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 南西に面した個室と廊下には、秋の日差しが長い影を作りながら差し込んでいました。

日差しが強いので、個室も廊下も掃きだしガラス戸を開けてありました。

日はかなり傾いてきたようです。

食後の瞑想を行なっていた五人のお坊さんたちは、さっきから廊下をゆっくり静かに歩いています。

経行中のようです。

老人達はみんなずっと辛抱強く聞き入っていたようでした。

インタヴューも長くなったので、今日はここらあたりでと思いました。

最後に一つだけ聞いておきたいことがあったので質問しました。

「本日は、長時間のインタヴューに快く応じていただき感謝いたします。今日は、もう一つだけ質問をさせていただき、終了させていただきたいと思います。」

「どうぞ。」

「お坊さまは、このサンガで行なわれ、達成されることがらが、人の最上の生き方であると確信されておられますか?」

「私ども六人以外の人々にとってということですね?」

「はい。」

「このサンガで目指していることがらは、一人一人が自分で行ない獲得するものです。したがって、このように生きるかどうかは、一人一人がご自分で判断し、決めることであります。いずれ私どもは、その判断の材料を身をもって示して差し上げられると信じて修行しております。」

「どう生きるかは一人一人の決断次第だということですね。」

「私どもは修行の道以外の方法を考えておりません。修行は一人一人が各人で行なうことです。他の誰にも、代理修行は不可能です。全く意味のないことだと思います。私どもには回向という観念はありません。」

「自分で判断し、決断し、選ぶためには、それなりの判断力、決断力が求められますから、当然、ある年齢に達したもの以上が対象でしょうね?」

「サンガは、還俗を禁じていません。」

「なるほど。」

来る者は拒まず、去るものは追わず。ちょっといい加減なようですが、そういういい加減さがあって、息苦しくない、どこか南海に浮かぶ浮世離れした島の人々ののんびりした暮らしのような、そういう環境があっても良いなぁと思いました。

さて、明日の打ち合わせをしておかなければなりません。

まだまだ、乞食サンガの本当の姿は見えてきていません。

今日のインタヴューのような話なら、あちこちで聞くことは出来るでしょう。

問題は、それがどの程度本物かということです。

無所有と言いながら、冷暖房完備の御殿のような僧坊に住み、美食を鱈腹食べ、信念に基づく屁理屈と本気の嘘を積み上げるような僧院では幻滅です。

「明日も引き続き取材をさせていただきたいのですが宜しいでしょうか?」

「このサンガには、記者さんの行動を制限しなければならないような規定も制約もありません。」

「では、明日は托鉢の様子を取材させていただきます。午後には、恐れ入りますが、又、インタヴューをお願いします。」

「はい。」

 先ほどの、檀家の人たちとの会話では、お坊さんは承諾の意向を無言という態度で示しましたが、部外者の私には普通に返事をしてくれるという配慮をしてくれているようです。

老人達は、立ち上がってまた、檀家の間に戻る者もあり、家に帰る者もありました。

檀家用のトイレは行列になっており、中には待ちきれずに、お坊さんのトイレに入る者もありました。

咎める者は誰もおりません。

私は、旧檀家代表さんのお言葉に甘えて、代表さんの家に止めさせてもらうことになりました。

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2007.10.29(月)

瞑想トレーニング

 再開。

練習時間は短いが、ブッダダーサ方式でやってみることにした。

絶対に(心の)目を離さずにthe whole time呼吸(息)を追いかけるchasing after(後を付けるstalking)という、一番最初の練習法でやってみます。

今日は結構追い続けられたような気がする。しばらくすると呼吸が治まり静かになってきた。

問題点:
1、意識的な強い呼吸が次第に収まってきた時、どうしても唾が気になる。緊張しているのか?
2、今日は、結構、呼吸を追い続けられたが、ブログのことや、ブッダサーサの本のことやらに心が行ってしまった。
3、椅子に腰掛けてやる方法と、マットを敷いた上に古枕を置いて腰掛け、姿勢を安定させている。しかし、しばらく経つと、お尻の筋肉や腿の筋肉がきしみ始める。
4、姿勢特に背骨の直立が気になる。呼吸が楽に出来る姿勢を固定したい。

◎瞑想トレーニングの環境作り

 1、精神環境を改善するための心構え集(戒)を作る→戒の研究の必要性?
   作成中
 2、今特に問題になっていること
  ア、怒り・・・近所の女(主婦)たちの噂が気になる。妻の病的な行動(幻聴に対して、夜でも大声で怒鳴る。幻覚の人物を追い出すために、夜中でも、窓を開けたり閉めたりする。幻聴を打ち消すためにコンポの音量をあげる。こういう行動が近所の噂になっていて、我が家は奇異の目で見られている。私自身も偏屈であるため余計にそうなると思う。ゴミの分別を妻が理解せず、ごちゃ混ぜで出そうとする。→怒り→妻との会話に怒りが入り込む。モノに当り散らす。気づきが働かない。妻の病気に対して怒っているが、怒らずに、説明したり、どうしても分からなければ、私がやれば良いことなのに。結局、私の我侭。近所の主婦や妻が問題なのではなく、私の問題なのだ。
イ、仕事でも勉強でもない、いわゆる自由時間、くつろぐ時間に、TVのスイッチを入れてしまう。やろうと思えば、この時間に瞑想トレーニングをたっぷりできる。→息抜きをどうする。

◎協力してください

 ブッダサーサ公式サイトの「MINDFULNESS WITH BREATHING:GETTING STARTED by Buddhadasa Bhikkhu」の翻訳で、どうしても分からない箇所があります。手伝ってください。

http://www.suanmokkh.org/archive/aps/mwb-abc1.htm

の、12段落(以下の引用)

When you can securely go back and forth between the two end points without paying attention to things in between, leave out the inner end point and focus only on the outer, namely, the tip of the nose. Now, sati consistently watches only at the tip of the nose. Whether the breathing strikes while inhaling or while exhaling, know it every time. This is called "guarding the gate." There's a feeling as the breathing passes in or out; the rest of the way is left void or quiet. If you have firm awareness at the nose tip, the breathing becomes increasingly calm and quiet. Thus you can't feel movements other than at the nose tip. In the spaces when it's empty or quiet, when you can't feel anything, the mind doesn't run away to home or elsewhere. The ability to do this well is success in the "waiting in ambush at one point" level of preparation.

中の、In the spaces when it's empty or quiet, when you can't feel anything, the mind doesn't run away to home or elsewhere.

の、In the spaces when it's empty or quiet,
のspaceの意味とit's(it is)のitの指すものが明確に分かりません。

一応、「呼吸を感じ取っていない期間in the spaces、全く静かで(動きがなくなったら)、そこで何も感じられなくなったら、」と訳しました。

教えて下さい。

◎気づき

 気づきは結構24時間働かせているつもりだが、途切れることが多いし、貪瞋痴に、body and mindをジャックされて惨めになる時期がある。

皿洗いは、なんとか再開できた。かなりしんどいが。

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 「瞑想をご存知ですね。日本語の瞑想にはいろいろな意味がありますから、ただ瞑想と言ったのでは、言った人と聞いた人が同じ瞑想を考えているかどうか分からないので、日本語の止観という言葉で言い換えます。」

「シカンというのは、摩訶止観の止観ですか?」

「はい。普通日本では、止をサマタとかサマディーと呼び、観をヴィパッサナーと呼ぶようです。止は精神が極度に集中した状態になる修行を、観はその集中した心で、ものごとを観て考える修行を指します。」

「はい。」

「お釈迦様のさとりはこういう瞑想によってなされたと経典は言っていると私どもは考えます。」

「はい。」

「通常、科学者や哲学者はこういう訓練をしません。ただ、彼らも極度に集中した状態になることはあるようですが、意識的にそういう訓練をして、物事を考察するという方法はとっていません。」

「はい。」

「お釈迦様の教えは、お釈迦様のさとりで得られました。」

「はい。」

「お釈迦様の教えを知識として学ぶことは可能です。しかし、善悪を教える道徳が知識では修得できないように、お釈迦様の教えは、知識として覚え理解しただけでは修得できないと私どもは考えます。」

「はい。」

「ある人がアーガマなどを学び、人の生存が苦であるという真理は、何となく理解できても、結局、その人は今までとあまり変わらない生活の仕方、生き方を続けるでしょう。知識としてはしっかり身につけたかもしれませんが、本当は良く分かっていないのです。」

「それは何となく分かります。」

「お釈迦様が女性と快楽を共にするなどという思いを抱かなかったのは事実だと思います。そういう思いが心に生じてくることもなかっただろうと思います。しかし、この私は果たしてどんな場合にもそういう気持が起こらないと確信を持ってるかと聞かれると、正直まだ自信がありません。相当な努力をしなければならないでしょう。」

「そうなんですか?」

「はい。正直な気持です。」

「いや、何となくほっとしたような。複雑な気持ですね。もう、サンガのお坊様方は皆さん、そういう気持はとっくに消し去っているのかなと思っていたものですから。」

「戒律の力でなんとかそういう思いを断ち切っておりますが、まだまだ、本物でないことは自分がよく分かっているのです。」

「では、本当に理解するというか習得するための修行というのは相当厳しいものなのですね?」

「厳しいのかどうかは、私どもの修行そのものがお釈迦様当時のやり方と同じかどうか確かめられないので分かりません。ただ、私どもの修行法では、なかなか到達できないのです。」

「はあ。」

「一日一食の生活も、初めの頃は大変な苦痛でした。」

「そうでしょうね。」

「しかし、今では、相当に慣れてきました。」

「本当に我慢できるのですか?」

「最近は、我慢しているという思いはほとんどありません。恐らく、多少空腹感はあるのでしょうが、それを意識することがなくなってきたのです。」

「つまり、やせ我慢ではないと?」

「はい。ただ小食の厳しい訓練で空腹感に慣れたのではなく、小食に満足することも同時に体得してきたからだと思います。」

「そういう生き方に不安や空しさを覚えたことはありませんか?」

「初めの頃はそれは何度もあります。しかし、もう相当前にそういう不安や疑念はなくなりました。今は、私にはこの生き方しかないという確信があります。」

「そうですか。」

「瞑想を含めたアーガマに記述された修行法を完成すれば、やせ我慢ではなくなると確信しているのです。」

「そのお言葉を信じるしかありません。さて、もう一つ輪廻についてお伺いしたいのですが?」

「どうぞ。」

「先ほどお坊様がおっしゃいましたが、現代科学の知識を持った私たちは、どう考えても輪廻転生は信じ難いものです。解脱は、本当に輪廻転生からの解脱なのでしょうか?」

「現代科学は、宇宙の構造や起源までも仮説として提示していますし、一部は確認もされています。例えば、宇宙は広がりつづけているということや、この宇宙はある爆発で始まったというような考え方ですね。これが現在の宇宙観ですね。それに対して、輪廻転生は、数千年前の古代インドで行なわれた思想であり、世界観、宇宙観といってもいいと思います。もし、この思想・世界観とお釈迦様の教えが一体不離のものであるなら、私がこうして修行をしていることは馬鹿馬鹿しいこととなるかもしれません。」

「はい。」

「又、部派仏教以来論争となってきた、自己という実体が有るのか無いのかという問題も絡んできます。」

「非我か無我かということですね?」

「はい。そういう哲学論争とお釈迦様の教えは本来無関係であるというのが私どもサンガの考え方です。」

「非我の立場ですね?」

「はい。多様な思想が盛り込まれたアーガマですが、よく読んでいくと、輪廻転生からの解脱という解釈に囚われなくても、お釈迦様の教えが損なわれないと私どもは考えています。」

「はい。」

「教えの核心は、いわば科学と同じような観察に基づくものだと思うのです。教えを、自分で確認できるということであります。輪廻転生は、確認不可能です。」

「しかし、先ほどは、アーガマには神通力を獲得して、前世を覗いたというような話があるとおっしゃいましたが?」

「はい、確かにそういう記述があります。しかし、そういう神通力を排除しても、お釈迦様の教えが崩れるということもなく、不都合もなく読むことが出来るのです。」

「輪廻転生と解脱は切り離して考えられると?」

「もしそうでなければ、現代人に受け入れられないでしょう。」

「そうですね。宗派仏教の教えが、阿弥陀仏の誓願とか、極楽とか、回向などという非科学的な根拠に固執している限り、私なんかにはとてもついて行けませんからね。」

「はい。」

「それに、大乗の経典に基づく宗派仏教は、もし、阿弥陀仏の誓願などを切り離してしまったら、後に何も残りませんね。」

「はい。」

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「普通、人は、この自分の身心が自分であると思っています。」

又、お坊さんの策略が始まったなと思った。

どうも、上手くお坊さんの論理に乗せられてしまう。

そうすると、お坊さんの目指す結論に自然に導かれてしまう。

しかも、今提示されたテーマはもうすでに取り上げられ、私も納得した事柄ではないか。

人間というのは、私たちが普通に思っているようなものでない可能性の方が高い、例えば、容姿は人間の視覚の制約を受けて認識したものだから、樟で見れば、美人も形無しなんていうあの話だ。

それにこの議論の仕方は、科学的哲学的なものじゃないか。

しかし、今私は記者として、お坊さんにインタヴューしているので、論争するわけにはいかない。

仕方なく返事した。

「はい。」

「そして、死んでも自分が無くなってしまわないよう願います。」

「現代人は、そう願っても実現できるかどうか半信半疑ですが。」

「そうですね。お釈迦様の頃は、古代インドのほとんどの人が霊魂の存在を信じていました。」

「それは古代インドだけでなくどの国でも同じじゃないでしょうか? 今だって、死んだ肉親の霊は絶対に存在しないなんておおっぴらに言えませんよ。何の証拠も示せないし、そう思う必要もないですし。」

「はい。生きている間は勿論のこと、死んでも何らかの実体的なものが、例えば、魂のようなものが生き続ける、あるいは、生き続けてほしいと考えました。」

「はい。」

「現代でも、ほとんどの人は少なくとも、生き続けることにこだわりますね。」

「それは当然じゃないでしょうか。なにしろ、死んでしまっては何がどうなるのか全く見当がつかないのですから。それに愛する人たちと永遠に別れなければならなくなります。それも絶対に避けたいですからね。」

「そうですね。ただ、そういう考え方でいる限り人は苦しみに振回され続けるでしょう。」

「と言いますと?」

人間という実体ははホンとは無いんだという以前の話し方とはちょっと違うのかなと思い始めた。

「死にたくない、失いたくない、離れたくない、生き続けたいと思えば、飢えは死につながりますから、最も避けたい苦しみの一つとなります。」

「勿論です。実際、飢えが続けば人は死にます。確実に。」

「そうですね。」

なるほど、無我の理論で攻めて来たなと思いました。

「ほとんどの人が持つ、生き続けたい、大切なものは失いたくない、欲しいものは手に入れたい、病気になりたくない、死にたくないなどとという切望が、そもそもどこから生じたのか、もし生じたのであれば、それは消滅させられるのではないか、と考えるのです。」

「はい。」

「お釈迦様は、人を、ご自分を深く深く観察されました。さまざまな考察法で研究されました。」

「研究というと学問を想起しますね。」

「この段階では、まさしく学問と同じような方法で観察・考察されたと思います。」

「それでは、お釈迦様の教えは学問の研究結果、すなわち理論であるということですか?」

「そうともいえます。ただし、研究の対象が特に現代科学の場合と違うのです。」

「分かります。科学がわれわれの外界に実在すると思われるモノを研究対象にしているのに対して、お釈迦様は、心の事柄、精神的現象を対象としたということですね。」

「はい。お釈迦様の説かれる苦というのはまさしく心の中の事柄であって、私たちの外にあるモノではありません。苦という実体もないということを明らかにしたのです。」

「確かに苦なんていうモノは存在しませんね。」

「私たちがそう感じたり思ったりすることを苦と表現しているのです。」

「しかし、感じるということや思うこと、すなわち、苦の感覚、知覚、苦であるという思いというのは確実に在るのではないでしょうか?」

「確かにありますね。五感による苦と思いによる苦があります。」

「そもそも人間というのはそういうものなんではないでしょうか?」

「はい。現代人は、まさに、そういう風に考えているようですね。人は苦しみと楽しみと悲しみと喜びとを交互に感受する存在なのだ、だから、そう受け入れて生きていく他ないのだと。」

「そうです。その通りです。」

「しかし実はそれは、そう意識していなかっただけで、お釈迦様の頃の多くの人々の考え方、生き方とそれほど違わないんじゃないでしょうか?」

「はい?」

「生き続けたい、死にたくないなどという切なる願いは、数千年前の人間の思いとそれほど変わっていないのです。しかし、今も昔も、人は一刻も同じままで止まっていられません。」

「そうですね。」

「変化し続けることが人間のありのままの在り方なのです。」

「分かります。お釈迦様が説かれる無常ですね。」

「はい。ところで記者さんは、ご自分が刻一刻と老いて行き、やがて、死ぬということを常に見ていますか?」

「それは、前にもお話されて、私はそういう見方をしていなかったと言いましたし.....はい。出来ませんね。私は、もう少し前の若々しい自分を自分だと思っています。他人が見ている私よりずっと若いと自分では思っています。もしかすると自分だけは若いままだと思っているかもしれません。まして、やがて死ぬとは考えません。多分、死なないと思っています。」

「ありのままに自分を見るということはある意味では苦ですね。」

「そうですね。」

「お釈迦様はとことん観つづけたのでしょう。その結果、四聖諦の真理といわれる教えを見つけ、五蘊非我の教えを見つけました。無常の教えもその一つです。」

「はい。」

「ここまでは、経典をよく読めば、或いは、研究者の研究に助けられて読めば、お釈迦様が説かれた教えを理解することは出来るでしょう。」

「といいますと?」

「記者さんは先ほど、無常という真理は知っているとおっしゃいましたね。」

「はい。」

「ところが、実際には、無常のままに生きてはいないともおっしゃいました。」

「はい。それはやむを得ないでしょう。知識は知識で、心の奥深くの自然な思いはなかなか変えられません。」

「はい。まさに知識だけしか持たない記者さんには、前回の終わりにおっしゃられたような、やせ我慢にしか見えないのです。」

「よく分かりません。」

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 彼岸・此岸の話を聞いていて疑問が出ました。

此岸は、今のお坊さんの話から推量すると、今現に、自分が生きている世界すなわち須弥山世界ということになりそうだ。現代風に言えば、地球が属する、観測可能な宇宙ということになるだろう。

そして、彼岸も、生きて到達できる所と説明してくれたわけだから、やはり、須弥山世界ということになる。

これは一体どういうことだ。

そう考えていると、お坊さんがテーラヴァーダ仏教国の話を続け始めた。

「普通、日本では、輪廻転生の原理は、全て前世の業次第と考えられていますね。」

「そう聞いています。」

「人間が望んで次の生を選べるのであれば、修行も業も無意味になる可能性がありますね。」

「はい?」

何を言い出したのかなと首を捻りたくなりました。

「テーラヴァーダ仏教国のある国では、世俗の多くの人たちが、より善い転生先すなわち生まれかわる場所として、天の世界よりも、人の世界に生まれかわることを望んでいるようなのです。」

「何となく理解できそうですね、その気持を。全く知らないところより、知っている場所の方がいいですからね。」

「そのため、あらゆる機会を捉えて功徳を積もうと努力するようです。そして、再び、人の世界に生まれかわれるように、さまざまな祈願をするようです。」

「日本では、宗派仏教がそれぞれ最善の転生先というのでしょうか、落ち着き先を保障してくれていますから、ある意味、安心していられるのですね。」

「安心できていれば良いのですが。」

「はい。かなり不安ですね。納得させてくれるような説明がありませんから。疑問をぶつければ、不信心者の一言で片付けられますしね。」

「ですから私どもは、本当の安心は、お釈迦様の説かれた道で得られるものだけだと確信するのです。」

われわれ凡夫は、どんなに賢そうでも、所詮、孫悟空の同類で、お釈迦様の広大な知慧の世界すなわちお釈迦様の手のひらの上で右往左往しているだけなのかもしれないと思った。

ちょっと話がまとまったところで、先ほどの疑問をぶつけてみた。

「ところで、彼岸・此岸のことでもう少しお伺いしたいのですが。」

「どうぞ。」

「お釈迦様がさとりを開かれ、彼岸に達したことは経典ではっきり説かれているということでした。それから、何十年もお釈迦様は説法を続け、出家と修行を勧め続けられたわけですね?」

「はい。」

「つまり、彼岸に達した後も、お釈迦様は確かに生きていて、この世すなわち、須弥山世界の人間界で生活していたということですね?」

「はい。」

「さとりを開いて彼岸に達したということは、彼岸とは解脱や涅槃と同義語と考えて良いのですか?」

「はい。」

「通説では、解脱というのは、生まれ年老い病に侵されやがて死ななければならないという苦しみを永遠に繰り返す輪廻転生の桎梏を断ち切ることでしたね?」

「はい。」

「輪廻転生とは、三界・六道の間を永遠に彷徨うことですね?」

「はい。」

「もしそうであれば、解脱し、彼岸に達した修行者は、当然、三界・六道を離れ、どこか別の世界へ行くのではないのですか?」

「記者さんは、質問の仕方が間違っているのです。あるいは、考え方が間違っているのです。」

「どういうことでしょうか?」

「これは記者さんだけが間違っているのではなく、実は、アーガマの編集者たちも間違った考え方をしたのではないかと私どもは考えています。」

「はい?」

「お釈迦様は、須弥山世界やその他の世界について科学的な説明や哲学的な説明をしたとお考えになりますか?」

「今までのお話から考えれば、そういう説法はしていないということになりますね。」

「また、お釈迦様は、詳細に、三界や六道についての科学的、哲学的な解説をなされたと思われますか?」

「いいえ。」

「もし、そういう説明をお釈迦様がなさったとすれば、当然、科学や哲学の論争が起こり、結局収拾がつかなくなるでしょう。今現在でも、科学や哲学によって、須弥山世界や三界・六道、或いは輪廻転生は、迷信と片付けられたとしても、人間の越し方行く末について納得のいく説明は出来ていないのですし、霊魂ひとつについても諸説があります。」

「そうですね。」

「ぜひ、もう一度、森の木の葉と、一握りの木の葉の喩えを想起していただきたいと思います。」(*ルポ 乞食サンガ <11>参照)

「お釈迦様が目指し、達成し、説法して、人々に勧めたのは、今、まさに、人が苦しんでいるその苦しみの本質を理解し、納得して、それを断絶し、真の喜び、平安の境地を得るということですね。」

「そうです。」

「しかしですね。われわれ人間は、人間でいる限り、生きていく限り、飢え、悩み、後悔、怒り、さまざまな不満、ストレス、病、歳をとり衰えていくことそして最後の死などから逃れられないのではないでしょうか。」

「そうですね。お釈迦様も病、死を逃れることは出来ませんでした。」

「お釈迦様も、やはり、生きているうちは飢えたり、後悔したり、ストレスを抱えたりしたのですか?」

「飢えるのは、病や死と同様避けようがなかったようです。ヴィナヤの記述にも、飢えの話はいくつか出ています。それは事実と考えていいでしょう。しかし、理解しなくてはいけないのは、人間のあらゆる苦しみをその根元から断たれた後のお釈迦様は、それらの苦しみに振回されなかったと私どもは考えております。」

「我慢したということですか?」

「いいえ。飢えに直面したら、たとえどんなわずかな食物にも満足し、飢えによって苦しまないのです。もし、全く食物を得られなくとも、それによって苦しまないのです。」

「ちょっと待ってください。それは、まさしく、やせ我慢ではないでしょうか?」

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