闇黒日記2.0

「更新すれば非難する。更新しなければ非難する。」と云ふ人々には何う對處したら良いですか。

福田恆存

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福田恆存讀書會「當用憲法論」その二

承前。テキストは麗澤大学出版会版福田恆存評論集第八卷所收の『當用憲法論』。

「NHKの座談會『憲法意識について』に出席したエピソードは、まあ落語の枕みたいなもので、導入部だから、ここからが本題と云ふ事になるわけだ」
「ああ。ぼくが不滿をぶちまけるのも、ここからが本番だな。福田氏は最初に、憲法の改正について論じてゐるが……」
「現憲法は欽定憲法の改正によつて生れた、と云ふ事情があるからね。ああ、言つておくけれども、『現憲法』も『欽定憲法』も、福田さんがこの論文で使つてゐる言ひ方を、ぼくは今、そのまま使つてゐる」
「ぼくは福田氏が『欽定憲法』と言つてゐるのが氣になるよ。やはり、福田氏は、欽定、即ち君主から與へられた憲法を有難がりたいのでないか」
「その邊の事を喋るのは、餘談のやうになるけれども、結構大事な事だから喋つておくかな。日本人は、多くの人が今、現憲法を『民定憲法』と言ひ、大日本帝國を『旧憲法』と言つてゐるだらう。福田さんはその逆の立場であるのだ。だから、福田さんとしては、大日本帝國憲法を『欽定憲法』と言はざるを得ない筈だよ。しかし、この『欽定』と云ふ事は、福田さんの價値觀が要求するのでなく、福田さんの論理が要求する、日本の憲法の要件でもある」
「價値觀でも論理でも關係ないよ……」
「いや、關係大ありだね。單なる價値觀なら、きみが言ふやうに、價値觀で否定すればいい、けれども、價値觀に關係ない論理なら、きみがどんな價値觀を抱いてゐようとも、それ自體としては認めなければ行けない」
「ぼくは何が言はれてゐても、ぼくの價値觀を捨てる氣はないね」
「多分さうだと思ふよ。いや、きみに限らず、多くの人が、きみのやうな考へ方を持つてゐるし、きみのやうな態度をとる筈だ。NHKの座談會に出席した小林直樹氏、大江健三郎氏、高坂正堯氏、そして佐藤功氏――これらの人々は、現憲法肯定論者、所謂『護憲派』であるのだけれども、きみと同じやうに、何を言はれても價値觀を變へない人々だよ。福田さんはそれを十分承知してゐた。福田さんにしてみれば、自分が考へを變へた事なんて何でもない事だつた。けれども、それが他の人々には非常に困難である事は、福田さん、よく承知してゐたんだ。だから福田さんは、自分が價値觀を改める事は出來るけれども、他人までも價値觀を改めるやうにする事は出來まいと、まあ、諦めてゐたんだね、だから自分は「『改憲派』から『無關心派』に脱落」したのだ、なんて言つて見せたわけだ」
「ふうん、ぼくは福田氏が、憲法論に關しては最初から腰が引けてゐたんだな、としか思へなかつたよ」
「腰が引けるも何も、福田さんは壓倒的少數派だつたからね。そこで暴れてみても何うしやうもなかつただらう、今だつてぼくがインターネットで暴れれば、多數派の諸君が數を恃みに叩いて呉れるんだぜ。ぼくならいざ知らず、頭のいい福田さんが、他人を『改宗』させようだなんて、言ふわけないぢやないか。『護憲派』が多數派で福田さんが少數派なら、社會的には『護憲派』が『正氣』で福田さんが『狂氣』だ。となると福田さんは道化を演じて見せるしかない」
「道化かい。なら、ぼくらはリア王だな。きみはぼくらが最後には荒野で發狂するとでも言ひたいらしい」
「正氣も狂氣も、社會的には相對的なものだよ(笑)。ただ、少くとも、福田さんは、ショーの場でのアミューズメントと云ふ事は、忘れてゐなかつた、と云ふ事。まあ今は、福田さんの憲法論を讀み進めてみよう」
「うん」

「福田さんの論文とは順番を變へて、歴史的事實に基いて、話を再構成してみようと思ふ。福田さんの言つてゐる事を鸚鵡返しに繰返したつてしやうがないからね」
「ぼくはきみが鸚鵡だと思つてゐたよ」
「結局は同じ事を言ふだけだからね、ただ、見方を變へれば、見えなかつたものが見えてくるかも知れない」
「能書きはいいから、さつさとやつてみ玉へ」
「欽定憲法は『茲に大憲を制定し朕が率由する所を示し朕が後嗣及臣民及び臣民の子孫たる者をして永遠に循行する所を知らしむ』と云ふ敕語とともに發布された。これに對して現憲法は『これは人類普遍の權利であり、この憲法は、かかる原理(基本的人權・戰爭抛棄・主權在民)に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する』と云ふ前文を伴つて公布・施行された。斯うして見ると、欽定憲法と現憲法は、大變よく似てゐて、形式上、内容の變更を許さないものになつてゐる。『現憲法を改憲する事は許されない』とする『護憲派』に、『その理窟を言ふならば、そもそも欽定憲法自體が改憲を許されないものであつたではないか』と福田さんはジャブを放つたわけだ」
「どんなに無茶な憲法でも『改正してはならない』と規定すれば未來永劫、改定不可能なのか。そんな改定をやらかしたら、それは『革命』なのか――いや『革命』で結構だ。新憲法を制定したと考へてもいい」
「話が先走つてゐるなあ。福田さんも、それを結局は言つてゐるんだよ。それこそ話の順番が逆になるけれども、結論を書いてしまふと、福田さんは、現憲法は革命的――或は超法規的に――成立したものだ、と言つてゐるんだ。だが、現憲法が革命的に成立したのなら、現憲法を革命的にひつくり返したつて何の不都合もあるまい」
「そんなの許せないよ」
「そりや、きみの立場、きみの價値觀ならば、さうだらう。けれども、形式的には、許すも許さないもない、力で欽定憲法を潰して現憲法を新憲法として制定したのが『あり』だと言ふなら、力で現憲法を潰して欽定憲法を復活させたつて『あり』だらう」
「力? 暴力革命かい」
「權力でも暴力でも構はないよ。何れにしても、力づくでやらかすのならば、理窟なんてものは後からついてくるに過ぎなくなる。『無效論』と言ふけれども、福田さんのは、理詰めで無效と『言ふ』のではなくて、力で無效に『する』のを理窟で補強してゐるんだ」
「それは危險思想だぜ」
「ああ、實に過激だね。だから三島由紀夫が驚いたんだ。三島は福田さんの憲法論に驚いて、それでクーデタを試みる事になつたのではないかとまで言はれてゐたりする。『証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』にその邊の話が出てゐる。讀んでみると面白いと思ふよ」
「三島は右翼だよ。福田氏も……」
「さう言ふと思つた。だが、形式上の話だけで過激な事を言つてゐても仕方がない。過激なのに喜ぶのは、まるで解つてゐない保守主義者か、悟つてしまつた無行動主義者か、だ。福田さんも、一部の人を喜ばせてゐるだけではしやうがない、と解つてゐるから、ちやんと内容の話をして呉れてゐるよ。次囘からはその邊を讀んで行つてみたい」
「だが、ぼくは福田氏には疑問を感じてゐるんだ。福田氏の論理には、一々、茶々を入れさせてもらふ。覺悟しておいてくれ玉へ(笑)」

續く。

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福田恆存讀書會「當用憲法論」その一

「今囘から福田恆存入門と言ふ事で、福田さんの著作を讀んで行かうと思ふ。最初に採上げるのは『當用憲法論』。丁度今讀んでゐる人が多いやうだし。麗澤大学出版会版福田恆存評論集第八卷を使ふ」
「福田恆存なんて、欽定憲法が大好きな天皇主義者・君主獨裁主義者だろ」
「きみの先入觀には澤山反論したいけれども、きみがさう云ふ先入觀を持つて福田さんの著作を讀む事は、成程あり得る事だと思ふ。ただ、本を讀む上で重要なのは、さう云ふ讀者の先入觀を、實際の文章と云ふ事實で以て否定し、修正する事だ」
「お得意のポパーか。しかしポパーの反證主義は科學に關する事……」
「ポパーは、人間が外部のものを認識する時の一般的な覺悟を説いたまでさ。科學哲學に限定する事はない。世間ではポパーが自由主義の論者だと認識してゐる。ぼくはポパーが、科學と云ふ場において人間のとり得る態度の法則を定めただけとは見たくないね。實際、ポパーは討論の場における問題を採上げ、音樂について論じ、さうした場に、自分の反證主義を應用する事、世の中の多くの場面に科學的な態度を採入れる事を考へてゐた。それは結局、一方的に自説を述べ立てる許りでなく、他説の側から批判を言立てるマナーを提示した事になるんだ」
「きみはポパーの自由主義の態度を踏み越えてしまつてゐるよ」
「ぼくに言はせれば、きみはポパーの自由主義の態度から一歩退いてしまつてゐる。それは、自由な討論で、きみの先入觀が否定される事が怖いからではないかな。まあ、この讀書會では、きみにはせいぜい先入觀を提示して貰つて、それが何處まで通用するか、試してみようぢやないか」
「お手柔らかにね(笑)」

「さて、評論集第八卷の166ページを開けて貰ひたい……福田さんは、NHKの番組に出演した話を枕に使つてゐる」
「ああ、福田氏は、誤解を生じた、誤解を生じた、と言つてゐるね。そして、『折角身方だと思つてゐたのに、がつかりした』と言はれたのに、『正直の話、これには私の方ががつかりしました』なんて應じてゐる。ぼくは寧ろ、福田氏にがつかりしたね。『私はあの座談會に初めから冗談の積りで出席したのです』つて、何だよ。何でもかんでも、あれは冗談だ、と辯解されるのでは、とても眞面目に讀む氣にはなれないよ」
「まあ落着き玉へ。きみはせつかち過ぎる。續けて讀んでごらん。福田さんは『冗談の積りで出席したと言ふ冗談くらゐ言へない世界は、私には住みにくくて手も足も出なくなります』と言つてゐるぢやないか。『戰後の憲法論議は殊にさうなつてゐる。私は公開の席上でこのタブーを破つてやらうと思ひ、終始、冗談と皮肉で押し通したのです。』」
「さうは言つても、福田氏は『冗談』と言つて逃げてゐるだらう、それが福田氏お得意のレトリックとしても……」
「いやいや、さらに讀んで呉れ玉へよ。『勿論、冗談は眞實に反する言葉ではありません。私はただ冗談といふ形式を借りただけであつて、さうする事によつて、平和憲法をタブーとし神聖視する人達と私と、それぞれの立つてゐる平面の相違を際立てようとしたのであり、私にとつて現憲法は戲畫としか考へられないといふ私自身の眞實を傳へようとしたのであります。』福田さんは、意識してふざけて見せた、と言つてゐるわけだ」
「意識して、ねえ、難しいねえ(笑)。ぼくは福田氏が人を騙してゐるやうにしか見えないよ。嘘を吐いて胡麻かしてゐるやうな感じ」
「福田さんは、それが效果的なら、黒を白と言ふ事もあるよ。だけれども、それは、嘘を吐いて胡麻かしてゐるのではない。嘘を嘘と見拔けと言つてゐるのでもない。」
「なら何なんだよ」
「嘘を嘘として樂しみたまへ、と言つてゐるわけさ。『冗談』と云ふ言葉にきみは反應したけれども、少しのユーモアも感じられない、ひどく糞眞面目な反應だつた。それはきみが今の憲法を『信じてゐる』からで、それを汚されたのが許せなかつたからだらう。それできみが硬直した態度になつてゐるのを、福田さんは揶揄つたわけだ」
「揶揄つて何が面白いのかね」
「福田さんが一人で面白がりたいのではないよ。福田さんは、發想を柔らかくする事、頭を柔らかくする事を、ずつと言ひ續けてゐたんだ。それで初めて多樣な意見が出て來るわけだから。取敢ずは座談會で、福田さんは率先してふざけて見せる事で、柔軟な發想を取戻すべき事を主張したわけだ」
「納得行かない……」
「納得したくないだらうが、そりやきみは、自分の思想・政治イデオロギーに固執したいわけだからな。ところがそれでは、きみが如何に福田さんの非民主性を言つたところで、きみの態度がきみの非民主性を示してしまふ事になる……」
「しかし、嘘はやつぱり行けないね。不誠實だ」
「小説もお芝居も、みんな嘘と言つたら大嘘のこんこんちきだよ。けれども、まともな文學者なら、文學は、口から出任せの大嘘の塊とも、單なる美しいだけのものとも、思つちやゐない。拵へ事と云ふ形式をとつて、人生の眞實を表現したものが文學だと、みんな信じてゐる。信じてゐないのは日本人くらゐなものだね」
「ぼくは日本人だから、信じやしないよ。(笑)」
「ぼくも日本人だから、日本的な美の世界は解るよ、けれども、英文學を齧つた者だから、日本的な世界にだけ籠つてゐるべきだなんて事は、口が裂けても言ひたくない。ぼくら日本人は、何のために外國の文學なんて學んでゐるんだらう。こんなところで詰らないナショナリズムを發揮しないでほしいものだ」

續く。

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中村保男『絶對の探究 福田恆存の軌跡』(麗澤大學出版會)より

實を言ふと福田恆存の著作をまともに讀んだのは最う十年以上も前になる。大學在學中から讀み始めて、卒業して何年かの間――福田さんの著作を購ふ度に讀んでは感嘆してゐた。
が、既に何年も經過して、私の記憶力が大變弱いものであるのは、多くの人の知る通り。福田さんの發言も、結構忘れてしまつてゐる。

福田恆存の弟子と言ふと「一番弟子は誰?」と云ふ下世話な話題が屡々人の口に上るが、はつきり「教へ子」として「一番」と言ふと中村保男氏である事は論ずるまでもない事だらう。松原正氏は、福田氏を師と仰いだが、福田氏に大學等で師事したのではないから、所謂「教へ子」ではない。西尾幹二や西部邁を政治的な後繼者と看做す人は、ゐても良いだらうが、彼等は英文學者でない點で福田氏の正統の後繼者と言ふ事が出來ない。が、一番かさうでないか、といつた問題はそもそも大して意味のない事だと思ふ。

中村氏『絶對の探究』は、平成十五年に出た本で、福田氏の思想を大變眞面目に考察し、一般に紹介した本だ。評傳の類ではないが、評論の類でもない。飽くまで福田氏の發言に就いて、福田氏の考へをトレスし、追體驗しつゝ、改めて自分の言葉でまとめたものだ。中村氏は、自分を空しうして師に就いてゐるが、私意をはさまないでできるだけ福田氏に迫らうとしてゐるから、本書は福田氏の思想を知るのに大變良い。
一往福田氏の著作を讀んだけれども、時が經つて忘れかけてしまつてゐる私のやうな人間には、本書は「復習」の爲に大變便利であつた。福田氏の發言は、何れも「如何にも福田さんらしい」ものであり、それらを思ひ出させて呉れるのが、何とも嬉しい。

ぱらぱらページを捲つてゐて、何處ぞの「会長」氏の發言絡みで關聯のありさうな文言を見附けた。引いておく。

百八十三頁。
僞惡家と言へば、福田先生は「ぼくは露惡家や僞惡家より偽善者が好きだ」と言はれたこともあつて、そのとき當然ながら私が思つたのは、先生は何といふ僞惡家なのだらうといふことだつたのだが、この認識はその後、少なからぬ修正を迫られた。
徴兵制についての文章で恆存は「良き國民としては贊成だが、惡しき個人としては、倅に令状が來たら裏工作をして兵役を免除させるかもしれない」旨を書いてゐる。一般市民が讀んだら全く説得力を失つてしまふやうな言辭なのだが、まさしくここに福田恆存の眞骨頂があるとつくづく感じ入つた。何を言ひ、何を書くにしても恆存は文學魂を堅持し、公式的なことも形式的なことも一切排除した「眞言」のみを語らうとするその意思の持續は、僞善だの僞惡だのといふ次元を超えてゐた。恆存の政治論は殆ど舊き良き文學論に等しかつたのである。

百八十四頁〜百八十五頁
私が福田恆存といふ名前と存在を初めて知つたのは恆存初期の評論集『平衡感覺』を通じてであることは他のところに記したが、福田恆存の初期から中期にかけての言動がまさしく平衡感覺を基としたものであつたことを物語つてゐる恆存先生の「片言隻句」(略)は、やはり讀書會「蔦の會」の席上かその直後に言はれた「場の理論だよな」のひとことだつた。
恆存先生は自他のあひだの距離はもとより、變化してやまない全體系の中でのご自分の相對的な位置にたいしても、不斷に適切な距離測定を怠らず、三島由紀夫が極右に傾いたときには、「お陰でぼくは右どころか左寄りだといふことになつてしまつたよ」と笑顏で語つてをられたものである。要するに恆存は文人生活の大半に亙つて、ニーチェではないが、綱渡り曲藝師のやうに平衡棒で舵とりをしながら激動の中期時代の山場を越えてきたのであらう。
だが、その平衡感覺時代にも終止符が打たれる時が來た。たしかヴェトナム戰爭たけなはの頃で、恆存が強硬論者だつたために「村八分」にされてゐた時期だつたのではないかと思ふが、當時湘南に下宿してゐた私は、急に衝動に驅られて日が落ちてから大磯の先生宅を訪れると、先生は「これからはもう梃子でも動かない」と脣を眞一文字にひき緊めて語られた。「今、ぼくが死んでも悲しんでくれる人は誰もゐない。女房が困るだけだ」と洩らされたのもその時だつたと思ふ。
恆存の「不動の視座」がその意味を變へたのだ。その後しばらくして或る政治雜誌の編緝者と會つたとき、「近頃、福田先生はどうなされたんですか」と訊くので、「commitされたんですよ」と答へると、相手は「批評家はcommitしちやいけないのに」と應じた。私は心の中で「先生は批評家をやめられたのだ」と呟いたきりだつた。
先生と知り合つたばかりの頃、原稿の書き方について「ぼくはやまと言葉をどんどん使う。平假名で枡目を埋めれば原稿料稼ぎに『も』なるしね」とか、「商賣に『も』ならなくちやな」とか「どうせあぶく錢なんだから」とさへ何憚るところなく笑つてきはどい冗談を口することも辭さなかつた先生が、晩年には、絶筆して隠居されるまで、金の話は禁句同然となり、何ごとにつけ、「憤怒の人」となられ、硬直とまでは言へないが硬化されて、およそ禁忌(タブー)といふもののなかつた壮年期の自由闊達ぶりが心安く忍ばれるようになつたのは確かである。
※『も』は原文傍點、(タブー)は原文振假名
※かなづかひは原文のまゝ

さて最う一つ。爺氏の發言絡みで、關聯して考へて良いと思ふ事を福田氏が述べてゐる。引いておく。芥川龍之介『藪の中』に關する福田恆存の論攷について、中村氏が要旨を纏めてゐる部分から。

百二十一頁
まづは福田恆存の『「藪の中」について』であるが、その中で福田は中村光夫と二つの點で意見を異にしてゐる。一つは、中村光夫が、この小説では「活字の向うに人生が見えてこない」と批判したのにたいして、福田は「芥川の作品には、さういふものが多い」と認め、「この作品に限らず、芥川の作品に人生を要求してはならない」とまで一般化してゐることである。
第二には、主題をめぐる意見の食ひ違ひであり、中村が「この作品のもつとも重要なテーマは、強制された性交によつても、女は相手の男に惹きつけられることがあるということです」と斷言してゐるのに對して、福田は「私が今日までこの短篇の主題だと思つてきたものは、事實や眞相は第三者の目には、つひに解らないものだといふことである。(略)問題は物語の『事實』の次元であり、事實と言へば、心理的事實もまた事實であつて、多襄丸、女はそれぞれ自分が殺したと言ひ、男は自殺したと言つてをり、それぞれ實際的には矛盾してゐるが、三つとも自分が思ひこんでいる心理的事實でしかないとすれば、矛盾は却つて主題を強調する方向に働くのではないか」と讓らず、三者おのおのの心理状態もしくは主觀的・相對的な内面世界を竝立させる。
※かなづかひは『絶對の探究』における引用文のまゝ

福田氏の「心理的事實もまた事實である」と云ふ發想は、自然科學の發想と根本的に異るけれども、私にとつて考へ方の一つの指針となつてゐる。

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福田氏を利用する喜六郎に騙されない爲に

http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/145.html
福田恆存の有名な芸術論「藝術とは何か」が、中公文庫から発刊されるそうです。
唯一不安なのは解説の執筆者だけど、まーいいか。

ネット上でこの芸術論を剽窃して、あたかも自分の論であるかのように開陳するアホウに騙されないためにも、この書を読みましょう。

野嵜君、君の事だよ。

確かに、福田ファンを自稱する人々に何度も騙されたから、改めて讀返す事にしようと思ふ。青方の中村とか。喜六郎さんくす。

まあ、喜六郎も福田氏の言つてゐる事をよく剽竊してゐるけど。
福田恆存が国語問題にかけた情熱は本物だと思うし、この本も名著ではある。
しかし、この本に影響を受け、「正字正假名遣ひ」の実践を試みる人達の言動を見ていると首をかしげざるを得ない。 この本に影響を受け、ネット上で「正字正假名遣ひ」を実践する人達がいるが、そういう人達の中に、自分たちを「正字正假名を体得している意識の高い日本人」と規定し、「正字正假名を読めない書けない意識の低い日本人」を罵倒する、安直な知的スノッブのパターンに嵌まっている手合いが少なくない。
福田恆存は、こういう「文化人」の鼻持ちならないスノビズムを嫌悪し、痛烈な批判を浴びせていた人なのだが、その福田恆存の著書が、知的スノッブ達の「錦の御旗」となっている状況は何とも皮肉としか言いようがない。

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福田恆存が「劣化した」としか見られない哀れな讀者

福田恆存は、敗戰直後から評論を本格的に書き始め、注目を集めた。その後、平和論爭で再び注目を集める。この頃からの福田氏の言動を、しかし、多くの人が、著しく低レヴェルなものと看做す傾向がある。
tanzenと云ふ人物が、「福田信者」の俺を嘲るのに、何時ものパターンで攻撃を仕掛けて來たが、こんな事を言つてゐる。

tanzen
2009/02/26 23:44
もう出てくるつもりじゃなかったが最後に2つだけ。
(1)マルクスが「私はマルクス主義者ではない」と言ったように、福田恆存が今のネットを見たら「私は正字正かな派ではない」と言っただろうな。

(2)その福田は俺の見立てでは1960年の「常識に還れ」あたりから急速につまらなくなり、劣化していく。あんたのように信者じゃないから全部ありがたがってるわけじゃないんだよ。
 だから1960年以降の「正字正かな」の用例を一件でも見つけたら「(負けは認めないが)恐れ入りました」、1960年以前の例を一件でも見つけたら「(負けを認めて)負けました」とコメントしてやる。
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20090222#c1235659453

(1)には反論する必要がない。「信者」を侮辱するのに、「信者」が尊敬する人物を勝手に操つて、自分に都合の良い事を言はせてゐるだけだからだ。「鐵扇會」の会長が俺を侮辱するのに「松原先生が嘆いてゐるだらう」等と松原先生を傀儡化したのと一緒だ。かう云ふ嫌がらせをする人間の陋劣は憐れむほかない。

さう云ふtanzenの、(2)に見られる價値判斷の淺はかさも、憐れむ他はない。「信者」でないからと言つて、無闇に人の評價を下げれば良いと云ふものではないだらう。「信者でない」と宣言する事で、その人の評價を決定する權利を持つやうになる、と云ふものではない。

確かに、福田氏は、1960年代までの活動においてこそ、「輝いて見えた」と云ふ事實はある。しかし、亂れた絲を兩斷する痛快さを福田氏の評論に求めて、それが段々見られなくなつた事を以て、福田氏の「劣化」と言ふのは、寧ろ、讀者の性質が原因だらう。福田氏に痛快さを求める事がそもそも間違つてゐたのだ。
俺にしてみれば、福田氏の日本人作家を論じた文藝評論は、決して高く評價できるものではない(『西歐作家論』の方が遙かに面白い)。が、昭和二十年代の多くの文章で、福田氏は慥かに物事を綺麗に切つて見せる優れた手際を見出す事は出來るのだ。多くの讀者が、福田氏の痛快な發言に溜飲を下げた。が、その痛快さは――福田氏の物事を斬るあざやかさは、斬る對象が「斬り易い」ものであつたがゆゑにさう見えただけでなかつたか。日本人作家はまだしも論じ易かつたのである。

平和論爭において、福田氏は保守反動のレッテルを貼られる事になる。當時の状勢では、保守反動と云ふレッテルは甚だ不名譽なものと見られてゐた。が、さうした状勢は一時的なものであり(政治的な状勢は移り變る)、保守主義の立場に立つ人々の間で、福田氏は孤軍奮鬪、一人で「進歩的知識人」を相手に強烈なパンチを見舞つた英雄と看做されるやうになり得たのだ。その時期、福田氏を孤立無援にしたのも保守主義者であつたのだが。
昭和二十九年末に發表された「平和論の進め方についての疑問」を、雜誌「知性」昭和三十一年十一月號が再録してゐるが、「解説」で福田氏が提出した平和論への根本的な疑問を「内容は建設的な意見ではなく、むしろ公式主義にたつ進歩的文化人への嫌がらせであった」と評してゐる。「やや意外なことに、この議論は、反動的なものとして葬りさられることなく、部分的には聴くべき点ありとして受け取られた」と解説者は述べてゐるが、福田氏が「進歩的」な人々からどのやうに受取られてゐたかが判る。

この時期までの福田氏の發言を、tanzenは「認める」のである。

然るに、福田氏は、1960年代に發言の機會をどんどん減らし、1970年代には著書の數が著しく減つてゐる。客觀的に見て、tanzenの「劣化」と云ふ評價は、如何にも尤もらしいものに見えるだらう。しかし――福田氏も言つてゐる――斯うした俗耳に入り易い評價こそ、疑はなければならない。
福田氏は、デビュー直後から、極めて鮮かに物事を斬つて見せた。福田氏の評論が當時歡迎されたのは、新しい時代が到來し、意氣軒昂であつた若い人々にとつて、恰も自信が言ひたい事を代辯して呉れてゐるかのやうに思へたからだ。
その後、「進歩的知識人」對「保守反動」の二分法的評價でもつて、敵陣營と福田氏の立場は明確に區分された。福田氏は依然、立場によつては大變解り易い存在だつた。それが變化するのがtanzenの指摘する1960年代の事であつた。

實は、福田氏は、それ以前から、鮮かに物事を切り分けて見せる中で、切つても切れないもの――「何うにも相手にしやうのないもの」の存在を見出してゐた。それこそ福田氏の眞の敵であつたのだが、福田氏の手並に感心してゐるだけの多くの讀者がそれを理解しなかつた。だからこそ、「保守反動」のレッテルを貼つて、「進歩的知識人」との對立と云ふ形で、わかりやすく、福田氏を「理解」したのだ。
けれども、さう云ふ割切つて物事を考へる事に、福田氏は疑問を抱いてゐた。だからこそ、1960年代以降、福田氏は、割切れない物事を相手に戰ふ決意を固めた。「進歩的知識人」を叩いてゐた「保守反動」の福田恆存は、今や、「同じ保守派」を叩くやうになつた。これ程、割切つて物事を考へる人々にとつて理解し難い行動もない。
國語問題への「傾倒」もさうである。福田氏が何をやつてゐるのか、多くの讀者は解らなくなつた。若い人々は、自分逹が「自然」に使つてゐる表記を非難されて、困惑した。チャタレイ裁判で同じ側に立つて檢察と爭つた「仲間」の中島健蔵と、國語問題では對立した。

さうした福田恆存の行動を、それ以前の福田恆存の行動と比較して「劣化」と極附け、「理解しようとする」のが、解らない人々の「精神の政治學」であつた。「精神の政治學」は、ヴァレリイの言葉だが、福田氏が良く使つてゐたものだ。ヴァレリイの所謂「精神の政治學」とは、ニーチェにおける「社會學」「心理學」の事である。ここでちよつと指摘しておきたいのだが、福田氏がよくやつて見せる心理分析には、ニーチェの影響が見られる。福田氏は、後にはニーチェから離れてロレンスに接近するが、それ以前にはシェストフ等と共にニーチェを讀んでゐた節がある。後に「獨斷的な、餘りに獨斷的な」を書いてゐるので判る事だが、「醒めて踊れ」と云ふ言ひ方にもニーチェの言葉が微かに見える。或は、ヤスパースのニーチェ論を福田氏が讀んでゐた事を私は推測するのだが、如何だらう。
1960年代以前と以降とで、福田氏の評論に根本的な違ひが見られるとは思はれない。實際のところ、「新しい」福田氏の言動は、「古い」福田氏の言動の中に、既に萌芽が見られる。
福田氏の批評は、決して政治的な目的でなされたものでなかつた。それを政治的な立場で區分したのは、讀者である。福田氏を「劣化前」と「劣化後」に分類するのは讀者の勝手=勝手な讀者である。「さう云ふ風に見て納得したい」だけであらう。そこに彼等が「信者」でない危險がある。「自分は信者でない」と堅く信ずる人間ほど、自分自身の判斷を盲信するものだ。福田氏を自分にとつて解り易く簡單に裁斷してみて、それで「わかつたつもり」になつてゐるのが、「信者でない」tanzenだ。斯うした「理解」の仕方は、「tanzenだけの眞理」であると、ニーチェなら言ふ所だ。ニーチェはさう云ふ相對化で眞理を否定した。が、否定の先に再び肯定を見出すべき事を主張した。福田氏の否定にも、否定の先の肯定が常にある。『否定の精神』を否定したのも、そこには「否定の先の肯定」が見られないと福田氏が判斷したからだ。

1970年代以降、激減する執筆量であるが、それを「劣化」と言ふ事は許されない。量で以て質的な判斷を下すのは許されないからだ。逆に、この時期、福田氏が從來の態度を反省して、大きくスタイルを變へてゐる事に注目する必要がある。昭和二十年代、一人稱「僕」を使ひ、漢字を減らしてかなを多用するスタイルをとつた福田氏は、昭和四十年代には、「私」と言ひ、漢字を増やして壓縮された文體を用ゐるやうになつてゐる。斯うした中で、「舊假名遣」と云ふ言ひ方が「正かなづかひ」と云ふ言ひ方に取つて代られて行くのにも注意が必要だらう。
1980年代に入つて肺炎で倒れ、以後、執筆活動は殆どストップ状態となる。それ以前に、福田氏は、孤獨の人・朴正煕の追悼文を書き、司馬遼太郎の『殉死』を批判して乃木將軍の旅順攻略を分析し、林健太郎が認めた歴史書『私の英國史』を書いてゐる。
この時期、1970年代、「同じ保守派」の清水幾太郎や渡部昇一を批判した事許りがクローズアップされるが、さうした激しい側面を見せながら、平行して福田氏は落著いた内容の文章を少しづつ書いてゐた。若い頃の華々しさが薄れ、それに伴ひ、福田氏の「オーラ」を感じてゐた人々が「裏切られた」やうに思つたのも無理はない。が、さうした「裏切り」を感じた讀者の方が身勝手だつたのである。最初から、福田氏には、派手な立廻り・スペクタクルシーンで人目を引かうと云ふ狙ひはなかつたからだ。
初期の芥川論で、既に對象を見据ゑてじつくり分析して行くスタイルは顯れてゐる。横光利一論でも決して派手な斬り方をして見せた訣ではない。『私の國語教室』についても、さうした福田氏の着實な・じつくり腰を据ゑて書くスタイルが普通に表れただけであると見る事が出來る。
同時に、福田氏は、一つのテーマに取組み、冷靜な分析をしながら、許し難い事實に出くはした時には激しい怒り・苛立ちを隱さない。さうした書き方は一貫してゐた。最晩年に出た「全集」の「覺書」ですら、年齡と病状による衰へは看て取れても、福田氏らしさは變らず、當然「劣化」はありやうがなかった。
福田氏においては、齡をとる事による衰へが、同時に、成熟を伴つてゐる。かなづかひにおいて、「復古」と云ふ發想から、改めて「正しさ」の認識へと發想が「進んだ」事を、指摘するのは可能だらう。福田氏は、正しさ・正統性と云ふ事を、案外早くから考へてゐたのだから。日本と西歐との間に道を通さうとしながら、同時に、福田氏は、現代と過去の日本との間にも道を殘さうと試みた。政治的な人々から「保守反動」と見られながら、實際には單なる「日本主義者」ではなかつた。逆に言ふと、政治主義者の人々だからこそ、福田氏を「うさんくさい人物」と見る――自分の立場にとつて都合が良いか何うか、それで多くの人が物事を判斷し、福田氏を自分の敵であるか身方であるかと疑ふ。然るに、福田氏にしてみれば、敵か・身方かに先づ興味を抱く日本人の傾向こそが、攻撃すべき敵だつたのだ。そして、「傾向」と云ふものは、簡單に斬捨てて見せる事の出來ないものである。一時期からの福田氏の言動が、それまでに比べて、ぱつとしないものに見えるやうになつたのは、その爲である。が、さう云ふ敵を改めて眞正面から見据ゑて問題にした事こそが福田氏の偉大であつたところであつた。

單純な「劣化」が起きた、と考へるのは、讀者の價値觀が淺はかだ、と云ふ事だ。と言ふより、福田氏のやうな人物が「劣化し得る」と考へるのは、福田氏に對する信頼がなかつたのである。tanzenは、「常識に還れ」以前は評價出來ると言つてゐるが、何うだらう、本當は「それ以前」の福田氏もtanzenは決して信用してゐないのでないか。人を評價するとは人を信ずる事であり、人を信ずるのならばそれはずつと續くのである。狐が落ちて人を信用できなくなれば、それ以前に自分がしてゐたその人への信用ですら疑はしくなつて來て當然でないか。

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