四季*おり*オリ*の散歩道で♪

朱鷺のヒナ、巣立ち ( o ̄▽)o<※*:'゜。.お*:゜・め'゜゜:。で'・:+と"。*・う':゜:*♪:'゜`。+:

✽親鸞聖人と七不思議✽

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僅か7年の越後生活で、これだけ多くを残した偉人。
浄土真宗の宗徒でなくても、ついつい足跡を追いたくなりませんか?
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逆ダケ@西方寺旧跡


鳥屋野にある 西方寺旧跡 です。

承元元年(1207年) 親鸞聖人35歳の時
念仏弾圧によって越後に流罪となりました。
居多ヶ浜に上陸した親鸞聖人は、流罪1年目は
国府代官監視の元、米と塩をもらいながら
 
「延喜式」 による流人生活を 竹之内草庵 にて送り
翌年からは 竹之前草庵 へと移り、恵信尼と共に
自給自足の農耕生活をしながら
越後の人々と交わっていく事になります。


親鸞聖人が越後で過ごされたのは7年間ですが、国府から鳥屋野に移り
歴元年(1211年) この地に草庵を結び、浄光寺と号されました。

その後、浄光寺は新潟町へ寺基を移転し、さらにその後は能登国羽咋郡北畠村に創立した
北圃山西方寺が 天正9年(1581年)3月に新潟町へ寺基を移転し
さらに東本願寺の命を受け 元和4年(1618年) 一説には元和5年4月に親鷲の旧蹟地守護のため
鳥屋野へ移ったといいます。

本堂は、草庵をお守りするように向かいあって建立され、立派な杉林の街道があったそうですが
寛政8年(1796年) 火災に遭い、萱葺きの本堂は焼失。
享和元年(1801年) 現在の西方寺が建つ場所に再建されています。



現在の西方寺は、ここにはないのですが
一歩山門を入れば、当時を偲ばれるもの
歴史を感じるものが多く残されています。














草庵境内には、親鸞聖人が朝夕使われたとされる
井戸と、衣を掛けたと伝わる 袈裟掛けの松 が
あるそうですが、石碑があるので、石碑後ろに
見える井戸と、この松の事でしょうか?

山門両脇にある黒松は、共に保存樹として
昭和50年に指定されているものでした。


この地に草庵を結び、3年余りの月日を 農民と共に暮らしながら布教して過ごされたそうです。


現在、綺麗に再建された御旧跡。



写真右の菩提樹も、昭和50年指定の保存樹。


























草庵境内には、見上げる程の親鸞聖人の銅像があります。
イメージ 1


昭和10年(1935年)6月23日に御銅像の除幕式が行われたそうですが
8年後、戦時のため召集されてしまいます。
昭和55年(1980年) 清水フード・中島清会長により、再建された聖人像です。




親鸞聖人銅像建立の碑と、再建の碑。













もうひとつは
嘉永3年(1850年)建立の 親鸞聖人の歌碑。

『此の里に親の死したる子はなきか 御法(みのり)の風になびく人なし』

この地で布教活動を続けた親鸞聖人ですが、なかなか人々に受け入れられず
その苦悩を吐露したとされています。


「我が教義真意なら、この枯竹必ず根を張り芽を出すべし」 と
自らの教えが広まらないことを嘆き、手持ちの竹杖を挿したところ
逆さに枝葉が付く竹になって根付き繁茂したと伝えられるのが 
越後七不思議のひとつになっている 今回の “逆ダケ” です。


ここまでの写真を見てもお分かりの通り
銅像や石碑の周囲にはすでに竹の姿が見られ
寛政8年の火災により西方寺の本堂が焼失し
享和元年に
現在本堂のある場所に再建されたため、逆ダケの竹林と親鸞聖人ご旧跡は飛境内に
あるわけです。


枝が下向きに生える竹は貴重な奇態植物とし
大正11年(1922年)10月12日 内務省より
派遣された理学博士・三好学氏の調査により
全竹林が国の天然記念物に指定されます。

竹藪は、西方寺の住職が所有・保護して来ましたが、約3,000坪にも及ぶ竹藪のため
その保存にも問題が生じはじめ、鳥類の営巣による悪臭、.騒音に伴う地域住民の苦情などがあり
また、治安・防災上の不安からくる環境改善の陳情も度々行われたといいます。

竹藪の保存管理を巡って、長い確執は続き
平成15年(2003年) 文化庁の了承を得て
ようやく、所有者・行政・専門家による 
「天然記念物保存 管理計画策定委員会」 が発足。
平成17年(2005年)3月 新潟市が保存管理
計画を策定。
平成18年(2006年) 12月議会で公有地化を
提案し、土地を買収。

平成20年(2008年)近隣住宅との間に緩衝地帯を設置、藪の刈り込みなどを実施。

そして、平成21年(2009年)5月30日より
「鳥屋野逆ダケの藪」 として一般公開させるようになりました。

逆ダケは “ハチク” という種類の竹です。

この “ハチク” の中に、極度に枝が下向きに垂れ下がった状態の
不思議な竹があり、それが “逆ダケ” と呼ばれるものです。


約3,000坪のハチクの竹林中に、枝の1本でも垂れ下がっているものまで
数えると、平成5年(1993年)の調査時では、群落中の多い場所では
30%程度の割合で “逆ダケ” になっていたそうです。

平成20年(2008年)3月の調査によると、全体で780本の逆ダケを確認し
園路沿いのものにはビニールテープが巻かれているので、それを目印に探してみると
案外、容易にその姿を確認する事が出来ます。



竹藪内の様子。

さっそくテープのあるものを発見!

アップにしてみると分かり易い?

次々に見つかります。


木漏れ日も差し、竹藪の中は明るくて癒されます。




御旧跡の裏にあたる付近には
史跡 “吊り鐘池跡” の石碑があります。
池の場所は、この碑より北方110mの地点
だそうです。

「現在の西方寺以前の浄光寺に
檀家も少なく、新潟に引越しされし折り
吊り鐘を船にて運びし所、水田に没し
約30アールの丸い池になったと言い伝えられて
いる池」
 と、説明が添えられていました。


また、御旧跡地から道路を挟み、当時 西方寺のご本堂のあった場所は
現在、西方寺の墓地になっていますが、親鸞聖人の苦行を偲ばせる縁の
“御枕石” を見る事も出来ます。

















御旧跡南方面の観察路と石畳の様子。。。

この道を歩いて行くと、東門程近い場所に
順徳上皇 御馬繋の榎の石柱 があります。













承久3年(1221年) 承久の乱により 
後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡
土御門上皇は土佐へと配流になりました。

順徳上皇は、佐渡への途次
親鸞聖人の遺徳を偲んで遺跡を訪ねられた
という事です。
















鳥屋野神社境内には
相馬御風に原筆を依頼し、刻まれた句碑が
あります。

『はしたかの 鳥屋野の浅茅ふみわけて
おのれとかえる 秋の旅人』



上皇が5月9日に佐渡に向かわれる事になり
別れを惜しんだ村人が、前夜に灯籠に火を入れ
ご馳走し、歌い踊ったといい、毎年5月8〜9日に
行われている鳥屋野神社のお祭り、おでん・とうろう祭り、そして六階節の踊りとなり、今に引き継がれているそうです。






現在の西方寺です。












寛永8年の火災により竹藪の地より移り、享和元年(1801年)にこの場所に再建されたご本堂。

西方寺では蓮如上人の歌や、蓮如上人縁の染め分けの竹も一緒に拝見する事が出来ると聞いて
来たのですが、4時を僅かに過ぎた時刻。。。 
お堂の入り口は、すでに閉ざされていました。


訪問日 : 2011年9月25日(日)

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三度栗@考順寺


お邪魔したのは、阿賀野市保田にある 考順寺 です。


お寺の標柱にも “焼栗山” の文字があるので、県内の人だったら、ピンとくる人も多いでしょう。
親鸞聖人にまつわる越後七不思議のひとつ “保田の三度栗” でも有名なお寺です。




焼栗山 考順寺 は 真宗 大谷派 の寺院で
当初は専念寺と称し
以後、願成寺、長福寺、本詳寺と変わり
江戸時代中期に現在の孝順寺となりました。


現在の寺域と建物は
かつて越後千町歩地主の一人であった斉藤家の
邸宅ですが、第二次世界大戦後の農地改革で
国に物納されたもので、それを寺が競売にて取得し
昭和25年 ここに遷座しています。


昭和初期を代表する貴重な建築物が御本堂です。


境内に建つ 三度栗の石碑

イメージ 1


他県にもある三度栗の伝説は、弘法大師ゆかりの話が多いですが
我が県に伝わるのは、親鸞聖人ゆかりの話です。



親鸞聖人が保田の地を訪れた際、信徒の老女が捧げた焼き栗をまき

「我が勧むる弥陀の本願、末世に繁昌いたさば

この栗、根芽を生じて一年に三度咲き実るべし。
葉は一葉にして二葉に分かれて繁茂せよ」

と仏法を説いたところ、焼き栗は芽を出し、年に三度花を咲かせ

その葉の先は二つに分かれて茂ったといいます。




当時の三度栗の木は枯れてしましたが、現在は若木が育ったものが見られます。

現在でも、年に3度花を咲かせているそうです。




訪問日 : 2011年9月19日(月)


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山寺薬師・聖の窟


人柱供養堂を後にし、車はさらに山の上へと進みます。

板倉区の中心地から、東南に約8キロの地にある山寺薬師は
千数百年前から山岳仏教の拠点として、三善一族の帰依を受け
山寺三千坊といわれたほどの一大勢力を有していた場所です。

駐車場に車を停め
樹齢700年と言われる杉並木の続く石段を
のぼって行きます。











階段の中ほどから、両サイドには石仏が見られますが傍に行ってお顔を見たら、あまりにもビッグスマイルで一瞬疲れを忘れ、こちらも一緒に笑ってしまいました。

209段の石段の山道をのぼりきった先に
山寺薬師堂が現れます。


イメージ 1

山寺薬師は、今から千数百年前の白雉年間(650〜654年)に山岳佛教の先達として
紀の躬高(きのみたか)により 丈六山に開かれ、山寺三千坊の名蹟が謳われていました。

天台宗の寺院として七堂伽藍が立ち並び、一大本山であったと伝えられていますが
嘉應元年(1169年) 加賀の国司・藤原師高(もろたか)の濁世の争乱の際
白山の僧兵側に、ここ山寺が同じ山岳佛教の立場から加担したため
全て焼き払われてしまいます。

更に、延徳2年(1490年)に書き残されたこの山寺の別当社・日枝神社の記録からも
「鎌倉に敵し残らず三千坊潰され」 とあり、再び戦火がかかった事で
古記録は悉く焼失しているとのことでした。



御堂内には、座像平均142cmという
山寺薬師三尊像が安置されています。

正面向かって右から
釈迦如来座像、薬師如来座像、阿弥陀如来座像






現存する像は、鎌倉〜南北朝時代に三善一族の
帰依を受け、繁栄をみた山寺三千坊の焼失後の
応永年間(1390〜1427年・室町時代)に再建
されたもので、桧の寄せ木造り。


薬師如来座像の背部胎内銘には 
「大檀那三善讃阿 応永二年七月二日
大仏師筑後法眼」 と    
(応永2年=1395年)

釈迦如来座像頭部の裏銘には
「勧進沙門祐山 明徳五年七月十日 作者 六条仏師筑後法眼」 と    
(明徳5年=1394年)

それぞれに墨書銘が記されていて、胎内に墨書銘が記されている仏像は他に類が無く
昭和53年12月に、県の文化財に指定されています。


仏像の作者が、京都六条の仏師・筑後法眼であることから
京都から運ばれ、この地で組み立てられたと推定されています。


この仏像の寄進者である三善讃阿沙門は、恵信尼の父ではないかといわれている
三善為教の子孫である事からも、この場所は大檀那としての氏寺
または、菩提寺的存在であった事が考えられます。


山寺薬師堂を出ると、お堂に向かって左手には
納経堂があります。




納経堂の脇から道が続き、ここから約500m程離れた場所に
親鸞聖人と恵信尼の3男である栗沢信連房が修行したという
“聖の窟” があります。


山寺薬師に近い場所に、小黒、栗沢、益方、高野。。。 と
親鸞聖人、恵信尼の子供たちの名前が地名になり、近年まで
残っていた場所があり、また薬師如来像に三善氏が
この像を造立した旨が記されていることからも
越後の地と三善氏の繋がりを知ることが出来
恵信尼さまは、この地を基盤として活躍していた三善一族と、関わりがあった人のでは
ないかと考えられています。


信蓮房修行場・聖の窟へ向かう途中にある猿供養寺跡。

この場所に、“猿供養寺”という名前のお寺が
存在したのだろう思いますが、人柱供養堂の
話の中にも出て来るように、この付近一帯には
 「猿供養寺」 という地名が現在でも残り
板倉区は日本有数の地滑り地帯であることから
現在残る地名については 猿=ザレ、供養=クエ というな崩壊地質を表すワードではないかとも考えられます。




聖の窟の少し下には“恵信尼公顕彰碑” や
東屋が建てられ、ちょっとした休憩スペースになっています。




顕彰碑から少し上がると
聖の窟へ向かう最後の坂道です。
























聖の窟(ひじりのいわや) は、山寺薬師背後にある丈六山(560m)の北斜面の中腹にあり
天平年間(729〜749年) 裸形上人が山岳仏教のため、この地に来て修行したのが
始まりと言われている
自然の岩窟を利用して作られた修行道場で、現在は史跡となっています。

親鸞聖人・恵信尼の三男・栗沢信連房の
修行の場でもありました。














現在では、入り口の岩が積み崩れていますが
中を覗く事は出来、当時は畳数枚分ほどの広さが
あり、10人程度が座れたそうです。








信蓮房が、ここで不断念仏の修行をしたとありますが、京都から越後へと下られた恵信尼さまは
ひととき、信蓮房とこの辺りに住まわれたそうです。

また、恵信尼文書の10通目には
60歳前後になった信蓮房が、野積の山寺で不断念仏をはじめたという
私にとっては興味深い1文も見られ、両親譲りの聖道や勧進で
越後の人々の信仰にまみれ、生活していらしたのでしょう。


かなりの標高なので、眼下には頸城平野や日本海が望め、まさに絶景です。












しかし、逆に言えば人里離れた場所であり、雪に閉ざされる時間も長い山の生活。。。
岩場だけのこの場所で、どんな思いで修業されていたのだろう。。。 と。


山を下りて山寺薬師堂まで戻り
今度は、お堂に向いてさらに右手の道を進みます。


道の途中にあった
お稲荷様 と 岩山不動尊



そこを過ぎてすぐに “延命清水”(薬師の水) が流れています。

大きなポリ容器を持参し、交互にたっぷり水を汲んで行かれる人たち。

古くから薬師の水として親しまれ
若返りの水、万病に効くと言われ
難病の人々がこの泉の一滴で命が救われたという
話もあるところから 延命清水
と呼ばれています。

車のないころは、難病に効くと聞きつけた周辺地の人々が、背中に一升瓶を背負い、往復25〜40kmを歩いて登って来た時代もあるそうです。


現在では車がありますし、人柱供養堂前の売店でポリ容器を販売しています。

幾つも見える祠には
家内安全の大神、水神宮の大神
厄除け開運の大神、交通安全の大神
健康身体健全の大神、雁田大神
入試・受験・試験の神。。。 と
まぁ、いろいろな神様が祀られていました。



清水は、薬師堂の下を通ってこんこんと湧き出ていて
どんな日照りでも、どんな大雨の時でも水量は常に一定だと言われていますが
やはり、雨の後の方が水量は豊富です。

味は無味無臭で非常に冷たくて美味しいです。
我が家もペットボトルに数本汲んで持ち帰りました。   ご利益に預かれますように。


訪問日 : 2011年9月11日・25日(日)

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新井別院


旧新井市街地の北部の北国街道沿いに、真宗大谷派の本願寺別院があります。

参道を進むと両側に3つの寺院があり、願楽寺境内に親鸞聖人像が置かれています。

毎年11月1日〜4日になると、地元では “おたや” の名で親しまれている
東本願寺新井別院の “報恩講” と、親鸞聖人恵信尼公を偲ぶお祭りが行われ
この参道や北国街道にも出店が並び、賑やかになります。














黒門から見ると、山門の左右後方に
大きな銀杏の木が見えますが
樹齢3〜400年と伝わる、銀杏の木だそうです。
左が雄株、右は雌株ですが、雄株よりも2回り程
細く小さめです。

この他にも、同じく樹齢400年という菩提樹もあり
お寺のシンボルツリーになっています。



元々ここには 新井願生寺(大谷派) というお寺が
ありました。
願生寺は大きな影響力を持つ有力寺院でしたが
高田
浄興寺 (戦後大谷派を離脱し、現在は浄興寺派
本山)
との教義争いが巻き起こります。

この論争を取り締まるため、本山は役人を派遣し
ますが
、願生寺は敗れ、信濃に追放されてしまい
ます。

敗れた願生寺跡を新井道場とし、貞享2年(1685年)本願寺第16代一如上人により
新井掛所が置かれたのが始まりです。

本山の裁定と幕府の対応に不満のある願生寺側の寺院は、後に仏光寺派に転派するという
事態になります。


新井別院は、3度の風水害と 3度の火災に遭遇して現在に至っています。

延享4年(1747年) 暴風雨で本堂破損
寛延元年(1749年) 暴風雨で本堂倒潰
2年後に再建
明和3年(1766年) 全堂宇焼失
安永元年(1772年) 本堂再建
天明元年(1781年) 洪水で鐘楼梵鐘流失
寛政4年(1792年) 梵鐘再建
寛政8年(1796年) 庫狸再建
享和元年(1801年) 食堂再建
文化4年(1807年) 正面再建
文政4年(1821年) 鐘楼再建

天保14年(1843年) 大火により茶所、鐘楼を残して全焼

嘉永5年(1852年) 本堂再建
明治11年(1878年) 落雷により本堂以下ことごとく全焼
同年            明治天皇北陸巡幸にあたり、上杉謙信公幼少の修行道場とされる
関山の古刹・宝蔵院より庫裡を移築し行在所に充てる。
明治12年(1879年) 本堂仮説
明治28年(1895年) 十八間四面の現在の本堂を再建


お寺には過去帳が残っているので、これだけ詳しく歴史も分かるのでしょうが
我が家のお寺さまでは、戊辰戦争の際に焼失している。。。という話でしたので
これだけの数の災害に遭いながらも、ここまで詳細が残っているのは凄い事ですね。

妙高は水害の多い場所だったらしく、江戸中期の延享4年(1747年)別院の裏を流れる暴れ川
矢代川の大洪水で流出し、
平成17年(2005年) 別院からおよそ400m先の
妙高市工団町の地中から
梵鐘が発見され、「大谷派本願寺末刹」 と刻まれていた事から
およそ260年ぶりに、新井別院に戻ったというニュースもありました。
現在梵鐘は、妙高市の指定文化財となっているそうです。


山門を入る前からお寺らしくなく、境内から子供の賑やかな声が聞こえていましたが
保育園が隣接されているため、境内には遊具があり、親子が楽しそうに遊んでいる姿が印象的でした。


イメージ 1


































ご本堂の脇にある “恵信尼堂” です。



昭和31年(1956年)に建立された
恵信尼堂では、恵信尼さまの尊像が
安置されています。


上越市板倉区が、“恵信尼公終
の地” と
伝わることから、その遺徳顕彰のため
信者により寄進されたものだそうです。



歳月により
お堂を表す文字も消えかかっていますが
彫り物だけが繊細で、何処か女性的な雰囲気を
感じました。











このお寺には
江戸で活躍した画家・森蘭斎のお墓もありました。


森蘭斎は本名を森田文祥といい
江戸末期に活躍した新井出身の画家で
元文5年(1740年)中町森田家に生まれました。

初め同郷の画家・五十嵐浚明から画を学びますが
23歳で長崎に出て、医学を修める傍ら
神代熊斐(かみしろゆうひ)の門人となり
やがて千人の門人の中から選ばれ
師匠の家督を相続し、号を 登明 から 蘭斎 に
改めました。

蘭斎は江戸へ出て、師匠の画風を広める事を
使命と考えていました。
安永3年(1774年)大阪に出て関西画壇で名声を博し、天明2年(1782年) 42歳で 「蘭斎画譜」
 8巻を 京都、大阪、江戸で出版します。

その後、江戸へ出て、当時一流の画家 (後に
“南顰派”(なんぴんは)といわれた) となり、徳川御三家の御用を勤めるようになります。
また、加賀藩のお抱え絵師にもなったといわれています。

享和元年(1801年) 江戸で62歳の時に生涯を閉じています。

その翌年には 「蘭斎画譜後編」 が発行されました。
この画譜には幕府の儒官・林述斎
(じゅっさい)と、弟子であった宇都宮藩主
戸田忠翰
(ただなか) が序文を、宍戸藩主・松平頼救(よりちか)
漢詩を寄せています。

墓は浅草の妙清寺にありましたが、昭和5年(1930年)当時の新井町長はじめ
地元の有志により、新井別院の地へ移したそうです。

絵は、案内看板にあった 森蘭斎の “日の出鶴”



そしてもうひとつ。。。
寺院の前が北国街道なので、ここにも松尾芭蕉の句碑がありました。



『人声や この道帰る 秋の暮』



芭蕉には、揚句の他に
『此道や 行人なしに 秋の暮』
と、似たような句も詠んでいます。



芭蕉が亡くなる1ヵ月ほど前の句で
元禄7年9月26日に大阪・清水で催された
句会に出句したもので、その数日前から
 『行く』 か 『帰る』 か二句の間で揺れていた
ようです。














結局、事実上辞世の句ともいっていいような
 「此道や〜」 を残すこととなります。



訪問日 : 2011年9月11日(日)


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ゑしんの里にて



新潟県上越市板倉区は、親鸞聖人の妻・恵信尼さまが晩年を過ごした場所とされていて
恵信尼さまが建てたと伝わる五輪塔(寿塔)の一帯が “ゑしんの里” となっています。


駐車場に車を停め、ゑしんの里記念館脇を歩いて
来ると、敷地内のゆったりとした芝生広場と
遠くに見える妙高連山の景色が綺麗です。


イメージ 1









周囲の緑、水のコントラストも美しい外観は
建築家・池原義郎氏によるものです。




昭和32年(1957年) 板倉区で発見された石塔が
恵信尼の “寿塔” であると認定されて以来
昭和30年代後半より、
有志などの活動により
石塔周辺の整備が始まります。

昭和44年(1969年)になると、最初の会館が建立されますが、時は流れ、建物の老朽化から
さらなる周辺整備が行われるようになります。


その第一次の整備事業として、平成19年(2007年)で親鸞聖人が越後流罪となって
800年という節目の年であることから、ゑしんの里構想の総仕上げとして
平成16年〜17年(2004〜2005年)にかけて整備事業が行われ
“寿塔” の周辺の整備と、新たな “
ゑしんの里記念館” の竣工がされました。

建設にあたり、板倉区高野出身の大実業家、佐川急便の創業者・佐川清氏の郷土愛により
記念館構想が生まれ、息子の佐川急便会長・栗和田榮一氏が継承され実現したそうです。

物を知らない私は、ここに来るまで、佐川急便の創業者が県民であることも知りませんでした。



恵信尼は、浄土真宗の教祖・親鸞聖人と共に念仏生活を歩まれた人で
“お念仏の母” とも言うべきお方です。

大正10年(1921年)に、西本願寺から恵信尼の手紙 『恵信尼消息』 が発見されます。
これにより、親鸞聖人の比叡山時代の様子や恵信尼との結婚の様子など具体的に知られる
ようになります。

手紙は、京都に残した末娘・覚信尼に宛てられたもので、弘長3年(1263年)から文永5年(1268年)までの8通、手紙の他にも“譲状” が2通と
“大無量寿経” をかなで書き写されたものも残されていました。

鎌倉時代の女性によって書かれた貴重な文献として、国の重要文化財に指定されています。



ご自身のお手紙からも、寿永元年(1182年)の生まれである事が分かっています。

出身については
京都の九条家と繋がりがある人ではないか
越後の三善一族と縁が深い人ではないか
宮使いをされていた人なのではないか。。。など
さまざまに言われていますが、確かな事は判明していないのだそうです。

承元元年(1207年) 専修念仏禁止令の法度に
より、越後に流罪になった親鸞聖人と
国府の竹之前草庵にて結婚生活を営まれます。
結婚の時期については定かではないですが
残された手紙には、信蓮坊(明信)が
「未の年三月三日」の生まれと記されています。
未の年とは建暦元年(1211年)のことで
親鸞聖人39歳、恵信尼は30歳の頃
丁度、越後流罪の時期にあたります。
信蓮坊が何番目の子供だったのかは分かりませんが、建暦元年以前には、すでに家庭を持っていた
事が伺えます。

二人の間には、6人の子供がありました。
・女子   小黒女房
・善鸞(ぜんらん)  宮内卿  遁世号慈信坊(とんせいごうじしんぼう)
・明信(みょうしん)  栗沢信蓮坊(くりさわしんれんぼう)   建暦元年(1211年)3月誕生
・有房(ありふさ)  出家法名道性  益方大夫入道(ますかただいふにゅうどう)
・女子   高野禅尼(たかのぜんに)
・女子   覚信尼(かくしんに)  元仁元年(1224年)誕生

子供のうちの 「小黒」 「栗沢」 「益方」 「高野」 と、4人に関しては上越市板倉地区周辺に
近年まで残っていた地名でもあります。

また、これらの地名の近くには 「山寺薬師堂」があり、安置されている薬師如来像には三善氏が
造立した旨が記されていることからも、時代的には後のものになりますが
恵信尼は、この地を基盤として活躍されていた三善一族と関わりの深い人だったのでは 
と考えられているようです


国府の配所で7年の生活を送り、建保2年(1214年)一家は常陸の国(茨城県)へと向かわれ
稲田の草庵(笠間市)を中心とした生活は、念仏相続と伝道の日々でもありました。


関東での伝導は約20年間であったと言われ
その後 恵信尼は親鸞聖人と共に京都に向かわれ
京都でも20年程を過ごし、住まいは五条西洞院の辺りであったと記されています。
建長6年、73歳の頃、何人かの子供と共に
越後に戻って暮らします。
恵信尼は越後に財産があり、その管理が
必要だったのでは? とも言われています。











文久4年(1267年)7月9日の手紙に
「といのたまきより」 と地名が記されたものがありました。
昭和31年(1956年)からの調査で、その場所は板倉地区の「米増」であろうということになりました。
しかも、地域の東南隅には、古い五輪の石塔がひっそりと
建っていたといいます。


80歳の頃に大病を患った事があったためか
83歳の頃、塔師に注文して高さ7尺の五重の石塔を作成を
依頼したことが、
ご本人の手紙でわかりました。
その塔が、現在の上越市板倉区米増の水田の中に
「比丘尼墓」として約740年間、誰のものとも知れずに
ひっそりと立っていたのが昭和31年(1956年)に発見され
翌年調査の結果、恵信尼寿塔である事が認定されました。

寿塔の傍らには、樹齢600年といわれる “こぶし”の古株が
あり、そこからはこぶしの若木が生えていたそうです。
以来、恵信尼さまを偲ぶものとしてこぶしの花がシンボルとなり
ゆかりの場所ではよく見られます。

昭和37年(1962年) その土地を譲り受け、国府別院の
飛地境内とし、整備がすすめられ、平成15年(2003年)に
再整備工事が行われ現在に至ります。


恵信尼さま自ら建立された五輪塔
周囲は整備され、すっかり景色は変わりましたが
五輪塔の姿は、昭和32年の田んぼの中にある写真と変わりありません。


そして、五輪塔の両脇に、今でもこぶしの木が見られるのも、その当時と同じ景色でしょう。












残された手紙は87歳のもが最後で、おそらくこれ以降、あまり歳月を経る事なく
文永5年(1286年)頃に御往生されていると思われます。


御廟所脇に、今年4月に完成したばかりの
“恵信尼さま会館” がありました。










建物は自由に出入り出来るようになっていて
入ってみると、礼拝施設でした。


中央には黄金の阿弥陀様が祀られ、その両脇には
親鸞聖人と恵信尼さま御影の複製がそれぞれに掛けられ
壁面のあちこちに真っ白なこぶしの花の絵が施され
恵信尼さまを偲ぶにふさわしい場所となっていました。


会館の前には、びっくりするくらいたくさんの
バッタたちが飛び交っていました。













そして、会館脇に見えるのは
平成25年度完成予定の北陸新幹線。
これが完成すると、恵信尼さまの静かな環境も
ちょっと変化しますね。


箕冠城跡にも、いつかお邪魔してみたいです。



恵信尼さま会館の向いにあった親鸞聖人像



敷地内には “こぶしの丘” もあり、町ぐるみでこぶし育成に努めているようです。















こぶしの花が満開の時期に、また訪れてみたい。

















ぐるっと散策し、最後に ゑしんの里記念館に
お邪魔しました。


館内は、ゆかりの歴史資料や関連書物
研究書などを展示するゑしんミュージアム
地域の観光情報を広く紹介するコーナー
特産品販売コーナー などがありますが

親鸞聖人750回忌ということで
「恵信尼展」が特別開催されていて
さらに勉強になりました。










































板倉地区には縁がなく、今までゆっくり立ち寄った
事が無かった場所でした。

恵信尼さまがご縁となり、この日はもう少し
ゆかり地を巡ってみます。
訪問日 : 2011年9月11日(日)


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