どう生まれるかではなく、どう生きるかだけど
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私が通っている(でも最近ごぶさた)カトリック教会に居る 仲良しのおばあちゃんシスター(推定年齢80歳)はイタリアのナポリ出身。 時々ニホンゴに交じる母語が何を言っているのか分からない、かわいいおばあちゃまです。 (イタリア語ワカラナイ) で、時々彼女がニホンゴで何を言っていいか分からない時に通訳の手助けをしてくれるのが、 イタリアで聖典翻訳に携わっていた経験のある日本人シスター。 おばあちゃんシスターが一生懸命に何かを伝えたくて日伊の言葉を連発するのに、 「いや何言ってるかわかんねぇから」みたいな口調でバッサリ切り落とす、 私はこの二人のまるで漫才みたいな会話を聞くのが非常に楽しかったりします。 (本人達はこれが日常らしい) この日本人シスターは非常に現実的で、 あまり幻想的な宗教を言わないところが、やや日本人的な仏教感を覚えるのですが、 この方がふと口にした言葉が印象的で、彼女の心の奥深い所にある情操に触れた気がしました。 シスター : 「彼女には血肉に主が息づいている。それが日本人の私と違うところね」 もしか日本人信者の方は誰でもそう感じることがあるのではないかと思います。 シスターであれば、なおのこと。 国全体が世界遺産みたいな、まさにキリストの歴史と文化に育ってきたイタリア人のシスターは、 既に素材が出来ているというか、その遺伝子に2000年の歴史が流れている。 東洋圏の私達が心の奥底から馴染めない、理解に苦しむ解釈なども、 何の抵抗もなく吸収して共鳴することができる。そんな感覚があるかもしれません。 (逆に東洋思想も然り) 時を同じくして地上に生まれた存在であるのに、神の子兄弟達に「生まれ」の違いは、やはりある。 決して嫉妬するわけではないけれど、そういった羨望は誰にだってあるものだと思いました。
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