過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

2008年11月28日

←2008年11月27日 | 2008年11月29日→

全1ページ

[1]

竹田城その4

その1で少し竹田城の歴史を簡単に書いたのですが、調べた範囲でもう少し詳細に

室町時代、但馬は山名氏の根拠地でした。山名氏は室町幕府の有力守護大名で、幕府の侍所の長官を務めることのできる四職家のひとつでした。四職家は他に播磨の赤松氏、丹後の一色氏、近江の京極氏です。山名氏は室町時代初期には、山陰・山陽11カ国の守護を兼ね、「六分の一殿」(全国66カ国のうち11カ国の守護となったから)と称され権勢を誇っていました。しかし、それを危険視する三代将軍足利義満の挑発にのり京都へ挙兵し敗死、山名氏は本国但馬一国の守護のみとなりました。

有名な山名持豊(宗全)が山名氏の当主となり、六代将軍足利義教を暗殺した赤松満祐を討ち大功をあげ、一挙に勢力を回復し、幕府の重鎮となりました。

竹田城はその持豊が、家臣の太田垣氏に命じて本城出石此隅山城の出城として築かせたといわれています。当時は石垣はなく土塁造りの城郭であったそうです。竹田は細川氏の勢力下にある丹波と、赤松氏の播磨に近く、交通の要衝であり、重要な防御拠点だったと思われます。

山名はその後幕府を二分するほど勢力を持ち、応仁の乱の西軍の総大将となりました。東軍の総大将は管領細川勝元、播磨の赤松氏も東軍についたため、丹波・播磨に近い竹田城の重要性はいっそう増したことでしょう。

しかし乱後の混乱で各地で下克上が起こり、山名氏の勢力は宗全の死後衰退していきました。出雲の尼子氏、備前の浦上氏らが勢力をつけ、山名氏の領国を侵食していきました。竹田城主太田垣氏は主家山名氏を支えましたが、織田信長が畿内を制圧し、羽柴秀吉に播磨・但馬の制圧を命じました。1569年と1577年の二度にわたる但馬出兵で落城。竹田城は秀吉の弟秀長が城代となりました。その後秀長は出石に移り、秀長の家臣の桑山重晴が城主となりました。

本能寺の変ので織田信長が倒れると、中国方面司令官だった羽柴秀吉が天下をとりました。秀吉の弟秀長と桑山重晴は紀州に転封となりました。

その後、竹田城主となるのが、赤松広秀(別名才村政広)です。赤松広秀は山名氏と対立していた赤松氏の一族です。赤松氏は山名氏ともに四職家のひとつでり、かつては有力な守護大名で、本国播磨だけでなく、備前・美作なども勢力下にありました。しかし、戦国末期下克上で赤松氏も山名氏同様勢力が衰え、家臣の浦上氏や一族の別所氏などが勢力をふるっていました。赤松広秀は本家赤松氏の支族龍野城主赤松政秀の次男でしたが、父・兄が亡くなり1570年家督を相続しました。当初織田軍の播磨攻めに抵抗していましたが、やがて降伏し、羽柴秀吉に従い、蜂須賀小六の配下になりました。そして1585年、竹田城主桑山重晴が紀伊和歌山に転封になると、赤松広秀は竹田城二万二千石の大名になりました。

竹田城の穴太積みによるみごとな石垣は羽柴秀長〜赤松広秀の城主時代にされたそうです。

広秀はその後も豊臣政権下の武将として、九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵に参加します。また、儒学者藤原惺窩(ふじわら せいか)の教えを受けるなど文学人としての素養もあったそうです。

広秀はその後悲劇をむかえます。秀吉の死後、1600年天下二分の関が原の合戦が行われました。広秀は近隣の大名と同様西軍について東軍の丹後田辺城の細川氏を攻めたのですが、関が原で西軍が敗れると一転東軍に寝返り、西軍の鳥取城の宮部氏を攻めました。このとき城下焼き討ちを鳥取城包囲軍の大将亀井茲矩の命で行うのですが、その責めを後にとがめられ徳川家康に切腹を命じられます。広秀は鳥取真教寺にて切腹し、赤松(才村)家は断絶。竹田城は廃城となりました。

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

全1ページ

[1]


.

湯村よいとこ湯気の町
人気度

ヘルプ

Yahoo Image

  今日 全体
訪問者 1 58892
ブログリンク 0 20
コメント 0 1436
トラックバック 0 62
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

開設日: 2007/3/26(月)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.