空と風

子犬を飼いたい今日このごろ

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2012年05月29日

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TOYO トランパスMT 195R16
 
外径718mmです。
ノーマルの、175/80R16が役690mmですが、3インチアップしていますので、私的にはサイズ的なベストマッチは、ダンロップ グラントレックMT2 195R16C の、外径727mm位だと思います。
 
ジオランダーMT+ 6.50R16 の、幅179mm・外径757mmは、やはり本格オフロード用ですね。
 
スタッドレスは、ジオランダーI/T-S G073 185/85R16 を使ってますが、外径は720mmです。
この車には、185〜195で、外径720〜730が、性能・バランスとも一番いいんじゃないでしょうか。
 
 
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左が今まで履いていた、ジオランダーMT+ 6.50R16、右が履き替えた、トランパスMT 195R16 です。
えらい違いますね。
 
 
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幅が太くなり、外径が小さくなります。
同じオフタイヤでもオンロード重視です。
 
195R16、と扁平率が発表されていませんが、計算するとハチマルです。
195/80R16、ですね。
 
少し外径がものたらないので、195/85R16 を出してくれたら嬉しいんですが、無理でしょうね。
 
 
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スタッドレスの185/85R16と並べると、目視で外径の差は、ほとんどわかりません。
 
トランパスMTのいいところは、 走行音が静かで、軽く、価格が安いところ。
 
直進時はほとんど無音で、タイトコーナーで前輪からMTらしい、ジャーーー。という音がする程度。
 
本格オフロードタイヤのジオランダーのような低速の振動も皆無です。
ただし、困ったことに、トランパスはハンドルに微振動がきます。
50Km以下では気になりませんが、60〜80Kmくらいではバイブレーション状態です。
目で見て振動しているのがわかるほどではありません。
これは少しタイヤが磨り減ってくると緩和されるでしょう。
 
普段ほとんど舗装路で、たまに林道を走る程度なら、このタイヤで十分じゃないでしょうか。
 
しかも、ジオランダーの185や6.50R16と比べると、1本1〜2キロ軽くなります。
非力な軽自動車ではタイヤの重量が燃費に大きく関係するようで、トランパスで過去最高の燃費を記録しました。
 
めでたしめでたし。
 
 
 

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松尾大社 (Wikipedia)
 
山城国において、大山咋神を祀る松尾神社が鎮座する松尾山は、別名を別雷山といいます。
同じく大山咋神を御祭神とする日吉大社で行われる「山王祭」は、大山咋神と鴨玉依姫が結ばれ賀茂別雷神を生むという神事です。
調べるほどに、火雷叩畭膸該霓世漏亮造と思われてきます。

大国主命の賀茂氏としての別名、賀茂建角身命の長男、迦毛之大御神こと阿遅志貴高日子根神は、松尾の王であったと考えられます。
 
徳島に土地勘のない方は地図を見ていただきたいのですが、阿波国の式内社鴨神社とその上、丹田古墳の築かれた加茂山の南西部にあたる広範囲な山間部地名を「松尾」といいます。
その西隣が「山城」です。
 
私はこの地から、阿遅志貴高日子根神の御霊は、その地名とともに山城国へ移されたと考えます。
 
京都は、下鴨神社の鴨川上流に上賀茂神社、両社の南西に松尾山です。
 
 
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阿波は、下鴨神社の吉野川・支流の加茂谷川上流に上賀茂神社、両社の南西に松尾地区です。
 
 
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角度が若干違うのは、自然の川を使って配置しているからで、基本的な位置関係は同じです。
本来の松尾神は、この阿波の松尾地区に鎮座したと考えられますが、この山深い松尾地域には松尾神社はありません。
ただ、ここが本来の松尾山であると考えられる神山があります。
中津山といいます。
少し話がそれますが、興味深い山なので紹介します。
 
 
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この中津山は別名「松尾富士」と呼ばれ、空海が雨乞祈祷したことで有名なのですが、祈祷に選んだだけあって元より神聖な山だったようです。
現在は頂上に、この話に因む中津山大権現と八代龍王が祀られていますが、それ以外にも祠があり、祀られていた神々があったようです。

その内の一社は現在山下に降ろされて二宮神社となっています。
御祭神は、猿田彦神と天鈿女命で、鎮座地名は「大利」です。
大利は(おおり)と読まれていますが、本来は(おおとし)ではないでしょうか?
 
『徳島県神社誌』には、
 
創立年代不詳。永正9年(1512)社殿再建の記録あり。
往昔、中津山に鎮座のところ、後石内村に移り此の地に祀られる。年を経て上尾後に移る。
今残る尾後の「神輿休場」はその名残の地名である。
またその後、或夜中、空中より光と共に、この神、漆川字古宮の地に降り給うたので、村人は社殿をつくり之を祀ったという。
 
と、あります。
勝浦の中津峰山と並び阿波国東西に位置し、中津の中は「長」「那賀」のナカか?
中津峰山の下には式内事代主神社、この二宮神社御祭神、猿田彦神が事代主命の別名であることから見ても同族が関係するように見えます。

近くには、式内社建神社の論社「竹神社」が在ります。
鎮座地名は、池田町松尾大申。二宮神社の鎮座する大利の南隣になります。
この大申も(おおもうし)と読むのですが、元は(おおざる)でしょう。
御祭神が、猿田彦大神だからです。
どうもこの松尾地区には、大国主一族の痕跡が感じられます。
式内社建神社の論社のご祭神は、須佐之男命〜大国主命の系列で占められているからです。
 

また、源平合戦の頃、松尾瀬戸作という者が他国(京?)からこの松尾にやって来て、地域の開拓や神事仏事に貢献したと伝えられます。
他にも、京から藤原某が突然この松尾にやって来て住み着き、背負ってきた御神体と仏像を奉斎した、と云われ、痕跡が藤原神社として残っています。

彼らはなぜ、遠い都から、この阿波の最深部の山奥目指してやってきたのでしょうか?
自分のルーツに関して何かを知っていたように思うのです。
 

私は、この松尾地区が山城国松尾のルーツと考えていますが、 阿遅志貴高日子根神(高鴨神)がここから直に移ったわけではありません。
おそらく、ここから土佐に移り、その後畿内へ分祀されたのでしょう。
大国主命が事代主命にそうしたように、阿遅志貴高日子根神は子の賀茂別雷命にこの地を譲り、土佐へ移り住んだようです。
あるいは、その子孫が土佐へ移住し、祖神を祀ったと考えられます。
 
 
以前書いたように、土佐国一宮土佐神社方には、深淵水夜禮花神(記では大国主命の曽祖父(母?))を祀る式内社深淵神社がありますが、地名でいえば阿波の松尾の東隣が深渕なのです。
阿遅志貴高日子根神の一族は、深淵水夜禮花神または深渕族の者と一緒に土佐へ移り住んだとみえます。
 
 
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深淵神社
 
土佐二の宮、朝倉神社では事代主命の后神天津羽羽神が祀られており、その西方には、加茂山毛田、と式内社天石門別安國玉主天神社
上の地図と見比べてください。
ちなみに、紀伊国の式内社、朝椋(あさくら)神社も、御祭神は、大国主命あるいは、天津羽羽神と天石帆別神と云われています。
 

天石門別神は天津羽羽神の父と伝わりますが、阿波国“続”風土記では、天日鷲命の別名を天石門別神としており、天津羽羽神が息子である事代主命の后であることから、これもまた兄弟姉妹同士の夫婦と考えられます。

斎部氏の系図によれば、天津羽羽神は天日鷲命の妹となっていますが、本当は娘だったのです。
天日鷲命は一般的に天手力雄命(天石門別神と同神ともいわれる)の子とされていますから、系譜上の混乱があったと思われます。
つまり、天石門別神(天手力雄命)の子、天日鷲命、同じく天津羽羽神、で兄弟姉妹と系譜に記された。
しかし、天津羽羽神は、天石門別神=天日鷲命、の娘だったわけです。
 

一夫多妻制のために、女性神は同神を見つけづらいのですが、仮に事代主命の后が一人だったとすれば、天津羽羽神=玉依姬、という可能性も出てきます。
どちらも、異母を持つ天日鷲命の子どうしの結婚ですから。
 
 
土佐大神が、高鴨神・阿遅志貴高日子根神だったとすれば、事代主命の后神が土佐国二宮で祀られることには不自然さがありますが(したがって、阿遅志貴高日子根神の后であるという説もある)、天津羽羽神が阿遅志貴高日子根神の同族、たとえば妹だったらどうでしょう。
その可能性は充分あると思います。

阿遅志貴高日子根神の妹に下照姫がいますが、事代主命の妹に高照姫があり、また下照姫=高照姫いう説もあり、天津羽羽神も含めて混乱が感じられるのです。
阿遅志貴高日子根神の妹、下照姫の姉妹が高照姫=天津羽羽神で、事代主命の后となったのでは?と考えているのですが、今のところ空想でしかありません。
 
 ※ 勝浦とは何か 

阿波国発、カツラ、の地名とともに、大国主命一族の痕跡が各地に広がっていると書きましたが、山城国松尾大社は、カツラ川に添って鎮座しています。
土佐国カツラ浜の上、土佐神社から分祀されたからでしょう。
 
 
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松尾大社 曲水之庭 大歩危小歩危の青石で造られている (Wikipedia)
 

松尾神社の創建は、『秦氏本系帳』では、大宝元年(701年)。
国史での初見は、『続日本紀』天平17年9月癸酉条(745年)。
 
天皇不予。勅二平城恭仁留守一固二-守宮中一。悉追二孫王等一詣二難波宮一。
遣レ使取二平城宮鈴印一。又令三京師畿内諸寺及諸名山浄処行二薬師悔過之法一。
奉二-幣祈祷賀茂松尾等神社一。

乙訓坐火雷神社は、『続日本紀』大宝2年7月癸酉条(702年
 
詔。伊勢太神宮封物者。是神御之物。宜下准レ供二神事一。勿上レ令二濫穢一。
又在二山背国乙訓郡火雷神一。毎レ旱祈レ雨。頻有二徴験一。宜レ入二大幣及月次幣例一。

神武天皇が云々と言っていますが、何の根拠もありません。

日吉神社は、『古事記』(712年)の「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」を初見としていますが、もちろん、この「時点」で「日枝の山に坐す」という意味です。
 
前回書いたように、神社名の頭に「坐」とあるのは、「そこに移り坐す」という意味で、元々そこにはいなかったことを自白しているようなものです。
もとよりそこにあったもの、本籍地を、わざわざ「○○に坐す」などと社名に冠するわけないでしょう。
ちょっと考えれば分かることです。
 
『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸)・大同元年牒(806年
 
神封部 合四千八百七十六戸(略)比睿神 二戸 近江
 
が、それ以外の国史初見です。
 
 

つまり、よくよく見れば、高鴨神・阿遅志貴高日子根神・大山咋神は、大和、山城ともに、全て8世紀になって分祀されたのであり、
 
 
『日本書紀』の天武天皇四(675年)三月二日の条
 
 土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る
 
朱鳥元(686年)の八月十三日の条
 
 秦忌寸石勝を遣わし、幣を土左大神に奉る
 
とある、7世紀以前からの鎮座が確実な、土佐神社が元社なのです。
 
さて、いよいよ本題です。
 
 
(続く)
 
 

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