なぜ若者にクルマが売れなくなったのか?
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右肩下がりの時代に育った若者が主役となる時代。 そこでは、クルマや服で、間接的にアピールして来た時代ではなく、 考え方や人柄を直接的にアピールする時代の到来を意味するのではないでしょうか。 その流れを決定づけるのが、FACEBOOKなどのSNS技術文明の進歩だと思います。 基本的に物欲がゼロなんてありえないとは思うのですが、経済成長が望めない昨今は、別のやり方で心の満足を得ようとしている動きが主流になってきていると思います。偽ブランドも限られた資金の中でやりくりしている様子が伺えます。 驚いたのは、週末農業を志向する若者が増えてきているということ。薄っぺらなかかわりに飽き飽きして、ホンモノ志向、ナチュラル志向とでも言うべき、新しい潮流だと思います。 ただ、若者層も同質ではなく、どの方向に進めば良いのかわからず、漂流している人たちも沢山いると思います。 次の主役となる世代には、我々現場第一線の現役世代の生き様は常に見られていることは事実だと思います。 さて、私たちが車を買わなくなったことに対して「近頃の若者は欲がないね〜。」などとぼやく人々がいるのですが、それに対して「とんでもない! あなたと同じように私たちもすごく欲深いのですよ、ただしその欲深さを表現する場所はあなたと異なりますけどね。」と申し上げたいと思います。 消費社会について分析したジャン・ボードリヤールは、「消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。」とはっきりと述べています。人々が物を消費するという理由には「私って他の人と違ってちょっとはイケテルでしょう?」という人々から承認されたいという、自己顕示欲があります。では、この自己顕示欲が今の若者にはなくなったのか? と言うと、「とんでもございません!」と私は言いたいのです。その自己顕示欲を満たす行為が、「車を買う」ことではなく、「言葉を発する」ことになってきているのです。 物質空間が、インターネットによって情報空間に拡張されていない時代には、自らのセンスをアピールする方法は、誰からも見られる「モノ」に求める必要がありました。 車や家や服などはわかりやすい、アピールポイントになるわけです。みなさんも記憶にありませんか? 中高と、制服指定の学校に通っていると、自分のセンスをアピールするために、指定された制服の中で少しばかりの差を周りとつけて、「イケテル」奴と認定されるゲームに参加しませんでしたか? このような心理は消費生活の至るところで発生していて、車であっても、微妙に差をつけることで、自己顕示欲を満たすことがおもしろい時代があったわけです。それが高度経済成長を牽引したとも言えましょう。 自己顕示欲を満たしてくれる露出社会 しかし、私たちは今、その「自己顕示欲」を「モノ」に求めなくなっているのです。 というのも、物質空間を情報空間に拡張した「露出社会」では、自分の頭の「中味」を表現することができるということが決定的に重要なポイントになります。 物質空間のみに拘束されていると、なかなか人々の頭の「中味」を知ることはできません。街を歩いている人々がなにを考えている人なのか、わからない。だから、服装や話し方などで判断したりするわけです。でも、それが最近変化してきたわけです。ツイッターやブログのアカウントさえ知っていたら、人々の持ち物や外見だけでなく、頭の中味で人を判断できます。 そして私たちは、病みつきになってしまったのです。もはや中毒かもしれません。 「車なんて結局はどっかのメーカーがつくったもんだよな、所詮は自分とは関係ない他人のモノ。でも、自分の頭の中味は、自分のモノだ。これで、自己顕示欲を満たせるじゃないか!」 私はよくこんな質問をバブル世代の人々からされるのです。 「今の若者は心配になるくらい欲がないね〜。」 それに対しては、今まで述べて来たとおり、とんでもない勘違いです。私たちはバブル世代のみなさんと同じ人間です。自己顕示欲をもってしまう、オバカな人間なのです。そんなオバカな私たちは、車を買うことに熱狂することから卒業して、露出社会で表現活動を行うことに熱狂を始めてしまったようなのです。 そしてその熱狂を後押しするような、仕掛けが露出社会には仕組まれているのです。 「評価」の可視化です。「いいね!」「フォロワー」「ブックマーク」、人々の頭の中味について、互いに批評し合うような、道具が揃えられつつあるわけです。ここで熱狂できる人々は、もう「車」には興味がないわけです。 車は、私たちにとっての自己顕示欲の発露となる媒介としての役目を終えてしまったのでしょう。
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