闇黒日記2.0

「更新すれば非難する。更新しなければ非難する。」と云ふ人々には何う對處したら良いですか。

非文學的な事

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「ポパーの霊験」……


ていうか、ポパーに何の霊験も感じない人間にポパーを引用して批判したってしょうがないと思うのだが。

Kirokuro氏は、また、ポパーと云ふ「人を信ずる・信じない」を言つてゐる。

なぜ人は「信ずる・信じない」やうになるのか――の考察が、Kirokuro氏の文章では、いつもすつぽり拔けてゐる。

ポパーの主張の「どこが駄目なのか」を、Kirokuro氏は絶對に指摘しない。

ポパーの「霊験」なるものは存在しない。ポパーの論理は存在する。そして私は、ポパーを讀めと言ひ、ポパーの論理を學べ、と言つてゐるのであり、「ポパーを讀まないで、その霊験を信ぜよ」と言つてゐない。ところが、Kirokuro氏には、こんな事すらも、解らない。
ポパーの言ふ通りで、「眞理は存在する」と云ふ立場の人間と、Kirokuro氏のやうな「眞理等存在しない」と云ふ立場の相對主義者とが存在するわけだが、相對主義の論理をポパーは批判してゐるのであり、その批判に有效な反論を出來ないのなら、相對主義の誤である事は確定する。Kirokuro氏には、是非とも有效な反論をしていただきたいものだと期待したのだが……。

……私の豫言はよく當るのである。
もちろん、Kirokuroは、斯う言はれても、絶對にポパーを讀まない。

と言ふか、「讀め」=「信じろ」と言つてゐるのだと、Kirokuro氏らは思つてゐるのだらうか。讀んでも信じないで反論しても良いとは思はないのだらうか。それにしては私の文章に散々逆らつてゐるやうな氣がするのだが。或は、Kirokuro氏は、論理的な反論はしなくてよい、感情的な罵倒だけをすべきである、と云ふ、異常な「アンチ理論」の信奉者なのだらうか。さもありなん。

−−−
反論出來なければ當座、從ふしかないのだが、それはポパーと云ふ「人を信ずる」のではなく、ポパーの「論理に從ふ」事にほかならない。Kirokuro氏は、「人を信ずる主觀的な態度」に陷りたくないがゆゑに必死になつて「讀む」事を拒否するのだが、人の言つてゐる「論理に從ふ客觀的な態度」と云ふものがあるし、その「論理」は「人」から獨立した内容を持つ。
「人」を問題にする事は、粘着と云ふ態度を生むだけで、不毛だ。Kirokuro氏は、その不毛と云ふ事を故意に無視してゐる。自分を肯定する事だけを考へてゐるからだ。

−−−

ポパーの『知的自伝』の解説(村上陽一郎氏)に據れば、「ポパーのエヴァンジェリスト」を熱狂的に非難してゐる人がゐるさうだ。
Kirokuro氏がしてゐるほど幼稚な非難ではないと思ふが……。

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可能な批判・不可能な批判

日本のクリスチャンと共産主義者は、神を信ずる・信じないで違ふ――と云ふ仮説に対して、事実として「天皇制」に対する態度で共通するところがある、と指摘したら、爺氏から「クリスチャンと共産主義者は、神を信ずる・信じないで違ふから違ふに決まってゐる。野崎の論理は甘い」と反論された。
私は?然としてゐる。

こんな反論の仕方は、ポパーの読者ならしない筈だ。

−−−

以下は追記。

案外、日本の共産主義者は、宗教家的であり、それは事實を見れば非常によくわかる。文學者でも思想家でも「共産主義者としての經驗」を持つ人は少くない。
・椎名麟三(共産主義からキリスト教へ)
・龜井勝一郎(共産主義から佛教へ)
・葦津珍彦(共産主義から神道へ)
時として、共産主義者としての經驗の無い事が非難の根據とされる事すらある(例:福田恆存に對して)。

−−−

グレアム・グリーン晩年の小説『キホーテ神父』は、神父さんと共産主義者の市長さんの仲良しコンビが出て來る小説。非常に示唆的なので皆讀むと良いと思ふ。私が自作の素人小説でその中のエピソードを丸ごと盜用してゐるので、アンチの人は非難の種探し目的で讀んだらいい。

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「疑へ」はいいけれど

「民主主義を疑へ」と言ふのはいいけれど、その人が明かに民主主義に反するやうな行動をとつてゐるのなら、それはただのテロリストとしての行為でしかない。

「疑ふ」先に「信じられる」やうな積極的な展望なり提案なりがないなら、ただの「反対の為の反対」にしかならない。破壊活動だけやつていい気になってゐる人がゐるけれども、それではダメなんだよ。

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何うしても「私が誤讀した」とは考へられない

メモ8氏が「誤讀」と言つたのがそもそもメモ8氏の惡意を露骨に示してゐるので、「誤解させてしまつたやうですね」とでも言つて呉れば話は穏便に濟んだ筈だ。

實際、私はメモ8氏の發言を、解釋してゐない。メモ8氏は、野嵜がメモ8氏の用語をそのまゝにメモ8氏の言葉を繰返してゐれば「正しく解釋して呉れました」と言つたのだらうが、野嵜はメモ8氏の言葉を通して、メモ8氏の發想それ自體を分析し、推定したのだ。メモ8氏の視線と私の視線が異つてゐるのは、問題意識の違ひであり、その異る問題意識から、私はメモ8氏の價値觀を示したのだ。

少くとも、メモ8氏の「面白主義」に基く「面白い議論」と、私の考へる「正しさを明かにする爲の議論」とは、領域が重なり合はない。これは決定的に重なり合はない。何しろ、メモ8氏が面白いと思ふ議論では、常に、例外なしに、結論が對立から「止揚」されねばならないのだ。私は、對立した意見は、どちらかが正しいと明かになるか、そもそもどちらが正しいも正しくもない――當るも八卦當らぬも八卦のやうなテーマをえんえん話してゐるだけである事が明かになるか、何れかの結果になるに決つてゐると思つてゐる、「止揚」なんて事は、綺麗な言葉を使つてゐるだけで、絶對にあり得ないと思つてゐる。が、どうせメモ8氏も、本氣で言つてゐる訣はないだらう、何しろ「失禮なコメントを書込んで來た人」を見て嬉しがつてゐるのだ。締めには「メモ8さん」と自分で自分にさん附けしてゐる。本氣で自分を尊敬して見せてゐるとしたら××××だが、さうでないならメモ8さんは最後にジョークを言つてゐるに決つてゐる。ジョークなら結論である訣がない。落ちに過ぎない。

メモ8さんが一生懸命語つてゐるのは、「同じ場所で話をする『議論』」と「違ふ場所でそれぞれ物を言ふ『言いっぱなし』」の事だが、しかし、「同じウェブ上で語つてゐる」のなら、或テーマで話をし、敵の存在を意識してゐる限り(もちろん、無視してゐるのも、意識してゐるのである。しかし、意見を言ふ時、その意見を否定する考へ方を想定するのは、普通である)、それは意見を戰はせてゐるのであり、議論である。が、メモ8さんには、人と人とが直接「向ひ合つて」ゐるかゐないかが問題になる。私にしてみれば、そんなのは神經質な考へ方で――事實として、「公共の場」で、「誰にでも見られる」のならば、「あつちの意見」と「こつちの意見」が「ばらばら」だと考へる必要は全く無い。今はネットの時代だ。何處にゐたつて人は繋がつてゐる。

だから、私にしてみれば、メモ8さんの所謂「議論」「言いっぱなし」の區別は「止揚」されるのであり、全ての意見の對立が議論として看做される。が、そこでは「良い議論」「惡い議論」を區別する事が可能となる。そこで「良い議論」として私は「正しさへの視點に基づいた議論」を想定し――それはメモ8さんの「面白主義に基づいた議論」と決定的に對立する。「議論の本質」をメモ8さんは「問題にしていない」と言ふけれども、私の考へてゐるのも「議論に對する論者の態度」であり、その點で私とメモ8さんとの間には話をする共通の地盤がある。その上で、メモ8さんのAの立場と、野嵜のCの立場との、どちらに「勝ち負けだけを求め、物事の理非・正しさそれ自體への視點を持たない言爭ひ」をくつ附けるべきか、と考へた。メモ8さんは、「面白主義」だから、「面白くない議論」は全部ひつくるめるだらう。しかし、そもそもの「面白主義」に私は異義があるのだ。だから私は、Aの立場とBの立場とは本質的に同じと指摘し、それをメモ8さんが「面白主義」の觀點から「違ふ」「違ふ」と言つてゐるのを嗤つた。
さうしたらメモ8さんが「誤読です」と、例によつて木で鼻をくくるやうな「事實の指摘」のやうな態度で言つて來たから、私は憮然としたわけだ。

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説明するのは「負け犬のする事」?

メモ8氏の「誤読だ」と云ふ言掛りにまつはる論爭(何うせ「野嵜の誤読騷動」とか言つてKirokuroなんかが宣傳する事だらう)で、私は説明をした。懇切叮嚀に理窟を述べて、私の解釋の正當性を示さうとした。
それに對して、メモ8氏の取卷きの人々は、一人の例外もナシに、内容の檢討をしないまゝ、「野嵜は勝ち負けにこだわっている」とレッテルを貼り、野嵜を取卷いて嘲笑した。私の理窟の妥當性について檢討した人が一人もゐなかつた事實は注目に價する。「論ずるまでもなくメモ8氏の言つてゐる事が正しい」と彼等は信じたのだ。

日本人は、昔から、方針を決定するに至るまでの過程を説明せず、頭ごなしに結論を押附けるやり方を好む――と言ふより、それは押附けではなく、「決定」なのだから、從ふのが當然だ、と考へるのだ。説明するのは、正しくない事を無理やり他人に押附ける手段である――日本人は、説明する事を「負け犬が吠える」事だと思つてゐる。相手が説明を始めると、その人は自分に無理やり自分の「正義」を押附けようとしてゐるものと極附ける。

逆に言ふと、日本人が他人に説明を求めるのは、説明を聞いて納得する爲ではない。粗探しして揚げ足を取る事の出來るやうな材料・ネタを、相手自身に提供させ、相手の努力の結果として相手が自分の主張を通せないやうに仕向ける爲・その結果として事態が自分に有利に事が運ぶやうにする爲だ。
今、八ツ場ダム建設の問題で、建設中止を決めた民主黨に、建設促進を訴へる人々が「對話」を要求し、讀賣新聞が「説明」を求めてゐる。これらは、民主黨の主張を聞いて、納得して、その主張を受容れようと云ふ意圖に基くものではない。明かに、説明の中から誤・をかしなところ・つつけるところ・問題にで來るところを、拾ひ上げ、問題化し、糺彈の刃を民主黨に突きつけ、民主黨に方針の撤囘を迫らうと、さう云ふ狙ひなのだ。
讀賣新聞は、マニフェスト選擧の御手本がイギリスのそれである事を指摘し、イギリスではマニフェストの策定の過程が全部公開されてゐる事を言つてゐる。しかし、日本では、全てが秘密主義である――讀賣新聞は、民主黨にマニフェスト策定の過程を公開するやう求めてゐる。
だが、日本に於ては、説明は「負け犬がする事」なのである。民主黨も、それを知つてゐるから、「説明しない」で「結論だけぽんと出して示す」從來からのやり方をとつた。今、説明が要求されてゐるのは、要求する人が民主黨の方針に反對してゐるからである。民主黨を負けさせる爲に、説明を要求してゐるのだ。

日本人は、説明する事を、誠實の證と見ない。逆に、不實の決定的な證據だと堅く堅く信じてゐる。国語改革の時も、国語審議会はなぜ或漢字を選び或漢字を選ばなかつたのか、等々、一切説明しなかつた。日本では、政策は、お上から一方的に押附けられるものであり、その昔ながらの方針を、「民主的な改革」を標榜した改革派の人々は平然ととつたのであつた。

今、私が説明しても、メモ8氏の支持者の人々=アンチ野嵜の人々は、野嵜が自ら自分を「負け犬」に仕立て上げてゐるものと思つて、嗤つてゐる。私は、イギリス流のやり方は正しいと信じてゐるから、説明するが、それは日本で通用しない。
が、日本人の方がをかしい。
説明しないで力で壓しつけるのは、封建時代の統治のやり方で、「無知な民衆をお上が指導・教導する」と云ふ事にほかならないからだ。今の時代は、民主主義の時代で、議論と批評の時代だ。ならば説明するのは意見を述べる人間の義務である。その邊を勘違ひしてゐる日本人は大變に多い。
統治の方法として、説明拔きで結論だけ押附けるやり方――メモ8氏の支持者らが喜んで受容れてゐるやり方――は、統治・被統治の關係に基くものであり、愚民政策を前提とするものであり、要は彼我の不公平な關係を前提とするものだ。
彼等メモ8氏の取卷き集團の考へでは、「前提として既にメモ8氏と野嵜との關係は不公平な關係である=野嵜は負け犬でメモ8氏は最初から事實として勝つてゐる」のである。勝ちに行く必要はない――既にメモ8氏は野嵜に「事實として勝つてゐる」。なるほど、これならメモ8氏は、輕蔑すべき「勝ちに拘る」態度をとる必要がなくなる。理論武裝として「理想的」なものだ。
が、理論武裝で「勝つ」事と、論理で正當性を示して結果として「勝つ」事とは全く違ふ。黒を白と言ひくるめて「勝つ」のと、理論武裝で「既に勝つてゐる」のとは、正しさへの視點が缺如してゐる點で、全く同じだ。「自分に都合の良い結果になれば良い」――メモ8氏は、さう願ひながら、それを露骨に示す事を嫌つて「勝ち負けにこだわるディベート的議論は嫌だ」と表現した。「こだわりさえしなければ、自分が勝つ事は面白いから良い」のだらう。

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