空と風

子犬を飼いたい今日このごろ

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又經十餘國 達於海岸

裴清が達した「海岸」とは一体どこか?

倭王遣小阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎

倭王の都の海岸です。

邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也

都とは、つまり、倭国の都である邪靡堆(やまと)の海岸です。


先に書いたように、この記録は日本書紀にも記されています。
※以下の日本書紀原文・訳文は こちら から引用させていただきました。
 

十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。
唐國號妹子臣曰蘇因高。
卽大唐使人裴世罅Σ宍匳銃鷽諭從妹子臣至於筑紫。
遣難波吉士雄成、召大唐客裴世翕。
爲唐客更造新館於難波高麗館之上。
六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、
是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。
於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、
百濟人探以掠取。是以不得上。」
於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」
則坐流刑。時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。

十六年の夏四月(608.04)、小野臣妹子、大唐より至る。
唐国、妹子臣を号けて蘇因高と曰ふ。

即ち大唐の使人裴世清、下客十二人、妹子臣に從ひて、筑紫に至る。
難波吉士雄成を遣して、大唐の客裴世清等を召す。
唐の客の爲に、更新しき館を難波の高麗館の上に造る。

六月の壬寅の朔丙辰(06.15)に、客等、難波津に泊れり。
是の日に、飾船三十艘を以て、客等を江口に、新しき館に安置らしむ。
是に、中臣宮地連烏磨呂、大河内直糠手、船史王平を以て掌客とす。

爰に妹子臣、奏して曰さく、
「臣、参還る時に、唐の帝、書を以て臣に授く。然るに百済国を経過る日に、
百済人、探りて掠み取る。是を以て上ること得ず」とまうす。
是に、群臣、議りて曰はく、「夫れ使たる人は死ると雖も、旨を失はず。是の使、何にぞ怠りて、大国の書を失ふや」といふ。
則ち流刑に坐す。時に天皇、勅して曰はく、
「妹子、書を失ふ罪有りと雖も、輙く罪すべからず。其の大国の客等聞かむこと、亦不良し」とのたまふ。乃ち赦して坐したまはず。


秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。
是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。
額田部連比羅夫、以告禮辭焉。
壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。時、阿倍鳥臣・物部依網連抱二人、爲客之導者也。
於是、大唐之國信物、置於庭中。時、使主裴世罅⊃道書兩度再拜、言上使旨而立之。
其書曰「皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、
思弘化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。
知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、達脩朝貢。
丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世翕、稍宣往意、幷送物如別。」
時、阿倍臣、出進以受其書而進行。大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。
事畢而退焉。是時、皇子諸王諸臣、悉以金髻花着頭、亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅。
一云、服色皆用冠色。丙辰、饗唐客等於朝。
九月辛未朔乙亥、饗客等於難波大郡。
辛巳、唐客裴世翦轎邸B復以小野妹子臣爲大使。

秋八月の辛丑の朔癸卯(08.03)に、唐の客、に入る。
是の日に、飾騎七十五匹を遺して、唐の客を海石榴市の術に迎ふ。
額田部連比羅夫、以て礼の辞を告す。

壬子(08.12)に、唐の客を朝庭に召して、使の旨を奏さしむ。時に阿倍鳥臣、物部依網連抱、二人を客の導者とす。
是に、大唐の国の信物を庭中に置く。時に使主裴世清、親ら書を持ちて、両度再拜みて、使の旨を言上して立つ。

其の書に曰く、「皇帝、倭皇を問ふ。使人長吏大礼蘇因高等、至でて懐を具にす。朕、宝命を欽び承けて、区宇に臨み仰ぐ。
徳化を弘めて、含霊に覃び被らしむことを思ふ。愛み育ふ情、遐く邇きに隔て無し。
皇、海表に介り居して、民庶を撫で寧みし、境内安樂にして、風俗融り和ひ、深き気至れる誠ありて、遠く朝貢ふことを脩つといふことを知りぬ。
丹款なる美を、朕嘉すること有り。稍に暄なり。比は常の如し。故、鴻臚寺の掌客裴世清等を遣して、稍に往く意を宣ぶ。并て物送りすこと別の如し」といふ。

時に阿倍臣、出で進みて、其の書を受けて進み行く。
大伴囓連、迎へ出でて書を承て、大門の前の机の上に置きて奏す。
事畢りて退づ。是の時に、皇子、諸王、諸臣、悉に金の髻花を以て頭に着せり。
亦衣服に皆錦、紫、繍、織、及び五色の綾羅を用ゐる。
【一に云はく、服の色は、皆冠の色を用ゐるといふ】。

丙辰(08.16)に、唐の客等をたまふ。
九月の辛未の朔乙亥(09.05)に、客等を難波の大郡にたまふ。
辛巳(09.11)に、唐の客裴世清、罷り帰りぬ。則ち復小野妹子臣を以て大使とす。


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余談ですが、この時の天皇は、女帝の推古天皇(在位593年〜628年)ですが、
隋書では、600年時点での倭王の名を「阿毎・多利思比孤・阿輩雞彌」で、妻は「雞彌」太子は「利歌彌多弗利」と書いています。
そのため、日本書紀の方がおかしい、創作である、という学者もいます。

しかし、何故絶対に隋書が正しいと断定できるのでしょうか?送った国書の内容から考えれば、倭国側も隋に対して情報操作していた可能性があります。
隋書と日本書紀を読み比べると、隋書には裴世清が謁見した天皇(性別の記述なし)が、煬帝を念頭にへりくだった挨拶をするシーンがありますが、日本書紀では、裴世清が一方的に煬帝の国書を奏上するだけです。

「裴世清、親ら書を持ちて、両度再拜みて、使の旨を言上」し、奏上が終わると「阿倍臣、出で進みて、其の書を受けて進み行く」で、天皇からは一言のお言葉も頂いておりません。推古天皇は御簾の中で顔さえも見せていないのではないでしょうか?
女帝であることを隠すためです。



ここで『隋書』と『日本書紀』を時系列的に並べてみます。

 ■ 『隋書』 □ 『日本書紀』


■度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國
  A【又至竹斯國】 又東B【至秦王國

百済を渡り、竹島に至り、南に𨈭羅国を望み、都斯麻国の遙か大海中に在るを經。
また東して一支国に至り、また【竹斯国に至り】、また東して【秦王国に至る】。

□A【裴世清、下客十二人、妹子臣に從ひて、筑紫に至る】(608年4月
□B【客等、難波津に泊れり】(608年6月15日


■又經十餘國 【達於海岸】 自竹斯國以東 皆附庸於倭
また十余国を経て、【海岸に達す】。竹斯国より東、みな倭に附庸す。

□秋八月の辛丑の朔癸卯に、唐の客、【京に入る】(608年8月3日


■倭王遣小【阿輩臺】 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎

倭王は、小【阿輩臺】を遣わし、【数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ】。

□是の日に、【飾騎七十五匹を遺して、唐の客を海石榴市の術に迎ふ】。
額田部連比羅夫】、以て礼の辞を告す。


■A【後十日】 又遣大禮B【哥多毗】 從二百餘騎C【郊勞

【後十日】、大禮の【哥多毗(かたひ)】を遣わし、二百余騎を従え【郊勞せしむ】。

□A【壬子(608年8月12日)】に、唐の客をC【朝庭に召して使の旨を奏さしむ】。

時にB【阿倍鳥臣、物部依網連抱】、二人を客の導者とす。


■既【至彼都】 其王與清【相見】 大

既にして【彼の都に至るに】、その王(倭王)、清(裴世清)と【相見て】、大いに悦びて曰く

□是に、大唐の国の信物を【庭中に置く】。時に使主裴世清、親ら書を持ちて、両度再【拜みて使の旨を言上】して立つ。


■「朝命既達 請即戒塗」於是【設宴享

「朝命は既に達せり、請う、即ち戒塗せよ」と。ここに於いて【設宴を享け】

□丙辰(608年8月16日)に、唐の客等を【朝に饗たまふ】。


■【以遣清復令使者隨清來貢方物】 

以って【清を遣わし復た使者をして清に随いて来たりて方物を貢せしむ】。

□九月の辛未の朔乙亥(608年9月5日)に、客等を難波の大郡に【饗たまふ】。
□辛巳(608年9月11日)に、【唐の客裴世清、罷り帰りぬ。則ち復小野妹子臣を以て大使とす】。


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ご覧のように、2書を並べることで、隋書だけでは分からなかったことが見えてきます。
まず、『日本書紀』では、我が国が裴世清一行を迎えた場所を「難波津」であると記しています。
上のように並べれば、それがあの「秦王国」だと分かるのです。

日本中、一般人から学者まで、日本書紀のこの部分を読んで「難波」は「大阪」と思い込み、まず全ての考察がそこからスタートします。
疑いもしません。それが大きな間違いなのです。

阿波古代史に興味のある方、このブログの読者の方はご承知の通り、古代、大阪に難波はありません
平安時代の『倭名類聚抄』の国名・郡名・郷名にも記載がありません。
これほどの歴史的地名が郷名にすらならないなどということはありえません。
つまり、もっと後の時代にコピーされて名乗り始めた地名です。

では、どこに「難波」があったのか?と言えば、調べればすぐ分かるように香川県にあります。現在の津田町一帯です。この地は、仁徳天皇の京都が置かれたあの難波であり、これは、そこから見た瀬戸内の景色を、島名入りで詠んだ天皇の歌によって証明されます。大坂からは見えない景色なのです。

では、裴世清一行は北九州を船出して讃岐へ入港したのか?
違います。実はもう一箇所(全国で2カ所)、四国に難波郷があるのです。
それは愛媛県です。




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古代の海岸線を復元(津としてちょうどよい入江になっていた事がわかる)

※以前はネット検索で全郷名を確認できるサイトがなかったので『倭名類聚抄』を買いましたが、現在こちらで確認できます。オススメ。


なぜ、2カ所の難波のうち、伊予国なのか?
風早郡難波郷は北九州の対岸であり、単純に小野妹子・裴世清一行の行程とマッチするからです。



隋書の記録では

秦王国に滞在後、十余国を経て、

ヤマトの海岸」に到着。

その10日後にヤマトの朝廷に呼ばれ、 

倭王に謁見したとあります。

日本書紀では、一行は遣隋使小野妹子とともに来日し、

6月15日、難波津に到着滞在、① 

8月3日になって、に入り、②

その10日後の8月12日、朝廷に呼んだ。

とあります。(数字は上の時系列の番号)

つまり、ヤマトの海岸到着」は「京師(の海岸)到着」であり、の「難波津」のことではない、ということです。


ほとんど全ての研究者は、この矛盾を無視しているのです。

つまり、「難波津」は隋書に記される「又經十餘國 達於海岸」の「海岸」ではないということ。
わかりやすく、日付のはっきりした動きだけを並べてみます。


 『隋書』 上 : 『日本書紀』 下

A
【又至竹斯國】             
【裴世清、筑紫に至る】(608年4月

B
【又東至秦王國
【客等、難波津に泊れり】(608年6月15日

C
【(京の)海岸に達す】
【唐の客、に入る】  (608年8月3日

D
後十日】、  【郊勞せしむ】(後十日。8月3日を含めば、8月12日
【八月十二日】 【朝庭に召して使の旨を奏さしむ】(608年8月12日


これだけ、隋書と日本書紀の動きが一致しているにも関わらず、みな、Bの「難波津」が、Cの「(ヤマトの)海岸」だと思い込んでいるのです。

Bの「難波津」が、Cの「海岸」のことだというなら、そこに(6月15日)〜(8月3日)、50日もの誤差が生まれます。
全体の動きが一致しているのに、それはありえません。

そこで、考えてみてください。常識(?)では、この難波津を大阪とするわけです。
その場合、

B、難波津に到着後、そのさらに50日後に達した、C,京(ヤマト)の海岸、ってどこですか?

すぐ近くの和歌山あたりの海ですか?奈良に海岸はありません。

※ちょっと検索したところ、ここで書いているような隋書の情報との照合は無視して、裴世清を迎えた「海柘榴市」を難波(大坂)から大和川を遡った奈良県内のどこか、と解釈して納得しているようです隋書に照らした場合、裴世清は、川の上流を海岸と勘違いするほどの抜け作だったということになります


隋書』『日本書紀』双方の情報と『和名抄』の郷名から読み解くと、「秦王國」=「難波津」で、裴世清一行が倭王から迎えられたのは伊予の松山周辺。

ただし、「難波津」は、津(港)のことで「秦王國」そのものは、難波郷を含むもっと広範囲の地域だと思われます。
私は、現在の松山市〜今治市〜西条市秦王國に当たると想定しています。


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現在でも愛媛県下の秦姓密集地域

この一帯は伊予国の式内社密集地域でもあり、西条市にいたっては「うちぬき」と呼ばれる地下水の自噴地帯です。
古代、都市が栄える条件は、一番に津(港)のある海岸でしょうが、人が住むには何をおいても水がなければなりませんから川があることも絶対必要条件です。
ところが、西条市に至っては現在でさえ、水道も不要なほどの地下水が噴き出しているのです。昔日の人々にとっては、これはまるで天国のような土地です。

古代のことを考えるときに「どこに住んでも水道と電気が来ている」という現代人の感覚を持ち込んではいけません。


(自噴井は約2000箇所、湧出量は一日あたり90000立方メートルに達する)
 
まさしく、徐福が辿り着き王となり定住したという『平原広沢』そのものではないでしょうか?背後には豊かな山、目の前は大きな湾と瀬戸内海、海の幸山の幸にあふれ、温泉が湧き、飲料水が湧き、気候温暖で夢の様な土地です。

また、『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定する①③、に書いたように、上古、越人の一団が日本の何処かへ移住した可能性は極めて高いのですが、「越」の発音は、呉音ではオチ(ヲチ)です。伊予の最も歴史ある氏族である越智氏のルーツには諸説あるのですが、その本貫地が、まさしくこの一帯であることを考えると、関連を想起せずにはいられません。


さて、実は、次の隋書の一文が今回の核心です。

私は、初めて隋書のこの部分を目にした時、「あ!」と思ったのです。
そして即座にその光景が目に浮かびました。
今回書いた内容は、全てその「一言」から始まり、逆算して導き出したものです。
それは、
     又經十餘國 於海岸
     また十余国を経て、ついに海岸に達する

です。

裴世清一行は、秦王國を出た後、十余国を経て、「海岸に達した」のです。
そして、そこがヤマト(当時の)でした。

わかるでしょうか?
つまり一行は陸行しているのです。

考えてみてください。
中国から船に乗り朝鮮半島を経由して、北九州を過ぎ、瀬戸内海を抜け、最終目的地ヤマトの国の津に入港した時に、

 ついに海岸に達した。

などと表現しますか?

海路での最終到着地がここであったならば、途中、十余国に立ち寄った際も、船でそれぞれの津(海岸)に寄港したことになります。

それを「十余国を経たのち海岸に達する」と表現するなど、小学生の作文でもありえません。これは陸路を進んで目の前に海が開けたから「海岸に達した(出た)」と言っているのです。

では、別の視点で、上で解説した時系列は一切無視するとして、九州から中国地方のどこかにある秦王國を経由して、陸路、大阪の難波を目指し、到着したとします。

当然、右に瀬戸内海を眺めながら海岸沿いを東に進むことになります。
そして大坂に着いた時に、今さら「海岸に達す」などと表現しますか?

これは、海の見えない内陸を進み、最終的に海岸に出たからこその表現なのです。
海沿いに横へ進むのではなく、真っすぐ縦に進んだその先に海岸が横たわっていたのです。

裴世清が事前に得ていた自国史料での(その都ヤマトが在る)倭国の情報は「其國境 東西五月行 南北三月行 」です。
この中国正史上の情報に照らして「又經十餘國、」(“各至於海”の中の、一辺の海に出た)と言っているのです。


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そして、時系列に合わせ秦王國を伊予国の難波とした場合、現在の国道11号線から愛媛徳島県境の国道192号線に入り東進、左右に壁のようにそびえる山脈を眺めながら吉野川沿いを下流に進み(船で下った可能性大)、最終的にその河口、現在の徳島市が水没したかのような大徳島湾に出たのです。
この行程以外、隋書・日本書紀・和名抄全てに合致するルートはありません。
すなわち、「倭国」の「都」、

「邪靡堆」は吉野川河口付近。


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ここで、魏志倭人伝を思い出してください。
投馬国から女王国までは、水行でも陸行でも行けましたが、陸行の場合の行程は1ヶ月でした。

裴世清一行は、難波津で、まず歓待を受け、途中十余国に立ち寄り、帝都ヤマト海岸部での歓迎儀式の10日後トータル49日で天皇に謁見しています。

日本書紀によれば、裴世清が帰国するときは、帝都から難波津まで20日です。十余国の立ち寄りは不要なので休憩以外はそそくさと進んだのでしょう。行程の内容によるが、片道20日〜39日ですから、平均で1ヶ月です。

隋書によれば、裴世清が天皇に謁見した「邪靡堆」は、魏志(倭人伝)の「邪馬臺」と同じ、ということですから、伊予国 (秦王国) 難波郷が投馬国ということになります。

裴世清が何故、水行ではなく陸行を選択したのか?は推測するしかありません。
元々、両用されるルートだったために魏志にもそう書かれているのでしょうし、
また、専門家によれば、古代、瀬戸内航路は未開発で、航行不能だったといいます。


瀬戸内海は、イメージ的には「内海」で、湖のような穏やかな海、という印象ですが、実際は真逆で、潮の流れが凄まじく、まるで急流の川を見るような海です。実際にその様子をNHKのドキュメント番組で見て、私も驚きました。
瀬戸内の部分的な航行や、釣り船のような小舟での航行ならいざしらず、大量の人と荷物を運ぶ大型船を数隻連ねての運行はリスクが高すぎたことでしょう。ましてや今回は皇帝の特使一行が同行しています。沈没しましたごめんなさい、では済みません。


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復元された遣唐使船

第一、裴世清はスパイですから、情報収集のため、陸路を時間をかけて進む必要があります。
全ての目的を達したから、帰りは「さっさと帰らせろ」と自分から申し出たのです。

それにしても、小野妹子は流石大した人物ですね。
全てを分かっていて水面下でそれをコントロールしたのです。
外務省は小野妹子を神棚に祀るべきでしょう。



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明年 上遣文林郎裴清使於倭國
度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中 
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 
其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也

翌(608)年、皇帝、文林郎、裴清を倭国に使わす。
百済を渡り、竹島に至り、南に𨈭羅国を望み、都斯麻国の遙か大海中に在るを經。

また東して一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。
その人、華夏に同じ。
以て夷洲と為すも疑いは明らかにすること能わざる也。



前回、隋の煬帝が、いかに倭王・阿輩雞彌からの国書に激怒したか、を書きましたが、その怒りは我々普通の現代日本人には想像もつかないでしょう。
少しでも想像するためには、隋以前の中国史、皇帝という存在の意味、朝貢の本質などを理解しなければなりません。

煬帝へ国書を届けたのは、遣隋使・小野妹子であり、この記録は『日本書紀』にも残されています。
それによれば、小野妹子一行が派遣されたのが、推古15年(607)7月です。

十五年秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作突爲通事。

有名なことですが、紀に隋ではなく大唐と書かれているのは日本側の間違いです。個人的には間違いというより故意だと思います。
今でも日本人は、かつて中国大陸に存在した様々な民族の様々な国家を一緒くたに平気で“中国”と言っているではありませんか。
隋を唐と呼ぶより遥かにひどい間違いです。唐は隋から皇帝を禅譲させて立てた国ですから尚の事、当時の慣例で“大唐”と一括りで呼んだのでしょう。

そして、翌608年、紀によれば、その年の4月、上記の裴世清(はいせいせい)一行とともに帰国します。
当時、日本から長安まで航路・陸路で片道どの程度の日数がかかったのか分かりませんが、何にせよ、煬帝の怒り収まらぬうちに裴世清は送り出されたことでしょう。

この裴世清については、身分や人物が不明で様々な推測がなされています。
何より文林郎という役職がよく分からないのです。
しかし、それも当然といえば当然、事のいきさつから見れば、どう考えても彼は隋のスパイでしょう。
それがピンとこないで普通の友好使節団団長くらいに思っているから日本人は平和ボケと言われるのです。煬帝が、いったいどれくらい怒り狂ったか、ということに、考えが及ばないから甘ちゃんなのです。

参考までに、煬帝の治世の一部を紹介しましょう。

即位後すぐに廃太子の楊勇を探し出して殺害。
弟の漢王楊諒の反乱鎮圧殺害。
質素を好んだ父文帝とは対照的に派手好み。
大土木事業を大々的に推し進め、100万余の男女が徴発されて労苦にあえぐ。
自身の行幸や首都の輸出入、軍の輸送などに人民を酷使。
長城の修築に100万余の男女を徴発し、過酷な労役で多くの死者を出す。
行幸を東西に繰り返し、国庫や民衆に多大な負担を負わせる。
諸国の朝貢使節を頻繁に招き、民衆に多大な災難を招いた。(610年
113万人の兵士を徴兵し高句麗遠征に大敗。(611年
4回目の高句麗遠征を計画するが遂に自軍の反乱に合う。
自ら軍を率いて北方の突厥鎮圧に向かうも撤退。
中国全土で反乱がピークに。(616年)
反乱鎮圧に殺戮政策をもって当たったが失敗。
諫言や提言する臣下を殺戮。
酒色にふける生活を送り臣下によって殺害される。(618年)
(Wikipedia)

このように、煬帝は中国史を代表する暴君とまで云われている人物です。
上の「諸国の朝貢使節を頻繁に招く」のが610年、この裴世清が帰国した翌年です。
611年には高句麗へ戦争を仕掛け、破滅の道を歩み始めます。

あの状況下で、煬帝が、気持よく小野妹子ら遣隋使一行を帰国させ、隋側からも返礼の友好特使を派遣するわけがないでしょう。

おそらく、日本が陸続きだったなら、まずは恭順の脅迫が、次に軍そのものが来ていますし、遣隋使の命も危うかったでしょう。それが普通の反応です。
海のはるか彼方では、少人数しか派遣できないので、武将ではなく智将を送ったのです。

しかも、倭に入った後の言動の記録を見れば、相当に肝の座った人物でなければ務まりません。知力、気力、体力、胆力、すべてを兼ね備えた適任者を選出したはずです。

任務は、当然、倭王の非礼を責めること。
倭国の実情(行程・地勢・軍事力・政治力・経済力・食料自給力・等々国力全般)を探ること。
早い話が、開戦可能か?どの程度の兵力が必要か?どのような作戦で攻めるべきか?戦費はどの程度になるか?、というようなことを検討するための材料を入手するのです。

当然、小野妹子は、煬帝の怒りも裴世清の送られた意味も全て了解済みです。
だからこそ、煬帝から天皇へ当てられた返書を、帰国前に処分して持ち帰らなかったのです。

爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。

於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑
時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。

罰を受けることは百も承知で、盗まれたことにした小野妹子。
それを察し、重臣から言い渡された刑罰を即座に解いた天皇。
戦国時代劇かスパイドラマのようなぎりぎりの駆け引きが繰り広げられていたのです。

特使がスパイなわけがない、と考えるのも世間知らずで、日本は現在でもスパイ天国と馬鹿にされますが、スパイの主体は主に大使館員です。

裴世清の連れた12人の随者も、当然目的にそって選びぬかれた人物たちでしょう。
隋の煬帝が倭国に送り込んだスパイ裴世清は、

度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國

と、行程しますが、この秦王國が四国北西部だと私は考えています。(後述)
都斯麻國・一支國・竹斯國を通説通りだとすると、そこから「東至」は、北九州東岸地方か中国地方のどこか・四国のどこか、です。この時代のヤマトが九州にあると主張する人以外は、後者のどちらかと認めてもらえるでしょう。そしてその99%は中国地方だと言うでしょう。それが勘違いだということを次回で説明します。
九州を経て東に向かうのですから竹斯國の先も海路です。

そして、その先が秦王國だったのです。
その秦王國で、裴世清は腰が抜けるほどびっくり仰天しました。

もちろん、当然のこと倭国へ行くにあたって、裴世清は正史の類は全て目を通してきています。自国で知り得る限りの情報を詰め込んで来日しています。

その驚きの衝撃度が「華夏」という言葉に現れているのです。


リンク先では、「華夏」という言葉が中国人にとって、どれほどの意味を持つのか、詳しく解説しました。
この「華夏」を、ほとんどの人が、たんに「中国人」と訳して、それで終わりなのです。
れどころか、次の文の「夷洲」の文字を見て「野蛮な蛮夷の国だと聞いていたがそうではなかった」などと解釈する人がいますが大間違いです。

「華夏に同じ。以て夷洲と為す」。「以て」は当然前文にかかります。
華夏から連想した夷洲、という意味が全く分かっていないのです。

中国大陸の歴史は、御存知の通り、飢えと殺戮の歴史です。
全人口が半分になったり、3分の1、6分の1になったりの増減を繰り返します。
もちろん、それらは戸籍で把握された人口であり、実際にはもっと生き残っていたでしょうが、大変な増減があったことは間違いありません。
このため、中国人自身が華夏と読んでいた人々さえ、極端な人口減少や多民族との混合で存在が薄れ、本来の華夏と呼べるような民族は、ほぼ滅亡したとも言える状況でした。

裴世清を派遣した煬帝(楊広)の父は、の初代皇帝・楊堅(ようけん)。
その父は、中国北部の遊牧騎馬民族「鮮卑」が建てた「北周」の大将軍・楊忠
楊忠の父は、同じく「鮮卑」が建てた「北魏」の将軍・楊禎
この楊氏は、後漢楊震の末裔称し、その先祖は前漢初期の楊喜と云われる。
その父祖まで遡り、彼らが中原の居住民であって、やっと正真正銘の「華夏」なのです。

倭国で偶然出会った人たちを、そのような「華夏に同じ」と表現したことが、いかに凄いことか理解しなければなりません。
もちろん、華夏と自称する人たちは隋にもいたでしょう。
書物で華夏人たちの特徴や文化も知っていたことでしょう。
なんにせよ、裴世清にしてみれば、驚天動地の出会いだったのです。

例えば、もし、現代日本人がジャングルの奥地を探検していたら、突然日本人村が現れ、村を見渡すと鳥居が立っており、子どもたちはじゃんけんをして遊び、しかも村人の格好は、まるで平安貴族のようであり、試しに話しかけてみると公家言葉で返してきた、というような驚きなのです。

しかも日本では外国にそんな村があることを誰も知らない、という状況です。
想像を絶する驚きです。

そこで裴世清は脳みそをフル回転させます。三国志、漢書、後漢書、論語、礼記の東夷・九夷の記述、そして史記の徐福伝説
上古から、東海の彼方にある東夷の君子の国の話は語られてきましたが、具体的な移民の情報は徐福のものだけです。
史記には、徐福が始皇帝の許しを得て「蓬莱、方丈、瀛洲という名の三神山」へ向かったという記述がありますが、裴世清が呼び起こした記憶は後漢書だったようです。

又有夷洲及澶洲
伝言秦始皇遣方士徐福将童男女数千人入海求蓬莱神仙不得
徐福畏誅不敢還遂止此洲
世世相承有数万家
人民時至会稽市
会稽東冶県人有入海行遭風流移至澶洲者
所在絶遠不可往来
 
また、夷州(いしゅう)及び澶州(せんしゅう)がある。
言い伝えでは、秦の始皇帝は方士徐福を遣わし、童男童女数千人を引きつれ、
蓬萊の神仙を求め海に入ったがこれを得られなかった。
徐福は(罰を受け)殺されることを畏れ、あえて還らず遂にこの洲にとどまった
代々ともども受け継ぎ数万家を有する

人民はときどき會稽の市に来る。
会稽東冶の県人は海に入り行き、風に遭い流されて澶洲に至る者がある。
絶縁の所に在るゆえ往来はできない。

「その人、華夏に同じ。以て夷洲と為すも疑いは明らかにすること能わざる也」

ありえないことに華夏人と遭遇したために、この後漢書の一文を思い出し、
「もしかしたら、ここが、あの伝説の、徐福が向かったとされる“夷洲”なのか!?」
と考えたわけです。(澶洲は上記の記述内容から台湾と考えられています

当然、現地の人や遣隋使には、あらゆる角度から質問したことでしょう。
しかし、彼らの正体は分かりませんでした。
当人たちに先祖の記憶や伝承がなかったのか、とぼけられたのか、遣隋使に隠されたのか、あるいは正体をつきとめて隋朝へは報告したが、記録に残すことを禁止されたか、可能性はどれもがありえます。



又經十餘國 達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於倭
また十余国を経て、海岸に達す。竹斯国より東、みな倭に附庸す。
倭王遣小阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎
後十日 又遣大禮哥多毗 從二百餘騎郊勞
既至彼都 其王與清相見 大 曰
「我聞海西有大隋 禮義之國 故遣朝貢
 我夷人 僻在海隅 不聞禮義
 是以稽留境内 不即相見
 今故清道飾館 以待大使
 冀聞大國惟新之化」
清答曰
「皇帝並二儀 澤流四海 以王慕化 故遣行人來此宣諭」
既而引清就館 
其後清遣人謂其王曰
「朝命既達 請即戒塗」
於是設宴享 以遣清 復令使者隨清來貢方物
此後遂絶

倭王は、小・阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。
後十日、大禮の哥多毗(かたひ)を遣わし、二百余騎を従え郊勞せしむ。
既にして彼の都に至るに、その王(倭王)、清(裴世清)と相見て、大いに悦び曰く、

我聞く、海西に大隋有り、礼儀の国なりと。故に遣わして朝貢せしむ。
 我は夷人にして、僻りて海隅に在り、礼儀を聞かず。
 是を以て境内に稽留し、即ち相見えず。
 今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待つ。
 願わくは大国惟新の化を聞かん」。

清、答えて曰く

「皇帝のは二儀に並び、澤は四海に流る。
 王、化を慕うを以って、故に行人を遣わし、ここに来たり。宣べ諭さしむ」と。

既にして清を引いて館に就かしむ。
その後、清、人を遣わし、その王に謂いて曰く
「朝命は既に達せり、請う、即ち戒塗せよ」と。
ここに於いて、設宴を享け、以って清を遣わし、復た使者をして清に随いて来たりて方物を貢せしむ。
この後、遂に絶ゆ。


「阿輩雞彌」の訓みは、(おほきみ)=おおきみ、らしいのですが、
「阿輩臺」は何故か、(あほたい)とか(あへと)とか色々です。
まれに(あはだい)とか読む方もいらっしゃいます。

あへ)は「安倍」のことだという説です。
これは、ヤマトで裴世清を迎える役を仰せつかった四大夫(まえつきみ)の一人に「阿倍鳥(あべのとり)臣」がいるためです。つまり、「アヘト」は「アヘ(之)トリ」。
なるほど、これは十分傾聴に値する説です。厳密に検証すると別人物(後述)ですが、記憶(記録)違いということもありますからね。


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阿閉(安倍)氏は生粋の阿波氏族です


私は繰り返し「阿輩」(あは)=「阿波」説を提唱しておきます。
この「邪靡堆」は、魏志倭人伝いうところのの「邪馬臺」だと書かれています。
魏志には邪馬臺国の官吏が数人登場します。

支馬(いしま)(いきま)
彌馬升(みましょう)
彌馬獲支(みまかき)(ミマワキ)(ミマカシ)(ミマワシ)
奴佳鞮(なかて)

全部、阿波の主要地名じゃないですか。
地名を冠した官吏名じゃないでしょうか。○○市長、○○町長、みたいな、ね。
日本の場合、天皇家、古代氏族・豪族、地名を組み込んだ名前が多いのは御存知の通りです。

さて、最後にやっと都の位置探しです。




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『隋書』倭国伝

倭國 在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王 
夷人不知里數 但計以日
其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去 樂浪郡境 及帶方郡並一萬二千里 在會稽之東 與儋耳相近

倭国は、百済・新羅の東南、水陸三千里に在り。大海中に於いて山島に依りて居る。
魏の時、中国に訳通すは三十余国。皆、自ら王と称す。
夷人は里数を知らず、ただ計るに日を以ってす。

その国境は東西五カ月の行、南北三カ月の行にして、各々海に至る
その地勢、東高西低
邪靡堆に都す。則ち、魏志謂うところの邪馬臺なるもの也。

古より云う。楽浪郡の境及び帯方郡を去ること一万二千里、会稽の東に在り。儋耳と相近し。


隋書以前の国史にも登場する「倭国」の「都」の名は「邪靡堆」(やまと)で、これが魏志(倭人伝)いうところの「邪馬臺」だということです。


漢光武時 遣使入朝 自稱大夫
安帝時 又遣使朝貢 謂之倭奴國
桓 靈之間 其國大亂 遞相攻伐 歴年無主
有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立為王
有男弟 佐卑彌理國 其王有侍婢千人
罕有見其面者 唯有男子二人給王飲食 通傳言語
其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 為法甚嚴
自魏至于齊 梁 代與中國相通
 
後漢の光武帝の時(25−57年)、遣使、入朝し、自ら大夫と称す。
安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。
桓帝と霊帝の間(146−189年)、その国大いに乱れ、遞に相攻伐し、年歴るも、主無し。
女子有り。名は卑彌呼。能く鬼道を以て衆を惑わす。ここに於いて国人、共立し王と為す。
男弟有り、卑彌を佐けて国を理む。その王、侍婢千人有り。
その面を見たることある者罕なり。ただ男子二人のみ有りて、王に飲食を給し、言語を通伝す。
その王、宮室、楼観、城柵あり、皆兵を持ちて守衛し、法を為むること甚だ厳なり。
魏より斉・梁に至るまで、代々中国と相通ず。


中国正史は、まずそれ以前に書かれた正史その他を通読し、引用するのが定石です。
その後で、新しい情報を付記するのです。
この部分も、ほとんどが先の正史の引用であるのは一目瞭然ですが、書き誤りでない限り新しい情報も含まれています。

たとえば女王の名は「卑彌呼」ですが、そのあとで「卑彌」を助けて云々、とあります。
「卑彌呼」の訓み方は一般にヒミコですが、隋書の書き方が間違っていなければヒメかもしれません。
正確な訓みはまだ不明なんだそうです。

また、三国志では、卑彌呼に仕えた男子は一人ですが、隋書では二人になっています。
書き間違いか、別の情報源があったのか、三国志に記される男弟を加えて二人と書いたのか?不明です。
ここまでは、このように既出の情報が主たる内容ですが、いよいよここからが、隋書の面白いところです。


開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
上令所司訪其風俗。
使者言倭王以天為兄、以日為弟、
天未明時出聽政、跏趺坐、
日出便停理務、云委我弟。
高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。

隋の開皇二十年(600)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を闕(けつ・王宮の門)に詣しむ。
上(文帝)、所司をしてその風俗を尋ねしむ。
使者言う、「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐す。
日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と。

高祖曰く「これはなはだ義理なし」。ここに於いて訓してこれを改めしむ。
王の妻雞彌(きみ・けみ)と号す。
後宮に女六〜七百人あり。太子を名づけて利歌彌多弗利(りかみたふり)と為す。


倭王、阿毎多利思比孤(天帯彦あるいは天足彦:あまたらしひこ)、号は阿輩雞彌(阿波王:あはきみ・けみ)、遣使を宮殿に詣らす。

何故か旧唐書では「あめ」と訓まれることの多い「阿毎」ですが、隋書では「あま」と訓むのが一般的です。なんだかな〜ですね。「旧唐書に見る倭国」 に書いたように、これは「あま」か「あば」でしょう。
次に号の阿輩雞彌にも注意してください。

「阿波」の本来の発音が「あわ」ではなく「あは」であることは既に当ブログに書きました。
隋書は正確に「阿輩」と記しています。

一般的には御存知の通り「おおきみ」と訓んでいます。
どう訓めば、「阿輩」が「おほ」になるんですか

「あはきみ」だと解釈に困ってしまうが「おおきみ」だと納得しやすい、ということなんでしょう。
それが学問的態度ですか?
素人の歴史ファンならともかく学者諸氏はそれでいいんでしょうか?


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こういった、まともな本もあります

(中略)

風俗記事が長く続きますが略します。が、一か所突然に具体的な地名が出てくるので説明します。

有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行禱祭

阿蘇山あり、その石故無くして火起こり天に接することあり。
俗、以ってこれを異となし、因って禱祭を行う。


倭国には「阿蘇山」という火山があり、その噴火は凶兆だとして祈りを捧げる風俗が報告されています。これを持って、倭国=肥後国=九州=邪馬台国、と断言する方がおられます。

当然といえば当然なんですが、中国正史に書かれる「倭国」の見方が間違っています。今まで繰り返し書いたように「倭国」という特定の国はありません。

「倭」があり、その中に100以上の「国」があり、内30余国は中国と直接の繋がりがありました。
中国正史が「倭国」と書くとき、この「倭の国々」の「総称」として書く時と、そのうちの「一つの国」を指して書く時があります。
例えば、倭に属するA国も倭国ですし、B国も倭国なのです。
たまに、その個別国名を具体的に書くことも有ります。

『隋書』に限定して見ると、「倭國」は、「魏時」、「中國」と通じていた数「三十餘國」で、皆自ら「王」と称した。 「都於邪靡堆」と、ヤマトは「国」ではなく「都」として別扱いであり、つまり、倭国という時には「倭の国々」の「総体」で書いています。
「倭の国々」の中の「個体」としては「倭奴國」の名が登場します。

旧唐書にも「倭國者 古倭奴國也」の一文があります。
これで旧唐書の当該箇所で言う「倭国」は、倭の「総体」国ではなく「個体」国だとわかるのです。

その旧唐書中の「倭奴國」「其王・姓阿毎氏」ですから、隋書中の「倭王・姓阿毎・字多利思比孤」の「倭王」とは「倭奴國王」ということになります。

中国史が「倭国王」と書いていても「倭国全体の大王」のことなのか、「倭の中の一つの小国王」なのかは分からず、それは、このように文脈で判断するのです。

この隋書の「伝」は「倭国伝」であって「倭奴國伝」ではありません。
従って、「風俗記事」に書かれるのは当然「倭国全体の風俗」なのです。
そして、その「倭の国々」の中には、当然、九州にあった国々も含まれるのであり、阿蘇山が出てきても何の不思議もないのです。

これが「倭奴國に阿蘇山がある」とか「邪靡堆に阿蘇山がある」と書かれていれば大変なことです。
どの史書にもないレベルで、ピンポイントで、当時の倭の国々をまとめる大王が都していた首都国の所在地が判明するからです。


新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。

新羅や百済は皆、倭を以って、大国にして珍物多しと為し、並にこれを敬仰して、常に通使往来す。

大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。
使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」
其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。
帝覽之不、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
 
大業三年(607年)、その王、多利思比孤、使いを遣して朝貢せしむ。
使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ばしむ」と。

その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。
帝(煬帝・604年8月21日 - 618年4月11日)、これを見て悦ばず。
鴻臚卿(こうろけい・外務大臣)に謂いて曰く

蛮夷の書、無礼なる者有り。復た以って聞することなかれ!

と。


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怒怒怒ぬぬ・・・・牟牟牟むむ・・・・・尾、尾野礼、阿波気美戸屋良・・・

阿輩雞彌(あわきみ)は、続けて大業三年(607年)、使者を隋に送ったが、その時の国書が有名な「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々です。
これに対し、隋の煬帝は「蛮夷の書に無礼あり。二度と奏上するなかれ」と激怒しました。
 
過去記事でも中国の朝貢制度の本質について書きましたが、それからすると全く許しがたい国書だったわけです。煬帝は皇帝としての顔を潰された思いで怒りに打ち震えたのでした。

一体何が「皇帝としての煬帝」を否定することになったのかといえば、それは「天子」の文言です。

中国の観念では、まず「」という存在があり、その「天の意思」が、「地上の支配者」となる者を選びます。これが「天命」であり、選ばれた者が「天子」です。政治的には、この天子が「皇帝」を名乗ります。

天が天子を選出する基準は、その人物の「」です。
朝貢という儀式は、この「天子の徳」を人民に証明するための一大政治ショーであり、「皇帝の徳が高ければ高いほど、その徳を慕って、より遠方の国から進貢が行われる」とされました。

したがって、その「進貢者自身が天子を名乗る」などということは、中国側から見れば、全くありえない、朝貢そのものと皇帝の存在の全否定なのです。



中国大陸の国家の歴史は、常に、この「天子の存在」をかけて血で血を洗う争いの歴史でした。なぜなら、

天子は地上にただ一人の存在

だからです。

有名な「三国志」は、同時代に三人の皇帝(天子)が即位した、という戦国時代のヒストリーです。天子を自称するのは自由、後はそれを実力で証明するのです。

そういった激烈な歴史の中で皇帝を名乗っている人物に、海の向こうの小国の王が「私も天子である」と名乗ったのです。これは同じ大陸内であれば、宣戦布告そのものです。

倭国側も対等の関係を示すに最も適切な単語として選んだのですが、そういった観念まで理解した上で「天子」を使ったのかどうかは不明です。
知った上でのことならば、意図的にかなり危ない橋を渡ったことになります。


(続く)


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夏、殷、周、秦の始祖は黄帝の子孫(らしい)

いきなり主題から外れますが、『隋書』倭国伝の中には、かなり興味深い記述がありますので、その点に関し若干予習したいと思います。

文章をまとめるのが面倒なので、今回は主としてWikipedia等から引用抜粋(一部文章を書き変えてます)し、コメントを加える形で書いてゆきます。(楽だわ〜)

 ◯引用部 ※乃良根公の解説


◯論衡(ろんこう) 後漢 王充(おうじゅう・27年 - 97年)著。
 
論衡 異虚篇第一八 

周時天下太平 倭人來獻鬯草
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず。

◯周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)

論衡 恢国篇第五八

成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯
成王の時、越裳(えっしょう)は雉(キジ)を献じ、倭人は暢草を貢ず。


◯成王(せいおう)

周朝の第2代王・在位期間前(1021年? - 前1002年?)

越裳(えつしょう)

中国後漢の王充の著書『論衡』にあらわれる、中国南部に居住していたとみられる民族の名称。 西周の時代に、天下泰平の象徴として、白雉を献上した。
 
東方に居住していた倭人が鬯草を献上したことと、一対のできごととして著者にとらえられている。
 
「越」は粤(えつ)とも書く。
 
粤は『漢書』地理志に「その王は皆、夏王朝の始祖禹の子孫であり、又その子孫、帝小康(ていしょうこう)の諸子の後胤 (こういん) 」とある。


(か、前2070年頃 - 前1600年頃)は、中国の史書に記された最古の王朝

夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。
殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。

◯殷(いん、前17世紀頃 - 前1046年)は、中国の王朝。

文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。

◯周(しゅう、前1046年頃 - 前256年)は、中国の王朝。殷を倒して王朝を開いた。



◯殷代から春秋時代にかけては、邑(ゆう)と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。
殷代、東周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。 戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。
 
邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。
そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集の経済を営む非定住の部族が生活していた。

彼らは「」と呼ばれ、しばしば邑を襲撃し、略奪を行った。そのために存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に併合された。 さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。 大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展のために、大邑はその領域を拡大してゆく。 こうして、春秋末から戦国にかけて、中国の国の形態は、都市国家から領土国家へと発展していった。


倭国との関連(岡田英弘説)
 
古代中国の史書では洛陽盆地から見た非中国人を夷狄戎蛮(東夷・西戎・南蛮・北秋)と称する。

岡田英弘は、史記での記夏人伝承の分布地などから、また史書に記述される夏人が龍を祖先神とする事などから、 東夷を夏人とし、水上民族であったのではないかとする。
岡田は夏及びその後継と言われる河南省にあったとされる杞(き)国などを参照しながら、 「夷」と呼ばれた夏人が、長江や淮河(わいが)流域の東南アジア系の原住民であった事や、 禹の墓があると伝承される会稽山が越人の聖地でもあり、 福建省、広東省、広西省からベトナム北部に掛けて活動していた越人が夏人の末裔を自称している事、 また周顕王(けんおう)36年(前333年)、越国が楚に滅ぼされ越人が四散した後、 秦始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる徐福の伝承などを示した上で、 後燕(こうえん)人が朝鮮半島に進出する前に、これら越人が日本列島に到着したのだろうと推定する。
 

◯漢書(かんじょ) 

後漢 班固(32〜92)撰。
前漢(前206〜後8)の歴史を記した史書。全百二十卷。

漢書 卷二十八下 地理志第八下 燕地条

然東夷天性柔順 異於三方之外 
故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫 
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云

然(しか)るに東夷は天性柔順、三方の外に異る。
故に孔子は道の行なわれざるを悼(お)しみ、浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな。
樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、歳時を以って來たり獻見すと云う。

東夷の者の性質は天性柔順で、中国の近くの三方向の蛮族とは異なる。
ゆえにあの孔子でさえ、わが国人民の道理に反する生き方を憂い、できることなら海に出て九夷(東方の理想の島國)に行きたいと欲したのだ。
(そのような故事から思い起こされるには)楽浪の海には倭人がおり、分かれて百余国を作っている。時を選んで朝貢してきた、と言い伝えられていることである。


漢書を書いた班固の認識では、「九夷」と「倭人」は同じ、または近い関係としていたらしいことが上記の書き方から覗えます。
では、その東夷と九夷、孔子が実際それらについてどのように言ったのか、を見てみましょう。


◯東夷(とうい)

東夷(とうい)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。
本来は古代中国が東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。

黄河流域では、ほかの地域に先んじて文明が発達した。
黄河文明の担い手であった漢民族は、周辺の諸民族を文化的に劣ったものとして見下した。
漢民族は、自らを「華夏」と呼び、周辺の諸民族を「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼んでいた。
『後漢書』東夷伝に以下のように記されている。

『礼記』王制篇に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とあり、その意味は「恵み育て生命を尊重することで、万物は土地に根ざしてできるものである」となる。
そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国不死の国があるとさえいわれる。

このように初めの「夷」には侮蔑的な意味合いは見受けられず、むしろ好意的な印象を受ける。しかし周代以降、現在の江蘇省や山東省付近に斉や魯といった漢民族系の国々が建国され、東夷と呼ばれた人々が漢民族に同化されていくと、「東夷」という言葉は現在の中国東北部や朝鮮半島に住んでいた人々、すなわち濊,貊,倭,韓といった諸民族を指す用語となった。

しかし、中国東北部の東夷においても「東夷は一般に心穏やかに行動し、心に謹むことを慣習としている。これは他の三方の蛮夷(北狄,西戎,南蛮)と異なるところである」(『後漢書』東夷伝)と記し、また「東夷諸国は夷狄の邦(くに)といえども、俎豆(そとう)(祭器の名に由来する礼法)の礼がある。中国ではすでにその礼を失ってしまったが、東夷ではそれがまだ信じられている」(三国志東夷伝)、と記していることから、侮蔑というよりむしろ敬意を感じる。

◯九夷(きゅうい)

昔、中国の漢民族が東方にあると考えた九つの野蛮国。
畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷をいう。

◯『論語』

「子欲居九夷 或曰陋如之何 子曰 君子居之 何陋之有」
 
子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰く、陋(ろう)なり。之、如何(いかん)と。
子曰く、君子之に居す。何の陋か之あらんと。

孔子が(道理の廃れた国を厭い)九夷(の国)に住みたいと言った。
ある人が、九夷は陋であるのに一体どういうことか?と問うと、
孔子は「君子が居る国なのだから何のいやしきかことがあろうか」と応えた。

◯陋 ロウ  心が狭く卑しい。

雑談ですが、後段(君子居之、何陋之有)の意訳は人によって違います。ざっくり言うと「君子がそこへ行けば流石の九夷の奴らも教化されるだろう」というものと、
上に書いたように、「そこは既に君子がいる国なのに何も卑しいことなどあろうか」というほぼ真逆の解釈です。
みなさんは「原文」を見て、どう感じますか? どうも差別意識や自虐意識の強い人は歪んだ解釈しか思い浮かばないようです。(笑)


子曰 道不行 乘桴浮于海 從我者其由與 子路聞之喜
 
子曰く、道行なわれず。桴(いかだ)に乗りて海に浮ばん。
我に従う者は其れ由(ゆう)かと。子路之を聞きて喜ぶ。

孔子が言った。(この国では)道理が行われない。(故に)いかだに乗って、海外に行ってしまいたいが、(その時)私について来る者は由(=子路)ぐらいのものだな。子路はこれを聞いて喜んだ。


孔子(BC552年〜479年)は、当時の中国で道理が廃れていることに心を痛めて、できることなら海に浮かんで「君子のいる国」=「九夷」へ移住したいくらいだ、と皮肉っているのです。

このように、孔子を含め、上古、漢人の東夷に対するイメージは「東方の理想郷」のようなものだったことが分かります。
そして、それが、BC219年の徐福の東進に繋がるのです。


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◯徐福(じょふく)

徐福(じょふく)は、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士。斉国の琅邪の出身。
司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。

於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。

東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。
蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。
瀛州はのちに日本を指す名前となった(『海からの世界史』)。「東瀛(とうえい)」ともいう。魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は行政区分として制定される。



さて、かなり大雑把な説明ですが、わかりやすく書くと、「国」とは元々「郭」のこと(上に書いた邑(ゆう・むら)の発展形)で「城郭都市」を表しますが、その「国」が発展・増加した後、やがて統一され、天命を受けた天子がこれらを従え統合することになります。

この天子は、始皇帝以来「皇帝」と名乗りますが、この皇帝が居する「国」(
城郭都市)だけを他の「国」と区別して、特別に「中国」と呼びました。

この「国」よりも広い範囲を示す言葉は「」(ホウ・字義は領域。訓読みではクニですよね)でしたが、前漢を建てた皇帝の名が「劉邦」だったので、無礼にあたってはいけないと「邦」の字を使うことを止め「国」の字を「」のレベルまで拡大解釈して使用するようになったのです。
その流れで「中国」も「郭」を出て「領域」で使われるように変化しました。

避諱(ひき) 

避諱(ひき)とは、目上の者の諱を用いることを忌避する、中国など東アジアの漢字文化圏にみられる慣習。中国では古来より、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なことと考えられており、特に皇帝およびその祖先の諱については、あらゆる臣下がその諱あるいはそれに似た音の言葉を書いたり話したりすることを慎重に避けた。
ある王朝の皇帝に関する避諱の範囲はその時代のあらゆる言語表現に及び、例えば、避諱に触れる文字を含む人名や地名があったときには、適宜諱に当たらない名前に改めさせられた。 (Wikipedia)


やがて、この狭義の中国というエリア(中原と呼ばれる)は、その中に華山がそびえていたことから「中華」とも呼ぶようになり、それ以外の蛮夷の住む地域とは区別する選民意識が生まれます。

日本でも「日本国」を建国した人、それを支えた人々は、天皇家を除いても奈良や京都にいたわけであり、当時は列島全体が日本ではなかったのですから、ある意味、「真(元々の)の日本人」というのは、その人達ということも可能です。ましてや、中国は現在でも80以上の民族がいると言れるほどの多民族大陸であり、当然それらは文化も言葉も服装も全てが違います。上古ではもっと多数のまるで違う民族がそれぞれ各地方に居住していたのですから、はっきり言って同じ大陸の人民とはいえ、まるで外国人のようなレベルでそれぞれが違う人々なのです。

その中で、中国人にとっての本物の漢人というのは、この「中華人」のことであり、さらにその根源となる人達を「華夏」と呼びます。


◯華夏族(かかぞく)

華夏族は、漢の時代以前に、中原の黄河流域に暮らす部族で、漢民族を構成する主体でもある。
漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていた。

学者によると、周王朝(前1066年 - 256年)の創立者である周武王が商王朝(前16世紀 - 前1066年)の末代の商帝辛を討ち取った後中原に定住し、その一族を「華族」と称した。
また夏王朝(前21世紀 - 前16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている。


◯越(えつ、前600年頃 - 前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。

首都は会稽。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。

越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。
なお、『三國志』「烏丸鮮卑東夷傳」に記される「夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害」に沿って述べると、『吳越春秋』「勾踐伐吳外傳」によると、吳を滅ぼした越王の勾踐(こうせん)の流れが、會稽に封ぜられた夏后(かこう=夏)少康(しょうこう・夏朝の第6代帝)の庶子の無余(むよ)からの流れとされることから、越の国の禹祠主宰者のルーツは紀元前ニ千年紀前半まで遡るとも言い得る。
紀元前473年に呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。

禹祠(うし) 禹王の陵墓とされるのが会稽山の大禹陵で、
 そこに「禹陵」「禹祠」「禹廟」がある。
禹(う・夏朝の初代帝。禹は“龍”のこと)。



上の「倭国との関連」を再読してください。

夏人の後裔である越人の一部が、日本列島のどこかに移住し、上の「東夷」と呼ばれる人達になったのです。
琅邪出身で、琅邪を出て日本に向かったとされる徐福もまた、この越人だった可能性が高いのです。


次回、これらを記憶において、『隋書倭国伝』を読んでみましょう。




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旧唐書に見る倭国


前回、次は「他の中国正史に見る邪馬臺國の位置について書いてみようかな?」な〜んて書いてから早2年が過ぎました。(笑)

前回「後漢書に見る倭国」で「当時の中国側から見た倭国の範囲とは広くとも西日本」と書きましたが、まずその外枠を確認したいと思います


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※旧唐書(Wikipedia)

『旧唐書』(くとうじょ)は、中国五代十国時代の後晋、出帝(942年 - 946年)の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。
二十四史の一つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれた。
完成と奏上は945年(開運2年)6月。
『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について、「倭国伝」と「日本国伝」の二つが並立している。


上記のように、旧唐書には「倭国伝」と「日本国伝」が含まれるのですが、他の中国正史には見られない興味深い記述もありますので、抜粋します。
 
倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 
在新羅東南大海中
山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通
其國 居無城郭 以木為柵 以草為屋
四面小島五十餘國 皆附屬焉
王姓阿毎氏 置一大率 檢察諸國 皆畏附之

倭国は、古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、
新羅の東南、大海の中に在り。
山島に依りて居す。東西、五カ月の行、南北、三カ月の行なり。代々中国と通ず。
その国、居に城郭なく、木を以て柵と為し、草を以て屋根と為す。

四面の小島、五十余国、皆、附属す。
その王、姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察せしむ。皆、之に畏怖す。

日本國者 倭國之別種也 
以其國在日邊 故以日本為名
或曰 倭國自惡其名不雅 改為日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
其人入朝者 多自矜大 不以實對 
故中國疑焉
又云 其國界東西南北各數千里 西界 南界咸至大海
東界 北界有大山為限 山外即毛人之國

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の辺に在るを以て、故に日本を以って名と為す。
あるいは曰く。倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。

あるいは云う。日本、旧くは小国なれども倭国の地を併せたりと。

その人、朝に入る者、多くは自ら大を誇り実を持って対えず。
故に中国はこれを疑う。

また云う。その国界、東西南北に各々数千里、西界・南界はいずれも大海に至り、
東界・北界は大山ありて、限りとなす。山外は、すなわち毛人の国なり。



「後漢書に見る倭国」に書いたように、古代中国の「国」の定義は、現在の「国家」とは違います。ただ、その指し示すもの(範囲)は時代とともに微妙に変化します。これは「中国」も同じです。
しかし、「国」の範囲はこの時代でも、あくまで「都市」を中心とした政治、文化、経済エリアです。

『三國志』が書かれたのは、233〜297年。後漢書が書かれた398〜445年から、ちょうど500年後に書かれたのが『旧唐書』です。

そこには、当時の日本列島の首都国の様子が上のように記されています。
まず「倭国伝」から見ていきましょう。

倭国は、古の倭奴国なり
ここでいう「倭国」とは、日本全体のことではなく、唐の時代の日本の首都国のことです。それは、後漢書に云うところの倭奴国のことであると。

これは(中国正史としては必要無いから)詳しく書いてないだけで、そう断定する根拠があったからそう書いているのです。
「代々中国と通ず」と書いているように、こちらからも遣隋使・遣唐使を入朝させ最新情報を(問題ない範囲で)与えているのです。
首都国の位置についても当然把握し、古の記録と照合もし、同じ場所だと確認しているのです。

その倭国の特徴は、「大海の中に在り」、「山島に居し」で、その“山島”は「東西に長く南北に短い“島”」です。
「五カ月」「三カ月」の行程という数字は中国特有のオーバーな表現か、こちらが与えた過剰表現(
朝に入る者、多くは自ら大を誇り実を持って対えず)かは不明ですが、「朝貢の記録」という特殊性を考えると前者でしょう。
理由は「後漢書に見る倭国」に書いたので見てください。また、この数字が誇張だという根拠は他の中国正史からも明らかなのですが、それは次回の記事を最後まで読んでいただければ分かります。
「東西五月行 南北三月行」の山島、というのは伝聞ですが、『隋書』では、実際に“そこ”ヘ行った者の行程の記録が記されているのです。

(倭国の)四面には、小島が、五十余国あり、それらの国々は、皆、倭国に附属す」

日本の首都国であるところの倭国は「島」の中にありますから、四面が海なのは当然で、その周囲の「島々」はイコール「国々」で、みな倭国の属国だというのです。

(倭国の)王の、姓は阿毎氏」

「阿」 呉音 : ア 漢音 : ア
「毎」 呉音 : マイ 漢音 : バイ
「氏」 呉音 : シ、ジ 漢音 : シ

日本の書物の音訳は、たいてい「あめし」ですが、何か根拠があるんでしょうか?あ、確か時代別の発音を検索できるサイトがありましたね。
とにかく、「あまし」「あばし」「あばじ」、こんな感じでしょうか?
確か、「阿波」の元の発音は「あは」「あば」でしたよね。
そうすると、この字の現代風発音では「あわ(し)」かもしれませんね。


「一大率を置き、諸国を検察せしむ。皆、之に畏怖す」 
魏志倭人伝に出てくる邪馬臺國と全く同じシステムです。

次に「日本国伝」です。

日本国は、倭国の別種なり」
日本、旧くは小国なれども倭国の地を併せたり

問題の箇所です。例によって、偉い先生方がこの記述の理由付けに苦心されていますが、はっきり言って、頓珍漢です。

唐の前の時代を書いた隋書では、国名は「倭国」だけです。
そしてその国の都は「邪靡堆」(やまと)である、と。

これが魏志倭人伝に登場する「邪馬臺」と同じであるのは明白ですが、日本の歴史学では全く認められていません。
「邪靡堆」を「大和地方」とする一方、「邪馬臺」のほうは「九州説」その他いろいろ、主張が異なるからです。同じだと認めるわけにはいかない事情があるんですね。

漢字使いも似ていて、読みも一緒なんだから、素直に認めればいいのに、往生際の悪い人たちです。
もちろん、「九州」も「大和」も間違いで、両国とも同じ地方のことで「阿波」である、というのが、今回の記事の主旨なのです。呆れましたか?

「あわ」と「やまと」では一音も合わんやんけ!とか言わないでくださいね。説明するのも面倒なので、そういう人は検索するかこのブログを最初から読んでください。


正解を言うと、旧唐書中の「日本国」が「大和」であり、「倭国」が「阿波」です。
これを同じ地方だと“思い込んで”解釈しようとするから答えが出ないのです。

「日本国」は畿内であり、当時の日本(ややこしいな)の首都国です。
中国正史に書かれる「国」は、全て都市単位の「小国」のことだと繰り返し書いてきました。「日本国」もその一つだったのです。ただし、もちろん元々は日本国という名ではありませんでした。


旧唐書をとりあえず信用するとした場合、倭国は、古の倭奴国、で、地勢的には、東西に長い大きな島の中にあり、四面には小島が無数にあり、うち五十余の島は「国」として機能している。
日本国(単一の小国)は、その倭国連合をすっぽり呑み込ん(併せたり)で、首都国となったわけです。
飲み込まれた元の倭国の首都の名が「邪靡堆」。
つまり、飲み込まれたというよりは、むしろ逆で、

はっきり言うと、遷都なのです。

数十国の倭国連合が一国の日本国に飲み込まれることはありません。
連合に加わった(もともと連合国の一つとも考えられます)後に京師が移された。

だから、「日本国は、倭国の別種」なのです。

唐の時代に我が国では遷都が行われていたのです。
国名の変遷こそがその証拠です。

倭国連合の首都国は「倭(い)奴(の)国」。その都が「倭」「邪靡堆」(やまと)。
その遷都先の国名が、「大倭」「大養徳」「大和」(おほやまと)。

この「大和」が8世紀初頭に「日本」と改名しました。やがて、この「日本」が首都国名としてだけではなく、日本全体の国号として使われるようになるのです。


大和 (Wikipedia)

元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。


おかしいですね。ヤマトは四面を海に囲まれた島の中にあるんですよね説明がつかないから中国正史は無視、という学問的立場なのでしょう。思い込みのほうが大事なようです。だから頓珍漢だと言うのです。


「倭国」が「大きい島」であるのに対し「日本国」はどういう地勢でしたか。
「国の界は、東西南北に各々数千里」
「西界・南界はいずれも大海に至る」
「東界・北界は大山ありて、限りとなす」


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「日本国」(大和)の西・南は海だそうですから紀伊水道太平洋ですね。
北・東は山が国境ということです。
つまり、日本海にも出ないし、伊勢湾にも出ないということで、現在の都道府県単位では、広くとも京都南部・滋賀・大阪・奈良・和歌山の範囲を越えることはなさそうです。


つまり、唐の時代でも、関西より東の日本の情報は、中国には何一つ伝わっていないことが分かります。
それより500〜650年前に書かれた三国志や後漢書に書かれている「倭の国々の様子」が最大でも西日本の範囲のことだと私が書いたのも当然だと理解していただけるでしょう。

また、東日本の地理的情報も当時の中国には無いのですから、本州は『旧唐書』の云う「四面を海に囲まれた山島」ではありません。
したがって、日本の首都国であるところの「倭国」とその都「邪靡堆」は、本州に属するいかなる地方にも無かったことが明白です。

そして、その中国が認知していた範囲に、 百余の国々があり、その総称が「倭」であり、その国の数だけ「王」がいて、彼らを束ねる「大王」の都する場所が「邪馬臺・邪靡堆」(やまと)であり、

その邪靡堆は、西日本の中で「四面がみな海=島」の地方にあり、その大きな島は「東西に長く」、周囲に王が在位する「50の島々」があるわけです。

もちろん、それ以外の島々は、この数に含まれていません。


そんなとこ、どこにありますかね〜? 

先入観のない小学生に訊くのが一番かもね。


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※追記

もっと以前から、九州ヤマト説というものがあり、倭国(ヤマト)が九州で日本国が畿内、としています。もちろん、東西に長く、南北に短い、という島の特徴は、その方角の書き間違いなんだそうです。なぜ東西と南北を書き間違えたと判断するのか?というと、そうじゃないと九州の地形に合わないからだそうです。お疲れ様。

倭の国の国魂神を祀る「倭大國玉神社」(式内社)って、どこにあるんですか?
さらに、九州が倭(ヤマト)であるならば、九州のどかかに「難波津」がなければなりません。詳しくは後編の“『隋書』からヤマト国の所在地を特定する”を見てください。

九州×畿内の二極でしか歴史を考察できない、無理があっても曲解を重ねてその枠に無理やりねじ込む、という方法論の間違いから、そろそろ脱皮していただかなければなりません。


(続く)


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