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捨ててこそ
一遍上人語録

孤独を生きる

法然が亡くなって、
27年目に一遍上人は生まれています。

親鸞が亡くなったのが、
弘長2年11月28日(1262年)で、
その時、一遍は23歳でした。

1282年、日蓮が亡くなった7、8年後に、
一遍も亡くなっています。

鎌倉時代は、
法然、親鸞、日蓮、一遍とともに、
曹洞宗の道元も輩出していて、
大衆が霊性を求めた稀有な時代であったと思えます。

「道場すべて無用なり」
こんな考えの一遍さんでしたから、
一宗をたてる思いもなく、
時には神仏に祈り、
時には坐禅もする・・
弟子をもち集団をつくるなど思いもしないこと、
宗教的自由人だったんですね。

お釈迦様のように、
全国を乞食(こつじき)になって、
布教する旅を「遊行」(ゆぎょう)と呼びますが、
一遍さんは生涯17年間も、
遊行の旅を続けます。



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今と違って大変なことだったでしょう。
食料、衣、その他生きるために必要なものを、
すべて布施にたよるわけです。
飲まず食わずの旅を続けたり、
寒さや暑さに耐えていかなければならず、
そのせいか、51歳の若さで亡くなっています。

一遍は寺を持とうとせず、
名を後世に残そうという野心も全くありませんでした。
「捨ててこそ」。執着してはならない。

さあ、ここまでして人々を救いたいという決心を、
一遍はどうして持つことが出来たのか?
一遍はこんな言葉を残しています。



  「生きながら死して,静に来迎を待つべし

   万事にいろはず、 一切を捨離して,

     孤独独一なるを,死するとはいふなり、

      
  生ぜしもひとりなり、死するも独りなり。

    されば人と共に住するも独なり,

       そひはつべき人なき故なり。」

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捨ててこそ


悩みや苦しみを、

すべて捨ててしまうこと。

それが私の悟りです。

それが達成できれば、

この世の中で、

もっとも安心感を得た人になるでしょう。

捨てるとは、

すべてを任せるという意味。


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迷いを捨てれば、

いま生きているこの世が、

そのまま極楽になるでしょう。


摂取不捨とは、

私をつかんで離さない阿弥陀仏が、

極楽浄土までの道を導いてくださることです。

この教えが、こころの解放になります。



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「信じる」ということ

文永十一年の夏、
一遍上人は、熊野へ向かう途中の中辺路の山中で、
一人の僧に行きあたった。


いつものように、
「一念の信をおこして、南無阿弥陀仏と唱えて、
 極楽往生を約束する、この札を受けなさい。」
そう言って念仏札を渡そうとすると、
「教えを疑わずとも、信心のおこらざる事は、
 ちからよばざる事なり」
そう言って受け取りを断られます。


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これは一遍にとって思いも欠けぬ出来事だった。
疑ってはいないが、信じてもいない、
でもこれは、
誰の心にある思いではないだろうか?

「受ければ妄語(ウソツキ)の罪になる」
一人の僧は言ったのだが、
では今まで札を渡してきた人たちには信心があったのか?

否、信じてなければ救われないなら、
誰が救われるというのか?
この一遍に信心はあるのだろうか?!
このことは大問題なのである。


親鸞は往生には信心が大事といった。
仏願の生起本末に疑心あることなし、
これが阿弥陀仏に救われた人・・

これでは、多くの人を救うことが出来ないではないか?
一遍上人は、そう感じたに違いない。


そこで熊野本宮の証誠殿に祈り始めます。
すると白髪の山伏姿の熊野権現が現れました。
床には3百人ばかりの山伏が首を地につけ伏せています。



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「念仏をすすめる聖(一遍)よ。
 あなたのすすめや、信心の有無によって、
 衆生の往生が決まるのではない。

 十劫の昔から、決定していることとは、
 南無阿弥陀仏が往生するなり。
 信不信、浄不浄をえらばずその札を配りなさい。」

こう言われて一遍は、
「われ、生きながら成仏せり」
そう絶叫したと言います。


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生ぜしもひとりなり



「生ぜしもひとりなり、

       死するも独りなり、

      されば人と共に住するも独なり,

       そひはつべき人なき故なり。」

      (「一遍上人語録」六八:岩波文庫:110頁)


あの瀬戸内寂聴さんも好きだと言われた、
一遍上人の言葉です。


浄土門の教えは、
法然、親鸞の流れが有名ですが、
法然門下から西山派を起てた証空(しょうくう)、
その弟子の証達の弟子、
それが一遍です。


「一代聖教(しょうぎょう)みなつきて、
南無阿弥陀仏になりはてぬ」
死を前にして、
所持していた書物をすべて焼き捨てたことは
一遍の宗教観を知るうえで重要なことです。

財も欲も、おのれさえ捨てて生きる、
空也上人を尊敬した一遍さんは、
「地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて・・」

生涯念仏を称え続け、
まだ念仏に巡り合えない人のために、
日本を歩きました。

「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」という、
念仏札(ふだ)極楽往生を保証するお札を手渡すためです。



実は昨年、京都の光明寺で、
時宗法主遊行七十四代 他阿真円上人さまより、
このお札をいただいてきました。

「お札なんかで極楽へはいけないよ」
そう思っていたけど、
思わずニンマリしている自分がいました。。

「ああ、こうして一遍さんは、
  みんなに安心を配って歩かれたのだなあ」
素直にそんな気持ちが湧いてきました。

死んでから成仏するのではなく、
この一息一息、一念一念に往生している・・そんな、
一遍上人の教えをお伝えしたいと思っています。
では次回よりお楽しみに。。


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