太宰が住んだ大宮 情報ブログ

太宰治が大宮に住んだ二週間を濃ゆ〜く調査しています。

今年に、太宰に、サヨナラ

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今年の4月20日を持って、諸般の事情により、このブログへの投稿を終了させていた。悔念の心は今でも存するが、自身で招いた事(らしく)、自ら身を引く事にした。

思えば、年始に訪れた大宮氷川神社のおみくじで、「凶」を引いた。
なのに、年が明けても、思いもかけぬ方々より嬉しいお手紙を頂いたり、様々また新しい出会いがあったり、そして信じられない奇跡が続いたが、それは日々太宰へのアンテナを張り巡らせ、受発信を続けていたから。そして事件は起こり、アンテナを下ろせば、このとおり。

とはいえ、今でも全く情報が集まらない訳ではない。大切な方との赤い糸は僅かながら繋がり、その時を待つ、それは今でも変わらない。しかし、このブログで発する事はないだろうと思う。太宰を、地元大宮を、心から愛する人たちには申し訳ないが、「GETOUT!」を突き付けられた私には、それを遮ってまで、あなたたちに突進する気力は残っていないのである。

太宰他、文学作品の朗読を公開しているWISさんという方のサイトを見つけた。
http://koenoizumi.art-studio.cc/
いくつかをピックアップし、音楽プレーヤに入れて、通勤電車で聴いた。
『燈篭』を聴いた。
『恥』を聴いた。
『おさん』を聴いた。
私の今の気持ちに絶妙にマッチし、人目も憚らず涙した。

太宰作品は、学生時代にも貪り付くように読み、まるで自分の気持ちを代弁しているような文面に驚いた記憶があるが、それは30年を経過しても変わらないようである。本当に太宰って不思議なヤツだ。

こちらを去っても私は死んだわけではなく、本来の幕末歴史探訪で春からの一年を過ごした。ここでも、いくつかの驚きと奇跡を重ね、楽しい日々が過ごせた。つまりのところ、落ち着くところに落ち着いた、ということで。
『彰義隊 関弥太郎の生涯』 ( http://sekiyataro.exblog.jp/

今まで、このブログに何度も何度も更新を信じ訪れて下さった多くの方々に心より感謝するとともに、来年以降の皆様方の益々のご繁栄と健康を願い、おひらき。ではまた佳日。さらば(永遠に)。

※ 太宰が「朱が綺麗だね」と藤縄さんに言った氷川神社の朱門はこれからも健在でしょう

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谷中に太宰の墓?

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最近、私本来の事業のひとつである歴史探訪が復活している。昨日は、彰義隊の舞台、上野寛永寺周辺を散策。
私の地元、埼玉県鴻巣市には、かつて彰義隊士として活躍、上野戦争、会津戦争と戦い抜いて、箱館戦争で終焉を迎える一連の戊辰戦争を生き延び、のちに長唄の師匠へ大転身して一生を終えた、岡安喜平次こと関弥太郎というオトコがいる。彼の足元から調査を行う。

朝、彼が眠る法要寺にて墓を拝み、その足で、上野へ出向き、上野の山にある彰義隊士の墓を訪ねた。数年前には資料館も建ち、彰義隊の名簿なども展示されていたらしいが、現在はその施設は取り壊され、貴重な資料も一般公開されず、台東区教育委員会管理で保存されたままという。新撰組にはいいオトコが多いからといって、彰義隊に対するこの待遇の違いはいったいなんだろう。

上野の山は彰義隊側、それではアームストロング砲をぶちまけた新政府側からの景色はいかがだろう。という事で、不忍池の反対側を歩く事にした。このあたりは池之端と呼ばれる。池之端とは、不忍池の“端”だと知り、ひとり感動。

路地裏に忠綱寺というお寺。ここは渡辺綱にゆかりのある寺だそうだ。源頼光の四天王のひとり、渡辺綱の名は、歌舞伎が好きな人なら一度は聞いたはず。実は彼も我が街、鴻巣市の生まれで、箕田源氏の流れをくむ。といっても地元の人は全然知らないのだけれども。

根津に入ってきた。谷中墓地に向かうこの界隈は寺が非常に多い。となりも、またとなりも寺、寺という通りを歩く。流行の谷根千(谷中・根津・千駄木)散歩の若い女性を多く見かける。彼女らは、立ち並ぶ古い店舗の建物を見ては、何やらはしゃいでいる。
そんなものには目をくれず、通りかかった臨済宗の寺、天眼寺。本堂には葵の紋。徳川家ゆかりの寺か。家系図とともに記された説明書きを見ると、私の住む鴻巣市のとなり街、行田市の忍藩主、徳川家康の四男である松平忠明一族の菩提寺だという。

上野、根津、谷中を歩き、それなのに地元に関係する史跡ばかり発見し、不思議な気持ちになっていた。
そしてこの天眼寺でも墓巡り。実は私、墓マニアでもある。寺を訪ね、古い墓石に刻まれた文字を見るのが好きで、この寺はそういう意味では格好の場所だった。おぉ〜あるある「忍藩士」と記した墓。

墓所の出口脇の墓に目が留まった。「春台太宰先生之墓 」えぇ?ダザイ? あんた太宰のなんなのさ!
太宰春台(だざいしゅんだい)、江戸中期の儒学者であり、歴史家だという。
しかし、こんな所に来てまでまた太宰とは。。。
太宰春台先生が「いやいや、人違いですから」と苦笑いしていた。

※ 写真は、太宰春台先生の墓。思いも余らず「太宰」の文字の入った墓石、ドキッとした。

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太宰治の津島家のルーツをたどる

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津軽ではなく、南部ではあったが(この二つの藩には悲しい歴史もあり)斗南藩の事を知り、すっかり青森の歴史に目覚めている昨今だが、何と今度は、太宰の本名である津島家のルーツを発見してしまった。
“津島”と同じ読み、思いつくだろう。玄界灘に浮かぶ長崎県の“対馬”、壱岐・対馬のアレである。
その島は、本土よりも韓国の釜山のほうが距離が近いという立地から、朝鮮騒乱期のとばっちりや、豊臣秀吉による朝鮮出兵など、古くから日本と大陸との間の重要な地として登場してきた。

時は鎌倉時代、中国大陸一帯を支配した元が、日本との交易を求めてきた。ところが日本はそれを拒否。元は、1274年、2万を超える軍を送り、日本侵略を企てる。中学校の歴史でも登場する「元寇(蒙古襲来)」である。その軍により、対馬はいち早く襲撃を受けた。

当時、対馬の国府のあった厳原では大混乱となった。オトコどもは蒙古軍と戦うにしても、女、子供はどこかに逃がさなければならない。といっても、山の起伏が激しく狭いこの島では、そんな場所はない。しかたなく船を出し、九州本土へと向かわせるのである。ところが、ここは荒海の玄界灘! 急流が激しく、船はたちまち転覆、遭難してしまう。

そこに、たまたま通りかかったのは、十三湊(今の十三湖)で栄華を極めた津軽の海賊、安東水軍であった。対馬の民は、安東水軍の船に助けられ、津軽へたどり着くが、もう対馬へは帰る事はできないと諦め、この津軽西海岸に住む事を決意する。
そこで、対馬を忘れぬようにと、彼らはこの地で“対馬”の姓を名乗るようになり、現在でも、津島、対馬、対島、といった姓を持つ人は、津軽には多くいるのだそうだ。逆に対馬には「つしま」という音の苗字は一軒もないという。

そこで、例に漏れず太宰の実家である津島家も、もちろんその末裔であろうと思われる。そういえば、津軽出身の現役関取である「岩木山」、彼の本名も對馬(つしま)竜太である。

津軽地方に歌い継がれる「津軽の子守唄」の2番にこのような節がある。

ねんねこ ねんねこ ねんねこせ
ねんねば山からもっこ来らね

“もっこ”とは、蒙古の事だそうだ。
そんな所に、はるか昔を語り継いで来た彼らの息遣いが聞こえるというものだ。

かの安東水軍も、かつて奈良大和にあった(断言!)邪馬台国の王であった安日彦(あびのひこ)が、大陸からの大軍の侵略から逃げたどり、津軽に行き着いて、そこで王となった「荒吐(あらばき)王国」の末裔と言われる。
それからもうひとつ、元寇を指揮したフビライ・ハーン。その祖父は、津軽半島の竜飛岬から蝦夷へ渡り、のちに大陸に渡った源義経=ジンギス・ハーンであることも忘れてはならない。
(実は、私の得意技はこの分野だったりする)
青森は太古から、日本国中、様々な事情で移り住んだ人たちの集まりで今に至るようである。だから、創造性豊かな芸術肌が多いのだろうか。

※ 写真は、今日の対馬から朝鮮半島を臨むライブカメラの映像。
4年ほど前に地元ラジオ局で担当したコーナー「味なオトコTAMAさんが行く」の第一回も対馬だった。

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大宮太宰の進むべき道を学んだ

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私が愛用する市立図書館のひとつを訪ねた。ここは、中央の図書館に比べ、広さや収蔵図書数では劣るものの、郷土史関連が充実しており、この類の調査を常とする私には欠かせぬ場所なのだ。自転車で行くには、ちょっと遠いのだが。
特に素晴らしいのは、単なる歴史本だけでなく、地元市民が著者の小説やエッセイまで置いているので、いつも新しい発見があるのだ。そんな中から「新撰組五兵衛新田始末」という文庫本程度の本を見つけた。我が街と新撰組が関係していたのか!新事実発見か! 胸躍る心を抑えつつ読み進めると、著者が我が街生まれという事のようだ。そうか、そういう事か。。。

この話は、新撰組が流山へ向かう前、今の足立区綾瀬に住んだ三週間の事実を、旧家に埋もれていた古文書から解析し、1冊の本にまとめたというもの。本格的な調査はNHK大河ドラマ「新撰組!」が終わった頃からだそうで、ほんの数年の間にこの素晴らしい成果、この方の努力に感動した。

思うところあり、また次の日が運良く休日という事もあって、その方が綾瀬で営むという鰻屋へ向かった。この本の物語の舞台である、新撰組の屯所があったすぐ近くに、そのお店はあった。入口には、お店の看板より大きく「綾瀬新撰組研究会」の表札。思ったとおりだ。
玄関より店内を覗くと、お世辞にも綺麗とは言えない(失礼!)カウンタに積み上がった書類。正直一瞬たじろいだが、エイ!と突入。

店内の厨房にはご主人、奥のテーブルでは昼から徳利と鰻の肝串を並べ、杯を傾ける初老のひとり客。その方はこの店の常連さんと見え、皮肉交じりのユーモアでご主人と軽快な受け答えをしている。私はその中に入れる話題ではなかったので、じっと我慢、静かに注文した鰻丼を待つ。

ふっくら熱々の鰻丼が届き、常連さんとの会話も途切れた頃、私が図書館でこの本を見つけ、そして地元からここへ来た事を伝えた。この本の僅かな情報を元にお店へ来た事を、とても喜んで下さった。
と、途端にご主人お得意の新撰組トークの連打連打!有名な隊士しか知らない私に、何人もの初めて聞く隊士の名前とエピソードが綴られる。すごい!

話が熟した頃合を見て、私が太宰が大宮にいた二週間を調査している事を話した。ご主人も、太宰は好きで読んだ時期があるそうで、太宰が大宮にいた事実を初めて知り、いたく感動して下さった。
でも、太宰→氷川参道→伊奈忠次→幕末は綾瀬(小菅刑務所の場所)に伊奈屋敷があった!→隣に銭座(貨幣製造所)→新撰組はここで鉄砲玉を作っていた。。。 あれ?また新撰組話に戻ってしまった。いやはや。。。

ご主人の個人的な趣味が高じた新撰組調査がここまで広がり、地元の祭りを起こし、足立区教育委員会にゆかりの場所へ立て看板を立てさせ、そして講演に呼ばれるようになり、ついには本まで出版という、このバイタリティの“源”を知りたいと思った。それは、私が大宮太宰調査の限界を感じている昨今の、この先を見つけるヒントになるかもしれないという気持ちもあった。
私は、大宮太宰調査に行き詰まりが、という事を吐露した。

ご主人は間髪入れず、
「まず何かで残す事が大事、こうでしたと言うだけじゃダメだ。伝えたい事実は原稿にすること。そうすれば、それを読んで必ずや拾ってくれる人がいるはず。自費出版なんて手段は取るべきじゃない。出版社が販売すれば、売り込みたいから絶対広くPRしてくれる。何より、好きな事をやってるんだからいいじゃないか!」
笑い飛ばすように言って下さった。

地元の見返り(お金じゃなく)など求めてはいけない。自分で好きでやってるのだから。そして、どうしてもその事実を後世に伝えたいなら文章にする、それしかない。そんな当たり前な事をあらためてご主人から聞き、やっと肩の荷が下りた。大宮太宰調査は、等身大でこれからものんびりやっていこう。そのうちいい事もあるサ!
原稿は。。。。。必要だな、やっぱり!

※ 写真は、鰻料理「うな万」の鰻丼、すっごく美味い!
新撰組ファンの皆々方、ご主人に知ったかぶりは通じない。真摯な気持ちでお話を聴く事をおすすめする。
住所 : 足立区綾瀬4−13−22
電話 : 03−3620−6183
定休 : 木曜日

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大宮太宰調査の区切り、そして、まりりんの情熱

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太田治子さんとの遭遇など、常に遊んでいるように見えるTAMAではあるが、実は最近は業務が微妙に忙しく、思いどおりに大宮へも足を運べずにいる。せめてもの心の繋ぎに、大宮駅前の「いづみや第二」だけは閉店前に駆け込みたいと心掛けてはいるものの、それもご無沙汰になってしまっている。
久しぶりに訪れたその店は、いつものように活況の中にあった。そう言えば花金(死語?)だったな、今日。でも、私のようなスーツ姿なやつは極めて少ないのがこの店の特長。

今日も、年金チックな超常連の人たちの集団あり。その中で「まりりん」と呼ばれているオジサマがいる。マリリン・モンローが大好き!という事で通称「まりりん」。でもその人の本名は誰も知らない。かつては日本経済新聞の記者として、全国をまたに掛けて切り込む、スゴ腕ジャーナリストだったという(本人談)。今では、呂律のまわらないしょぼけたおやぢ風ではあるが、吉本隆明の哲学を語り出すと止まらないという一面、やはり本当はすごい人なのかもしれない。

まりりんは、この店で唯一、私の大宮太宰調査にいたく感動して下さり、その偉業(?)を全国に知らしめようと、NHK第一放送の「ラジオ深夜便」に投稿し、私にラジオで語らせて欲しいと依頼を掛けているそうだ。ラジオ深夜便には、そのようなレア情報をかざし出演を迫る人が絶えず、半年先まで予定が埋まっているという。まりりんはそれでも諦めず、事あるごとにNHKへ問い合わせをしているらしい。
昨日も、
「あんたを出さないで、再放送流すって、いったいどういうことだい!」
などと、巻き舌でNHKを厳しく批評していた。

ホームページを開設しても、地元でイベントを打っても、出版物に記されても、それでもさして反応がない大宮。
逆にこの活動、そして私に対する地元民の批判の言葉ばかりが、頭の中でリピートされている。
自分自身に、ひとつの“区切り”のような杭を打とうかと感じている昨今、こんなまりりんの情熱、涙が出そうなくらい嬉しい限り。それだけは、ぜひとも応えたい。

※ 店では、アナログなテレビで巨人戦。違いがわかるサッポロ生ビールは、そのジョッキの大きさに驚く。

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バー「風紋」の林聖子と古田晁の深い関係

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先日初めて潜入した新宿のバー「風紋」。マダムの林聖子さんが太宰の作品「メリイクリスマス」のシズエ子ちゃんであるという話は太宰ファンならほとんど周知で、だからそういった熱心な人たちも多く訪れるのだろう。
しかしこのお店の開店には、太宰が死んでからの、筑摩書房社長古田晁氏が深く関係しているのである。
やはりこの頃、太宰治、古田晁、林聖子といった輪の中で関わってきた野原一夫が書いた「含羞の人 回想の古田晁」という本に、詳しく載っている。
以下に一字一句略さずにご紹介する。脈々としたドキュメントを感じてほしい。

* * * * *
太宰治が死んでまもなくの二十三年八月に私は古田さんに会っている。林聖子を筑摩書房に入社させてくれるよう、聖子を伴って古田さんを訪ねたのである。
林聖子は、太宰治の小説「メリイクリスマス」のシズエ子ちゃんのモデルである。聖子の母の富子は、男女のややこっこしい感情などなしに、太宰が安心してつき合っていた、おそらくはただひとりの女性である。女学生の頃から、聖子は太宰に可愛がられていたが、ニ十二年の春、太宰の紹介で新潮社に入社し出版部に配属された。そのころ私も同じ出版部にいたから、短い期間だったが席を同じくしていたのである。私が新潮社を退社して角川書店に移ったのは二十三年の四月であるが、その一ヵ月後に聖子も新潮社を退社した。しばらく家でぶらぶらしていたが、病弱の母を抱えてのふたり暮しでべつに財産があるわけでもなく、勤めに出る必要に迫られた。たまたま三鷹のその家に遊びに行った私は、聖子からその事情をきかされた。角川書店に入れてもらえないかというのだが、早くもその頃、私は角川書店に、というよりワンマン社長の角川源義氏に嫌気がさしていた。人一倍あくが強く、我儘で身勝手で、仕事熱心のあまりかおそろしく人使いが荒く、それを当然のこととしていた。いつまで我慢できるか自信がなかったので、まして人を紹介するなど思いもよらなかった。
私は古田さんを思いうかべた。聖子も何回か太宰治のところで顔を合わせている。いかにも清純な感じの、若さが匂うような聖子を古田さんも気に入っているように見えた。筑摩書房の経営はけっして楽ではなさそうだったし、人手が要るかどうかは分からないが、古田さんなら、なんとかしてくれるだろうと私は思った。
私は聖子を本郷台の筑摩書房に連れていった。古田さんは、二つ返事で引き受けてくれた。
しかし、実は、そのころ筑摩は、女子社員を必要としていなかったのである。聖子を配属すべき部署がなく、さしあたり聖子は社長秘書ということになった。古田社長、安河内専務と同じ部屋に机を並べて坐っているのだが、とりたててする仕事もない。銀行へ行って金を引き出してきたり、月末には飲屋やバーをまわってツケを払って歩くのが精々の仕事である。

入社まもなくの九月のはじめ、聖子の母の富子の病状が悪化した。結核性脳膜炎である。三鷹駅前の中村病院に急遽母を入院させた聖子は、古田さんに電話を入れた。会社を休んで、十分に看病してあげなさい、と古田さんは返事をした。その頃は、結核性脳膜炎は、病状が悪化すれば一週間が寿命とされていた。そのことを知っていた聖子はほとんど夜も寝ずに母の看病に当った。二、三日のち、古田さんはが見舞いにきてくれたが、そのとき古田さんは、かなりの量のストレプトマイシンを持ってきてくれた。ストレプトマイシンは、そのころ民間では入手することが不可能な貴重な薬だった。アメリカでは生産が進んでいたが、特別なコネがないかぎり手に入れることができなかったのである。古田さんは昭和五年から十二年までアメリカに滞在し父三四郎の経営していた貿易商日光商会に勤務している。そしてこの頃、二十三年頃には、アメリカからバイヤーが日本に来るようになり、父三四郎が貸したままになっていた金が借主から戻ってきたりしている。なんらかのコネがあり、そのためストマイを手に入れることができたものと思われる。しかしきわめて高価な薬であったにはちがいない。それを古田さんは、かなりの量持ってきてくれたのである。
薬効は顕著だった。富子は一時的には病状をもち直した。しかし三ヵ月後の十二月十三日、永眠した。奇しくも、太宰治が玉川上水に入水した、ちょうど半年ののちである。

聖子は社長秘書として再び出社しはじめたが、とりたてて仕事のないことに変わりはない。母をなくしてひとり暮しをしていた聖子の家に、早朝の出社前、どこで呑み明かしていたのか、かなり酩酊している古田さんが、その大きなからだを現わすことがあった。一升瓶をどんと畳の上、新聞紙につつんだおおぶりな蛸の足やなま筋子をどさっと台所におき、
「聖子ちゃん、呑みまっしょ。」
「しかし、会社が。。。。」
「会社?きょうはここが会社だ。」
「安河内さんに叱られます。」
「安河内?あんなもん、ほっとけ。」
聖子は酒が強かった。まだ新潮社にいたころ、坂口安吾さんの家に同行し、饗応されたことがある。安吾さんはジンが好きで、日本酒とジンをちゃんぽんに呑まされ、私は酔いが発して苦しくなったが、聖子はほとんど色にも出ず、かえって安吾さんを気味悪がらせた。聖子の酒の強さは、太宰治との酒席で古田さんはよく知っていた。それにしても、社長と新入の女子社員がさし向かいで早朝からの酒盛りとは、やはり珍しい図と言わねばなるまい。古田さんが深更、早朝に社員の家を襲い、酒宴におよぶことはしばしばあったが、女子社員の家を急襲したとは聞いたことがない。聖子には、特別の気持ちを持っていたのだろう。母をなくしてひとり身になった聖子へのいたわりの念もあったろうが、太宰治への思いが、聖子へのいつくしみにつながっていたのだろう。

林聖子は、二十五年の四月に筑摩書房を退社した。すでにその頃、筑摩の経営は悪化し、給料の遅配がはじまっていた。社長秘書は、居心地が悪くなってきたのである。やめなければならない、と聖子は思いはじめていた。
古田さんが外出していたあるとき、同室の安河内専務が、分厚いスリッパの音をぱたんぱたんと立てながら、両手を背中に組んで部屋のなかを歩きまわっていた。資金繰りに追われていた安河内の内心の苛立ちが、そのスリッパの音から伝わってくるようだった。ふと、視線が合った。とっさに、ほとんど衝動的に、聖子の口から言葉が出た。
「会社を、やめさせていただきます。」
安河内は一瞬目を見張った。それからその顔に、ほっとしたような表情がうかんだ。
帰社した古田さんに聖子がそのことを言ったとき、古田さんは無言で目をとじ、じっと目をとじたままだった。

筑摩書房を退社してまもなく聖子は、銀座の「コットン」というスタンドバアに働きに出、それからその姉妹店の「カルドー」に移った。「カルドー」に移ってすぐのある晩、古田さんがひとりで店にきた。その晩、古田さんは聖子を相手にビールを一ケースあけた。一ケースは二ダース、二十四本である。さすがに酒に強い聖子も悪酔いし、帰途、新宿で途中下車してトイレで吐いた。古田さんはさして酔っているふうにも見えなかったそうだが、そのとき古田さんは四十四歳、たしかに、そのころの古田さんは桁はずれに酒が強かった。まさしく「駆け付け三本」だったのである。
「カルドー」から「ヤマ」、「カープ」と聖子は銀座のバアを渡り歩いている。「ヤマ」では、ナンバーワンだった。もうその頃は私は筑摩書房に入社していたのだが、古田さんは時には単身で、しかしおおむねは私たち筑摩の若い者をひきつれて、“陣中見舞”をしつづけた。

昭和三十六年の秋、聖子は借金をして新宿の三光町に「風紋」という二坪ほどの小さなスタンドバアをひらいた。仕入れた酒類の支払いは一ヵ月後にしてもらったが、おつまみなどを買ったら手許には二千円しか現金が残らなかった。開店披露の当日、私は古田さんといっしょに「風紋」に行った。その日は無料招待ということで、入れかわり立ちかわりの招待客で狭い店内は混み合うだろうと、私たちは開店前の早い時期に会社から直行した。まだ客はなく、私たちはビールを一本ずつ呑んだだけで引きあげたのだが、帰りぎわ、古田さんは内ポケットから紅白の水引をかけたお祝いを出し、無言で聖子の手のなかに押しこんだ。
「きょうは、お金はいただかないんですけど。」
しかしもう古田さんは背を向けて戸口のほうに歩き出していた。
「いいから、もらっておきなさい。引っこめる人じゃないだろう。」
私は聖子の肩をたたき、古田さんのあとを追った。
どれほどのお祝い金であったかはしらないが、古田さんのこと、少ない額であったはずはない。
もちろんその後も古田さんは頻繁に「風紋」に通っているし、いつしか「風紋」に筑摩の社員の溜り場のようになった。会社の近くでまず一杯、それから私たちはおきまりのように新宿三光町へと車を走らせるのである。
やがて聖子は、これも借金をしてのことだが、最初のスタンドバアのすぐ近くに、かなりの広さの店をひらいた。たとえば何かの会のあとなど、二次会はおおむね新「風紋」ということになった。筑摩の関係で常連になった著者も、壇一雄氏、竹内好氏などすくなくはない。
いま「風紋」は、さらに新宿駅に五十メートルほど寄った、花園神社の近くのビルの地下の、洒落た雰囲気の店に変わっている。
昨年の十一月二十日、その創立二十周年の盛大な祝賀会が草月会館でひらかれた。たのまれて私は祝辞を述べたが、そのなかで、きょうのお祝いの会に古田さんの姿を見ることができないのはまことに残念であると私は言った。地下の古田さんも、きっと喜んでいてくれるだろうとも言った。
林聖子は目頭を押さえていた。
* * * * *

あらためて、古田晁という人物に深く触れてみたくなった。
今年度(サラリーマンは、よくこの区切りを使う)は、古田晁の生涯をたどってみようか。

※ 写真は、バー「風紋」の店先。イガさんすいません、お借りしました。

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太田治子さんとの密かな出会い

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神奈川近代文学館で、太田治子さんの講演会があった。「私の本について語ろう」という、この館のシリーズもののようである。もちろん題材は父、太宰治と、母、太田静子の真実を明かした『明るい方へ』から。観客は、追加のパイプ椅子まで入れて、220名と大盛況だった。

本の中では、太宰が死の前日に大宮へ来た事にも触れ、古田氏によって救われたいと願った、と説いている。そんな太田さんと話がしたい、そう強く願ったのもこの講演に行きたかった理由のひとつ。
しかしもうひとつ、ある意味壮大なミッションを自身に課していたのだ。それは、1月18日の、下曽我での出来事による。( 参照 : http://blogs.yahoo.co.jp/omiya_dazai/11671383.html

* * * * *
年末に焼失した『斜陽』の家、下曽我の雄山荘。
私はせめて、焼け残った、太宰が「すずめのお宿みたいだね」と言った門を見たいと思い、その場所を訪ねる。しかし、その門は無残にも壊され、工事の職人さんによると、焼け跡の処理に使う重機を入れるために、今朝壊した事実を聞く事になる。
茫然自失でその場を去る前に、実は、足元の残骸の木片のひとつを手に取り、職人さんの監督に、持ち帰るのを見逃してくれるよう懇願した。監督はダメだ!の一点張り。でも私は諦めず、三度も四度も頭を下げた。
「いったいオマエは何なんだぁ?」 ( 監督 )
「太宰が好きでこうして来ました。せめて彼がこの地にいた痕跡を、どうしても残したいのです。」 ( TAMA )
「。。。。。。」 ( 監督 )
数分間のにらみ合いの末、
「。。。。早く持って帰んな。」 ( 監督 )
私は、さらに何度も頭を下げ、その場を去った。
* * * * *

それから数日は、この木片の存在に嬉しさがこみ上げたが、NHKの「ETV特集」で、次第に朽ちていく雄山荘に寂しそうなお顔を見せる太田さんに、
「太田さんは、この静子さんとの思い出の場所の“形見”を、何も残せずにいるのだろうか」
そう思うようになり、私がこの雄山荘の遺品を持つ事に心が痛んだ。私は、この講演会で、その品を太田治子さんにお返ししたい、そう思った。

「私が使う原稿用紙、百円ショップのダイソーのものが一番使いやすいの」 ( 太田さん )
どんな核心に迫る話が聞けるのかと緊張する観客に、最初のひとことでいっぺんに気持ちをほどき、その世界に引き込む所は、さすが太宰のDNAだと感じた。
しかし、次第に太宰の話に及ぶと、「傲慢」、「自己中、自己愛」、しまいには「不良少年」とまで言う始末。文豪なんてとんでもない、とも。それは、捨てられた父への恨みではなく、『明るい方へ』を書く事により、文人、太宰治を客観的に捕らえる事が出来るようになったからだという。

1時間半の笑いの絶えない楽しい講演が終り、『明るい方へ』書籍へのサイン会。100人を越す人たちひとりひとり声を掛け、歓談しながらのサイン。その姿勢がとても素晴らしかった。
私の番は16番目、書いて頂く名前を、「太宰が住んだ大宮」の名刺を差し出した。
それを見て、
「あら、大宮から来てくださったの?」 ( 太田さん )
私は大宮で活動をしている事を簡単にお話した。そして、こっそり耳打ちする。
「太田さんにお渡ししたいものがあります。サイン会のあとに少しお時間を頂けますでしょうか?」 ( TAMA )
太田さんは快く応えて下さった。

サイン会もほぼ終り、正装した初老のご夫婦だけが残った。文学館の職員が、「それでは応接で。。。」などと恐縮しながら案内する。地元の有力者なのか。
この人たちと太田さんが応接室に消えてしまっては、私のミッションが果たせなくなる! 私は、半ば強引に、ホールを出るみんなと一緒にエレベータに乗り込んだ。
「それじゃここで」 ( 太田さん )
そう話す太田さんに、再度お願いをする。
「お時間は取らせません。ぜひ見て頂きたいものがあります。」 ( TAMA )
職員は困った顔をし、出口へ導こうとするが、
「じゃ、一緒にどうぞ」 ( 太田さん )
そう言って、応接室に案内して下さった。
応接室までの廊下、私は、太田さんに、死の前日に大宮へ来た太宰の無念を話した。
太田さんも、
「本当に、どんな気持ちで大宮へ来たのか察するとねぇ。」 ( 太田さん )
そう彼の無念を共有して下さった。私と思いは一緒だった。

地下の奥にある応接室へ案内下さり、地元有力者と見受けたご夫婦を待たせ、ソファーに通された。さっそく私は、桜の柄の風呂敷を解いて、それに包まれた品をお見せした。太田さんは、最初それが何か分からないご様子。そこで雄山荘の門の拡大写真を見せ、「ここの部分です。」と指し示した。太田さんはとても驚き、とたんに嬉しそうなお顔をされた。
「まぁ!ほら、私のおうちの一部を持ってきて下さったんでっすって!」 ( 太田さん )
太田さんは、上気した声で、周辺に携えた職員たちにその品を見せた。
私は、この品を手に入れた経緯を詳しくお話しし、そして、これをぜひ太田さんにお渡ししたく、今日この講演会に来た事を伝えた。太田さんは、「ちょっと重い」と言った。
私は、太田さんの反応は、正反対のふたつだと思っていた。とても喜んで受け取って下さるか、こんな形で見せられるのがつらいと思うか。。。
私は、太田さんの「重い」が、後者であると感じ取り、今日のところは持ち帰る事にした。
「気が変わったらいつでもおっしゃって下さい。すぐにお持ちします。」 ( TAMA )

「機会があれば、私も大宮を訪れてみたいわ。」 ( 太田さん )
「大宮もマンションが乱立し、昔の面影は消えていってます。ぜひ今のうちに来て下さい!」 ( TAMA )
ふたりの大宮での再開を願い、この場をあとにした。

帰る際に、太田さんと握手をして頂いた。その手は、あれっ?と思うほど、細く長く、やわらかだった。そんな所にも、太宰の面影を感じた。

※ この日お持ちした品、大宮製油のごま油、大宮太宰ツアー資料と写真集。桜の風呂敷は持ち帰った。

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青森の新聞社と私がつながった

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青森の“今”を知るには、地元の報道関係、とりわけ新聞社のホームページがたいへん有効だ。私も「東奥日報」「陸奥新報」の2紙は、毎日目を通すようにしている。
そのうちのひとつ、「東奥日報」のWeb版、「Web東奥」( http://www.toonippo.co.jp/ )のコンテンツの中に、私たちも参加できるコーナーがある事に気づき、さっそく試してみた。

ホームページ中央のあたりに、「北東北+道南 鉄道写真マップ」というバナーがある。県外の者でも、自身で取り集めた写真から、その駅のカテゴリに、自慢の写真を収めて、みんなに見てもらう事ができる。
私が最後に津軽を旅したのは、今から15年以上前、現在の金木駅も芦野公園駅も昔の古い駅舎が使われていた頃の事である。別な意味で貴重だと感じて頂ければと、1枚投稿してみた。
「太宰が住んだ大宮」ホームページでおまけとして掲載している写真からスキャニングした、多少不鮮明な写真、その中でもお気に入りの、金木駅で偶然取れた1枚。

投稿は、いたって簡単。
バナーから、それを撮影した路線、駅と入っていくと、すでに投稿された写真の一覧が出てくる。右上に「投稿」とあるのでクリックすると、撮影場所、日にち、コメント等を記載する欄が出てくるので、必要事項を埋めて、「次ぎへ」で確認し「投稿」をクリック。そうすると、受付番号と、写真画像を送る先のメールアドレスが示される。
このアドレスに、画像を添付し、件名に受付番号を書いて送信する。次の日の朝にはもう、投稿した写真が見れるようになっていた。どうやら、地元の人よりも、いわゆる「撮り鉄」たちの公開の場となっているようだが、青森の新聞社のホームページに自分の取って置きの写真が載るというのは、なんとも嬉しいものである。
できれば、地元の人たちが、「あった!あった!こんな車両があったね、昔」などと話題にしてくれたら、地元の人たちの再発見にも一役買うというものだ。

昔は、列車の写真を撮り(撮り鉄)、なくなるとウワサになった列車に乗って車内アナウンスを録音し(乗り鉄)、ちょっとの停車でも、駅に走って駅スタンプと切符(硬券に限る!)を買い、駅弁の包み紙や箸入れなどを集め(収集鉄)、青春18きっぷでの鈍行旅などまったく苦にならない、そんな密かな鉄道好きな(マニアではない、好きなだけ)若者だった。もちろん、旅先での出会いと交友が一番の楽しみであり、それは現在の私の人間形成に大いに役立っているのだが。
そんな楽しい思い出と自身の歴史の1ページを、この新聞社のホームページに残すのも良いかもな。懐かしい写真、もっとスキャンして揃えてみようか。
おっ!今日は寝台特急「北陸」、夜行急行「能登」最終日だった。撮り鉄して帰るとするか。。。

※ まずは金木駅でのショットを投稿、さっそくこのように掲載された。

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日本アカデミー賞主演女優賞を受賞、そして深谷市

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昨日、日本アカデミー賞の受賞式が行われた。「沈まぬ太陽」、「剣岳 点の記」、「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」の三つ巴となった感のある今回の結果、その中でも、松 たか子が主演女優賞を受賞! 太宰作品が、一般の人たちにも支持されたのはとても嬉しい限り。確かに、松 たか子の演技は、あの映画に登場する演者の中でも群を抜いていたと感じた。自身の印象も間違っていなかった事がさらに嬉しい。
今後は、名画座のような小さな映画館や、地方の自治体などでも上映される機会も多くなる事だろう。その意味では、私の地元の映画館で、この作品を昨日まで上映されていたのは先駆けだったかもしれない。

このあと、「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」はどこに向かうのかと検索していたら、グッドタイミングな場所に行く事になっていた。埼玉県深谷市の「深谷シネマ」( http://fukayacinema.jp/ )で、明日7日から13日まで上映される。以前にもこのブログでご紹介したが、「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」のある部分、この深谷市で撮影されたものなのだ。
写真の風景、覚えているだろうか。これはセットでもCGでもない。深谷市で300年続いた酒蔵「七ッ梅酒蔵」を裏手から見たもの、このような原風景が今でも普通に残ってるのが深谷市なのだ。

この街には、映画に情熱を注ぐ人たちがNPO法人として運営し、その努力で、今では、多くの映画やドラマなどでの懐かしい風景を得られる場所として、業界では密かに人気スポットとなっている。
「深谷シネマ」はその象徴として、古い銀行を改築して誕生したもの。席数49、最近流行のシネコンではなく、昔ながらの映写機(2006年閉館 川越シアターホームランより譲渡)の回転音が聞こえる、素敵なスペースだ。私も、見逃した映画を一足遅れで見たい時、たまに訪れるが、子供の頃に見た映画館の雰囲気が残り、なんとも心地よい。

この「深谷シネマ」、4月からは「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」を撮影した「七ッ梅酒蔵」の建物の一部を改装した場所へ居を移す。このように、貴重な歴史遺産を確実に後世に残す手段を、未来に向けて建設的に展開する深谷市民に、本当に敬意を表したい。大宮とは雲泥の差、比較にならない!

ぜひ、深谷市で「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」が上映されるこの時期に、日本アカデミー賞で最優秀美術賞も取った、この作品の昭和の風景に酔い、その足で、実際の景色を確かめるというのもオツではないか。

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東北新幹線「メロス」津軽へ走る!

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かつて、東京の上野駅と青森駅の間には、「はつかり」という特急列車が走っていた。実はこの「はつかり」、日本で初めて東北地方へ向けて走った特急列車でもある。青森から青函連絡船へ繋ぎ、北海道への輸送時間短縮を狙っての登場だった。しかし特急といっても、上野から終点青森までの時間は、実に10時間を越えていた。

その特急「はつかり」も、1982年、大宮〜盛岡間の東北新幹線仮運用開始とともに消える事になる。一時的とはいえ、新幹線の始発駅となった大宮駅周辺は、この時、ことのほか盛り上がったものである。
それ以来、実に28年の時を越え、今年12月、東北新幹線の全開通、新青森駅開業にて、都心と青森市内への直通列車が復活する。

この日の開業には残念ながら間に合わなかったが、来年春には、時速300キロを越すというE5系新幹線列車が投入され、東京と青森が3時間10分、くしくも東海道新幹線開業時の東京〜新大阪間と同じ時間で結ばれる事になる。

今月から、この新しい新幹線の愛称を募集している。
http://www.jreast.co.jp/E5/
これにより、現在の「はやて」は廃止となるのだそうだ。
この愛称、太宰のイメージするいいネーミングはないものだろうかと身近な方々へメールで提言したところ、太宰治検定の津島さん他、数人の方々より「メロス」と帰ってきた。「メロス」、やはりこれしかないだろう。

ただ心配なのは、津軽鉄道を走る列車に「走れメロス号」というのがあって、私としては「メロス」を遠慮をしたのだ。ところが、青森県議会ではもうすでにこの件は話題になっていて、ぜひ「メロス」で、という話も出ているとか。そうなれば、決まりだろう、「メロス」。

東北新幹線「メロス」、時速300キロで、セリヌンティウスの待つ津軽へ向けて走る!
ぜひみなさんも応募して頂けたら嬉しい。

※ 応募すると、「メロス」(←もう決めてる) の壁紙がもらえるので、ぜひPCから、携帯から、何度も投稿しよう!

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