忘れかけていた朝鮮戦争その1
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1950年6月25日朝鮮半島の臨時境界線を北軍が越境して朝鮮戦争が始まった。最近の研究によれば、北の人民軍は6月15日に6箇師団が境界線に進出し、工兵隊はひそかに南進のために橋の強化と道路を整備していたという。24日夜に雨が降り出し、隠密行動には最適で、払暁、雨中、ソ連製のT−34戦車を含む機甲師団など7個師団以上9万人の兵士が南進を開始。当日は日曜日でもあり米韓軍はパーティに酔い、防備が不十分だった。なにがなんだかわからないうちに、38度線を突破され、わずか2日で臨時首都ソウルを撤退した米韓軍は、不意打ちを食らったかたちでみじめな敗北を9月15日まで続けた。米韓軍は釜山を最後の防御線とし、北軍の包囲網のなかで釜山を死守した。8月4日から9月16日にかけての釜山攻防戦で、米韓軍は4600人の死者と1万2000人の戦傷者と2700人の行方不明者を出した。もちろん北の人民軍の損失は、これの何倍もしたはずである。1950年9月15日米海兵隊がほとんど抵抗らしい抵抗にあわずインチョン上陸に成功し、北軍を38度線付近で南北に分断することに成功した。これで戦況は一変し、北は釜山付近で壊滅し、てんでにゲリラ化したり、北へ逃げ帰る羽目に陥った。米韓軍の反撃を甘く見て補給線を伸ばしすぎた報いであった。米韓軍は国連軍の名のもとに中国国境まで迫った1950年11月1日、ウンサンで、白い戦闘服に身を包んだ中国軍と初めて遭遇し、その雲霞のような兵士に包囲され、殲滅され、11月25日には中国義勇軍に50キロ先のピョンヤンを奪回された。朝鮮戦争はこのときから米韓軍と中朝軍の大規模な戦争に転化したのである。このときの中国人民義勇軍は26万人というからすさまじい。中国軍のつねとして人海戦術しかなかった。装備は貧弱だったが、戦闘では勇敢だった。このとき韓国軍の最前線は中国国境を見下ろす位置にまで進出し、米国の越境命令を待っていた。ワシントンでは、原爆投下という危険な選択がテーブルに載っていた。いつものように「米軍の犠牲を最小限にとどめる」というのである。1951年1月にはソウル再奪還を目指して中朝軍50万が南下し、38度線近辺で一進一退の攻防戦が続いた。双方とも決定打がなく、1953年7月27日休戦協定となった。実に世界大戦の危機をはらんだ3年間にわたる凄惨な戦争で、半島の野山は荒野にかわるほどの被害を出した。人びとは逃げ惑うばかりで、犠牲を強いられた。日本の左翼は朝鮮戦争を南が仕掛けた戦争で、わるいのは米韓首脳部であるとしていた。この神話は1960年代末あたりからくずれはじめ、現在では、北の南進政策の一環として解釈されている。しかしそれにしても、同一民族の戦争を外国の干渉によって戦わなければならなかった悲劇は民衆の犠牲者の莫大な数値によって示されている。日本の軍事評論家と称する人びとのほとんどが米韓よりであることは、危険な兆候である。朝鮮半島では外国が介入しない限り、戦争にはならないからである。朝鮮戦争における一方の当事者だけの発表を信じることは危険である。ましてや人家のそばで米韓合同演習をやり、北の領海に砲撃を加えるなど言語道断。住民に被害が出ることは目に見えている。軍隊は市民の犠牲などなんとも思っていない証拠である。菅内閣はさっそく韓国を支援し、北を非難する声明を出したが、この人たちも沖縄にミサイルが撃ち込まれる危険があることなど頭にないらしい。朝鮮半島で戦争が起これば、必ず日本にはミサイルが飛んでくるし、爆撃がある。日本には朝鮮戦争の当事者である米軍が駐留しているからだ。いかなる名目でも戦争の口実になるような軍事演習はやってはならない。
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