虎ときどき牛(奥の間)

「食うことばっかり考えて生きてるだろ」と言われても、否定できない私です。

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「放射能パニック」からの連想

ふと思うところがあって、美馬達哉『〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学』(人文書院、2007年)という本を読み返しています。その中の、「第二章 防疫線上の政治」からの引用です(太字強調は、引用者)。

 ここで改めて確認しておきたいことは、鳥インフルエンザと区別されるような新型(ヒト)インフルエンザは現在のところ発生しておらず、未来のリスクに過ぎない状態でとどまっているという当然の事実である。(中略)この現状とリスクとの大きなギャップによって、鳥インフルエンザはメディア的なスペクタクルにふさわしい感染症となっている。不在の疫病は、逆説的なことに、いつ、どこに、どんな形で出現するか、がわからないという意味で、現存するいかなる疫病よりも恐るべきものとして表象され、「遍在する疫病」と同じことになってしまう。イラク戦争の口実とされた「大量破壊兵器」のように、どこにも見つからないとなれば、発見されないこと自体がその危険性への不安な意識を増幅する役割を果たし、さらにヒステリックな恐怖を悪循環のように呼び起こしていく。そして、不在で遍在する疫病は、人々の恐怖をかき立てるだけでなく、あるタイプの現実の公衆衛生的な対応を生み出す動因ともなる。

どうでしょう、「放射能パニック」と重なるものがあるように思いませんか。「安全、安心なのだ、危険などない」と強調されればされるほど、「危険が遍在している」ことと同じになってしまっている、という構図がうかがえます。

もっとも、放射性物質の危険性や、現在の汚染の度合いなどについては、与えられた情報がいかにも不十分であり、実際に危険が存在している可能性も相当に高いのですけどね。でも、ここで引用した種類の「ヒステリックな恐怖」がかき立てられ、その結果として、スクリーニング検査という「あるタイプの現実の公衆衛生的な対応」が引き出されていることも、また一面としてたしかだと思うのです。

さて、放射性物質の拡散が短期には収束し得ないことが明らかになった今、私たちはどう対応していくとよいのでしょうか。「ヒステリックな恐怖」を募らせることが最善ではない、ということだけは明らかなのですが、じゃあどうすればよいのか、うまく方向が見つけられません。

うーん……。

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20110322付、『朝日新聞』「記者有論」の小森敦司氏に抗議する

東京電力の管内に住んでいます。例の「計画停電」では、家も職場も第3グループに入っています。

計画停電が始まって1週間ほどになりますが、これ、けっこうこたえます。開始当初に比べると予告もしっかりしてきて、停電が実施されるかどうかはだいたい前日にはわかるようになりました。地元自治体も、ちゃんと情報を流してくれています。

ですが、「輪番停電」とも言われるように、停電が行われる時刻は順繰りで変わっていき、日によって異なります。たとえば私たちの第3グループは、今日は15:20(実際には16:00ごろ)〜19:00ごろに停電しましたが、明日は12:20ごろ〜16:00ごろに、あさっては9:20ごろ〜13:00ごろに停電が実施される予定になっています。

家で停電を迎えるのも少々面倒ではありますが、職場で停電を迎えるのはさらに面倒です。なにしろ、仕事のかなりの部分でパソコンを使っていますから、停電中は仕事内容がかなり制限されてしまうのです。手元のパソコン自体はバッテリである程度動くものの、ネットワークのほうは停止してしまうのですから、できなくなる仕事はたくさんあります。

なので、明日はどの時間帯に停電するのか、停電時間帯にすべき仕事は用意できているかを毎日確認せねばならず、その状態しだいで出勤・退勤時刻も日によってまちまちにならざるを得ません。家で停電時間帯を過ごす場合には、夕食のことも心配しなければなりません。これが毎日続いてくると、正直なところ、ジャブというかボディ・ブローというか、そんな感じで消耗します。

とはいえもちろん、被災地の方々のことを思えば、この程度の苦労は何ほどのこともありません。ですから、そのくらい我慢せよと言われるのはわかっていますし、じっさい我慢していこうと思ってはいます。

しかし、です。そのことをこういう角度から言われると非常に腹が立つ、ということが、今日ありました。

地震発生以来、どうも見る気になれなかった新聞を、今朝、久しぶりに読んでみました。ちなみに私は朝日新聞購読者です。わざわざ指定して購読するくらいなので、それなりに記事の内容や取材姿勢などを評価しているほうの人間だと思います。ですが、今朝のとある記事には、腹が立ちました。それは、「オピニオン」面の下段にある、「記者有論」というコラムです(「首都圏の電源 福島への依存思い知る」)。

今朝の執筆者は、編集委員・小森敦司氏でした。小森氏は、「福島は首都圏の電力の3分の1を担ってきた」という福島県知事の発言を引用しつつ、「顔を平手打ちされた気分だ」と、衝撃を受けたらしき感想を述べます。そして、東北電力の供給エリアにある福島県の人々が、首都圏への電力供給のためにつくられた原発の事故によって域外避難などを強いられていることに触れ、「申し訳なく思う」と述べた上で、「まさかこんな形で、原発周辺に住んでいる方々に途方もない苦労をかけることになるとは、思いも及ばなかった」と述べます。そのこと自体は、必ずしも間違っていないだろうと、私も思います。

問題はここからです。続いて小森氏は、「首都圏の住人である私たちはこの1週間の計画停電で、そうした電力供給の構造をいや応なく学んでいる」と言うのですが、そこで述べられていることは、要するに「電力が不足している」ということだけ。計画停電がどのような生活の変化を生んでいるかについては、「夜。都内のコンビニに入ると、商品棚の照明が暗くなっていた」という程度のことしか挙げられていません。その程度の問題意識でしかないので、「以前の『明るさ』を恋しくも思う。でも、この『暗さ』を、都会に暮らす私たちの電気の使い方、そして地方を含めた電力需給の姿を変えていくスタートにしなければ」としたり顔に言ってのけて、おしまいにしてしまっています。アホくさすぎます。中学生レベルです。

重箱の隅をつつくようですが、そもそも小森氏が、計画停電の影響を「夜」の「都内のコンビニ」でしか感じ取っていないらしいのは、要するにこの人のオフィスが〈特権的な場所〉に、すなわち計画停電の対象地域から外されている東京23区内にあるからでしょう。編集委員だし、昼間は中央区の築地にいらっしゃるんですかね。そうすると、停電の影響を(まさに身をかわすように)かわしながら仕事をし、生活を送っているほかの地域の状況など、普段はまったく意識しなくてすむでしょうね。誠にけっこうなことです。実にうらやましい限りです。

ですが、そうしたねたみとは別に、私はこう言わざるを得ません。小森さん、いまのあなたのオフィス(そして自宅も?)の電力供給は、東京電力管内の他地域の人々が計画停電に協力していることによって保たれているのですよ、そのことをあなたは意識したことはありますか、と。

先にも触れたように、計画停電への協力は、被災者の方々の労苦に比べれば、何ほどのことでもありません。だからといって、停電への対処に頭を悩ませたこともない人間に、そんなことを言われたくはありません。計画停電は、確実に、「夜コンビニが暗くてさみしいよね」という程度のことを超えた影響力を持っています。これがあるからこそ、広い範囲の人々が毎日ピリピリといらだちながら日々を送っているのではないですか。ちょっと23区外に出て、数日間でも家事をやってみたらわかるでしょうに。

計画停電は、人々の生活を縛るものであると、私は感じています。たとえば、戦時中の「灯火管制」だとか物資の配給制度などはこの延長上にあるのだな、と感じますし、こういう状況を通して「草の根の戦時体制」はつくられていくのだろうな、とも想像します。ここで感じるピリピリ感とわずらわしさは、そういう種類のものだと思うのです。それを感じないですむ生活を送っている小森さん、あなたは本当に恵まれているのですよ。せめてそのことを意識して、他人に呼びかけていただきたいと思います。今のあなたに、東京電力の供給エリアに暮らす人々全体を代弁できる覚悟はあるのですか? 本当はもっと言葉を尽くして罵倒したい気持ちですが、ネット上は一応公共スペースだと思っているので、やめときます。

ですが、私は怒ってるんですからね。

【追記】
福島県に暮らしておられる方、ゆかりのある方からご覧になっても、やはり腹立たしい記事であったというご指摘がありました。リンクし、トラックバックを送信させていただきます。

●妻が激怒した、朝日新聞の福島原発事故関連記事・・・(「田舎牧師の日々(続々)」さま)

要するに小森氏にとっては、被災地のことも他人事、原発のことも他人事、計画停電も他人事なんでしょうね。そういう立場からの空疎な呼びかけが、いかに腹立たしく響くか。他山の石としたいところです。

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〈買い占めという「合法的」な略奪〉が横行する日本を誇れるか

こんなニュースがあります。


これらのニュースを見て、「日本はすばらしいのだ」「日本人であることを誇りに思う」などという感想を持っている人が多いようです。

でも、ちょっと待ってほしいと思います。

じつは私、つい先ほど、地震発生後初めての買い物に行きました(たまたま今まで行かずにすんでました)。スーパーの棚を見ると、かねてウワサに聞いていた通り、即席麺をはじめとして乾麺などの麺類、パン、ペットボトルの水やお茶、とろろ昆布、トイレットペーパー、乾電池、といったものがまるで棚にありませんでした。

このスーパーはイオン系列なので、全国規模の物流を持っているでしょうから、そもそも被災地に優先的に商品を供給しているのだろうとは思います。でも、それだけじゃないでしょう。必要以上の買いだめ・買い占めが、この地域でも行われているのだと感じざるを得ません。

私が改めて言うまでもなく、被災地で必要とされるような物資を必要以上に買い占めてしまうと、それらの物資が被災地に届かなくなってしまいます。「ウチ一軒くらいかまわないでしょ」という気持ちで買っていくと、タルのワインが水になってしまうように、村の牧草地の草が食い尽くされてしまうように、物資の不足を招いてしまうのだと思います。

そういう不届きな買い物をする人であっても、店にとって見れば「客」ですから、「買い物をするな」と言うわけにはいかないでしょう。けれど、そんな買い物が間接的な略奪行為であるということ、絶対に避けなければならない恥ずべき行為であることは、自覚しておくべきではないでしょうか。そもそも、トイレットペーパーがなくなってしまえば、被災地でなくてもたまたま紙を切らしてしまった人まで困ることになってしまうじゃないですか(ウチの紙も残り少なくなってきてますしね)。

だから、ニホンジンは略奪をしないスバラシイ民族だ、などということは、断じてないと思っています。略奪はこの国の広い範囲で、日々起こっているのです。上のニュースを見て喜んでいる余力があるのなら、被災地に必要なモノ・カネ・情報が届く手だてを考えてはいかがですか。私も被災地のために何をすべき(でない)かを、じっくり考えたいと思います。


【20110317追記】
元のタイトル(「無用な買い占めは『合法的』な略奪である」)は、趣旨を誤解されてしまいそうな気がしたので、タイトルを改めました。私が言いたいことは、次の2点です。

・どんなに「合法的」なものであっても、無用な買い占めは間接的な略奪以外の何ものでもない。
・よって、「略奪のないスバラシイ日本」などという言説は端的に誤りである。

とくに問題なのは2点目で、「略奪をしないすばらしいニホンジンに生まれてよかった」などといって喜ぶのは、それこそ他人の悲しみを材料にして喜ぶ行為であり、厳に慎むべきことだと考えています。

……これでちゃんと伝わりますかねえ。

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「タイガーマスク運動」に関連して

「タイガーマスク(伊達直人)」を名乗って金品を寄付する動きが、ひとつの「流行」になっているようですね。これはこれで「ええ話」なのかもしれませんが、どうも私はどこか、モヤモヤとしたものを感じます。

思い出すのは、社会学者・立岩真也氏の、こういう文章です。

 小学校などで「教育の一環」としてみんなでよいことをしにいくのが流行である。よいことはわるいことでなく、たしかによいことではある。ただそこで「与えること」や「自発性」の危うさにどれだけ注意が向けさせられているのだろう。

 一人よがりの「善意」でなく「共感」ならよいのだろうか。しかし、容易に共感が及ばないところにも必要はあるだろう。あの豊かな国の人たちとの境遇の違いを思えば、そう簡単にあの人たちに共感されたくはないが、しかし必要なものをあの人たちはもっているからそれを求める、求めざるをえない、そういう人たちもまたいる。

(中略)もらえるものはもらいながら、しかし本当はこんなはずではないと、かすかに、あるいははっきりと、思っている人がいくらもいるのは確かだ。そしてそうした鬱屈がいま世界大に存在し拡大しているのだと思う。

《出典》立岩真也「贈り物の憂鬱」(『希望について』青土社、2006、所収)
立岩氏のサイトで、いちおう全文を読むことができます。

一般に、贈り物をすると、それによる「すっきり感」のような感覚が得られるものだと思うのですが、「タイガーマスク」運動は、そうした「すっきり感」を(マスメディア経由で増幅された形で)受け取ることを求めているのだな、と感じます。

まあ、「すっきり感」がつねに全面的に悪いとは言えない気がするので、一方では生きるための資源が不足している人たちの必要を(負担や鬱屈を伴わないで)満たしながら、他方では贈る側の「すっきり感」も満たすような仕組みができないものかなあ、とは思います。ずいぶん虫のいいことを言っていると、われながら思うのですが。

問題は簡単なようで、現実的な仕組みのデザインをするとなると、なかなか難しいものです。というのも、贈る側が「すっきり感」を求めているというのは、つまるところ、贈り物を受け取る具体的な他者の「感謝」を感じ取りたい、ということにほかならないわけでしょうから。でも、上記の引用箇所の少し前で立岩氏も指摘していますが、生きるために必要なものを受け取るのにいちいち「感謝」しなければならない、というのは、相当に屈辱的であるはずです。

うーん、どうもモヤモヤします。少なくとも、贈る側と贈られる側の間を橋渡しする何らかの機関が必要であることは確かですが、その機関がどうすれば「すっきり感」を創出(いや、いっそ演出、あるいは捏造でもいいかも)できるのか。ニュースを見ながらときどき思ってはいるのですが、なかなか出口が見えません。


【舌の根の乾かぬうちに追記】
そうは言いながらも、「すっきり感」など満たす必要はない、と考えれば、じつは簡単なのかもしれません。つまり、資源を真っ先にどんどん徴収して、再分配を充実させればいいわけです(それを実現することも「簡単」であるかどうかとは、別の話ですが)。例えばじゃんじゃん累進課税するとかね(もちろん私の所得税・住民税の額も上がるわけだけど、ちゃんと払うしかないでしょう)。「累進課税をやると、本当のリッチはタックス・ヘブンに逃亡するだけだ」とか、「累進課税をやると、経済成長が停滞する」とか、ほとんど恫喝としか思えないような言説を眼にしたりすることもありますが、それって本当なんでしょうか。詳細な検証はめんどくさいのでやる気ナシですが、今ひとつアヤシげだと思っています。

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【韓国ネタ】「授業妨害」だっていうけど

例によって、毎日韓国のKBSニュースを見ているわけですが、最近は例の砲撃事件に関わる話ばかりで、全般的につまらんニュースばかりです。そんな中でおもしろかったのが、12月3日付の、このニュース。


日本語訳してみると、こんな感じですかね。

(アンカーキャスターのコメント)
授業時間に、先生の目を避けて学生たちが団体でダンスを踊る、おかしないたずらが広まっています。おもしろいと思ってしていることだというのですが、教師の権威失墜と無関係ではないように見え、さしてかわいくも見えません。キム・ソンジュ記者が取材しました。

(レポート)
授業時間に女子学生たちが手を振って団体で踊っています。先生がおかしいと感じて後ろを振り向くと、すぐに勉強しているふりをします。友達が見つかって罰を受けても、ずっと踊っている学生もいます。

(VTR)
「おまえ……何してたんだ(消しゴム拾ってました)」

このように、先生の目を避けて踊りを踊るいたずらが、最近学生たちの間で流行しています。授業妨害がひどくなって、とうとう怒った先生がチョークを手にとって投げたりもしています。見つからずに踊りを踊るために、練習をする学生まで出てきています。

(インタビュー)
キム・テグァン(高校生):「(練習している友達が)ちょっと何人かいます。(踊りを)どのように踊るべきか、一緒に踊るやつらもいて……」

(インタビュー)
ホン・ソンミン(中学生):「先生をからかうのはよくないけど、でもそれ自体が笑えるから……」

教師たちは、子どもっぽいいたずらのように見えながら、教師の権威失墜とも無関係ではないとして、にがにがしく思っています。

(インタビュー)
イム・ハスン(ソウル南大門中学校教師):「学生としてはおもしろくやってみようとしているようですが、これは、学校現場で学生たちがやってはいけないと思います」

単純ないたずらか、教師の権威失墜か、論争が起きている間に、今も教室では、先生と学生の間の神経戦が起こっています。KBSニュース、キム・ソンジュでした。

で、そこで流れていた映像がYouTubeにあったんですよ。↓これ。

수업시간에 춤추기(YouTube)

いやー、なんつーか、先生が後ろ向いてる間にみんなで肩ゆすって踊ってるなんて、微笑ましいじゃないですか。これくらいのことでそんなに目くじら立てなくてもねえ、なんて、日本の学校育ちの私は思うのですけれど。KBSのキャスターは「かわいく見えない」なんて言ってましたけど、十分かわいいじゃないですか。

ま、それとは別の問題として、これだけみんながこぞって踊ってるとなると、それに加わりたくないと感じる人は、かなり疎外感を覚えるでしょうけどね。私としては、教師の権威失墜だとかよりも、そっちの方が問題としては大きい気がしますね。

【追記】
上記の動画、見続けていくと、だんだんわけのわからん展開になっていきますね。みんななんでそこまでして踊りたがるんやろ、とも思うし、そもそもこのカメラは誰がどこで撮ってるんやろ、とか、映ってない教室の右半分はどうなのか、とか、いろいろ気になる部分も出てきます。これ、ネタ動画ですかね? 仮にそうだとしても、なかなかおもしろいところもあると、私には感じられます。やっぱ日本の学校とは違うな、と。

【追記2】
しつこく動画見てるんですけど、女子学生たち、やってるうちにどんどんエスカレートしちゃってるところがかなりウケますね。これって、幼稚園児が先生にするいたずらみたいに、「見つかりたくてやってる」ってヤツですよね。つまり、「見つかりたい、だけど簡単には見つかりたくない」っていう。それは「かくれんぼ」の根底にあるものだなあ、と思うにつけ、藤田省三『精神史的考察』っていう名著の、「或る喪失の経験 隠れん坊の精神史」っていう文章を思い出します。

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