無題
天皇の御本質 「現御神」をめぐる他称と自称 ―いわゆる“人間宣言”の詔書をめぐってー 昭和50年
二「現御神(あきつみかみ)」をめぐる他称と自称
詔書において、天皇みずから、「現御神(あまつみかみ)にあらず」と仰せ出されたということになれば、わが国の伝統的な天皇観から推して深刻な問題を投げかけずにはおかなくなる。だからといって、逆に、それこそ反動的な解釈を強引に妥(あ)てはめて文脈の事実から眼をそらすようなことは断じて許されない。後にふれるが、詔書の成立には、異例中の異例ともいえる事情がからんでいる。そのことをよく勘案しながら、詔書そのものの表現に直接にふれる必要があろうと思う。そうして初めて、この詔書の痛切な歴史的意味淋、問題点は問題としながらも、惻々(そくそく)として体感されてくると思われる。
"人問宣言"なる呼称はきわめて不当であると私は考える。その理由は、実はこの点に関わりがあってのことなのである。私はここで二つの問題を提起する。
「天皇を現御神とすること」は「架空の観念である」と陛下みずから否定遊ばされた。これは紛れもない事実であると私は認識する。ただ、その御発言の意味は、「みずから私自身を現御神とみなすようなことはこれまで断じてなかった。今もそうである。この点誤解のないように」と仰せられていることである。そう解すべきであろうと思う。それは、何も一今上陛下のみの感懐にとどまらない、歴代天皇様の率直なお気持であられるのである。
歴代天皇様の御歌を拝誦すればわかるように、神のみ前に、くもりのない鏡のように、わが心を省みられ、わが心をせめていられる至純の御姿を拝すれば、どこに「みずから現御神」と自称されるような余地があろうか。全く逆のお姿であられることがわかる。人間として、その至らざるを懺悔遊ばされている「人間としての極みのお姿」に国民はひとしく感泣(かんきゅう)するばかりなのであった。
そこで、おのずから、こうした「人間の極みのお姿」こそは、最も人として秀れし御人格、即ち古語に言い、今も日常言語として生きている「上(かみ)」であられるのであると、そう国民ひとしく敬慕し尊敬申し上げ、その国民一般の真情を「現御神」とも「現人神(あらひとかみ)」とも申し上げたのであった。それは古く、記紀万葉の奈良朝からのことであった。-
そこで、「自称・現御神」は終始、歴代天皇様が事実をもって否定し続けてこられた事柄である。しかし、いま今上陛下のこの詔書をもって、国民みずからが、かねてから尊敬して称しまつって来た、いわば「他称・現御神」の天皇観が、国民の心情の中で否定されたもののように解するならば、誤ちも甚だしいというのが、私の指摘したい問題の第一である。
次に問題の第二として指摘したい点は、「天皇を現御神とすることを架空の観念として否定なされたこと」をもって、
天皇様は「人間である」「ただの人間でしかない」
と宣言なさったと解することの誤ちである。
「昭和史の天皇・日本」より
|





