』の「魏書」の「東夷伝」の中の「倭人」条で、文字数では三国志全体の0.5パーセントにしか過ぎないのです。
したがって、歴“史”研究の基礎である「史料批判」のためには、三国志全体の中で倭人伝がどのような位置づけなのか?陳寿の人物像や学問、中国や中国正史や皇帝制度に対する知識など、幅広い視点が必要なのですが、それらは殆どの場合スルーされ、内容に対する無批判を前提とした解釈合戦が繰り返されています。
そのそもそもの勘違いの元が「正史」という言葉の響きによるものです。

たとえば、中華人民共和国外交部長の王毅氏などは、昔からそのふてぶてしい態度と発言で日本人をはじめ関係国をムカつかせてきましたが、それは彼の人格や能力のせいではありません。(たぶん)
彼が内面どんなことを思いどんな知見を持っているか、というようなこととは関係なく、あのような振る舞いをするからこそ(もちろんほんの一要素ですが)彼の国で長らくあのポジションを独占していられるわけです。
中国にとって「何が正しいか」は、それが「中国にとって正しいかどうか」であって、視線は常に内向きなのです。つまり、中国共産党に、その思想・能力・言動がどう評価されるか、が全てで、相手国・他国の反応は関係ないということです。

実は中国正史も同じことで、史実を後世に(元より他国になど)伝える目的で当時の正確な情報を記録した歴史書、などではありません。
「正史」の意味が「正しい歴史」「中国王朝がその内容を正確であると認定した史書」であると勝手な勘違いをしている人が未だに多いのです。

「正史」とは、「中国正統を記した書」であり、ざっくばらんに言えば「その史書を記す人物が、自分が仕える皇帝が本物の天子である」ことを、あらゆる角度から説明した書物であり、それが唯一最大の主旨なのです。
そのために必要ならば、当然、話を盛ってでも書くし、都合の悪いことは隠すのです。もちろん数字も操作します。

『史記』は「中国は黄帝以来、中国人の天下であり、常に正当の帝王によって統治されてきた」という歴史観で書かれています。
この『史記』が初の正史となったために、後々の中国人の歴史観も同じものとなりました。

中国の「正史」は「天下は皇帝のもとに不変のもの」という中国皇帝の正統を述べるものです。
まずは神話時代において、黄帝以来の五帝が天子となり天下を統治した、という「正統の観念」が作られました。
この歴史観では、どの時代にも「天命を受けた天子が必ず一人いいて、天下を統治する権利を持つ」とされ、五帝の時代は「禅譲」によって天子から次の天子へその「正統」がえられました。
これを「伝統」といいます。

夏・殷・周・秦の時代になり、天子の位は「放伐」(ほうばつ)によって「敗者から奪われ勝者に与えられるもの」となります。
この「天命を取り去りめる」ことを「革命」といいます。

早い話が「何でもあり」で、日本人からすれば「天命とは何ぞや?」という感じですが、司馬遷にしてみれば、そういうレトリックを使う以外に手はなかったのです。
何故なら、自分が仕える漢朝は、成り上がりの高祖によって開かれているのですから「実力でトップに上りつめた者に後から天命が下る」と「正統」を規定するのは当然です。つまり中国においては「革命」こそが「天命」だということができます。

司馬遷は、自分の仕える漢と武帝が、人間の住む世界を支配するに正しき王朝と王であることを説くために、神話から実在の皇帝に至るまでの「正統の歴史を正当化」する作業を文字上で行ったのです。
後に書かれた正史は、その記述法だけでなく、記述の目的も同じであり、例えば三国志を書いた陳寿は、自分が仕える西晋の皇帝・司馬炎が、いかに正しい統治者(天子)であるかを書くために、三国時代においては「魏」こそが正しい中国であり、その重臣・司馬懿が魏で最も秀でた人物だったことを特筆大書したわけです。
その司馬懿の功績を称えるクライマックスが卑弥呼朝貢の記事なのですから、魏志倭人伝は陳寿の政治的配慮を差し引いて読まなければいけないのです。

中国正史というものは、このように限りなく自己中心的で、不正確な記述もを含む政治色の強い書物なのでした。現在では「中華人民共和国」のおかげ?で「中国」というものに対する日本人の幻想は限りなく消えつつありますが、つい最近までは中国の歴史や文化に対する根強い羨望を多くの日本人が抱いていました。


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ところで、過去記事の中で、中国正史に記される「国」の意味について、あれこれ書いたのですが、これには納得のいかない人も多いのではないか?と、今更ながら気付きました。
何故か?というと、いくら「国」が「都市」や「村」のことだと説明したところで、「あの陳寿が書いた正史のタイトルは『三国志』じゃないか!」思うのが普通だわな、と思い至ったわけです。
つまり、『三国志』は「魏」「呉」「蜀」を「国」と表現しているではないか!ということです。
この点は中国史の専門家も誰も指摘しない(というか魏・呉・蜀だから三国なんでしょ、で思考停止か?)ので、私の意見を述べておくことにします。

たとえば、「魏呉蜀」で画像検索すると、だいたいこんな画像がずらっとヒットします。


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このような地図のほか、魏呉蜀の境界の曖昧な地図も多数ヒットしますが、一体どちらが正しいのでしょうか?境界線をリアルに描いている地図というのは、現在の研究によって想定されている当時の「州」の範囲を基準にしているのです。でも、漢〜三国時代において、このような現代地図の如きくっきりとした境界線が引かれていたのでしょうか?甚だ疑問です。

現代人は現代の常識に従って、古代を理解しようとします。
その常識とは、たとえば、国家とは「領土国家」「国民(民族)国家」であると信じて疑わないというものです。
簡単に言えば、A国というものを考えるとき、まずその境界線(国境)を想定・規定し、その内側がA国で、その範囲内に住む人々をA国人だと考えるのです。

たとえば、中国正史の本を見ていても、原文には「◯◯県と◯県は◯◯郡に属す」とだけ書いてあるのに、その現代語訳では「◯◯県と◯県の“土地は”は◯◯郡に属す」と、勝手に内容が変えられていたりします。
つまり、「行政単位」「組織構成」の話が「行政区域」「領土構成」の話になっているわけです。(現代人には「県」を見ても「郡」を見ても「区域」としか映らないのです)

この現在では当たり前に思える領土国家の概念は、古代には世界のどこにも存在しませんでした。

※国民国家(Wikipedia)

国民国家とは、国家内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「国民」)として統合することによって成り立つ国家。
領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、単一の民族がそのまま主権国家として成立する国家概念やそれを成り立たせるイデオロギーをも指している。
ヨーロッパは一般に「国民国家」成立のモデル地域とされており、その先進国とされるのがイギリス、フランスであった。さらに「国民国家」とは、確定した領土をもち、国民を主権者とする国家体制およびその概念を指すことがある。

※国民国家(世界史の窓)

ほぼ近代国家は国民国家に該当する。英語では、nation state という。
16〜17世紀の西ヨーロッパに成立した「主権国家」は、主権が国王に集中し、絶対王政という政治体制をとっており、「国民」の実態とまとまりはまだなかった。
ところが、18世紀の主権国家間の抗争(七年戦争など)を経て絶対王政が動揺し、アメリカ独立革命とフランス革命という「市民革命」が起こって国家主権を国民が持つという意識が生まれた。
そして一定の国境の中に居住する人々を国民としてとらえ、「主権、国民、国境」という「国家の三要素」を持つ国家が次第に形成されていった。

ウィーン体制の時期は一時絶対王政が復活したが、1848年革命の前後にフランス・イギリスは、憲法と議会を持ち、国民が主権者である国家を形成させた(フランスは第2帝政となるがそれも国民が選出する皇帝であった)。
また民族の分裂と他民族支配を乗り越えて国民国家を建設しようとするナショナリズム(国民主義)の運動が起こり、ドイツ、イタリアはともに19世紀後半に統一を成し遂げ、国民国家を形成させる。
西ヨーロッパでは19世紀までに国民国家が形成されたが、東ヨーロッパにおいては20世紀前半の第1次世界大戦後がその時期に当たり、アジアでは日本などは19世紀に曲がりなりにも国民国家を形成させたが、多くは植民地か半植民地状態にあったため、20世紀後半の第2次世界大戦後に国民国家となっていく。

※領域 (国家)(Wikipedia)

「領域」は、広義には社会・経済地理学のタームで、絶対空間の無限の広がりを有界化してできた、空間の一片のことを指す。
この領域は経済・社会の主体の容器となり、内部ではその主体相互間に均質化の作用が及び、領域ごとに異質化された経済・社会空間が出来上がる。
狭義には、国家の主権(統治権)が及ぶ空間的領域のことを指し、領土、その周りの水域(領水、海の場合は領海)及びそれらの上空(領空)から構成される。


「領域」という概念も、上のように「空」「海」を「土地の延長」として捉えることで生まれたものですから「領土」が基本になります。

古代王朝の事を考えるときにも、まずその「外枠」(国境)を求めることから始め、その中を領土と考え、次にそこに在る都市や人々へ目を向ける、というパターンになるのです。
ところが上古の実態はその逆で、まず「」となる人間や都市があり、その力の増大にともなって影響力の及ぶ範囲が外に向かって広がってゆくのです。


歴史上の推定人口は、日本の場合、天下泰平の世が続いた江戸時代でも約三千万人、3世紀ころは約五十万人とされています。
卑弥呼がまだ女王に即位して間もない西暦200年ころは、たとえば、四国全体では人口約3万人と推測されています。(鬼頭宏)
徳島の田舎である私の住む市は、人口約30,000人ですから、当時は四国全体で現在の田舎の一市程度の人間しかいなかったわけです。この想定人口には疑問を持つ人もいるでしょうが、だからといって10倍にも20倍にもはなりません。早い話が土地は人口比で見てスカスカだったのです。
平均的満遍に人が住むわけはなく、一部を除いては集落を形成していたでしょうから、集落と集落の間のフリーゾーンのほうが圧倒的な広さになります。

中国大陸も同じで、紀元前からBC1000年ころまでは、戦争や飢饉で人口が半減したり十分の一になったりを繰り返しながら、人口はずっと上限5〜6000万人くらいです。
江戸時代の日本列島3000万人でもかなり少ないと感じるでしょうが、あの広大な大陸に5000万人、という状態がどんな様子か想像してください。
しかも、後漢末,桓帝の永寿3年(157年)に、5648万人だったの人口は、後漢の衰退・黄巾の乱などの戦乱を経て、三国時代には、たったの818万人に激減しました。

魏・呉・蜀は、人手不足を補うため、それぞれ外地で人間狩りを行っています。
当時、国家というもの自体がありませんが、領土意識などもっとありません。
領土は人が支配してこそ領土なのですが、その“人”が少なすぎるのです。
私が中学時代に読んだある本で紹介されていたエピソードに、南米某国の田舎で土地を購入しようとした男性の話があり、その購入価格は“ここからここまで”という「横幅」で決まり、「奥行き」の幅は購入者の意志で自由に選べた、というものがあったのを思い出します。

日本では、戦国時代の国盗り合戦など、歴史的にも領土意識が強かったというイメージがありますが、それは、日本の場合、国力が「石高」という米の生産量で決まっていたからです。
領地が広いほど米がたくさん取れる、というのが日本の国力の経済原理でしたが、古代においては、日本も中国もそうではありません。

では、何があったのか?
それが「国(こく)」(経済都市)なのです。


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経済活動の主役は「交易」で、中国の「国」とは交易市場を核とした「都市」のことであり、その「都市ネットワーク」を制することが「中国を制する」ということでした。
農業が経済の主役ならば、耕作地(領土)の広さが経済力の決め手となりますが、交易の場合は、その都市の「立地」こそが重要な要素です。
中国大陸においては、古代から「中原を制するものが天下を制する」のも、そのためです。

中国人たちは、交易に適した場所を選んで「国」を造っていきました。
だからこそ、大陸の中で最も交易に適した黄河中下流域に「国」や王朝の「都」が集中したのです。

『三国志』「魏書」東夷伝・倭人条に、「依山㠀爲國邑」山島に依りて国邑(こくゆう)を為す、とありますが、この「国邑」とは「国」や「邑」という意味で、共に中国では「城郭都市」のことです。
『旧唐書』に、倭「国」の特徴として、「其國居無城郭」其の國、居るに城郭無し、と、わざわざ記すように、中国では「国」が「城壁で囲まれている」のが当たり前で、「倭の国々にはそれがないよ。マジか倭人!」と言っているのです。
何故ならは、中国では国邑を城壁で囲まなければ異民族から略奪の目に合うというのが普通のことだったからです。

邑(Wikipedia)

殷代から春秋時代にかけては、邑(ゆう)と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。
殷代、東周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。
戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。
邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。
そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集の経済を営む非定住の部族が生活していた。
彼らは「夷」と呼ばれ、しばしば邑を襲撃し、略奪を行った。そのために存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に併合された。
さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。 
大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展のために、大邑はその領域を拡大してゆく。 
こうして、春秋末から戦国にかけて、中国の国の形態は、都市国家から領土国家へと発展していった。


ここでも、「領域を拡大」「都市国家から領土国家へと発展」とありますが、それはもっと後の時代のことでしょう。何故なら、その後、秦の始皇帝が統一したのは中国の「領土」ではなく、中原に点在した「国々」(複数の城郭都市)だからです。

中原(Wikipedia)

中原(ちゅうげん)は中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のこと。
狭義では春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河中下流域を指すようになり、河南省を中心として山東省の西部から、河北省・山西省の南部、陝西省の東部にわたる華北平原を指すようにもなった。
古代でいわゆる「中国」や「中州」と同義で、異民族から隔てられる文明の中心地という意味があった。
その後、南方へと発展していった漢民族にとって中原は民族の発祥の地とされてきた。

秦漢(Wikipedia)

秦漢(しんかん)とは、古代中国に成立した秦・漢2つの王朝を合わせた呼称。
夏・殷・周と言った古代中国の王朝は実態としては黄河流域にあった「中原」の一部地域を支配する国家であった。
これに対して、秦の始皇帝中原にある六国の制圧を果たして漢民族の領域を統一して初めて皇帝を頂点とする中央集権国家を樹立した。
秦は始皇帝の死後、わずかな期間で滅んだものの、楚漢戦争において勝利した劉邦が統一を回復して漢を建国した。
秦と漢の国家体制には違いも存在するものの、皇帝を頂点とする中央集権国家という国家の根幹を引き継ぎ、そのために必要な法制・財政・政策などは秦のものを踏襲した。


ここでも「六国の制圧を果たして漢民族の領域を統一」とありますが、始皇帝が制圧したのは六つの「国」(城郭都市)であって、六つの「国土」ではありません。

国の本字「」は、□(くにがまえ)の中に「或」であり、□は城壁を表し、内側の或(コク)の「戈」は矛で武力「一」は土地「口」は領土を意味し、字義は「武器を持って城壁(の内側)を守る」です。

では「国」と「中国」は、中国の古典でどう定義づけられているのか?を見てみます。

紀元前4世紀、『孟子』の万章(ばんしょう)下篇に「国(こく)にあるものを市井之臣(しせいのしん)という」とあり、その注釈は「国とは都邑(とゆう)をいうのである」と、いっています。
また、『礼記』(らいき・儒教五経の一つ)礼運編には「国には学(学校)がある」その注釈に「国とは、天子の都(みやこ)するところをいう」と、あります。
紀元前6世紀末、孔子、『詩経』の「大雅」生民之什(せいみんのじゅう)に「この中国を恵(いつくし)み、もって四方を綏(やす)んず」の詩があり、その注釈は「中国とは京師(首都)である」としています。

このように、もともとの「国」は「みやこ」「都城」=「城郭都市」であり、「中国」は、その城郭都市群の中心である「首都」であり、元々の両者の定義には明快な区別もなかったようです。
始皇帝が「初めて中国を統一」と巷間言われ、まるで「中国国土を領土として」統一したかのように思われていますが、その実態は、全ての城郭都市群を一人の支配下においた、というものです。
ただし、都市と都市の間の広大な土地はフリーゾーン(化外の地)ですから、都市間を結ぶ道路なども勝手に作ることができました。
つまり、領土という「」を繋いで支配したのではなく、「国」とそれらをつなぐ「交通網」という「」と「」を支配したのです。

「国」の城門は、日の出とともに開けられ日の入りとともに閉められました。中では市場を中心にあらゆる経済活動が行われ、そこの住民には戸籍が有りました。
言い換えれば、塀の内側だけが中国でそこに住む者だけが中国人だったのです。塀の外は蛮夷の住む化外の地です。
その意味で、岡田英弘は元々の「中国人」とは民族ではなく「文化上の概念」だと指摘します。

前漢の時代には、「国」や「中国」は、もっと広域の意味に使われ始めていました。


に書いたように、前漢の高祖「劉邦」に対する避諱(ひき)をきっかけとし「国」は都市を含むもっと広域を指す言葉となります。この時代には、いったん郡国制が施行されます。
また、7代皇帝・武帝のとき、司馬遷の『史記』は「中国」をこう記しています。

「孝武本紀」に、

天下名山八,而三在蠻夷,五在中國。
中國華山、首山、太室、泰山、東萊,此五山黃帝之所常遊,與神會

天下の名山は八つであり、その内三つは蠻夷に在るが、五つは中國に在る
中國の華山、首山、太室、泰山、東萊がそれであり、この五山は黃帝が常に遊び、神と會した所である

天下(人間が住む世界)を「中国」と「蛮夷」に二分し、この五山のある範囲が「中国」であると書いています。その山の位置から判断すれば、「中国」とは、まさに、上の「中原」と呼ばれるエリアに重なる首都長安を中心とした黄河中下流域のことだとわかるのです。

また、「儒教」の世界観では「中国」(天子の支配が直接に及ぶ範囲)は「方一万里」とされていました。
初期(前漢)の『礼記』では、九州(中国)は方三千里とされていましたが、皇帝の支配する都市の所在範囲が広がるに連れ、実情に合わなくなり、前漢を簒奪した王莽(おうもう)は、「古文尚書」の方一万里説を採用するに至りました。

「方一万里」とは「一辺が一万里」の正方形の世界であり、中心となる帝都からはそれぞれの境界まで五千里ということです。「国」が四角の城郭都市だから、そこから四方へ広がった皇帝支配の及ぶ世界「中国」もまた四角形なのです。

後漢書では、洛陽から西の端である敦煌まで五千里とされ、東北の端に当たる楽浪郡やそれより南方の帯方郡も同じく五千里と記されます。
正方形の世界ですから中心から境界までの距離は一定ではありませんが、計測したわけではなく儒教の理念を根拠としますから細かいことはどうでもいいのです。

このような宗教的世界観による中国という「領域」の理念と、現代人が勘違いしやすい「国」という漢字の使用が合わさって、古代中国大陸における王朝の「領土」解釈に混乱をきたしているのです。
そこで、勘違いを取り払うためには、もう一度「国」の意味を見つめなおす必要があります。


『日本史の誕生』岡田英弘

ここで、郡県制度の本質を説明しよう。封建でないのが郡県で、郡県でないのが封建だなどと、無知なことを言ってはいけない。
「県」は皇帝の直轄都市の意味だが、自然発生的な集落なんかではない。
帝都から送り込まれた軍隊が貿易ルート上の用地で商品の集散地、つまり定期市の立つところを占領して地ならしをし、東西、南北に井桁状に整然たる道路を作り、ブロックごとに木戸をつけ、全体を堅固な城壁で囲む。
場内は全体が常設市場なので、中に入って取引をしようという原住民は、まずこの市場の組員にならなければいけない。
これが「民」というもので、名前を市場の事務所、つまり県庁に登録するとこの資格がもらえるが、「民」たるものは、組合長たる皇帝に対して一定の義務を負う。
組合費として「租」を納めること、市場の設備の維持や修理のために労働力を提供すること、および非組合員の原住民、すなわち「夷」に対して組合員の特権を守るため、自警団に出ること、つまり兵役に服することなどが、そうした義務である。

こうした県の性質は、今の人民公社と全く同じもので、また西部劇に見るアメリカ開拓時代のインディアン砦にもそっくりである。
県が蛮地に建設された中国人開拓者の橋頭堡であるという性格は、いつまでも根づよく残ったので、二十世紀になってもまだ、県の城門の厚い鉄の扉は、日没とともに閉じられ、夜間の外出は重く処罰されることになっていた。
県城の周辺に住んでいたのは、すでに「民」になっていた原住民で、かれらは市場に入って、遠方からきた商人たちと取引するのに、自分たちの土語は通じないから、しぜん帝都の言語を簡単化して、土語の単語とまぜ、一種のピジン中国語(ピジンとは、英語に中国語・マレー語・ポルトガル語をまぜた混合語で、港町で商取引に用いられる)をつくりだした。
これが、今のシナ語の方言の起源である。米軍占領下の日本で発生したパングリッシュ(和製英語)を思いだしてみるがよい。まず、あんなものである。

こうしてシナ語は、市場での取引き用の簡便なことばとしてアジア中に広まり、これを話さない民族はなかった。
もちろん日本人の祖先たちもシナ語を公用語として、隣りの部落と交渉したので、ちょうど今の日本人と韓国人が英語で話しあうようなものであった。
「倭人伝」ではないが、「魏史東夷伝」の他の部分に、韓半島の原住民の言語としてあげてあることばが全部漢語なのは、こうした状態を示している。

「郡」は軍管区の意味で、郡の「太守」はその司令官であり、行政官ではない。
県と県の間の土地には、まだ皇帝組合に加入しない「夷」がいくらでもいるから、それから「民」を保護するのは、郡の太守の重要な任務である。


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秦の始皇帝の凄いところは「郡県制」を完成させ、36の郡を置き中央集権体制を確立させた点です。
「県」は「直轄」という意味で、それまで「国」と呼ばれていたこれらの都市が「県」になったのです。
そして、その上にいくつかの県を監督させる「郡」を置きました。

漢の時代には、この郡の上に13の「州」が置かれました。
ここでも現代人は「いくつかの郡をまとめた州という領域」だと思ってしまうのですが、当初の「州」は行政単位の名称のようなもので、州の刺史(しし)とは郡の監察官であり、特定の治所さえ持たずに担当郡を巡察していたのです。
「県・市(郡)・町」という現代日本の行政区域のようなイメージで、「州・郡・県」を考えるのが間違いで、すべての基本は「県」なのです。
県を監督し守るために軍(郡)を置き、郡の監察組織として州を置いたのです。

監察官たる州「刺史」もまた軍人ですが、後には州長官を指す言葉となり、魏志倭人伝において伊都国の一大率を「刺史のごとくある」と記したのは、彼がそのくらいの大権を持っていたということです。

ちなみに、この「一大率」を「刺史」と比喩したこの記述により、邪馬臺國は少なくとも「九州にはなかった」ということが明確になります。
『後漢書』百官志・州郡条に

孝武帝初置刺史十三人 秩六百石 成帝更為牧 秩二千石 
建武十八年 複為刺史 十二人各主一州 其一州屬司隸校尉
諸州常以八月巡行所部郡國 錄囚徒 考殿最 初歲盡詣京都奏事

孝武帝、初めて刺史十三人を置く 秩は六百石なり 成帝、更(あらた)めて牧と為す 秩は二千石なり
建武十八年(42) 複(ま)た刺史と為す 十二人、各(おのおの)一州を主(つかさど)る 其の一州は司隸校尉に属す
諸州(の刺史)、常に八月を以って所部の郡國を巡行し、囚徒を録し、殿最を考う 初歲に盡く京都に詣りて奏事す

とあり、後漢13州のうち、12州には刺史を置き郡国を監察させましたが、1州だけは司隷校尉にその任を負わせたのです。
その1州とは、洛陽を含むいわゆる首都圏であり、司隷校尉は所部の郡国のみならず百官への監察権をも持つ別格の存在なのでした。
現在の日本に例えれば、首都東京だけが「都」で、各県警察(県警)が東京だけ「警視庁」と呼ばれるようなものです。

『魏志倭人伝の謎を解く』 渡邉義浩

このような司隷校尉と刺史との違いは、邪馬臺國への使者も、魚豢も陳寿も、常識として知っている。
したがって、邪馬臺國が九州にあるならば、首都圏に属する伊都国に治所を置く「大率」は、「倭国の内で(の権限は中国の)刺史のようで」はなく、「司隷校尉のような」権限を持つことになる。
伊都国に置かれた「大率」を「刺史」と表現したのは、伊都国が首都圏に属さないためである。
すなわち、邪馬臺國は九州にはないことが、文献解釈から証明できるのである。


「郡県制」「郡国制」を布いた中国王朝でしたが、皇帝に財をもたらすのは、州でも郡でもなく、県です。皇帝直轄の国(都市)を県と呼ぶのです。
(前漢にいったん施行された郡国制は第7代武帝の時廃止され郡県制が復活)
つまり、皇帝の「直轄」(直営)でない「国」は、郡県制に組み込まれないため「国」のままでした。
これが東方では、その境界である帯方郡や楽浪郡の先にある韓や倭の国々なのです。


陳寿は、三国時代、魏に滅ぼされた蜀の修史官でしたが、その実力を高く買われ、西晋に拾われました。陳寿を高く評価したのは、武帝(司馬炎)や、“人物”として名高い張華です。


西晋には、当然、陳寿の他にも史書を修める人物が複数いたでしょうが、文化人でもある夏侯湛(かこうたん)は、陳寿の三国志を見て衝撃を受け、自分の書き上げた史書をその場で破り捨てた、と云われます。
三国志は、それほど抜きん出た史書だったのです。

思うに、陳寿には実力だけでなく、非凡な才があったのでしょう。
その最たるものが「三国志」というタイトルの命名だと思います。

陳寿以外の史書執筆者は、おそらく全員、そのタイトルを「魏書」としたはずです。「呉」「蜀」は「魏の天子に反逆した存在」として描かれるだけです。

ところが、陳寿は、まるで対等の関係にあったがごとき「三国」という表題にし、魏書・呉書・蜀書に書き分けた。これはそれを初めて目にする人には驚き以外の何物でもありません。驚きどころか、怒り心頭に発したかもしれません。

紀元前、「国」「中国」は「城郭都市」「都城」を指していたが、始皇帝が施いた「郡県制度」以降「国」は「県」となった。
前漢から「邦」に取って代わり「国」は「県」をも含む「領域」を表す言葉になった。
また「郡国制度」によって中原に近い城郭都市(県)と遠方の城郭都市(国)の区別がなされたが、郡県制度の復活により、本来の意味である「国」は郡県制度の外にある蛮夷の都市だけを示す言葉となった。

これまで見てきたように、三国〜西晋の時代には「国」という字は、皇帝が支配するべき「天下」の内、「中国」の外「蛮夷の住む世界の都市」だけを指すものでした。
魏・呉・蜀といった王朝を、その「国」と呼ぶことなど、中華思想から見てもありえません。

なんでこんな当然のことを学者諸氏ですら誰一人指摘しないのか?
それは「そんなことはどこにも書いていない」からだと思います。井沢元彦氏が言うように史書というものは「アタリマエのことはわざわざ書かない」ということです。
「書く」というのは、何らかの(政治的など)理由があって、その趣旨に従って自身が述べたいことを書く。どうしても後世に語り継ぎたいことを書く。記録しなければ忘れ去られてしまうおそれがある(と考える)ことを書く。
といった理由があってのことであり、わざわざ記さなくても(当時の人にとっては)当たり前のことは説明の必要が無いから書かないのです。

いったい当時の中国人の誰が『三国志』の「国」を見て「城郭都市」だとか、「都市を含む一地域」だとか、現代人のように「国家」だとか思うでしょうか?

誰が見ても、これ(三国志)は、「三つの“中国の”物語」という意味なのです。「三(中)国志」です。

たとえば、近い時代に書かれた『華陽国志』(かようこくし)は、「華陽」の「地誌」で、この場合の「国」は都市を含む「地域」のこと。
陳寿が書いた『古国志』(現存せず)は、そのタイトルから見て、紀元前の『孟子』や『礼記』に記される原初の「国」を書いたものと推測されます。
何故なら、陳寿の学問のベースは儒教であり、師の譙周(しょうしゅう)は、司馬遷『史記』の、夏・殷・周以前の記述に疑問を持ち、中国の歴史の始まりを明らかにしようとした人物だからです。
陳寿の時代、「歴史」は「儒教」の一部であり、学問として独立していたわけではありません。文字が読める知識層の当時の必読書は、史記、漢書、儒教の経典です。
陳寿のいう「国」は、儒教の理念上の「国」であり、つまり「中国」なのです。


「三つの中国」ということは、同時代に「三人の天子がいた」という事実を指すこととなり、「天子は地上に一人だけ」という中国の世界観に反することとなります。
当然、魏の皇帝から禅譲を受けた西晋の天子の正統を否定する事にもなります。

同時代に三人の皇帝がいた、ということこそ「史実」なのですが、それを書くと陳寿は西晋で生きていけないのです。
三国志というタイトルを見た西晋の重臣たちは、当然、大半は元は魏の人々ですから、蜀出身の陳寿が血迷った史書を書いたと思ったに違いありません。

ところが、その怒りに震える手で三国志を読んでみると、皇帝の伝記である「本紀」を魏書だけに置くなど、見事に魏を正統中国として書き上げていることに驚くのです。
これは、今も昔も中国人が好んで使う「自分を高めるために他者の権威を利用する」または「自分を高めるために相手を(比較において)いったん持ち上げておいて落とす」という手法の典型かもしれません。
「三国」と書いておいて、実は「魏一国」が主役の歴史書。

他の修史官が、呉・蜀をどのように書いたかは分かりませんが、陳寿は、たとえば、自分の故国蜀漢の劉備や諸葛亮を非常に高く評しています。
敵を高く評価するほど、それに勝利した魏と司馬懿の声価をより高めることになるからです。陳寿とすれば自身の出身である蜀漢を悪くは書きたくないし、むしろ評価すればするほど司馬懿〜司馬炎の権威を高めるという一石二鳥のテクニックを活用したのです。
その非凡なセンスと構成力に、張華は「晋書はこの本の後に続けるべき」と称賛したのでしょう。



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又經十餘國 達於海岸

裴清が達した「海岸」とは一体どこか?

倭王遣小阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎

倭王の都の海岸です。

邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也

都とは、つまり、倭国の都である邪靡堆(やまと)の海岸です。


先に書いたように、この記録は日本書紀にも記されています。
※以下の日本書紀原文・訳文は こちら から引用させていただきました。
 

十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。
唐國號妹子臣曰蘇因高。
卽大唐使人裴世罅Σ宍匳銃鷽諭從妹子臣至於筑紫。
遣難波吉士雄成、召大唐客裴世翕。
爲唐客更造新館於難波高麗館之上。
六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、
是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。
於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、
百濟人探以掠取。是以不得上。」
於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」
則坐流刑。時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。

十六年の夏四月(608.04)、小野臣妹子、大唐より至る。
唐国、妹子臣を号けて蘇因高と曰ふ。

即ち大唐の使人裴世清、下客十二人、妹子臣に從ひて、筑紫に至る。
難波吉士雄成を遣して、大唐の客裴世清等を召す。
唐の客の爲に、更新しき館を難波の高麗館の上に造る。

六月の壬寅の朔丙辰(06.15)に、客等、難波津に泊れり。
是の日に、飾船三十艘を以て、客等を江口に、新しき館に安置らしむ。
是に、中臣宮地連烏磨呂、大河内直糠手、船史王平を以て掌客とす。

爰に妹子臣、奏して曰さく、
「臣、参還る時に、唐の帝、書を以て臣に授く。然るに百済国を経過る日に、
百済人、探りて掠み取る。是を以て上ること得ず」とまうす。
是に、群臣、議りて曰はく、「夫れ使たる人は死ると雖も、旨を失はず。是の使、何にぞ怠りて、大国の書を失ふや」といふ。
則ち流刑に坐す。時に天皇、勅して曰はく、
「妹子、書を失ふ罪有りと雖も、輙く罪すべからず。其の大国の客等聞かむこと、亦不良し」とのたまふ。乃ち赦して坐したまはず。


秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。
是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。
額田部連比羅夫、以告禮辭焉。
壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。時、阿倍鳥臣・物部依網連抱二人、爲客之導者也。
於是、大唐之國信物、置於庭中。時、使主裴世罅⊃道書兩度再拜、言上使旨而立之。
其書曰「皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、
思弘化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。
知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、達脩朝貢。
丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世翕、稍宣往意、幷送物如別。」
時、阿倍臣、出進以受其書而進行。大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。
事畢而退焉。是時、皇子諸王諸臣、悉以金髻花着頭、亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅。
一云、服色皆用冠色。丙辰、饗唐客等於朝。
九月辛未朔乙亥、饗客等於難波大郡。
辛巳、唐客裴世翦轎邸B復以小野妹子臣爲大使。

秋八月の辛丑の朔癸卯(08.03)に、唐の客、に入る。
是の日に、飾騎七十五匹を遺して、唐の客を海石榴市の術に迎ふ。
額田部連比羅夫、以て礼の辞を告す。

壬子(08.12)に、唐の客を朝庭に召して、使の旨を奏さしむ。時に阿倍鳥臣、物部依網連抱、二人を客の導者とす。
是に、大唐の国の信物を庭中に置く。時に使主裴世清、親ら書を持ちて、両度再拜みて、使の旨を言上して立つ。

其の書に曰く、「皇帝、倭皇を問ふ。使人長吏大礼蘇因高等、至でて懐を具にす。朕、宝命を欽び承けて、区宇に臨み仰ぐ。
徳化を弘めて、含霊に覃び被らしむことを思ふ。愛み育ふ情、遐く邇きに隔て無し。
皇、海表に介り居して、民庶を撫で寧みし、境内安樂にして、風俗融り和ひ、深き気至れる誠ありて、遠く朝貢ふことを脩つといふことを知りぬ。
丹款なる美を、朕嘉すること有り。稍に暄なり。比は常の如し。故、鴻臚寺の掌客裴世清等を遣して、稍に往く意を宣ぶ。并て物送りすこと別の如し」といふ。

時に阿倍臣、出で進みて、其の書を受けて進み行く。
大伴囓連、迎へ出でて書を承て、大門の前の机の上に置きて奏す。
事畢りて退づ。是の時に、皇子、諸王、諸臣、悉に金の髻花を以て頭に着せり。
亦衣服に皆錦、紫、繍、織、及び五色の綾羅を用ゐる。
【一に云はく、服の色は、皆冠の色を用ゐるといふ】。

丙辰(08.16)に、唐の客等をたまふ。
九月の辛未の朔乙亥(09.05)に、客等を難波の大郡にたまふ。
辛巳(09.11)に、唐の客裴世清、罷り帰りぬ。則ち復小野妹子臣を以て大使とす。


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余談ですが、この時の天皇は、女帝の推古天皇(在位593年〜628年)ですが、
隋書では、600年時点での倭王の名を「阿毎・多利思比孤・阿輩雞彌」で、妻は「雞彌」太子は「利歌彌多弗利」と書いています。
そのため、日本書紀の方がおかしい、創作である、という学者もいます。

しかし、何故絶対に隋書が正しいと断定できるのでしょうか?送った国書の内容から考えれば、倭国側も隋に対して情報操作していた可能性があります。
隋書と日本書紀を読み比べると、隋書には裴世清が謁見した天皇(性別の記述なし)が、煬帝を念頭にへりくだった挨拶をするシーンがありますが、日本書紀では、裴世清が一方的に煬帝の国書を奏上するだけです。

「裴世清、親ら書を持ちて、両度再拜みて、使の旨を言上」し、奏上が終わると「阿倍臣、出で進みて、其の書を受けて進み行く」で、天皇からは一言のお言葉も頂いておりません。推古天皇は御簾の中で顔さえも見せていないのではないでしょうか?
女帝であることを隠すためです。



ここで『隋書』と『日本書紀』を時系列的に並べてみます。

 ■ 『隋書』 □ 『日本書紀』


■度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國
  A【又至竹斯國】 又東B【至秦王國

百済を渡り、竹島に至り、南に𨈭羅国を望み、都斯麻国の遙か大海中に在るを經。
また東して一支国に至り、また【竹斯国に至り】、また東して【秦王国に至る】。

□A【裴世清、下客十二人、妹子臣に從ひて、筑紫に至る】(608年4月
□B【客等、難波津に泊れり】(608年6月15日


■又經十餘國 【達於海岸】 自竹斯國以東 皆附庸於倭
また十余国を経て、【海岸に達す】。竹斯国より東、みな倭に附庸す。

□秋八月の辛丑の朔癸卯に、唐の客、【京に入る】(608年8月3日


■倭王遣小【阿輩臺】 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎

倭王は、小【阿輩臺】を遣わし、【数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ】。

□是の日に、【飾騎七十五匹を遺して、唐の客を海石榴市の術に迎ふ】。
額田部連比羅夫】、以て礼の辞を告す。


■A【後十日】 又遣大禮B【哥多毗】 從二百餘騎C【郊勞

【後十日】、大禮の【哥多毗(かたひ)】を遣わし、二百余騎を従え【郊勞せしむ】。

□A【壬子(608年8月12日)】に、唐の客をC【朝庭に召して使の旨を奏さしむ】。

時にB【阿倍鳥臣、物部依網連抱】、二人を客の導者とす。


■既【至彼都】 其王與清【相見】 大

既にして【彼の都に至るに】、その王(倭王)、清(裴世清)と【相見て】、大いに悦びて曰く

□是に、大唐の国の信物を【庭中に置く】。時に使主裴世清、親ら書を持ちて、両度再【拜みて使の旨を言上】して立つ。


■「朝命既達 請即戒塗」於是【設宴享

「朝命は既に達せり、請う、即ち戒塗せよ」と。ここに於いて【設宴を享け】

□丙辰(608年8月16日)に、唐の客等を【朝に饗たまふ】。


■【以遣清復令使者隨清來貢方物】 

以って【清を遣わし復た使者をして清に随いて来たりて方物を貢せしむ】。

□九月の辛未の朔乙亥(608年9月5日)に、客等を難波の大郡に【饗たまふ】。
□辛巳(608年9月11日)に、【唐の客裴世清、罷り帰りぬ。則ち復小野妹子臣を以て大使とす】。


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ご覧のように、2書を並べることで、隋書だけでは分からなかったことが見えてきます。
まず、『日本書紀』では、我が国が裴世清一行を迎えた場所を「難波津」であると記しています。
上のように並べれば、それがあの「秦王国」だと分かるのです。

日本中、一般人から学者まで、日本書紀のこの部分を読んで「難波」は「大阪」と思い込み、まず全ての考察がそこからスタートします。
疑いもしません。それが大きな間違いなのです。

阿波古代史に興味のある方、このブログの読者の方はご承知の通り、古代、大阪に難波はありません
平安時代の『倭名類聚抄』の国名・郡名・郷名にも記載がありません。
これほどの歴史的地名が郷名にすらならないなどということはありえません。
つまり、もっと後の時代にコピーされて名乗り始めた地名です。

では、どこに「難波」があったのか?と言えば、調べればすぐ分かるように香川県にあります。現在の津田町一帯です。この地は、仁徳天皇の京都が置かれたあの難波であり、これは、そこから見た瀬戸内の景色を、島名入りで詠んだ天皇の歌によって証明されます。大坂からは見えない景色なのです。

では、裴世清一行は北九州を船出して讃岐へ入港したのか?
違います。実はもう一箇所(全国で2カ所)、四国に難波郷があるのです。
それは愛媛県です。




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古代の海岸線を復元(津としてちょうどよい入江になっていた事がわかる)

※以前はネット検索で全郷名を確認できるサイトがなかったので『倭名類聚抄』を買いましたが、現在こちらで確認できます。オススメ。


なぜ、2カ所の難波のうち、伊予国なのか?
風早郡難波郷は北九州の対岸であり、単純に小野妹子・裴世清一行の行程とマッチするからです。



隋書の記録では

秦王国に滞在後、十余国を経て、

ヤマトの海岸」に到着。

その10日後にヤマトの朝廷に呼ばれ、 

倭王に謁見したとあります。

日本書紀では、一行は遣隋使小野妹子とともに来日し、

6月15日、難波津に到着滞在、① 

8月3日になって、に入り、②

その10日後の8月12日、朝廷に呼んだ。

とあります。(数字は上の時系列の番号)

つまり、ヤマトの海岸到着」は「京師(の海岸)到着」であり、の「難波津」のことではない、ということです。


ほとんど全ての研究者は、この矛盾を無視しているのです。

つまり、「難波津」は隋書に記される「又經十餘國 達於海岸」の「海岸」ではないということ。
わかりやすく、日付のはっきりした動きだけを並べてみます。


 『隋書』 上 : 『日本書紀』 下

A
【又至竹斯國】             
【裴世清、筑紫に至る】(608年4月

B
【又東至秦王國
【客等、難波津に泊れり】(608年6月15日

C
【(京の)海岸に達す】
【唐の客、に入る】  (608年8月3日

D
後十日】、  【郊勞せしむ】(後十日。8月3日を含めば、8月12日
【八月十二日】 【朝庭に召して使の旨を奏さしむ】(608年8月12日


これだけ、隋書と日本書紀の動きが一致しているにも関わらず、みな、Bの「難波津」が、Cの「(ヤマトの)海岸」だと思い込んでいるのです。

Bの「難波津」が、Cの「海岸」のことだというなら、そこに(6月15日)〜(8月3日)、50日もの誤差が生まれます。
全体の動きが一致しているのに、それはありえません。

そこで、考えてみてください。常識(?)では、この難波津を大阪とするわけです。
その場合、

B、難波津に到着後、そのさらに50日後に達した、C,京(ヤマト)の海岸、ってどこですか?

すぐ近くの和歌山あたりの海ですか?奈良に海岸はありません。

※ちょっと検索したところ、ここで書いているような隋書の情報との照合は無視して、裴世清を迎えた「海柘榴市」を難波(大坂)から大和川を遡った奈良県内のどこか、と解釈して納得しているようです隋書に照らした場合、裴世清は、川の上流を海岸と勘違いするほどの抜け作だったということになります


隋書』『日本書紀』双方の情報と『和名抄』の郷名から読み解くと、「秦王國」=「難波津」で、裴世清一行が倭王から迎えられたのは伊予の松山周辺。

ただし、「難波津」は、津(港)のことで「秦王國」そのものは、難波郷を含むもっと広範囲の地域だと思われます。
私は、現在の松山市〜今治市〜西条市秦王國に当たると想定しています。


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現在でも愛媛県下の秦姓密集地域

この一帯は伊予国の式内社密集地域でもあり、西条市にいたっては「うちぬき」と呼ばれる地下水の自噴地帯です。
古代、都市が栄える条件は、一番に津(港)のある海岸でしょうが、人が住むには何をおいても水がなければなりませんから川があることも絶対必要条件です。
ところが、西条市に至っては現在でさえ、水道も不要なほどの地下水が噴き出しているのです。昔日の人々にとっては、これはまるで天国のような土地です。

古代のことを考えるときに「どこに住んでも水道と電気が来ている」という現代人の感覚を持ち込んではいけません。


(自噴井は約2000箇所、湧出量は一日あたり90000立方メートルに達する)
 
まさしく、徐福が辿り着き王となり定住したという『平原広沢』そのものではないでしょうか?背後には豊かな山、目の前は大きな湾と瀬戸内海、海の幸山の幸にあふれ、温泉が湧き、飲料水が湧き、気候温暖で夢の様な土地です。

また、『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定する①③、に書いたように、上古、越人の一団が日本の何処かへ移住した可能性は極めて高いのですが、「越」の発音は、呉音ではオチ(ヲチ)です。伊予の最も歴史ある氏族である越智氏のルーツには諸説あるのですが、その本貫地が、まさしくこの一帯であることを考えると、関連を想起せずにはいられません。


さて、実は、次の隋書の一文が今回の核心です。

私は、初めて隋書のこの部分を目にした時、「あ!」と思ったのです。
そして即座にその光景が目に浮かびました。
今回書いた内容は、全てその「一言」から始まり、逆算して導き出したものです。
それは、
     又經十餘國 於海岸
     また十余国を経て、ついに海岸に達する

です。

裴世清一行は、秦王國を出た後、十余国を経て、「海岸に達した」のです。
そして、そこがヤマト(当時の)でした。

わかるでしょうか?
つまり一行は陸行しているのです。

考えてみてください。
中国から船に乗り朝鮮半島を経由して、北九州を過ぎ、瀬戸内海を抜け、最終目的地ヤマトの国の津に入港した時に、

 ついに海岸に達した。

などと表現しますか?

海路での最終到着地がここであったならば、途中、十余国に立ち寄った際も、船でそれぞれの津(海岸)に寄港したことになります。

それを「十余国を経たのち海岸に達する」と表現するなど、小学生の作文でもありえません。これは陸路を進んで目の前に海が開けたから「海岸に達した(出た)」と言っているのです。

では、別の視点で、上で解説した時系列は一切無視するとして、九州から中国地方のどこかにある秦王國を経由して、陸路、大阪の難波を目指し、到着したとします。

当然、右に瀬戸内海を眺めながら海岸沿いを東に進むことになります。
そして大坂に着いた時に、今さら「海岸に達す」などと表現しますか?

これは、海の見えない内陸を進み、最終的に海岸に出たからこその表現なのです。
海沿いに横へ進むのではなく、真っすぐ縦に進んだその先に海岸が横たわっていたのです。

裴世清が事前に得ていた自国史料での(その都ヤマトが在る)倭国の情報は「其國境 東西五月行 南北三月行 」です。
この中国正史上の情報に照らして「又經十餘國、」(“各至於海”の中の、一辺の海に出た)と言っているのです。


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そして、時系列に合わせ秦王國を伊予国の難波とした場合、現在の国道11号線から愛媛徳島県境の国道192号線に入り東進、左右に壁のようにそびえる山脈を眺めながら吉野川沿いを下流に進み(船で下った可能性大)、最終的にその河口、現在の徳島市が水没したかのような大徳島湾に出たのです。
この行程以外、隋書・日本書紀・和名抄全てに合致するルートはありません。
すなわち、「倭国」の「都」、

「邪靡堆」は吉野川河口付近。


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ここで、魏志倭人伝を思い出してください。
投馬国から女王国までは、水行でも陸行でも行けましたが、陸行の場合の行程は1ヶ月でした。

裴世清一行は、難波津で、まず歓待を受け、途中十余国に立ち寄り、帝都ヤマト海岸部での歓迎儀式の10日後トータル49日で天皇に謁見しています。

日本書紀によれば、裴世清が帰国するときは、帝都から難波津まで20日です。十余国の立ち寄りは不要なので休憩以外はそそくさと進んだのでしょう。行程の内容によるが、片道20日〜39日ですから、平均で1ヶ月です。

隋書によれば、裴世清が天皇に謁見した「邪靡堆」は、魏志(倭人伝)の「邪馬臺」と同じ、ということですから、伊予国 (秦王国) 難波郷が投馬国ということになります。

裴世清が何故、水行ではなく陸行を選択したのか?は推測するしかありません。
元々、両用されるルートだったために魏志にもそう書かれているのでしょうし、
また、専門家によれば、古代、瀬戸内航路は未開発で、航行不能だったといいます。


瀬戸内海は、イメージ的には「内海」で、湖のような穏やかな海、という印象ですが、実際は真逆で、潮の流れが凄まじく、まるで急流の川を見るような海です。実際にその様子をNHKのドキュメント番組で見て、私も驚きました。
瀬戸内の部分的な航行や、釣り船のような小舟での航行ならいざしらず、大量の人と荷物を運ぶ大型船を数隻連ねての運行はリスクが高すぎたことでしょう。ましてや今回は皇帝の特使一行が同行しています。沈没しましたごめんなさい、では済みません。


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復元された遣唐使船

第一、裴世清はスパイですから、情報収集のため、陸路を時間をかけて進む必要があります。
全ての目的を達したから、帰りは「さっさと帰らせろ」と自分から申し出たのです。

それにしても、小野妹子は流石大した人物ですね。
全てを分かっていて水面下でそれをコントロールしたのです。
外務省は小野妹子を神棚に祀るべきでしょう。




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明年 上遣文林郎裴清使於倭國
度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中 
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 
其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也

翌(608)年、皇帝、文林郎、裴清を倭国に使わす。
百済を渡り、竹島に至り、南に𨈭羅国を望み、都斯麻国の遙か大海中に在るを經。

また東して一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。
その人、華夏に同じ。
以て夷洲と為すも疑いは明らかにすること能わざる也。



前回、隋の煬帝が、いかに倭王・阿輩雞彌からの国書に激怒したか、を書きましたが、その怒りは我々普通の現代日本人には想像もつかないでしょう。
少しでも想像するためには、隋以前の中国史、皇帝という存在の意味、朝貢の本質などを理解しなければなりません。

煬帝へ国書を届けたのは、遣隋使・小野妹子であり、この記録は『日本書紀』にも残されています。
それによれば、小野妹子一行が派遣されたのが、推古15年(607)7月です。

十五年秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作突爲通事。

有名なことですが、紀に隋ではなく大唐と書かれているのは日本側の間違いです。個人的には間違いというより故意だと思います。(唐の王朝が起こったのは10年後の618年)
今でも日本人は、かつて中国大陸に存在した様々な民族の様々な国家を一緒くたに平気で“中国”と言っているではありませんか。
隋を唐と呼ぶより遥かにひどい間違いです。唐は隋から皇帝を禅譲させて立てた国ですから尚の事、当時の慣例で“大唐”と一括りで呼んだのでしょう。


そして、翌608年、紀によれば、その年の4月、上記の裴世清(はいせいせい)一行とともに帰国します。
当時、日本から長安まで航路・陸路で片道どの程度の日数がかかったのか分かりませんが、何にせよ、煬帝の怒り収まらぬうちに裴世清は送り出されたことでしょう。

この裴世清については、身分や人物が不明で様々な推測がなされています。
何より文林郎という役職がよく分からないのです。
しかし、それも当然といえば当然、事のいきさつから見れば、どう考えても彼は隋のスパイでしょう。
それがピンとこないで普通の友好使節団団長くらいに思っているから日本人は平和ボケと言われるのです。煬帝が、いったいどれくらい怒り狂ったか、ということに、考えが及ばないから甘ちゃんなのです。

参考までに、煬帝の治世の一部を紹介しましょう。

即位後すぐに廃太子の楊勇を探し出して殺害。
弟の漢王楊諒の反乱鎮圧殺害。
質素を好んだ父文帝とは対照的に派手好み。
大土木事業を大々的に推し進め、100万余の男女が徴発されて労苦にあえぐ。
自身の行幸や首都の輸出入、軍の輸送などに人民を酷使。
長城の修築に100万余の男女を徴発し、過酷な労役で多くの死者を出す。
行幸を東西に繰り返し、国庫や民衆に多大な負担を負わせる。
諸国の朝貢使節を頻繁に招き、民衆に多大な災難を招いた。(610年
113万人の兵士を徴兵し高句麗遠征に大敗。(611年
4回目の高句麗遠征を計画するが遂に自軍の反乱に合う。
自ら軍を率いて北方の突厥鎮圧に向かうも撤退。
中国全土で反乱がピークに。(616年)
反乱鎮圧に殺戮政策をもって当たったが失敗。
諫言や提言する臣下を殺戮。
酒色にふける生活を送り臣下によって殺害される。(618年)
(Wikipedia)

このように、煬帝は中国史を代表する暴君とまで云われている人物です。
上の「諸国の朝貢使節を頻繁に招く」のが610年、この裴世清が帰国した翌年です。
611年には高句麗へ戦争を仕掛け、破滅の道を歩み始めます。

あの状況下で、煬帝が、気持よく小野妹子ら遣隋使一行を帰国させ、隋側からも返礼の友好特使を派遣するわけがないでしょう。

おそらく、日本が陸続きだったなら、まずは恭順の脅迫が、次に軍そのものが来ていますし、遣隋使の命も危うかったでしょう。それが普通の反応です。
海のはるか彼方では、少人数しか派遣できないので、武将ではなく智将を送ったのです。

しかも、倭に入った後の言動の記録を見れば、相当に肝の座った人物でなければ務まりません。知力、気力、体力、胆力、すべてを兼ね備えた適任者を選出したはずです。

任務は、当然、倭王の非礼を責めること。
倭国の実情(行程・地勢・軍事力・政治力・経済力・食料自給力・等々国力全般)を探ること。
早い話が、開戦可能か?どの程度の兵力が必要か?どのような作戦で攻めるべきか?戦費はどの程度になるか?、というようなことを検討するための材料を入手するのです。

当然、小野妹子は、煬帝の怒りも裴世清の送られた意味も全て了解済みです。
だからこそ、煬帝から天皇へ当てられた返書を、帰国前に処分して持ち帰らなかったのです。

爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。

於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑
時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。

罰を受けることは百も承知で、盗まれたことにした小野妹子。
それを察し、重臣から言い渡された刑罰を即座に解いた天皇。
戦国時代劇かスパイドラマのようなぎりぎりの駆け引きが繰り広げられていたのです。

特使がスパイなわけがない、と考えるのも世間知らずで、日本は現在でもスパイ天国と馬鹿にされますが、スパイの主体は主に大使館員です。

裴世清の連れた12人の随者も、当然目的にそって選びぬかれた人物たちでしょう。
隋の煬帝が倭国に送り込んだスパイ裴世清は、

度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國

と、行程しますが、この秦王國が四国北西部だと私は考えています。(後述)
都斯麻國・一支國・竹斯國を通説通りだとすると、そこから「東至」は、北九州東岸地方か中国地方のどこか・四国のどこか、です。この時代のヤマトが九州にあると主張する人以外は、後者のどちらかと認めてもらえるでしょう。そしてその99%は中国地方だと言うでしょう。それが勘違いだということを次回で説明します。
九州を経て東に向かうのですから竹斯國の先も海路です。

そして、その先が秦王國だったのです。
その秦王國で、裴世清は腰が抜けるほどびっくり仰天しました。

もちろん、当然のこと倭国へ行くにあたって、裴世清は正史の類は全て目を通してきています。自国で知り得る限りの情報を詰め込んで来日しています。

その驚きの衝撃度が「華夏」という言葉に現れているのです。


リンク先では、「華夏」という言葉が中国人にとって、どれほどの意味を持つのか、詳しく解説しました。
この「華夏」を、ほとんどの人が、たんに「中国人」と訳して、それで終わりなのです。
れどころか、次の文の「夷洲」の文字を見て「野蛮な蛮夷の国だと聞いていたがそうではなかった」などと解釈する人がいますが大間違いです。

「華夏に同じ。以て夷洲と為す」。「以て」は当然前文にかかります。
華夏から連想した夷洲、という意味が全く分かっていないのです。

中国大陸の歴史は、御存知の通り、飢えと殺戮の歴史です。
全人口が半分になったり、3分の1、6分の1になったりの増減を繰り返します。
もちろん、それらは戸籍で把握された人口であり、実際にはもっと生き残っていたでしょうが、大変な増減があったことは間違いありません。
このため、中国人自身が華夏と読んでいた人々さえ、極端な人口減少や多民族との混合で存在が薄れ、本来の華夏と呼べるような民族は、ほぼ滅亡したとも言える状況でした。

裴世清を派遣した煬帝(楊広)の父は、の初代皇帝・楊堅(ようけん)。
その父は、中国北部の遊牧騎馬民族「鮮卑」が建てた「北周」の大将軍・楊忠
楊忠の父は、同じく「鮮卑」が建てた「北魏」の将軍・楊禎
この楊氏は、後漢楊震の末裔称し、その先祖は前漢初期の楊喜と云われる。
その父祖まで遡り、彼らが中原の居住民であって、やっと正真正銘の「華夏」なのです。

倭国で偶然出会った人たちを、そのような「華夏に同じ」と表現したことが、いかに凄いことか理解しなければなりません。
もちろん、華夏と自称する人たちは隋にもいたでしょう。
書物で華夏人たちの特徴や文化も知っていたことでしょう。
なんにせよ、裴世清にしてみれば、驚天動地の出会いだったのです。

例えば、もし、現代日本人がジャングルの奥地を探検していたら、突然日本人村が現れ、村を見渡すと鳥居が立っており、子どもたちはじゃんけんをして遊び、しかも村人の格好は、まるで平安貴族のようであり、試しに話しかけてみると公家言葉で返してきた、というような驚きなのです。

しかも日本では外国にそんな村があることを誰も知らない、という状況です。
想像を絶する驚きです。

そこで裴世清は脳みそをフル回転させます。三国志、漢書、後漢書、論語、礼記の東夷・九夷の記述、そして史記の徐福伝説
上古から、東海の彼方にある東夷の君子の国の話は語られてきましたが、具体的な移民の情報は徐福のものだけです。
史記には、徐福が始皇帝の許しを得て「蓬莱、方丈、瀛洲という名の三神山」へ向かったという記述がありますが、裴世清が呼び起こした記憶は後漢書だったようです。

又有夷洲及澶洲
伝言秦始皇遣方士徐福将童男女数千人入海求蓬莱神仙不得
徐福畏誅不敢還遂止此洲
世世相承有数万家
人民時至会稽市
会稽東冶県人有入海行遭風流移至澶洲者
所在絶遠不可往来
 
また、夷州(いしゅう)及び澶州(せんしゅう)がある。
言い伝えでは、秦の始皇帝は方士徐福を遣わし、童男童女数千人を引きつれ、
蓬萊の神仙を求め海に入ったがこれを得られなかった。
徐福は(罰を受け)殺されることを畏れ、あえて還らず遂にこの洲にとどまった
代々ともども受け継ぎ数万家を有する

人民はときどき會稽の市に来る。
会稽東冶の県人は海に入り行き、風に遭い流されて澶洲に至る者がある。
絶縁の所に在るゆえ往来はできない。

「その人、華夏に同じ。以て夷洲と為すも疑いは明らかにすること能わざる也」

ありえないことに華夏人と遭遇したために、この後漢書の一文を思い出し、
「もしかしたら、ここが、あの伝説の、徐福が向かったとされる“夷洲”なのか!?」
と考えたわけです。(澶洲は上記の記述内容から台湾と考えられています

当然、現地の人や遣隋使には、あらゆる角度から質問したことでしょう。
しかし、彼らの正体は分かりませんでした。
当人たちに先祖の記憶や伝承がなかったのか、とぼけられたのか、遣隋使に隠されたのか、あるいは正体をつきとめて隋朝へは報告したが、記録に残すことを禁止されたか、可能性はどれもがありえます。



又經十餘國 達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於倭
また十余国を経て、海岸に達す。竹斯国より東、みな倭に附庸す。
倭王遣小阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎
後十日 又遣大禮哥多毗 從二百餘騎郊勞
既至彼都 其王與清相見 大 曰
「我聞海西有大隋 禮義之國 故遣朝貢
 我夷人 僻在海隅 不聞禮義
 是以稽留境内 不即相見
 今故清道飾館 以待大使
 冀聞大國惟新之化」
清答曰
「皇帝並二儀 澤流四海 以王慕化 故遣行人來此宣諭」
既而引清就館 
其後清遣人謂其王曰
「朝命既達 請即戒塗」
於是設宴享 以遣清 復令使者隨清來貢方物
此後遂絶

倭王は、小・阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。
後十日、大禮の哥多毗(かたひ)を遣わし、二百余騎を従え郊勞せしむ。
既にして彼の都に至るに、その王(倭王)、清(裴世清)と相見て、大いに悦び曰く、

我聞く、海西に大隋有り、礼儀の国なりと。故に遣わして朝貢せしむ。
 我は夷人にして、僻りて海隅に在り、礼儀を聞かず。
 是を以て境内に稽留し、即ち相見えず。
 今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待つ。
 願わくは大国惟新の化を聞かん」。

清、答えて曰く

「皇帝のは二儀に並び、澤は四海に流る。
 王、化を慕うを以って、故に行人を遣わし、ここに来たり。宣べ諭さしむ」と。

既にして清を引いて館に就かしむ。
その後、清、人を遣わし、その王に謂いて曰く
「朝命は既に達せり、請う、即ち戒塗せよ」と。
ここに於いて、設宴を享け、以って清を遣わし、復た使者をして清に随いて来たりて方物を貢せしむ。
この後、遂に絶ゆ。


「阿輩雞彌」の訓みは、(おほきみ)=おおきみ、らしいのですが、
「阿輩臺」は何故か、(あほたい)とか(あへと)とか色々です。
まれに(あはだい)とか読む方もいらっしゃいます。

あへ)は「安倍」のことだという説です。
これは、ヤマトで裴世清を迎える役を仰せつかった四大夫(まえつきみ)の一人に「阿倍鳥(あべのとり)臣」がいるためです。つまり、「アヘト」は「アヘ(之)トリ」。
なるほど、これは十分傾聴に値する説です。厳密に検証すると別人物(後述)ですが、記憶(記録)違いということもありますからね。


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阿閉(安倍)氏は生粋の阿波氏族です


私は繰り返し「阿輩」(あは)=「阿波」説を提唱しておきます。
この「邪靡堆」は、魏志倭人伝いうところのの「邪馬臺」だと書かれています。
魏志には邪馬臺国の官吏が数人登場します。

支馬(いしま)(いきま)
彌馬升(みましょう)
彌馬獲支(みまかき)(ミマワキ)(ミマカシ)(ミマワシ)
奴佳鞮(なかて)

全部、阿波の主要地名じゃないですか。
地名を冠した官吏名じゃないでしょうか。○○市長、○○町長、みたいな、ね。
日本の場合、天皇家、古代氏族・豪族、地名を組み込んだ名前が多いのは御存知の通りです。

さて、最後にやっと都の位置探しです。




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『隋書』倭国伝

倭國 在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王 
夷人不知里數 但計以日
其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去 樂浪郡境 及帶方郡並一萬二千里 在會稽之東 與儋耳相近

倭国は、百済・新羅の東南、水陸三千里に在り。大海中に於いて山島に依りて居る。
魏の時、中国に訳通すは三十余国。皆、自ら王と称す。
夷人は里数を知らず、ただ計るに日を以ってす。

その国境は東西五カ月の行、南北三カ月の行にして、各々海に至る
その地勢、東高西低
邪靡堆に都す。則ち、魏志謂うところの邪馬臺なるもの也。

古より云う。楽浪郡の境及び帯方郡を去ること一万二千里、会稽の東に在り。儋耳と相近し。


隋書以前の国史にも登場する「倭国」の「都」の名は「邪靡堆」(やまと)で、これが魏志(倭人伝)いうところの「邪馬臺」だということです。


漢光武時 遣使入朝 自稱大夫
安帝時 又遣使朝貢 謂之倭奴國
桓 靈之間 其國大亂 遞相攻伐 歴年無主
有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立為王
有男弟 佐卑彌理國 其王有侍婢千人
罕有見其面者 唯有男子二人給王飲食 通傳言語
其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 為法甚嚴
自魏至于齊 梁 代與中國相通
 
後漢の光武帝の時(25−57年)、遣使、入朝し、自ら大夫と称す。
安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。
桓帝と霊帝の間(146−189年)、その国大いに乱れ、遞に相攻伐し、年歴るも、主無し。
女子有り。名は卑彌呼。能く鬼道を以て衆を惑わす。ここに於いて国人、共立し王と為す。
男弟有り、卑彌を佐けて国を理む。その王、侍婢千人有り。
その面を見たることある者罕なり。ただ男子二人のみ有りて、王に飲食を給し、言語を通伝す。
その王、宮室、楼観、城柵あり、皆兵を持ちて守衛し、法を為むること甚だ厳なり。
魏より斉・梁に至るまで、代々中国と相通ず。


中国正史は、まずそれ以前に書かれた正史その他を通読し、引用するのが定石です。
その後で、新しい情報を付記するのです。
この部分も、ほとんどが先の正史の引用であるのは一目瞭然ですが、書き誤りでない限り新しい情報も含まれています。

たとえば女王の名は「卑彌呼」ですが、そのあとで「卑彌」を助けて云々、とあります。
「卑彌呼」の訓み方は一般にヒミコですが、隋書の書き方が間違っていなければヒメかもしれません。
正確な訓みはまだ不明なんだそうです。

また、三国志では、卑彌呼に仕えた男子は一人ですが、隋書では二人になっています。
書き間違いか、別の情報源があったのか、三国志に記される男弟を加えて二人と書いたのか?不明です。
ここまでは、このように既出の情報が主たる内容ですが、いよいよここからが、隋書の面白いところです。


開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
上令所司訪其風俗。
使者言倭王以天為兄、以日為弟、
天未明時出聽政、跏趺坐、
日出便停理務、云委我弟。
高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。

隋の開皇二十年(600)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を闕(けつ・王宮の門)に詣しむ。
上(文帝)、所司をしてその風俗を尋ねしむ。
使者言う、「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐す。
日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と。

高祖曰く「これはなはだ義理なし」。ここに於いて訓してこれを改めしむ。
王の妻雞彌(きみ・けみ)と号す。
後宮に女六〜七百人あり。太子を名づけて利歌彌多弗利(りかみたふり)と為す。


倭王、阿毎多利思比孤(天帯彦あるいは天足彦:あまたらしひこ)、号は阿輩雞彌(阿波王:あはきみ・けみ)、遣使を宮殿に詣らす。

何故か旧唐書では「あめ」と訓まれることの多い「阿毎」ですが、隋書では「あま」と訓むのが一般的です。なんだかな〜ですね。「旧唐書に見る倭国」 に書いたように、これは「あま」か「あば」でしょう。
次に号の阿輩雞彌にも注意してください。

「阿波」の本来の発音が「あわ」ではなく「あは」であることは既に当ブログに書きました。
隋書は正確に「阿輩」と記しています。

一般的には御存知の通り「おおきみ」と訓んでいます。
どう訓めば、「阿輩」が「おほ」になるんですか

「あはきみ」だと解釈に困ってしまうが「おおきみ」だと納得しやすい、ということなんでしょう。
それが学問的態度ですか?
素人の歴史ファンならともかく学者諸氏はそれでいいんでしょうか?


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こういった、まともな本もあります

(中略)

風俗記事が長く続きますが略します。が、一か所突然に具体的な地名が出てくるので説明します。

有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行禱祭

阿蘇山あり、その石故無くして火起こり天に接することあり。
俗、以ってこれを異となし、因って禱祭を行う。


倭国には「阿蘇山」という火山があり、その噴火は凶兆だとして祈りを捧げる風俗が報告されています。これを持って、倭国=肥後国=九州=邪馬台国、と断言する方がおられます。

当然といえば当然なんですが、中国正史に書かれる「倭国」の見方が間違っています。今まで繰り返し書いたように「倭国」という特定の国はありません。

「倭」があり、その中に100以上の「国」があり、内30余国は中国と直接の繋がりがありました。
中国正史が「倭国」と書くとき、この「倭の国々」の「総称」として書く時と、そのうちの「一つの国」を指して書く時があります。
例えば、倭に属するA国も倭国ですし、B国も倭国なのです。
たまに、その個別国名を具体的に書くことも有ります。

『隋書』に限定して見ると、「倭國」は、「魏時」、「中國」と通じていた数「三十餘國」で、皆自ら「王」と称した。 「都於邪靡堆」と、ヤマトは「国」ではなく「都」として別扱いであり、つまり、倭国という時には「倭の国々」の「総体」で書いています。
「倭の国々」の中の「個体」としては「倭奴國」の名が登場します。

旧唐書にも「倭國者 古倭奴國也」の一文があります。
これで旧唐書の当該箇所で言う「倭国」は、倭の「総体」国ではなく「個体」国だとわかるのです。

その旧唐書中の「倭奴國」「其王・姓阿毎氏」ですから、隋書中の「倭王・姓阿毎・字多利思比孤」の「倭王」とは「倭奴國王」ということになります。

中国史が「倭国王」と書いていても「倭国全体の大王」のことなのか、「倭の中の一つの小国王」なのかは分からず、それは、このように文脈で判断するのです。

この隋書の「伝」は「倭国伝」であって「倭奴國伝」ではありません。
従って、「風俗記事」に書かれるのは当然「倭国全体の風俗」なのです。
そして、その「倭の国々」の中には、当然、九州にあった国々も含まれるのであり、阿蘇山が出てきても何の不思議もないのです。

これが「倭奴國に阿蘇山がある」とか「邪靡堆に阿蘇山がある」と書かれていれば大変なことです。
どの史書にもないレベルで、ピンポイントで、当時の倭の国々をまとめる大王が都していた首都国の所在地が判明するからです。


新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。

新羅や百済は皆、倭を以って、大国にして珍物多しと為し、並にこれを敬仰して、常に通使往来す。

大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。
使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」
其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。
帝覽之不、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
 
大業三年(607年)、その王、多利思比孤、使いを遣して朝貢せしむ。
使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ばしむ」と。

その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。
帝(煬帝・604年8月21日 - 618年4月11日)、これを見て悦ばず。
鴻臚卿(こうろけい・外務大臣)に謂いて曰く

蛮夷の書、無礼なる者有り。復た以って聞することなかれ!

と。


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怒怒怒ぬぬ・・・・牟牟牟むむ・・・・・尾、尾野礼、阿波気美戸屋良・・・

阿輩雞彌(あわきみ)は、続けて大業三年(607年)、使者を隋に送ったが、その時の国書が有名な「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々です。
これに対し、隋の煬帝は「蛮夷の書に無礼あり。二度と奏上するなかれ」と激怒しました。
 
過去記事でも中国の朝貢制度の本質について書きましたが、それからすると全く許しがたい国書だったわけです。煬帝は皇帝としての顔を潰された思いで怒りに打ち震えたのでした。

一体何が「皇帝としての煬帝」を否定することになったのかといえば、それは「天子」の文言です。

中国の観念では、まず「」という存在があり、その「天の意思」が、「地上の支配者」となる者を選びます。これが「天命」であり、選ばれた者が「天子」です。政治的には、この天子が「皇帝」を名乗ります。

天が天子を選出する基準は、その人物の「」です。
朝貢という儀式は、この「天子の徳」を人民に証明するための一大政治ショーであり、「皇帝の徳が高ければ高いほど、その徳を慕って、より遠方の国から進貢が行われる」とされました。

したがって、その「進貢者自身が天子を名乗る」などということは、中国側から見れば、全くありえない、朝貢そのものと皇帝の存在の全否定なのです。



中国大陸の国家の歴史は、常に、この「天子の存在」をかけて血で血を洗う争いの歴史でした。なぜなら、

天子は地上にただ一人の存在

だからです。

有名な「三国志」は、同時代に三人の皇帝(天子)が即位した、という戦国時代のヒストリーです。天子を自称するのは自由、後はそれを実力で証明するのです。

そういった激烈な歴史の中で皇帝を名乗っている人物に、海の向こうの小国の王が「私も天子である」と名乗ったのです。これは同じ大陸内であれば、宣戦布告そのものです。

倭国側も対等の関係を示すに最も適切な単語として選んだのですが、そういった観念まで理解した上で「天子」を使ったのかどうかは不明です。
知った上でのことならば、意図的にかなり危ない橋を渡ったことになります。


(続く)


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