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今回のエントリーで100回目になります。
当初は「ブログなんて適当にやったらいいさ、真面目にやるなんてネクラっぽい(笑)」
とか思っていたのですが、気がつけば結構楽しんでやっています。
頑張って真面目に書くときもあればそうでもないときもあって差が激しいかもしれませんが、訪問&コメントして下さる皆さまのおかげで更新も続いております。本当にありがとうございます。
マイペースな更新は変わりませんが、これからもよろしくお願い致します。
さて、今回のエントリーはかなり抽象的で確からしくない部分も多いかと思いますので、読み飛ばしていただいても問題ございません。
僕は「殆どのものは相対的である」と思っています。
高校生だったかそれ以前だったか定かではありませんが、僕は相対性理論にかなりの衝撃を受けました。
(決してその詳細まで理解するような器量があったわけではなく、概念的な部分に衝撃を受けたということです)
その頃僕は若い頃にありがちな、「絶対的な善悪や優劣」というものの存在を信じていました。
「人間というものはどうあるべき」とか「Aに比べてBは圧倒的に劣っている」とかいうものです。
自分の価値観が「絶対的に正しい」という自信はなかったものの、自分の価値観にそぐわないものは最初から全てを否定してかかっていたわけです。
そのころ数学や物理学に楽しさを感じ始めた僕は、その潔さ、正確さに惹かれました。
物事を考えるに当たって、絶対的に当てはまる方程式が存在すると考えていたわけです。
時間や位置は絶対的なものであって、決して相対的ではないと信じていました。
相対性理論はもともとある絶対的な定義の上に成り立っています。ということで、それ自体が相対性なのではなく、あくまで相対性を孕んでいるというものだと、僕は理解しています。
僕の目の前にある二次元の平面が、円の形をしているとします。
その時、僕の近くにいる人の目の前にあるものは果たして二次元でなおかつ円でしょうか。
二次元が三次元の射影であるとしたら、僕の目の前にある二次元はもしかしたら三次元の円錐の底面かもしれません。僕の近くにいる人はその時(水平かつ二次元的な広がりを持つな視点でものを見るとしたら)目の前の平面は「三角形だ」というでしょう。
その時、絶対的な正解は何か?
僕はそんなものは無いと思っていますし、あったとしてもあまり興味がありません。
大事なこと、少なくとも僕が大事であると思うことは、各人がどう見るか、どういう視点があるのか、各視点の面白い点とは何か、ということです。
先の例でいうと、「円である」、「三角形である」、「円錐である」という見解は、「解ではあるけど正解ではない」のです。それぞれは間違ってはいないけれど、正解でもない、ということです。
各人の「どう見るか」とか「どう考えるか」という見解は「こうあって欲しい」という心理を少なからず反映したものです。それは各個人の立ち位置、地位、経験、価値観、多くのものの上に成り立っています。
それほど多くの価値観が存在するのに、遍く全ての人々に成り立つような、所謂「真理」は存在するのでしょうか。また、存在したとして真理は求められるのでしょうか。
僕の価値観は、ある人から見たら間違っているように見えるかもしれませんが、ある人から見たら確からしいかもしれません。その善悪や優劣など、絶対的ではないのです。
自分の見ているものはあるものの側面のそのまた一部にしか過ぎないということ、これを理解していなければ、僕が円錐を見ることはまずかなわないでしょう。それは大いに勿体ないと思うんです。
他人と話して、議論して、変えて、影響される。それが大好きです。
ブログも真面目な話ばかりでもはっきりいって見る方も書く方も疲れますが、やはりそういう役割を果たして欲しいと思っています。
僕が大事だと思うことは、「解ではあるけど、正解ではない」ということです。
良いところも悪いところも分別せずにそのもののアイデンティティとしてとらえても良いのではないでしょうか。(議論するときにはそれを分別することは大切です。)
新たなものが見えてくる、今まで見ていたものが全く違った形に見えてくるときの楽しさは、自分の立ち位置が変わるのを実感すると同時に、自分のアイデンティティが溶けていくような、そんな気持ちを伴うもので、頑固でまだまだ至らない部分の多い僕にとってはなかなか実感出来ない感触ではありますが、その独特な快感は、如何とも形容しがたい、素晴らしいものなのです。
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