皇籍復帰で即位の例 「皇室が2000年続いた理由」
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皇籍復帰で即位の例
世襲親王家から 天皇となったのは現在まで三例ある。伏見宮出身の
後花園天皇と、閑院宮出身の光格天皇については既に述べたとおりで
あるが、この二例は皇位継承者不在という皇統断絶の危機にあたって
の即位であった。
もう一例は、有栖川宮を継いだ後に即位した第111代後西(ごさい)
天皇だ。皇位継承を巡る争いを回避するために暫定的に有栖川宮から
天皇になった特殊な例である。後西天皇は寛永14年(1637)、
後水尾(ごみずのお)天皇の第八皇子として誕生して、良仁
(ながひと)親王と称し、慶安元年(1648)に親王宣下を受けた
。高松宮(有栖川宮)初代の好仁親王に嗣子がなかったため、良仁親王が
第二代当主を継承することになった。しかし、後光明天皇が崩御すると、
跡継ぎを巡る対立が起こり、後光明天皇の養子となっていた識仁
(さとひと)親王(後水尾天皇の皇子)が成長するまでの期間、中継ぎ的に
良仁親王が即位した。明暦2年(1656)のことである。
そして後西天皇は寛文3年(1663)、予定どおり本来の皇位継承者の
識仁親王(霊元(れいげん)天皇)に譲位した。なお、後西天皇の皇子
幸仁(ゆきひと)親王が高松宮の第三代を継承し、有栖川宮を名のる
ことになった。
また、いつたん皇族の身分を離れ臣籍に下たものの、再び皇族に復帰
して 天皇となった例が一方ある。第五十九代宇多天皇である。
光孝(こうこう)天皇の第七皇子として誕生した定省(さだみ)親王は、
源氏の姓を賜わつて臣下に降り、源定省(みなもとのさだみ)と称した。
しかし、仁和3年(887)に光孝天皇が発病すると再び親王に復帰
させられ、皇太子となり、間もなく光孝天皇の崩御に伴って即位した
。
宇多天皇は約10年間在位した後、寛平(かんぴょう)9年(897)に
譲位し、昌泰2年(899)に仁和寺(にんなじ)で出家して初の法皇
となった。宇多天皇は関白藤原基経(もとつね)と対立して藤原氏に
強い不信感を持ったが、基経が没した後は親政を実施した。天皇の推し
進めた網紀粛正、民政の活性化などの政治改革は、後に「寛平の治」と
呼ばれて高く評価されることになる。菅原道真を重く用いたことも
よくしられている。
宇多天皇のように皇族の身分を離れて姓を賜わることを(臣籍降下)、
もしくは(賜姓(しせい)降下)という。諸王が賜姓降下した早い例は、
天平8年(736)に敏達天皇の玄孫(四世王)葛城王らの例に見る
ことができ、また皇子が賜姓降下したのは延暦6年(787)に
桓武天皇皇子の岡成(おかなり)に長岡朝臣を、また光仁天皇皇子の
諸勝(もろかつ)に広根朝臣(ひろねあそん)を賜わったのが最初の
例である。
その後、嵯峨天皇の皇子八方が、源朝臣(みなもとのあそん)の姓を
賜わり相次いで臣籍に降りたのが賜姓源氏の初例となり、文徳
(もんとく)天皇・清和(せいわ)天皇・陽成(よぜい)天皇・
光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇の皇子女に及んだ。賜姓降下した
清和天皇の皇子孫の清和源氏や、桓武天皇の皇子孫の桓武平氏などは
よく知られている。
皇族の身分を離れることは、女性皇族にとっては大きな意味があった。
なぜなら、本来女性皇族は結婚相手が厳しく制限され、臣下に嫁ぐことは
簡単に認められることではなかったからだ。特に令制では、皇親が臣下に
嫁ぐことは禁止され、例外的に五世王との婚姻だけが許されてきた。
延暦12年(793)の詔(みことのり)、で、現任大臣と良家の子
もしくは孫は三世、四世の女王との結婚を許され、藤原氏は二世の女王
との結婚を許されるようになったが、それでも厳しい枠がはめられて
いたことに変わりはなかった。
そこで、女性皇族が皇族の身分を離れる道が開かれたことにより、
臣下に嫁ぐ例が相次いだ。皇祖(初代天皇)の血を受け継ぐ世襲親王家が、
皇統の危機に当たって 天皇を送り出すという重要な役割を果たして
きたことを、これまで明らかにしてきた。しかし、皇統を守るための
安全装置は世襲親王家だけではなかった。次にもう一つの安全装置に
ついて触れよう。 竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より |









こんばんは。
今日もありがとうございます。
こうして皇族方の歴史を学ばせて頂くことができ、
本当に嬉しいです。
次回も楽しみです。
傑作
2011/12/25(日) 午後 10:22
転載させて頂きます。
応援&今日の傑作 ポチ凸
2012/2/17(金) 午前 0:24