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Twitterで大森の時評(参照A)について触れたところ、思いのほか反応があった。
この記事はそれらの反応を見て、また大森の時評を読み直して考えたことをまとめるものである。

〈目次〉
1.数値を用いた批評について
2.大森の時評について

〈参照〉
A.「批評ニューウェーブ」への疑問/大森静佳 http://toutankakai.com/magazine/post/4917/
B. 所感 of 「「「「批評ニューウェーブ」への疑問」への疑問」への疑問」について/三上春海 http://kamiharu.hatenablog.jp/entry/2015/10/18/231642
C.1 なぜ妻はなるものなのか 口頭発表用/久真八志  http://www.slideshare.net/YatsushiKuma/ss-51974792
   2 テキストマイニングによる「詩を評する言葉」の傾向分析 http://www.slideshare.net/YatsushiKuma/ss-47612661
   3 数値でみるビットとデシベル〜フラワーしげるの短歌は長いのか? http://www.slideshare.net/YatsushiKuma/ss-53831330
  

1.数値を用いた批評について
はじめに、数値を用いた分析をともなう批評に関する私の見解を述べておく。

1−1.
大森の時評を読んでずっと考えていたのは、文章中に出てくる「主観」や「客観」という言葉の意味である。
主観による批評を、大森は、一首を読むことと関連づけて『個人の言語感覚、生まれ育った時代環境や思い込みによってたやすく左右され』ると述べる。客観的な批評は、その反対であろうから「個人の言語感覚、生まれ育った時代環境や思い込みによって左右されない」批評と定義しておこう。特に印象批評(思い込みによって疑わしい結論を出す批評を指すものとする)を問題視する文脈で出てくるから「個人の思い込みに左右されない」という点が重要と思われる。

この定義では「客観」の実体がいまいちつかめない感じだが、私も実体はよくわからない。仕方なく辞書をいくつか引いてみる。客観的という言葉には少なくとも「主観を離れて独立して存在する状態」または「特定の立場にとらわれない状態」という、似て非なる意味がある。どちらの意味でも「客観的な批評」は「個人の思い込みに左右されない」という条件はクリアする。結局、大森の文章からは、批判の対象である割には「客観的な批評」が何なのかわからないのだ。

なお、山田の見解として紹介されている「ある程度客観的な議論」は、ある程度という言葉が示す通り、限定的である。上記に挙げた二つの意味でいえば、後者の方が近いだろう。以降、ある程度客観的といった場合には「特定の立場にとらわれないよう配慮する状態」という意味で捉えることにしたい。いずれの特定の立場にもとらわれないことは実際には不可能だ。だが個人の思い込みで判断していないか注意して議論することは可能である。

ところで上の定義を採用すると、数値を用いずともある程度客観的な批評は可能である、ということになる。例えば既存の批評を引用して、自身の見解との共通点を見いだし、これは自分一人の思い込みではないことを主張するやり方である。読者は、論者の見解が複数人に共有できるものであるという主張を受け取るだろう。ただし、読者がその主張をある程度客観的だと見なせるかは別問題だ。実際の批評の機会において、論者の見解は否応もなく特定の立場にとらわれてしまう。だからある程度客観的な批評とは、実際には、論者が自らの主張が特定の立場にとらわれないよう配慮したことをアピールしているだけなのかもしれない。とはいえアピールがある方が、読者としてもその主張を受け入れやすいだろう。

もう一つ述べておきたいのは、数値を用いた批評であっても印象批評は発生し得るということだ。数値を用いるだけで思い込みが排除できると考える人がいるなら、その人は思い込みに嵌っている。数値を用いる批評は、数値を扱う過程で批評者のさまざまな判断を必要とする(これについては次項で詳しく説明する) 判断は、思い込みによって左右され得る。例えば採取したデータに何らかの偏りがあったとして、結果が分析者の仮説通りであれば、分析者はデータに偏りがあることに気づかないかもしれない。このような誤謬を防ぐための方法も考案されてはいるが、分析者自身が思い至らない限り歯止めはかからない。

大森が触れていた光森や田中の時評について、原文を読んだわけではないが、彼らは思い込みを排除するための手立てを自ら講じていると想像する。この想像は批評者としての彼らへの信頼に依るもので、根拠はない。しかしおそらく彼ら自身、完全に思い込みを排除したなどと言い切ることはないだろう。

1−2.
さて、数値を用いて分析を行う過程において、いかに分析者の判断が必要になるかを具体例を挙げて説明したい。
取り上げるのは、私が以前勉強会のために発表した『なぜ妻は「なる」ものなのか?』(参照C1。以下C1と呼ぶ)である。
なお、私はそれ以外にも数値を用いた批評を行ってきた経緯がある。せっかくなので参照Cにまとめて紹介している。

C1で私は「なる」というキーワードに注目し、短歌において「夫になる」と「妻になる」という表現の出現率が異なることを示した。この結果を基に「妻」と「夫」に期待される在り方の違いが「なる」の出現率の差に現れているという推論を立てた。以降は妻と夫を扱った歌を引いて、「妻」と「夫」に期待される在り方の違いについて具体的に考察し、推論を立証しようとした。ちなみに、特定条件に当てはまる歌の出現率を調べるという方法は、以前から短歌批評でしばしば行われているものである(永田和宏「喩と読者」では近代歌人の直喩出現率を調査している)
まず、なぜ私が「妻」と「夫」の比較など行ったのか、読者は疑問ではないだろうか。これに対する答えは、私が「夫婦」の関係に個人的に関心を持っているからである。公共的な意義も述べることは一応できるだろう。しかし、それは私以外の読者にとっての意義の説明であって、なぜ私が分析を始めるのかの説明ではない。あくまで出発点にあるのは私の問題意識なのだ。

C1では、歌の中で特定の表現が出現する割合を見積もっている。このように数値化を行い何らかの演算をする方法のメリットとして、得られた結果が共有しやすいという点があげられる。注意しなければいけないのは、あくまで共有しやすいのは数値そのものだということだ。数値が共有されやすいからといって、数値化の際の私の判断まで一足飛びに共有してはならない。「なる」歌の出現率が「妻」や「夫」の期待される在り方を反映するといえるか、その妥当性は数値であることとは独立して検討されなければならない。

付加的な数値化のメリットとして、広い範囲を対象にしやすいというものがある。取り扱うサンプル数を増やせば「全体」に近づいていくというイメージが、数値を提示された読者に説得力を与える。(このイメージは妥当な部分もあるが、数が多いほど全体を精度よく反映できるとは限らないので、注意が必要である)

逆に数値化のデメリットは何か。数値化は、付随する情報を削ぎ落し単純化する行為である。したがって複雑な情報を捉えるのが不得意だ。C1で私は、「妻」には家庭で期待される役割があると信じられているために、職業に就くのと近いニュアンスで「妻になる」という言葉が用いられ、「夫」には家庭で期待される役割がないと信じられているため「なる」が使われない、と結論づけた。この段階の考察では、私は数値化を試みず、いくつかの歌を取り上げて意味内容を分析するという方法を取った。「妻」には複雑な文脈があり、その全てを数値化してまとめようとしても、取りこぼすものが多すぎると判断したからだ。仮にうまく数値化できたとしても、複数のパラメータ間の関係が複雑になりすぎて、かえって共有しやすいというメリットが薄れてしまうだろう。

数値を用いるという手続きは、分析者の判断をさまざまな場面で必要とする。C1であれば、数値化する際だけでなく、そもそもどのようなデータを用いるかの選択、また数値化したあとの抽出の手段の選択、何らかの検定が必要かの判断と検定手法の選択、あるいはグラフや表を用いるかといった選択、そして結果を解釈し結論を出す段階まで、私は判断を下した。

余談であるが、グラフ化することでの情報伝達の効率のよさ(『直感的』とよく表現される)と、数値それ自体の共有しやすさとは区別しなければならない。数値がなくとも図を用いて説明することはよくある手続きである。
これら各過程の判断について、私は思い込みに左右されないよう注意は払ったつもりである。だが、厳しい目で見られれば、どこかでボロは出るだろう。また、思い込みに左右されないことを求めるのが無理な部分が少なくとも一つはある。それはこの分析が私の問題意識によって始められているという点である。

2.大森の時評について
以上、前置きが長くなったが、分析手法に関する私の考えは説明できたはずである。
そのうえで、大森(参照A)や三上(参照B)とは立場を異にすることを説明する。大森や三上の見解はいくつかの誤解のもとに成り立っているように見える。よって私はその指摘をし、批判を試みる。
またその過程で、発端である大森の文章が、おそらく本人の意図しないところでいたずらに議論を混乱させていることも指摘したい。

2−1.
大森の時評で私が問題視するのは次の部分である。

こうした傾向について、山田航は「東京新聞」(二〇一五年四月十一日付)の短歌時評「批評ニューウェーブ」で大きな期待を寄せる。山田は、これら統計を活用した批評は従来の批評の在り方を転換させうると評価し、具体的な利点として①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる、②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる、という二点を挙げる。
 確かに、短歌の今後を照らすものとして統計データやグラフは貴重である。従来の印象や思い込みを覆す、スリリングな新鮮さもある。風通しもいい。その点、利点②に異論はない。ただ、①についてはどうだろうか。
 私たちが目指すべきなのは、本当に客観的な批評なのだろうか。客観的であることはそんなに無条件で肯定されるべきことなのだろうか。歌をほとんど引用することなく、数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評の後ろには誰がいるのだろうか。そういった言わば透明な批評ばかりでは、案外つまらなくないだろうか。 

最初に断っておくが、以降私が述べる「山田の見解」は、大森の要約から読み取れるものである。東京新聞の時評で山田が述べたものと同じではない可能性がある。なお、山田の見解についての記述が引用でないのは、文末で古井由吉の発言は改行して示していることとの違いから判断できる。
大森は三段落目で目指すべき批評というテーマの検討を行っているが、これは「山田が提示する目指すべき批評」を前提に書かれている。実際に山田がそれを目指すかのように書いたかは私にはわからない。だが、大森は「山田航は(略)大きな期待を寄せる」と書いている。よって山田が目指すべき批評を語っていると大森は判断している、と推測できる。
そして、この文章で大森は三つのミスを犯している。

2−2.
一つ目は、自身の見解とそれ以外とをはっきり区別しなかったため、議論の筋道を混乱させてしまったことである。三段落目の最後で、大森は『案外、つまらなくないだろうか』と述べている。実は読んでいてここで面食らってしまった。なぜ大森は「つまらないか否か」という基準で結論を出したのだろうか。三段落目はその直前の『その点、利点②に異論はない。ただ、①についてはどうだろうか』を引き受けて書かれているはずである。利点①および②は『山田は〜挙げる』というくだりで紹介した山田の見解であるから、大森は②を肯定しながら①に対しては反論をしたいのだろうと読むしかない。しかし山田のあげた利点①に「つまらないか否か」という観点はどこにもない。①で批評の在り方について書かれているとすれば、「印象批評は抑制されるべきか」というテーマであろう。しかし印象批評については大森も問題視しているようである。後段に出てくる『もちろん、一首に基づく批評には山田が指摘するような危険もある。個人の言語感覚、生まれ育った時代環境や思い込みによってたやすく左右されてしまう』という一文がそれに該当する。よって異論は印象批評の抑制についてではない。

大森は三段落目の冒頭で『私たちが目指すべきなのは、本当に客観的な批評なのだろうか 』と述べる。利点①でこれに対応する部分があるとすれば、山田の見解として紹介された『ある程度客観的な議論をするためのインフラになる』であろう。しかしこの対応関係には不整合がある。ある方法を採用すると「利点」があるということと、その方法を(ある目標の達成のために)採用することとは異なる段階にあるにもかかわらず、大森の文章は利点に反論するかのように見せて目標の話にスライドしてしまっているのだ。なお利点②の『歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる』には、「ビジネス化させる」という目標が暗に含まれており、大森は「利点②に異論はない」と言ったことで目的をも肯定している。その上で①に異論があるかのような言い方をするということは、利点①にも目的が暗に含まれると見なしているのかもしれない。つまり「山田は、短歌批評はある程度客観的な議論をせよと主張する」という前提のもとに「利点①についての」反論を行っているのだ。ただ大森自身が要約した山田の見解から、そのような前提を導くのは強引と言わざるを得ない。山田が統計データの持つ「ある程度客観的」な性質に利点を見出しているからといって、皆がある程度客観的な批評を目指すべきだと言ったのだろうか? 言っているなら大森はそれを書かねばならない。

利点と目標を混同したまま「短歌批評はある程度客観的な議論を目指すべきである」という主張への反論を行おうとする大森の文章は、次のような問題をはらんでしまう。「つまらないか否か」という問題の検討結果を「短歌批評はある程度客観的な議論をするべきか否か」というテーマの結論に直結してしまうのである。そして「つまらない」という検討結果を根拠にして、「ある程度客観的な議論がなされること」はおろか「印象批評が抑制されること」も不要であると結論付けようとする文章ができあがってしまう。大森にその意図があったかどうかは関係ない。文章がそのような胡乱な筋道で構成されているのである。

大森の意図はともかく、文章には反論しておくべきだろう。仮に批評がつまらなくなるからと言って、それを短歌批評から思い込みを排除しなくともよいという主張の根拠にしてはならない。山田が『利点』だと捉える印象批評の抑制を、私も望ましいことだと考える。理由は、大森も述べるように『危険』だからである。単に疑わしい結論を述べる批評ならば捨て置けば済むが、それが特定の個人や集団を批判するような文脈で行われるとき、尊厳や名誉を不当に傷つけかねない(筋が通っていれば、それは正当な批判である) そのような批評を擁護する理由が私には見出せない。またそれは、過剰に憎悪をあおることで批評の場に弊害をもたらすだろう。だからと言って、可能なかぎり思い込みを排除して批評せよなどと言うつもりはない。そんなものは不可能であるし、偏見であろうと表現する権利は守られなくてはならない。重要なのは印象批評も含め「望ましくない批評」とは何かを批評の場において共有することだ。例えば上に述べたような、不当な攻撃になるような批評を私は望ましくないと考える。もし他に重きを置くべき価値があると考える者がいるなら、それは提示されるべきだし、どの程度認めうるか議論することもできる。ただし、その議論においてもし「面白ければなんでもいいではないか」という意見が登場したら、私はそれを認めない。

実際のところ、大森が山田の見解に直接反論を試みていたかはあやしい。山田は「ある程度客観的」と留保をつけていたところを、大森は「客観的な批評」と述べ、留保を取り去ってしまっている。『その点、利点②に異論はない。ただ、①についてはどうだろうか』と書いた割に、反論であるはずの三段落目は、最初(山田がつけていた「ある程度」を取り外し、客観を問題にする)から最後(山田の見解になかった「つまらないか否か」という基準で結論を出す)まで、山田の見解とずれたところで議論をしている。

こういった不自然さから、私はもう一つの観点を得る。おそらく三段落目で行われているのは、大森の内部での検討なのである。テーマは『客観的な批評はつまらないか否か』だ。つまり異論は、大森自らの見解に対する、大森自身からの反論だったという可能性である。

山田の見解を紹介した一段落目を引き受け、二段落目では大森の見解が書かれている。「確かに」からはじまり「異論はない/どうだろうか」で終わることからも、山田の見解に対する大森の賛否あるいは評価が述べられているはずである。ここで『従来の印象や思い込みを覆す、スリリングな新鮮さもある』という一文が目に留まる。『スリリングな新鮮さ』というフレーズの意味するところは『面白い』つまり『つまらなくない』ということではないか。大森の「つまらなくないだろうか」はおそらくここに対応している。そしてこのスリリングな新鮮さが該当する概念、つまらないか否かについては、山田の見解には一切登場していない。もしかすると東京新聞の時評で山田はデータを用いた批評がスリリングな新鮮さを提供するかのようなことを書いたのかもしれないが、だとすれば大森は要約に反映させなければならない。読者は、筆者の要約は正しいという前提でまずは読むのである。少なくともこの時評において、大森は「批評がつまらなくなるか否か」というそれまでに存在しなかった基準を自ら持ち込んだのだ。相手の見解を支援するために自らも新たな評価を加えたり、あるいは反論のために相手が忘れている重要な概念を挙げることは問題ない。よくあるやり方である。しかしその見解が誰のものかきちんと区別しなければ、議論は混乱する。

大森が『①についてはどうだろうか』に込めたかった意味は「私は①に関連して、統計データを用いた批評にはスリリングな新鮮さがあると述べた。しかし一方で、従来あった批評の興をそぐことにもならないだろうか。それは本当にいいことだろうか」なのかもしれない。しかし、だとしたら『その点、利点②に異論はない。ただ、』という繋ぎ方はおかしいのである。結局、この文章は山田の見解に直接異議があると取るしかないし、その結果「つまらないか否か」によって山田への反論を試みるという筋道ができてしまったのである。

2−3.
大森の二つ目のミスは、「ある程度の客観性を批評に持ち込むべきだ 」という見解に対して、極端な事例で反論を試みたことである。大森の結論は「透明な批評ばかりではつまらない」である。三段落目の冒頭で「ある程度」という留保を外し「客観的な批評」と述べていることからも、「透明」は「全面的な客観」の比喩であると見られる。よって大森の結論は「全面的な客観によってなされる批評はつまらない」と言い換えることができるだろう。ここでは客観が限定的なものか全面的なものかという前提がねじれてしまっている。あえて極端な例を挙げてその欠点を指摘する議論の進め方は間違っている。それは「ある程度の客観性を批評に導入すべきである」という見解に対する反論にはならない。もっとも、大森は「ある程度の客観性を批評に持ち込むべきだ」という見解に反論しているつもりはないのかもしれない。しかし、文章は反論しているのである。

このケースで極端な事例を持ち出す必要はあったのだろうか。大森自身は印象批評を『危険』とまで言っているのだから、ある程度の客観性を批評に導入した場合の功罪のバランスを検討すればよかったのではないか。もし「ある程度客観的な議論をする」ことを無条件に肯定している(ように見える)ことが問題と考えているならば、許容するための条件を挙げればよい。あるいは「部分的にでも客観性を批評に導入することは許さない」立場であるなら、短歌の批評に客観性は全く不要だという理由をあげて論を展開すればよいのである。結局のところ、短歌の批評に客観性をどの程度導入すべきかについて、大森の主張は不明なままである。

そもそも極端な事例を持ち出した割には、大森の反論は弱いのだ。「透明な批評ばかりではつまらない」と大森は述べるが、ではここで仮に私が「いや、主観を頼りに書かれる批評は案外つまらない。私は主観を極限まで削って生まれる何かが見たいのだ」と反論したらどうなるだろうか。つまらないか否かという判断は人それぞれの価値観でなされるものだ。大森の意見と久真(仮)の意見では決着がつかない。

もしかするとここで、久真(仮)のような立場は少数派だという指摘が可能かもしれない。実際それはその通りかもしれない。そして、つまらないか否かを基準に全体の動向を議論した場合に着地するとすれば、そのような需要と供給の結果予測であろう。主観と主観のぶつかり合いによって生まれる何かが見たいという立場は、大森一人だけのものではないはずだ。印象批評の抑制をかなぐり捨ててでも、という人もいるかもしれない。いずれにせよ、そのような興を短歌批評に求める人がいる限り、そのような批評の場もなくなるはずがない。ある程度客観的な議論をする場ができたとして、全関係者がそれを求めないかぎり、それが短歌批評の全てを支配するはずがないのだ。だから大森の仮定はほとんど杞憂であるとも言える。

人は自分の面白いと思うものを求めてしまうものだ。目指すべき批評というものは、そのような各人の快/不快だけを原則にしては何か問題が生じるとき、何がしかのルールを上位に設ける必要があると思う者がいて、はじめて議論され始めるものである。「つまらないか否か」の問題と「目指すべき批評とは何か」という問題とを同じ次元で語ることには慎重であらねばならない。なぜなら、もしつまらないか否かという観点のみで目指すべき批評が決められたとすれば、批評の場は様々な危険をはらんでしまうからだ。前項の反論で挙げた、不当な攻撃が野放しになるリスクはその一例である。

2−4.
大森の三つ目のミスは、『数字やデータから読み取れることを抽出・分析する批評』を『透明な(全面的に客観的な)批評』と言い換えた点である。既に述べたように、批評は批評者の動機によって始まるものであり、またそこからデータを集め、数値化し、新たなデータを作成するまでにも、出た結果から何らかの情報を読み取ることも、その後の解釈の段階でも、分析者の判断が必要になるのである。「読み取る」「抽出する」「分析する」と、明らかに行為主体を想起させるような単語まで含めながら、この言い換えは無理があり過ぎる。これを可能だと思う大森の「数値を用いた批評」に関する認識は間違っている。

三段落目の論の進め方の問題は、「完全に客観的な批評」なるものについてわざわざ『数字やデータから読み取れることを抽出・分析する批評』と手法について限定した点にある。そもそも数値を用いずともある程度客観的な議論が可能であることは既に述べた。「客観的な批評はつまらない」という結論を出すにあたって、話の流れとはいえ、数字やデータの使用といった具体的な手法に言及する必要などないのだ。

わざわざ「数字やデータ」に言及したことで、大森の議論はより混乱をきたしてしまう。数字やデータから何かを「読み取」ったり「抽出」したり「分析」したりする種々の手続きにおいて、「完全に客観的」な状態とはどのようなものか想像できるだろうか。そのような一連の行為が「個人の言語感覚、生まれ育った時代環境や思い込みによって左右されない 」で行われるのだとしたら、一体何が決定要因になっているのだろうか。そもそも大森の仮定では抜け落ちているが、特定の「数字やデータ」を生成する前には批評テーマを決める段階があり、そこには批評者がそのテーマを選ぶ理由が存在する。その理由を左右するのは、言語を含む様々な物事への感性であり、生まれ育った時代を含む環境要因であり、こだわりや執念でもあろう。たとえデータの選択から分析までの過程をプログラムで自動化したとしても、そのプログラムの動作を設計するのは分析者である以上、一連の手続きは誰かの思考過程を模倣しているに過ぎない。 大森の文章は「客観的に行う」と「数字やデータから読み取れることを抽出・分析する」という互いに矛盾する行為を、矛盾なく仮定せよと私に命令してくる。この命令は私に大きな混乱をもたらすものだ。しかし大森は、『数字やデータから〜批評』を『言わば』という一語で、外した留保を復活させることもなく『透明な批評』 といとも簡単に言い換える。数字やデータを用いればその批評は完全に客観的な状態に移行し得ると考えているのだろう。大森にとって、私が矛盾と見なす部分は矛盾ではないようだ。そのような誤った前提で行われる検討の結果は、なんら意味をもたない。

なお、大森の「テクストを読み換え」た三上も、大森とは異なる立場にいながら、よく似た間違いを犯している。三上の文章(参照B)を引用する。
・計量的分析の結果に基づいた批評にもまた「解釈」「分析」「判断」という「主観」がある。
・三上さんは大森さんの時評について『計量分析をしたあとでの「解釈」の重要性を述べている』と書いていた
・なぜならば,現在行われているデータに基づく批評には「解釈」という名の「主観」が含まれていて
三上は一貫して「解釈」の段階に主観があると述べる。計量分析をした「あとで」あるいは結果やデータに「基づく」批評と述べる。既に述べたように、計量分析をする「前」から「結果がでるまで」のさまざまな過程で分析者の動機や判断が必要となる。結果やデータが出た時点で、それは分析者の「主観」の産物なのである。解釈はもちろん重要なフェイズだが、それのみに焦点を当てる三上は、計量的分析についての理解が不十分である。

ただ統計データをまとめただけであり「分析」や「判断」のない,可能なものとしての「客観のみで書かれた批評」にもまた,わたしたちはおおくの場合「作者の像」を見出すことができない』という一文に、端的に三上の認識が現れている。三上は「数字やデータを並べただけならば客観的である」という前提に立っているのだ。だからデータを生成した「あとで」はじめて分析者が登場し、そのデータに「基づく」何らかの考察、つまり「解釈」がなされる工程を思い描いている。

データ以後の判断の有無こそ異なるが、大森と三上の立場はよく似ている。数値やデータそれ自体は「客観」である(あるいはなり得る)という信念めいた思いが彼女や彼の文章から見えてくるのだ。三上が大森の「テクストを読み換える」ことができたのは、そのような信念を共有することで、議論の土台をも共有しているからである。だから大森の検討に条件(解釈を行わない)を付与すれば 「全面的に客観的な批評とはどんなものか 」を議論できると考え、またその条件を以って大森の見解を自分の見解に包摂できると考えたのだ。しかし大森と三上が議論の際に念頭においているその信念こそ、私が批判する対象なのである。

三上は、大森が「主観的な批評」と「客観的な批評」を想定し、思考実験を行っていると見なす。そして自らも『私たちは可能なものとして,思考実験においては,「主観のみで書かれた批評」と「客観のみで書かれた批評」という極端なものを想像することができる』と述べる。数値を用いた批評を対象とした今回の議論において、両極端を比較するような単純な構図の思考実験ができると思うこともまた、数値やデータを「客観」である(あり得る)と見なしている証拠である。大森のときの繰り返しになるが、『統計データをまとめただけ』でかつ『客観のみで書かれた』批評という定義そのものが矛盾を抱えているのだ。統計データを用いた批評ならば、分析者のテーマ設定から始まり、さまざまな段階で判断を必要とする。データは勝手に湧いてきて自らまとまってくれるものではない。矛盾を解消できるとしたらその批評とはどんなものか検討することを見過ごし、ただ「可能なものとして」定義すると言ってみせるだけでは、思考実験は始まってすらいない。大森や三上と、久真とでは、計量的分析の捉え方に大きな溝があると言わざるを得ない。

ところで統計データをまとめただけのものが提示されたとしたら、私は「まとめた」者の考えを思案する。なぜそのように結果をまとめたか、なぜそのような手順で計算をしたか、なぜそのように素データを選択したのか。データから読み取れるあらゆる要素から、可能なかぎりにおいて、分析者の問題意識や主張を読み取ろうとするだろう。たとえそれらがうまく読み取れないとしても、何か意図はあるのだろうと想像することはできる。そのとき分析者の像は、私の頭のなかに否応もなく生じる。

また、データを用いるという条件を抜きにして『客観のみで書かれた批評』のみを仮定しようとしても、困難に突き当たる。大森のいう『透明な批評』にしてもそうだ。大森の文章でも三上の文章でも、そもそも「客観」が何を意味しているのか特に説明されないまま話が進むため、文意を汲み取れないのである。

2−5.
数値を用いたデータと「客観」との関わりをどのように捉えるか、大森・三上・久真の立場はこのように異なっていると見られる。この前提が共有されないかぎり、議論はすれ違いを生むだけだろう。

実は私にとって「客観」そのものが、想像の埒外である。客観について他人の見解を読めば読むほど、かえって人それぞれ「客観」の捉え方が違うことが浮き彫りになるように感じる。数値やデータを「客観」と見なすかどうかもその一例であるし、大森と三上のいう「客観」がわからないという事態もそのせいである。

今回は便宜上用いたが、極力使いたくない言葉だ。少なくとも印象批評を抑制すべきかというテーマも、数値を用いた批評を評価するかというテーマも、あるいは数値を用いた批評はつまらないかというテーマも、「客観」という言葉を使わずに議論できるように思うのだが。

数値を用いた批評に関する議論はもっとされるべきである。数値が出たからと言って鵜呑みにせず、分析者の判断が介在するポイントを抑えて、判断の妥当性をどんどん問うべきである。そして数値を用いる分析者は、反論に対して自身の判断の妥当性を語らなくてはならない。あるいは反論に耐える分析手法を考え出さなくてはならない。その程度の応酬は、数値など用いなくても批評の場では行われてきたのだから。

数値が出てくるとつまらないと感じる人がいるのは、残念だが仕方ないことである。私にとっては数値を用いた批評は読むことも書くことも面白いものだ。その点は見解の相違だろう。主観と主観がぶつかって生まれる何かが見たいという大森の見解を、私は批判しない。

なお、私がTwitterで発言していた時点では、大森の文章に読者を混乱させる要因があると気づいていなかった。よって誤った読解に基づき意見を発していた部分がある。現在は、腹が立ったとか呆れたといった感情は私のなかに残っていないことを最後に述べておく。

(2015年11月20日 久真八志)

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