思い出の一枚

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平成21年9月17日
新書庫『今日の一枚』開始
日本に帰国し、ブログが少し単調になってまいりました。
過去5年の写真で、まだ記事にしていなかったものを『思い出の一枚』としてご紹介させていただきます。
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遥かなるメジャーリーグ 2

『遥かなるメジャーリーグ 2』
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今も目を瞑れば
大観衆の喝采が聴こえる・・


文字通り、透き通る高い空がある。
その空は際限なく高く、そして青い。


反響する歓声
僕はバッターボックスに立ち、そして目を瞑る。


ここまでの道のりは決して平坦であったわけではない。
雑草のまばらに生えた空き地でバットを振ったことを思い出す。


あの時の自分と、このカムデンヤードの美しい球場でたつ自分と違った自分であるわけではない。
あの時だって必死でバットを振っていた。


一度だって力を抜いたわけではない。


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人生には1~2度だけ絶好の剛速球が投げこまれる。


実はそれは、速ければ速いほど良い。
へなちょこボールならコツンッ。。と転がってしまうのだから。


何度も何度も思い描いた・・
何度も何度も夢見た。


雑草のまばらに生えた空き地でバットを振っていたんだ。
目を瞑り・・それがメジャーリーグの球場だと思って、思いっきりふってきた。


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何万人の観衆がいないと思いっきり振らない?


いや。
観衆がいなくても振ってきた。


観衆のいない空き地で振れないバットが、カムデンヤードで振れるわけがない。


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ピッチャーは巨大な奴だろう・・


目を瞑り・・そしてイメージトレーニングをしてきた。
何度も何度も


2mに届く巨大なピッチャーから急降下してくるボール
その唸るボールの音に恋してきたんだ。


一度も聴いたことがない。
空き地には、そんなボールは投げ込まれてこないのだろうか?


いや。
この空き地で一生懸命バットを振らなければ、ボールはこない。


自分が一生懸命バットを振れば、ボールは飛んでくる。
イメージトレーニング
必ず剛速球が投げ込まれてくる。


何年イメージトレーニングをしているのだろうか・・
待って待って待って。


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剛速球は突然投げ込まれてくるものだ。
自分には剛速球は投げ込まれないなんて、悲観していたって始まらない。


毎日毎日準備をしなければならない。
空き地は突然にメジャーリーグ球場に変わる。


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剛速球は突然やってくるものだ。
空き地だから手を抜いた?
空き地でも手を抜かなかった?


空き地でも手をぬかなかったなら
剛速球がやってくる。


それは想像を絶する球かもしれない。


自分の中の空き地の風景は決してカムデンヤードと異なってはいない。
自分は全く変わっていない。


自分のココロは以前から全く変わっていないのだ。
ギラギラと肩を焼く太陽は、昔から夢の中で何度も見てきた。


何度も何度も恋焦がれてきたんだ。


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目の覚めるようなグリーン
鼓動が体を揺らす。


剛速球が投げ込まれてきた。
全然見えない球だ。


空気を切り裂くような爆音を伴って剛速球が投げ込まれてきた。


見えないほど速い球も、空き地では何度も何度も見てきたんだ。


僕は目を瞑って、そして大きく
バットを引きつけて


思いっきり振り切った。
思いっきりバットを振った。


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何も変わってはいない。
いつも準備をしていた。


ただメジャーリーガーの剛速球は、空き地の哀しさの中で必死にバットを振った者にだけ投げ込まれてくる。


神様が投げ込んでくれた剛速球は
僕のバットをへし折らんばかりに重かったのだが、
次の瞬間、大きな弧を描いて、青空に突き刺さるように飛んでいった・・
何度も何度も夢にみた剛速球は、大歓声に包まれながら弾丸のように遠くの遠くの大観衆めがけて飛んでいったのだ・・



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遥かなるメジャーリーグ

『遥かなるメジャーリーグ』
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1996年に医師となり、ようやく日本野球にデビューしたのだ。
医学部生活6年間・・それは長い長い6年間であった。


初めの2年はほとんど臨床医学は学ばない。
生物学、物理学、英語、化学、数学 etc..
それこそ一般の教養科目を学ばなければならない。それはともすると高校生活の延長にあるように思えた。


今から考えると、そういった科目はとても重要で、それは研究者となってから大きな武器となる。
医師となると二度とそのような基礎的な学問を学ぶ時間がなくなるのだ。
専門分野を持ち、どんどんそれが先鋭化していく。
そんな時に、物理学や化学的な知識があると、思いもよらないアイデアに結びつくのだ。
何事も無駄なことはない。


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3年になると基礎医学を学ぶようになり、毎日実習を行う。
そして4年~5年でやっと臨床医学にたどりつき、5年の終わりからベッドサイドでの臨床実習となる。
しかしまだまだ、それはプロ野球ではない。高校球界でやっと練習を始めた段階なのである。
6年に卒業試験を終え、そして6年修了時に医師国家試験を受ける。
合格して医師免許を受領し、やっと医師となった。
しかし、その段階ではまだプロ野球に入ったとは言えない。


24時間病棟に張り付いて、研修医として働かなくてはならないのだ。
1年は大学病院での内科研修、2年目は一般病院(他県の県立病院など研修指定病院)で研修医生活・・
その合計2年でやっと研修医という名称が省かれる。


そして次の数年を自分の専攻する科の専攻医として修練を積む。
少しだけ専門性が見え始めてくるのだ。


他科の先生から、一応専門科の医師として扱われるようになり、意見を求められるようになってくる。
実際のところ卒後3年から4年目くらいのこの頃は、少し天狗になるものだ。
本当はまだまだひよっこなのだが、研修医などを指導するようになり、一番体が動く時である。
結構自分はできるのかな?とか少しだけ自信があるころだ。
日本のプロ野球の一員になったような気がしてくる。
若くて体が動く、そしてもっともタフなころなのだ。


それから大学に帰学する。
大学院生となり、大学病院では中間医として働くようになる。
下に研修医がつき、上のオーベンの先生(教官)との橋渡し役でもあり、実際治療計画を実施する役割だ。いっぱしのプロ野球選手のような気持ちなのだ。


大学院の後半は、学位論文をまとめに入らなくてはならない。
研究は苦しくて楽しいものだ。
世界の誰も知らないことを、少しだけ解明して英語論文を出し、そして大学から学位(医学博士号)を受領する。世界で出された医学論文もたくさん読む。
そして、そのスケールの大きな研究の組み立て方に自信を喪失したりする。
日本は世界でも研究領域ではトップクラスではあるのだが、いかんせん研究費の額はそれほど多くない。
世界のトップクラスの研究施設の研究費の額や設備から考えると、日本の大学は信じられないほど健闘している。日本のプロ野球は世界的レベルではあるのだ。


そして日本人研究者は、やはり恐ろしいほど働く。
米国の研究者の平均レベルの労働時間の約2~3倍は働くだろう。


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2004年4月
僕のココロは、不安と恍惚の中にあった。
世界最大の研究所の中をその2つのココロをたずさえて歩いたのだ。


論文でよく見た組織である。
有名なサイエンティストがたくさんいるところである。
あのDNAの2重らせん構造を提唱したワトソンとクリック博士


僕が所属する組織の先代のディレクターは、ジェームス・ワトソン博士であった。


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僕はゲノムの殿堂に入ることができたのだ!!
興奮があった。


恍惚としたココロの中には、それと同じだけ
いや、それ以上の不安が渦巻いていた。


僕は残念だがマウスを扱った事がなかったのだ。
僕は日本のプロ野球では、セルバイオロジー(細胞生物学)しか学んでいない。


しかし、マウスを扱ったことのない僕のプロジェクトは遺伝子改変マウスを6種類樹立するというものであった。


有頂天!
しかし、その昂奮もすぐにかき消されてしまうのだろうか?


マウスを触ったことがない人間が、遺伝子改変マウスを樹立できる??
もし遺伝子改変マウスを樹立できなかったら?
いや..運よく樹立できたとしても、そのマウスが大した事を物語ってくれなかったら?
結果を出せなかったら?


最初の数週間は、自問自答の毎日だった。
大きなことは狙わないで、小さくコツコツとヒットを打つべきではないのだろうか?
マウスを樹立することは冒険なのである。
もっと確実にできるプロジェクトにしてくれないのだろうか?


3年
いや5年・・


6種類のマウスが樹立できなかったら、僕の研究者としての未来はない。
たとえ樹立できたとしても、海のものともやまのものともわからない。
三振かな・・


せめてヒットをうちたい。
ホームランなんていらないから。
そんな不安にココロが震えた。
三振なら日本に帰っても研究の場所はないのだから。


ナッチャービルディングというそれはそれは綺麗な所内のビルディングで講習を受けた。
横にはPubmedという、世界最大の論文検索システムを提供している医学図書館がある。
その図書館も世界最大の医学図書館であった。


講習の休み時間に、カフェテリアで昼食をとった。
僕の横で、とても背の高い人が愉快におしゃべりをしている。


僕は日本人では大きいほうだ。
しかしそのオーラが滲み出た人物は195センチくらいあった。


体中から輝かしいそれはそれは眩しいオーラが感じられた。
スターとはこの人のような人を言うのだろう。
いったい誰なのだろうか・・?と顔を見る。


それはメジャーリーガー中のメジャーリーガー
彼はジェームス・ワトソン博士の跡を継いだ世界的に有名なサイエンティストであった。


まさか???
いつか会えるとは思っていた。


なぜなら、彼は僕の直接のボスの師匠だからである。
直接のボスが、博士研究員としてついたサイエンティストである。
僕の直接のボスは彼がミシガン大学時代の弟子であり、ワトソンの跡を引き受けてこちらに移った時に帯同したサイエンティスト
いうなれば、僕にとれば、彼はGrand Fathar Scientistであったから、いつかは会う事になっていた。
こうも早く会う事になるとは・・


僕は、勇気を出して話しかけた。


自分でも恐ろしいほど緊張していた。
一体何を話したのかわからない。
ただムニャムニャと話しかけた。自己紹介
Scienceのグランドファーザーに自己紹介しなくてはと思った。


そうすると
『ハイ!Randy! 聞いてるよ。彼(僕のボス)から聞いた。日本から来たってね。よろしくな!楽しむことだ。マウス作るんだって?』


彼からなのか・・どこからかわからない。
剛速球が僕に投げられたのだ。
その剛速球は、まさしくメジャーリーグのものだ。
小手先のテクニックなどで投げられたものではない。
ブンブン!音をたてている。


ホームランを打ち返すか!?
もしくは、三振しかない。
コツン・・とヒットで打ち返すことなんてはじめからできるような球ではないのだ


メジャーリーガーの剛速球であった。
彼はいかにもフランクに、全く偉そぶることもなく


彼は僕にとっては雲の上にあったサイエンティストだ。
世界の誰もが知っているであろう、世界共同で推進されていた公式プロジェクトの代表者だった。
そして大統領とだってアポイントなしで携帯で話しができるほどの大物だった。


そんな彼はメジャーリーガーの剛速球をにこやかに笑って投げてきた。
それは、もう目にも見えない剛速球!!


笑っているのだ。
深刻さなんて全くなく・・
笑いながら、当然のように目にもとまらない
ブンブンッ!と音をたてながら、空気が切り裂かれるような・・


もうどうでもいい。
僕は日本のプロ野球から来ていた。
メジャーリーガーのボールを打ち返しに来たのだから。


超メジャーリーガーの剛速球をホームランにして返したらいいのだ。
三振でもいい。
ただ思いっきりバットを振るだけだ。


ヒットなんていらない。
もうヒットをコツコツあてようなどという考えはもたない。


剛速球を投げてきたのだから、僕はどうでもいいから
打ち返す!
三振だってかまわない!


僕は目を瞑って


そしてただ思いっきりバットを振った・・
思いっきり無心で、バットを振ったのだ。





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2011年

『さて今年は』
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時々司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』を読む。
やはり物語が上手い。


龍馬の言葉が簡単に語られている。

『世に生を得るは事を成すにあり』
『人間というものはいかなる場合でも、好きな道、得手の道を捨ててはならんものじゃ』
『いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ』
『おれは落胆するよりも次の策を考えるほうの人間だ』
『世の中の人は何ともいえばいへ。 わがなすことはわれのみぞ知る』
『人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある』
『奇策とは百に一つももちうべきではない。九十九まで正攻法でおし、あとひとつで奇策を用いれば見事に効く。奇策とはそういう種類のものである。真の奇策縦横の士というのはそういう男を言うのだ。』
『下手な祈祷師はやみくもに祈る。上手な祈祷師は、まず雨が降るか降らぬか、そこを調べ抜いたあげく、降りそうな日に出て来て護摩を焚く。されば必ず降る。天下の事も雨乞いと同じで時運というものがあり、その運をみぬかねばならぬ。』

さて時運とはどのようなものなのだろうか?


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2004年7月・11月 

『2004年7月~11月』
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2004年は激動の年であった。
京都からワシントンに移動した年である。


その当時まで数年間、僕はとある官公庁の医官をさせていただいた。
医科大学も結構上下関係は激しいものだが、官庁の世界はさらにそれが冴えわたってる。


若造ではあったのだが医官ということで、官位も破格の扱いをしていただいて、今でも感謝の気持ちでいっぱいである。
その当時の同僚や上司の方々とは今でもメールのやり取りがあり、メールの中では、僕は変わらず30代の中盤であり、少し体も軽くなったような気持ちがするほどである。


ワシントンに着任することになって、そしてそれが3年なのか、5年なのか・・
全く予想がつかなくてとても寂しい思いをしたことを覚えている。
初めて深いお付き合いをさせていただいた、別の専門領域・制服の方々。
それはそれはびしっとした男の世界であった。
まぁ、高倉健さんや鶴田浩二さんの世界を想像していただいたら、それに近いものがあると言っても決して言いすぎではないだろう。


近頃特に官僚の世界はあまり良く言われないが、それもまた偏った見かたになってはいけないと思っている。少なくとも、僕の周りにおられた方々は信念のある一本筋の通った良心で働かれておられたし、決して既得権益を守るために働かれているようには思えない。仕事に対する情熱を深く感じさせられた。
数年間の国家公務員生活には本当に良い勉強をさせていただいたと思っている。
”漢”が多かった。


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実は米国赴任については、大学から米国に派遣されたわけではない。
僕は当然退路のようなものは断つしかなく、30か所くらいの大学や研究所の研究室に自分で勝手に応募した。


医学部の世界では、医局人事での派遣というものが結構な比率で存在する。
しかし、医学部以外の理学部などの生命科学領域の研究者にとっては、その退路を断った米国赴任というものも決して珍しいわけではないのである。
むしろ医学部の医局人事の方が、世界的な生命科学研究の世界では日本固有の伝統として考えられている。


その医局派遣という形式自体素晴らしいものである。
雇用する側にとれば、優秀な日本人研究者を定期的に確実に確保することができるし、雇用される側の研究者は、先輩が行き先に先にいてくれて、生活のセットアップ、研究のセットアップ、研究プロジェクトの引き継ぎなど、とても効率的に行う事ができる。


しかし、少しこのシステムには欠点もある。
この方法であると、人生設計がしやすいこと、結果がある程度確保できる可能性があることは利点であろう。またその反対の側面として、問題は研究の波乱が少ないかもしれないことである。


ある程度あらかじめ予想される結果は実はあまり面白くない。
研究結果には波乱があってこそ面白い。と僕は思っている。
今迄みんなに信じられてきたことと全く違った結果が出て、それがしっかりと様々な方法で検証されて、その違った事実が、本当に正しかったりすることがサイエンスにとっては最も値打ちがあることなのだ。
(しかし医局人事採用であってもオリジナルで、従来とは異なった仕事ができる場合も多々ある。)


先輩と同じ研究室に着任すると、帰国時もまた先輩と同じ教室に帰る場合があり、当然その後の研究プロジェクトも似通ったものになってくるかもしれない。
研究で人と似てしまうことは、実はあまり良いことではない。
サイエンスの世界に同じ人は2人いらないのである。


日本に同じ研究を行っているビッグな研究者がいたならば、それと似通った研究を企画しても新鮮味がなくなってしまう。


さて少し話は脱線したので元に戻すこととしよう。
僕は、全く誰も知っている人がいない研究室、日本人がいない研究室
僕自身が全てを開拓できる研究室、それも世界をリードしている研究室30か所に応募することを目標にしていた。そして2003年の夏より、そのうちの何か所かと博士研究員としての雇用交渉に入った。


丁度運よく、雇用の最終交渉に入ることができた研究所は、今年も世界ランキングで1位となった大学の研究室と、ワシントンDCのごく近郊にある世界最大の生命科学の研究所であり、全米の大学に研究グラントを配分する統括組織である国立の研究所。そして西海岸のシアトルであった。


中でもワシントンDC近郊の国立研究所は日本の組織にあてはめると厚生労働省や文部科学省を中心に科学技術省や、農水省などの研究系の部局が合わさったような組織で、米国省庁としての一面を持っていると同時に、その研究所自体も全米でトップクラスの所内研究組織を持っていた。そのため所長はノーベル賞受賞者などのサイエンティストではあるが米国大統領の任期と一致して選出される。


生命科学の研究だけではなく、米国の政治や官僚の世界、移民社会の文化、バイオハザード、行政的な事も知りたかった僕にはこの研究所こそ元々の第一志望であったし、まさしく様々な色々なことが学べそうなうってつけの場所であった。


そこに採用されたならば、せっかくココロの通い合った官庁の同僚もきっと、僕の転出を喜んでくれるだろう・・
そんな事を考えながら僕は、ワシントンに到着した。


恍惚と不安、二つ我にあり。
そんな言葉が本当にぴったりであった。


いや三つかな・・
恍惚と不安、そして極めてドメスティックであった僕には、早く帰りたいと思うシリアスなホームシック


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ワシントンは官公庁の街である。
モールの周りには、官公庁のビルディングが品よく立ち並んでおり、質実剛健ではあるが本当に美しい街並みである。
法務省、財務省、農林省、国土交通省・・
日本名そのままに訳せるかどうかは別として、確かにそれと相当する省庁のビルディングが立ち並ぶ。


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↑財務省

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↑法務省


法務省やFBI本部を見つけた時は胸が高鳴ったものだ。
是非日本の同僚に知らせなくてはならない!


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↑ペンタゴン:国防総省


僕は、日本の官庁の同僚を代表して歩いているような気になっていたのだ。


2004年・・その年は未だ日本の温かかった同僚たちの中にも僕の記憶がきっと鮮明であり、そして僕の中ではその温かさの結晶のようなものだけが、全く異なった環境の中で奮闘する僕を励まし続けており、そしてその僕を、このワシントンDCは優しく見守ってくれていたのだ。


シリアスなホームシックなど、最初の数週間で吹き飛んだのだ。


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↑Department of Health and Human Service

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↑教育省?文部科学省?

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明後日僕はこのワシントンDCの上空に到着し、そして6年前のあの表現しがたい感傷を思い出すことだろう。


あの時4歳になったばかりの長男は、最早10歳を超えた。
そしてまだつたい歩きもできなかった二男は、6歳となった。


少しばかり若かった僕は、不惑をはるかに超えてしまったのだが
またワシントンDCの地に不安と恍惚をたずさえて立つ事ができる。
そしてワシントンDCはきっともう一度僕に瑞々しいあの感覚を分け与えてくれるはずであろう。



そんな気がしているのである。



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ワシントンDC再訪間近

『ワシントンDC〜ベセスダ〜ロックビル再訪間近』
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今月末に1年半ぶりにワシントンDCを再訪する。


去年の4月に帰国し、2~3カ月はまだ体の皮膚の上にワシントンDCの空気が薄く薄くまとわりついていた。
肌がまだ日本に順応していなかったのだ。


僕にとっては、それが唯一のプライドであった。
順応しないことが安らぎでもあった。
そのまとわりついた空気のようなものが、愛しくて愛しくて涙が出た。


恥ずかしいな。
大の大人が泣くなんて・・


子供に偉そうなことなんて言えやしない。


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微かにまとわりついている匂いのようなもの
その空気を必死で嗅ごうとした。そしてその空気がはがれないように
腕に顔を押し付けて目をつむると、まざまざとワシントンDC、ベセスダ、ロックビルの風景が蘇った。


蘇った風景は、しかし特別な風景ではなかった。


通勤途中にいつも飛び越えた、あのCogressional PlazaのRockville Pike沿いの溝だとか
アパートから道に出るところの芝生だとか
ツインブルックの駅の近くのモールの、ボコボコの道路のヒビだとか
そしてDogwood(ハナミズキ)の花の木漏れ日・・


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そんな夢想から我にかえって
目の前の現実が眼前に現れて、そしてそのまとわりついた空気が希薄になっていることに愕然とした。
途方もない大きなエネルギーがはぎ取られたような気になった。


帰りたいな・・




そして僕は途方に暮れた。




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ワシントンDCと言っても
決してキャピトルを思い浮かべるわけではない。


ホワイトハウスでもない。
ワシントンモニュメントでもない。


思い出すのは
その透き通るような広い青空と、その下の何気ない日常である。


東京の空は狭い
そんな事は実際どうでも良いことなのかもしれない。


しかし、僕はまとわりついた空気が希薄になるのと同時に、肺の中の空気まで薄くなってしまったような気がして、苦し紛れに空気を吸い込む。
空気を吸っても置き去りにされた。


そして立ち止まっては空を見上げた。
『東京では写真が撮れない・・』
ビルを写そうと思っても全景を入れるために後ろ向きに歩くこともできないような気がした。


コンビニの整然と並んだ商品。
痒いところに手が届くような、細かくて精巧な商品


そんな事にさえも無性に腹がたってしまう自分にへきへきした。
『もうダメや・・』
独り言こそ空しいものである。


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ひと月


ひと月


なんとか息苦しさを堪えながら、やり過ごした。


人間は弱いのだけど、また強くもできている。
纏わりついたワシントンの空気は、段々と見えなくなってきた。


身を切られるように痛んだその事実も
段々と慣れてくるものなのか。


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帰国時ずいぶんみすぼらしく見えた大学も、日本人が一般的に持っている認識、この大学に抱く大学像・幻想に少しずつ近づいてきた。必死にもがく事がなくなった代償なのだろうか。


もうどうでもいいかな・・
諦めの境地の様なものの中で、僕はどんどん東京の日常の一部に同化して
それと同時にエネルギーが枯渇していった。


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ひと月


ひと月


もはや、ワシントンの空気のかけらの様なものさえも
僕の肌の上には痕跡をとどめていない。見つけることができないのだ。


むしろ、それにホッとして、日常に埋没していけばよい。
日常への埋没は、少しずつ偽りの心地よさのようなものさえ与えてくれるのだから。
埋没することだ・・そう言い聞かせる。


ひと月


ひと月


家族の中でワシントンの話題が持ち上がっても、それはもう身を切られるような痛みではなくなっていた。


あの高くて広い空も、時に思い出せなくなった。
とても懐かしい空なのだが、それは切実な臨場感を伴ってはいないのだ。


この調子だ。
忘れることは、時として前進を生むかもしれないのだから。


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ひと月


ひと月


僕には、少しずつ医者らしさが戻ってきたのだが、それと同時に
研究者として見た青空の色は、少しずついやどんどんセピア色が混じってくるような気がした。


ひと月


ひと月


しかし
『こんなものだ・・』
と思いながらも、そこには少しずつ少しずつ違った希望も芽生えてくるかもしれない。
青空ではないのだが、セピア色の空も空には違いないのだから。


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今や、月日も数えなくなっている。
そして、そんな時にワシントン再訪の時が訪れた。


僕は、やっと過去から解放されてワシントンの地を踏むことができるような気がしている。


ワシントンの空に、僕のこの1年半の苦闘・苦悩を見てもらおう。
そして、何とかまたもう一度


もう一度歩みだそうと思っているのだ。




以上はフィクションである。



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