『日本周遊紀行』

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2009年1月16日

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日本周遊紀行(129)湯布院 「湯布と由布」

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写真:宝泉寺温泉・「石櫃の湯」
写真:九州の名山:由布岳(標高・1584m)


湯の町・宝泉寺、湯布院、別府へ・・、

国道387に標識があって「ファームロード」と書かれていた、広域農道のことだろう。
2車線幅のなだらかなカーブの道、車も格段に少なく快走である。
この先から次第に山間部に入り、くねくねした道は一寸した峠越えという感じである、まもなく亀石峠に着いた。 標高800メートルで四方の視界が良く清々とした結構な場所である。 ここは既に県境のようで、これより大分県・九重町であった。 
下ったところに宝泉寺温泉があり覗いて見た。名前の通り以前は「宝泉寺」というお寺があったというが、現在はお寺は残っていないようだ。 川沿いに数件の鄙びた温泉宿が並んでいて、実に雰囲気が良い。 心地よい清流の木橋(太鼓橋)を渡った場所に、風情の良い共同露天風呂の「石櫃の湯」というがあった。 石櫃とは棺桶のことで何かお寺に関係がありそうだが、確かに露天風呂の横にお堂があって、何故かそこに石櫃が鎮座している。簡単な男女別の脱衣所はあるが、湯船は一つで混浴になっている。
宝泉寺温泉は、作家・檀一雄氏がふらりと立ち寄り、入湯したことでも地元では知られ、「澄み通ったお湯が絶えずあふれ出していた・・」と短編・「女の牧歌」に記している。檀が投宿した「湯本屋」(現、宝泉寺観光ホテル)には、その名も「檀の湯」というのがあるらしい。檀一雄は破天荒な人生を送ったことでも知られ、有名な自伝的ベストセラー小説「火宅の人」は映画にもなった。長女には小生も好む女優・「檀ふみ」がいる。
宝泉寺温泉は九重九湯の一つで、平安期には開けていたという古湯である。因みに、九重九湯とは宝泉寺温泉のほか近在の壁湯温泉、川底温泉、龍門温泉、湯坪温泉、筋湯温泉、筌の口温泉(うけのくち)、長者原温泉、寒の地獄温泉を指す。 

山峡の地も九重町あたりからは町並みも表れてきて賑やかになり、伴って国道210号と九州高速・大分道が並行するようになる。 しかし、すぐまた山中へ分け入るようになり、その峠が湯布院の手前の「水分峠」と言われる所である。 別府と阿蘇・一の宮、九重連山を跨ぐ県道11号・やまなみハイウェイが交差する峠でもあり、かつ福岡と大分とを結ぶ国道210号線の最高所(標高707m)である。 並行してきた大分道がいつの間に消えたと思ったら、この下がトンネルになっているらしい。 ここは三国の分水嶺で九重、玖珠、湯布院の各町の境界でもある。 普通なら「分水峠」と称するところ、「水分峠」という呼称の訳は定かでない。 峠にはドライブインの他、スタンド、コンビニまである盛況である。 
下りきった所に今度は「道の駅・ゆふいん」があった、“ゆふいん”と「かな文字」で書かれているのが判る気がする。 “ゆふいん”は「湯布院」又は「由布院」と呼ばれる温泉地でもあり、このことは後の項目に譲るとして尚、湯布院には後日訪れる予定である。 
この先は国道から分かれて、県道11号にて別府を目指すことになる。 
湯布院の高目を更に、大曲を繰り返しながら登ると「狭霧台展望地」というところへ来た、大草原の真っ只中にスケールの大きな眺めが得られる。 眼下に湯布院盆地と温泉の町並みが一望できている、振り返れば眼前に由布岳が迫っている。 ここは霧がよく発生するところでもあるらしい、霧に包まれた湯布院盆地は幻想的だが、この付近は山岳路で霧のあるときは危険極まりない道路でもあろう。

さて、「由布岳」である・・、登山好み、山好きの小生、美しい山が現れると、つい、見惚れてしまうのである。
由布岳は際立った山である。 
人気の高い観光地である湯布院の北東部に聳え、古くから神の山と崇められ「豊後風土記」や「万葉集」にも登場する名峰で、豊後富士と呼ばれ親しまれている。 標高は1584mの独立錐形峰であり、頂上部は双耳の峰になっており通称、東峰、西峰といわれる。 小生見るところ雄岳、雌岳であり、夫婦融合の山の様に映るが・・・?。 尤も、地元、別府の人に言わせれば、由布岳は男の山であり、この先に控える鶴見岳が女の山であると言い、この両山が夫婦の山と呼んでいるようである。
ところで、「風のハルカ」というタイトルでNHKの朝の連続テレビ小説が本年(2005年)10月3日から放送されている、舞台はこの湯布院である。 
湯布院の父子家庭の下で貧しい生活を送った主人公“ハルカ”が、大阪の別れた母の元へ行き、やがて幸福の本当の意味を知って湯布院の観光職員になって街のPRに務めるという、家族の再生のサクセスストーリーである。 タイトルバックにこの由布岳が登場し、中村メイコが由布岳の「精」という設定で主人公を暖かく見守るという、「由布岳の声」を演出している。小生も今、懐かしく拝見していて、今後のストーリーが楽しみである。
 
展望地から道は更に曲折を繰り返し、由布岳の直下まで登る。 由布岳の山麓の草原地帯には噴火時の火山岩であろう、巨石が点々として一種異様は風景を呈している。 この辺りが峠になっていて、今度はじわじわと下りながら別府へ近ずく。 次には「鶴見岳」の堂々たる勇姿が左に望め、間もなくロープウェイの山麓駅が路側にそってあった。 標高1375mの鶴見岳へは、このロープウェイが山頂近くまで運んでくれる。 春はミヤマキリシマ、冬は霧氷が特に美しいという。 山頂には、「火男火売神社」が祀ってある。
鶴見岳は平安期867年に大噴火し、火山泥流が別府湾岸まで流下した。この大噴火を鎮め、鶴見山麓一帯に別府温泉を創ったというのが「火男火売の神」であるといわれる。つまり火を治める神にして、別府温泉創生の神というわけである。 火男火売神社の御祭神は、火之加具土命(ヒノカグツチ・男神:神話ではイザナギ・イザナミが生んだ神々の一神とされ、火の神のことである)で、鶴見岳の大噴火のさい火気を鎮め、以来火を治める火の神、温泉の神として別府温泉の総鎮守として崇敬されている。 近年では開運の神様として県内は勿論県外よりも多数の参拝者があるという。 境内には“天神さん”や“お稲荷さん”、“秋葉さん”などの末社がある。 その「秋葉さん」は別府市秋葉町にある秋葉神社のことで、やはり火を治める神として有名であり、この秋葉神社の総社は静岡にあるのは周知である。
現在も鶴見岳北側からガラン岳にかけては火山性噴気が噴出しているが、火の神を祀る鶴見岳への大自然への感謝なくして、今の別府の温泉及び観光は成り立たないのである。
カーナビに従って別府・鉄輪温泉へ向かう。 高めより町並みを見渡すと、既に街の彼処(かしこ)に温泉の湯気が立ち上っている。 鉄輪温泉(かんなわ)の温泉地の入り口に大きな案内板が立ち、従って、逗留地「双葉荘」へ到着した。

次回は、別府・鉄輪温泉

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日本周遊紀行(128)北里 「北里柴三郎」

第1回ノーベル賞の有力候補となるが北里は、「黄色人種」であるという理由から受賞候補から外された・・、

サッパリ気分で「黒川温泉」を後にする・・、
粋な川端通りから橋の袂に来たとき、河原近くに共同浴場の「穴湯」がこじんまりと佇んでいて入浴料100円とあった。
先ほど来た道を一旦小国町まで戻り、熊本、菊池から延びている国道387を行く。 途中、北里地区に「北里柴三郎記念館」があった、細菌学者で医学博士の北里柴三郎の生家であり出身地である。 この辺りの地域名は「北里」と称しているが、元々、肥後の国・北里村であったようで柴三郎は江戸末期・嘉永5年に、この村の庄屋の倅として生まれている。当時は「北里村の柴三郎」という呼び名であったろう。

江戸時代には「苗字帯刀」(姓名を唱え、刀を腰につけること)は武士だけの特権であり、身分を示す象徴としての役割を果していた。 しかし庶民の中でも特に家柄や功績によって、又ある場合には御家人株の売買などによって苗字帯刀が許されることもあった。 その場合は一代許可、永代許可、名字のみ、帯刀のみの例もあったようである。 
1870年(明治3)に太政官から苗字差許し(さしゆるし)の布告が出されたが、市民は苗字がなくても特に不自由しないので苗字を名乗ろうとはしなかった。 しかし、明治政府は戸籍整理のため1875年には苗字を持つことを強制、義務づけられた。 同時に帯刀については、同じく1870年に庶民の帯刀は禁止されている。 苗字の付け方は各々自由だったらしく、山の方に住んでる人は山に関係した呼び名で山本、山下、山中・・、海辺の人は浜中、浜内、内海・・、村や地域の名を取って付けた人はその土地の功労者や責任ある立場の人であったろう。
北里家は元々村の庄屋であったので村の名を名乗ったのかもしれない。 因みに、9月19日は「苗字制度の日・苗字の日」、2月13日は「苗字制定記念日」である。

北里柴三郎は細菌学者として野口英世と並び、世界にその名を知られる。
小生在住(厚木市)のすぐ近く、神奈川県相模原市北里地区に北里大学病院があり何度か世話になったが、近辺の人達にもかなり評判が良い病院のようである。むろん、北里柴三郎が創立した病院である。
明治中期(1901年)、日本最初のノーベル賞の受賞確実とされたが、偏見にて除外された事は「知る人ぞ知る」であろう。 この時、共同研究者であったベーリング(ドイツの医学者)と共にジフテリアの血清療法を発表し、その功績により1901年の第1回ノーベル賞の有力候補となるが北里は「黄色人種」であるという理由から受賞候補から外され、べーリングのみがノーベル生理学・医学賞を受賞したという。 この件に付いての資料が近年発見され、初期のノーベル賞受賞選考の際に明らかな人種差別があった事の証明となり、ノーベル賞の「負の歴史」として残されているという。
北里柴三郎は明治4年(1871)熊本医学校に学び、更に東京医学校(現東京大学医学部)に進んでいる。卒業後、内務省衛生局に勤務、国の留学生として結核菌の発見者であるドイツのローベルト・コッホ(ドイツの細菌学者、炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者)に師事する。 ここで貴重な研究業績を次々に発表、とりわけ破傷風菌の純粋培養法の確立(1889)と血清療法の発見(1890)は前人未踏のもので世界の医学界にその名を留めた。 
帰国後、福沢諭吉などの援助により伝染病研究所を設立、わが国の近代医学に大きな足跡を残す。この研究所では野口英世(福島県猪苗代の貧農家の出身・日本の世界的細菌学者で黄熱病や梅毒等の研究で知られる、研究中に自身も感染して51歳で死去)なども学んでいる。 
福沢諭吉の没後の1917年(大正6年)、彼による長年の多大なる恩義に報いるために遺志を継ぎ、福沢の創立した慶應義塾大学に医学部を創設し初代医学部長・付属病院長となる。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力したという
又、明治以降多くの医師会が設立されたが、一部は権威争いで反目しあうなど、ばらばらであったが1917年(大正6年)、柴三郎は全国規模の医師会を統合し初代会長となって大日本医師会が誕生する。その後、医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたっている。
昭和6年(1931)死去するまで終生わが国の公衆衛生、医学教育、医療行政の発展に多大な貢献をしたのである。

次回は、湯布院だが・・?

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