闇黒日記2.0

「更新すれば非難する。更新しなければ非難する。」と云ふ人々には何う對處したら良いですか。

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「現代仮名遣」の正義と歴史的かなづかひの正義

「現代仮名遣」は、「今の人」にとつて都合の良い、と云ふ意味で「今の人にとつて正義」であるに過ぎない。それは明かに政治的な正義だ。

だが、歴史的かなづかひは、人にとつて都合が良いとか惡いとかを超越してゐる。それは政治の次元を超えた眞理の次元での「正義」だ。

「現代仮名遣」を「支持する」と稱する人々は、その次元の異る「正義」を、同じ「正義」と云ふ「言葉を用ゐる」からと言つて混同し、聯想ゲーム的に「歴史的かなづかひ」を「政治的」なものと極附け、否定する。
言葉の聯想で異る話を結び附ける「聯想ゲーム」的な發想は、言葉の「言靈」を闇雲に信じた非合理的な發想で、現代の人間がする事でない。

しかし、「現代仮名遣」は、「今の人」にとつて、決して「今の言葉」とは言へない。なぜなら――例へば「言う」と我々は言はないからだ。「經營」を我々は「け!・い!・え!・い!」と發音しない。なのに「けいえい」と「書け」と「現代仮名遣」は吾々に高壓的に命ずる。その根據は全くない。ただ「現代仮名遣いは規範であるから国民は黙って従え!」と命ずるのである。
ならば「現代仮名遣」は「正義」の押附けである。

これに對して、歴史的かなづかひは何も命じない。ただ、我々は語の自律性に基いて語をありのまゝに表記するだけである。それが誤つてゐる時、歴史的かなづかひの規則に基づいて我々は誤を正す。それだけである。正義の押附け等と云ふものは何處にもない。或は、人間が歴史的かなづかひに從ふのは、物理の法則に從ふのと同じで、隷屬ではなく、自然な事であり――或は、宿命の不自由さを意識しつゝ、宿命の中に生きる事を意識的に撰擇するのは、寧ろ自由な生き方である。抵抗は不自由な人間だけが出來る事だ。

歴史的かなづかひは、理念的には日本で日本語を文字で書表さうと試みられた時點からずつと存在して來た。それは單純に、「文字と發音とは異つてゐても良い」と云ふ言語の自然なあり方を受容れる事であつた。契沖は、「今の發音」と異る文字を用ゐる理由として「語義」の存在を考へただけだ。實際には「過去の音韻」と云ふ理由があつた訣で、だから「語義」に從ふ、と云ふ契沖の説は誤であつた訣だ。しかし、それは、「過去の音韻」に基く表記を「現代の表記」と「看做してはならない」理由にはならない。そもそも、過去に於てすら、發音と表記が一致した時代は存在しない。發音と表記はずれてゐるのが當り前なのだ。

表音主義者はそれを勘違ひして、發音と表記は一致せねばならないと信じ込んだ。これが誤である事は言ふまでもない。「現代仮名遣」でも發音と表記は一致してゐない。

「現代仮名遣」には何の根據もない――何の根據もない「現代仮名遣」が、ただ國家權力の力によつて、「正義」として押附けられた。これが、「現代仮名遣」派にとつては「認め難い現實」である。彼らは、「押附けられた」事が不滿で仕方がない――だからこそ、自分逹は「押附けられてゐない」と主張せずにゐられない。その爲に、「押附けられた正義」を「現代仮名遣」とは別にでつち上げねばならなかつた。歴史的かなづかひを「明治政府が押附けた正義と云ふ事」にしようと彼らが頻りに主張する、心理的な理由である。

實際には、彼らが「正義」と指摘する「歴史的かなづかひ」は、歴史的かなづかひの理念の面を徹底的に無視する事で初めて出現する、外觀的・形式的=觀念的な「歴史的かなづかひの形骸」に過ぎないものである。「現代仮名遣」を「支持する」と稱する人々は、豫め「嫌なもの・否定すべきもの」となるやうに「歴史的かなづかひ」を歪曲し、その歪曲された「歴史的かなづかひの形骸」を歴史的かなづかひそのものと看做して攻撃し、否定する事で、歴史的かなづかひそのものを否定し去つたものと思ひ込んだ。
彼らの心理では、歴史的かなづかひは「否定されたもの」である――だからこそ、「今さら」歴史的かなづかひを理念的に肯定する意見を、彼らは受容れる事が出來ない。彼らの心理の中にだけ存在する妄想の「嫌な歴史的かなづかひ」を、彼らは否定されたくないのである。「嫌な歴史的かなづかひ」と云ふ妄想を、妄想と指摘され、本當の歴史的かなづかひが良いものであると言はれると、彼らは「妄想と指摘した」と言つて怒る。

繰返すが、文字言語は音聲言語と異るのが當然である――この事實を受容れる必要がある。この事實を受容れるならば――即ち、事實をありのまゝに受容れる態度を人間が取るならば、全ての人が歴史的かなづかひを受容れざるを得ない。
音聲言語に文字言語を一致させようとしつゝ、それが失敗したのを、文字言語の規則と云ふ「例外」によつて正當化した「現代仮名遣」を、現實から目を背けた虚僞の存在として、人は排斥せずにはゐられない。

歴史的かなづかひを正しい假名遣と主張する我々は、實は「歴史的かなづかひの正義」を押附けようとしてゐるのではない。文字言語の自然なあり方をありのまゝに受容れる事を主張してゐるのだし――根本的に、事實をありのまゝに受容れる事を人間の正しい態度だとして「押附けてゐる」のだ。
――が、事實をありのまゝに受容れるのは、全ての人が認めた正義・價値觀ではなかつたか。事實を拒絶するのは惡である、事實を事實としてありのまゝに認めるのは正しい事である。全ての人が、この正しさを認めてゐる筈である。
我々は、既に受容れられてゐる價値觀に基いて、論理の當然の歸結として、歴史的かなづかひを事實として受容れる事が正しい、と言つてゐるに過ぎない。これは正義の押附けではなく、既に受容れられた價値觀を徹底した時に人が當然取るべき態度の指摘である。


「現代仮名遣」を受容れる爲には、「自分にとつて都合の良い事は正しいと言つて良い」と云ふ價値觀を認めてゐなければならない。ところが、全ての人がこの價値觀を認めてゐない。ならば「現代仮名遣」を認める事が出來る價値觀はこの世に存在しない。「現代仮名遣」を支持する事は出來ない筈である。なのに「現代仮名遣」を「正義」だと多くの人が主張する。これはをかしい。
「自分にとつて都合の良い事は正しいと言つて良い」から「自分にとつて都合の良い『現代仮名遣』は正しい」――この理窟を、實は、多くの日本人が、自覺してゐない。「自分にとつて都合の良い『現代仮名遣』は正しいが、自分にとつて都合の良い事を正しいと言ふのは惡い事だ」と多くの人が當り前のやうに言つてゐる。俺を非難する人も屡々、俺が「自分にとつて都合のいい事を言つてゐる」と言つて非難する。が、その人は、自分にとつて都合のいい「現代仮名遣」を使ふのを惡だと思つてゐない。


歴史的かなづかひの正しさを主張するのは、自分にとつて都合のいいものとは異る・公正で客觀的な規範の存在を認めるべき事を主張するのである。


「現代仮名遣」が「正しい」として押附けられながら、それが惡であると自覺されずに多くの人に用ゐられてゐる。さう云ふ現状に對し、反省を促す意味で、歴史的かなづかひの正しさを強調する必要がある。その爲に、「元祖」「本家」と同樣、「正」と稱する。これは傲慢でも偏狹でもない。事實をありのまゝに受容れるべきだ、と言つてゐるのだから、偏狹でも傲慢でもある訣がない。スローガンとしての「正字正かな」と云ふ言ひ方を政治的だと非難する人々がゐるが、そもそも「現代仮名遣」と言ひ、「現代」を強調してゐるのが政治的なのであつて、さうした政治的壓力があつてこそ「正假名遣」を名乘るのだから、政治的であつて構はないし、「正字正かな」の政治的である事を非難したければ、その前に自分逹が政治的に「現代仮名遣」を支持してゐる事を自己批判して反省してゐなければならない。
何れにせよ、「現代仮名遣」を使用し續ける事は不可である。「正字正かな」を非難するのはナンセンスである。

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自分とは別の存在である・公正な存在である・眞理に屬する正義を以て、他者を批判する事は、「正義を振りかざす」事か。

多くの人が「さうだ」と言ふ。が、實はさうではない。
なぜなら、「正義を振りかざす」にしても、その正義が公正なものであるならば、「振りかざした當人」をも正義は公正に裁くからだ。

これは、その正義が眞理に屬するものであるならば、「一方的に正義を押附ける」事が不可能である事實を示す。

2009/3/4(水) 午後 9:08 [ nozakitakehide ]

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我々は、正義に裁かれる義務を受容れる。が、これは同時に、正義に據つて裁く權利を主張する事の許されてゐる事實を示す。義務と權利は裏腹の存在だ。

我々は、誤つた時に、正義によつて恥をかかされる。その恥を受容れるのは義務である。
が、他者が誤つた時、それを指摘して「恥をかかせる」事が出來る。
恥は人間と人間の關係の中でのみあり得る。正義に照らして誤である事を指摘するならば、結果として人が恥をかく。これは仕方の無い事だ。それを「恥をかかせる」からと言つて否定するのは、正義を否定する事にほかならない。しかし、正義が眞理に屬するもので、公正なものであるならば、それを否定する事は許されない。

同時に、正義の論理によつて裁かれたとされる人も、正義の論理によつて反論する事が當然の權利として許される。眞理に屬する正義は公正だから、さうした權利が剥奪される筈がない。
人が反論を封じる事はあり得る――が、この時、正義が「反論封じ」と云ふ行爲を公正に裁いてゐる。人と正義とは別物である。

2009/3/4(水) 午後 9:10 [ nozakitakehide ]

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松永氏の「ブログ」のコメント欄に書込んで人を騙し討ちしたtanzenもアンチで、アンチだからこそ自分に都合の良いやうに、「信者」にとつて都合が惡くなるやうに、惡意で事實を解釋――歪曲して、平氣でゐられる。

2009/3/6(金) 午後 9:00 [ nozakitakehide ]

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tanzenは、「正字正かな」と「言ふ」人間と、偏狹の觀念とに、「必然的に關係がある」とは言はなかつた、ただ「關係があるのでないか」と「示唆」した。アンチはいつもこの手を使ふ。この示唆と云ふのが大變惡辣な詭辯である事を、アンチは絶對に悟らない。示唆だから自分が直接證明する必要はない――ただ、示唆されて頭に來た人間が「ぼろを出す」のをアンチは樂しみに待つのである。これが許せない。ところが、tanzenは、自分のやつた大變な惡事を、惡事だと思へない。寧ろ、「信者」を釣り上げ、嘲り倒し、相手(俺の事だ)を泣き顏にさせて、金星を上げたかのやうに、誇つてゐる。あんな惡人もさうさうゐないと信じたいが、俺の知る限り、ウェブにはあゝ云ふ嫌な人間が大量に存在する。だからこそ2ちゃんねるなんかが繁昌する訣だ。

2009/3/6(金) 午後 9:03 [ nozakitakehide ]

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「正字正かな」と「偏狹」の概念を、アンチだからこそ、結び附ける事を考へる。氣に入らない概念・人のイメージを惡くして、社會的に抹殺する事がアンチの目的だから、彼等アンチにとつて正しい論理は不要であり――しかし詭辯を使つて、氣に食はない對象と、惡いイメージとを結び附けられるものなら、アンチは喜んで詭辯を使ふ。その時、彼らは詭辯を詭辯と言はない。常に「論理」と言ふ。詭辯だと自分の方が惡い事になる。だからアンチは常に自分は論理を言つてゐるのだと主張する。

勿論、俺も論理を使ふ。が、それは詭辯ではない。全部、正しい論理だ。「はいはい、論理論理」――どうせアンチはさう言ふ。「野嵜は自分の言ふ事は論理だと極附けてゐる」――アンチの何時もの極附けである。しかし、俺の言つてゐる論理は、反論可能だし、根據を擧げて反論して呉れれば、俺が凹む事はあり得る。ところが、アンチの言ふ「論理」は、反證が不可能で、反論すらも不可能だ。極附け・レッテル貼りの類だからだ。アンチは、論理のやうな事を言ふが、全て論理ではない。俺は違ふ。

2009/3/6(金) 午後 9:09 [ nozakitakehide ]

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俺が論理と言ふから、嫌がらせでアンチの連中も論理と言ふ。それだけの事に過ぎない。しかし、本當に論理と云ふ事を理解してゐる人ならば、連中の詭辯が詭辯だと判るし、俺の言つてゐる事が論理だと解る筈だ。しかし「野嵜は、自分の論理とやらを理解する人間だけを、『論理が解る人間』と稱してゐる」とアンチは言ふに違ひない。俺は、客觀的に物を見られる・公正な人間ならば、と言つてゐる。俺にとつて都合のいい事を言ふ人間を、身方として、褒め上げてゐるのではない。

だがアンチには、幾ら言つても解らない。彼らは、政治的に物を見てゐるから、俺が「公正」と言つても、それすらも「政治的」な言ひ方に「決つてゐる」と思つてしまふのだ。

2009/3/6(金) 午後 9:10 [ nozakitakehide ]

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松永氏が「正字正かな派」を「政治的」と言つたのは、松永氏自身が政治的にしか物を見られない人間だからだ。
tanzenが「正字正かな」と云ふ言葉を「偏狹」の概念と直結したのは、tanzen自身が偏狹だからだ。

だからこそ俺は公正と言ひ正しいと言ふ。

2009/3/6(金) 午後 9:12 [ nozakitakehide ]

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喜六郎もさうだし、tanzenもさうだし、「福田恆存をやっつける会会長」にしてもさうだが、人の言ふ事を解釋する時、言葉尻を捉へて――發言の斷片と言ふ些細な部分を採上げて、其處を頻りに問題視する。

これは間違つた事だ。なぜなら、部分だけ見て全部が解る、と言ふのは、間違だからだ。

文章には文脈がある。だから、文脈に沿つて部分は解釋しなければならない。解釋をする時には、必ず全體を見て、部分を解釋しなければならない。ところがアンチにはそれが解らない。ただ、アンチにとつて都合のいい部分を、其處だけ切取つて、惡く解釋し、それに故事つけて、全體の評價を極附ける。こんな許せない事を、喜六郎もtanzenも「会長」も平氣でやる。なぜやれるのだらう。俺には全く理解出來ない。嫌ひな對象だらうが何だらうが、客觀的で公正な判斷をしなければ、信用されないだらうに。ところが、惡意で解釋してゐる自分を、アンチはなぜか、周圍の人は高く評價して呉れる、と信じてゐる。これが解らない。

2009/3/6(金) 午後 9:16 [ nozakitakehide ]

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俺なんか、何處まで懇切叮嚀に、或は論理的に、または客觀的に、説明をしても、解らない人は解らないだらうと、殘念に思つてゐるが、なぜかアンチは、自分は信頼されてゐる――自分の攻撃は周圍の人に信用され、受容れられ、氣に入らない對象の評價は自分が攻撃すればするほど下がりに下がる、と心から信じて、自信を持つて嫌がらせを働く。

何うして其處まで自分の言つてゐる事を信じられるのか。

俺にはアンチこそ狂信者だとしか思へない。自分の事をそこまで信じ切れるのなら、狂信者だらう。

2009/3/6(金) 午後 9:18 [ nozakitakehide ]

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わたしも周囲ですが、どう見ても「アンチ」の人達の方があなたより「まとも」な事を言ってるように思えます。受けいれられなかったら、「どうやって説得してやろうか」って風には考えられないのですか?「自分の方が正しい」と単にいいつのるは、「知的惰情」でしょう。

2009/3/21(土) 午前 11:02 [ N爺 ]

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それは「アンチ」が決つて言ふ遁辭ですよ。

大體、私は「自分は正しいと単にいいつのる」なんて馬鹿な眞似はしてゐませんよ。説得してゐます。その説得を聞かないで一方的に嫌がらせを仕掛けて來るから「アンチ」は「アンチ」。それがわからないんですか。さうでせう。

2009/3/24(火) 午後 11:42 [ nozakitakehide ]

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さうですね。それがわかりません。

> 説得してゐます。その説得を聞かないで一方的に...

と云ふあたりで、既にすれ違つていませんか?説得しようとして、説得に失敗してゐる(十分説得的でなかつたのかも)のに、「相手が(「アンチ」が)説得を聞かないで……」とくる。それを「単にいいつのる」としたのでした。

「アンチが決つて言ふ遁辭」「アンチはアンチ」と言つてしまはないで、御自分の「正義」や「論理」がひよつとして「ひとりよがり」ではないか、と考えてみてはいかがでせうか。

そもそも「アンチはアンチ」と切り捨てるのなら、そういう人達の意図や論理が解らないと嘆いてないで、あつさり無視すれば良いのでは?と私などは思ひます。

(私は自分では「アンチ」ではないと思つていゐます。なのに早速「アンチ」の方に追いやられさうになつてゐる。)

2009/4/14(火) 午後 1:05 [ N爺 ]

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