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エレキは春にこそ似合う!
そんなことでベンチャーズが無性に聴きたくなる今日この頃。
中でも『京都慕情』は切ないのに秋ではなく、ナゼか春爛漫な曲。
歌詞は、確か京都の河原町をひとりぼっちの艶っぽいお姉さんが闊歩するという詞。
あの河原町の雰囲気は自分も大好き、是非今度『宇宙遺産』に登録して欲しいものです。
しかし宇都宮もアナドれません。
春先の『みはし』から『今小路橋』までの釜川沿い散策路は
河原町にも見劣りしない、”どうしてなかなか”なムードのエリアです。
(釜川散策のすすめ http://blogs.yahoo.co.jp/otto_ngo1ro/32895494.html)
この短い区間でも釜川をまたぐ東屋風の休憩所や
川岸にも州浜が設けられていて演奏エリアは沢山。
将来是非、『みはし釜川ジャズフェスティバル』を開催したいものです。
そんなことを考えていたら、
いつも何気なく渡っていた、あの『みはし』がいつしか妙に気になり出しちゃいました。
とにかく『みはし』の人生、もとい橋生を確認したいっ!。
ということで調査開始。
まず、江戸中期(安永5年、1776年 )の宇都宮城下絵図(写真1)をみると
宇都宮大明神(二荒山神社)→宇都宮城本丸までの道はまだ無くてお城の外堀で終わり。
だから二荒山神社の階段を降りてオリオン通りと交差した辺りまでしか道がなかった模様。
こんなときこそ道路特定財源が必要だったンだろうにねえ。
釜川は現在とほぼ同じ様に走っているけれど『みはし』の姿は絵図からはまだ見つからない。
一方、宇都宮城には今小路門があったので城門とセットで今小路橋はすでに存在を確認。
城主がまれに二荒山参拝とかのときだけ渡るような超プライベートな橋は古くから存在したらしい。
つづいて寛政12年〜文化3年(1800〜1806年)に完成した彩色の日光道中分間延絵図(写真2)では
すんごくミニマム、1人が渡るのがやっとみたいな『みはし』が描かれております。
きっと一休さんのトンチは通用しません。橋の真ん中と端の区別ができません。
どうやらこの頃が『みはし』のデビューかもしれません。
さらに江戸後期と思われる宇都宮城下略図(写真3)では今小路橋らと同様に
堂々たるデフォルメ姿で『みはし』が書かれており、すでに宇都宮の橋のリーダー的存在に。
そして明治39年(1906)に発行された宇都宮真景図(写真4)では
西洋風、明治モダンの影響か、カタカナでミハシなどと記載され
どうにも行き場の無い、うれし恥ずかしさをかもし出しています。
そのミハシのすぐ今小路側には、当時中州があり飲食店が軒を連ねていた様が
この図からも分かります。中州には大木も描かれていてなかなか興味を惹かれます。
ああ、ここで呑んでみたいっ!
とにかくこの当時ミハシの周辺は街の商業地、歓楽街の中心地として
めちゃ盛り上がっていたらしい。
仕事帰りの呑んべさん達や逢い引きの待ち合わせ
さぞ沢山の人生を見て来たんでしょうね。
『みはし』の200年をかけての出世物語なのじゃった。
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