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今年の芥川賞が随分話題になっているので、本当に久しぶりに純文学を読む気になった。最近.では5年前?の綿矢りさの「蹴りたい背中」以来だろうか。受賞作「共喰い」は言わずと知れた話題作、と言うより当の作家の面白すぎる受賞コメントの所為で売れに売れているらしい。
家内の買い物にくっついてスーパーの本屋で『文藝春秋』の3月号を買って、そのままベンチで読み始めた。評判の通り筆力は唸らせるものがある。思わず引き込まれて三分の一ほどそこで読んで、家に帰って残りを一気に読んだ。舞台が下関ということで私としては懐かしい山口弁で進む。「それいね≒そうだよ」とか「しちょるそ≒してるの?」と言った類だ。
まだ未読の方が殆どだと思うので、粗筋を披露する訳には行かないが、主人公は高校生。かなり屈折したセックスと暴力、親との葛藤が描かれる。住む町を流れるドブ川やそこに棲む鰻の頭、梅雨時と限らずしばしば登場する蝸牛などが性の隠喩(メタファ)として効果を上げる。
読み進むうちにこれと似た体験を思い出した。もう50年以上前、私の父親の部屋にあった『文藝春秋』に、そのころの話題作「太陽の季節」が載っていた。それを当時小学生の筈の私が読んだとも思えないのだけれど、例の有名なペニスで障子を突き破るシーンは、隠れ読んだ罪悪感と共に未だ鮮明に頭に残っている。
だから、在りもしないことを在った様に錯覚する「デジャヴ」とは少し違うが、読後感は良く似ている。読者諸兄もご存知のように、芥川賞選考委員を今回限りで辞めた石原慎太郎の(最後の)選評も載っている。まさかその所為でデジャヴを味わったとも思えないが、その選評についたタイトルが「自我の衰弱」とあった。
彼(石原慎太郎)が指摘するように、最近の芥川賞に戦慄するような受賞作が無いのかどうか、純文学苦手の私には良く判らない。只同じ若者の性を描いて、片や恵まれた湘南族と、「共喰い」のバックグラウンドの余りにも隔絶した相違。「自我」に限らず日本そのものの衰弱著しい昨今、作家の育った境遇の違いを超えて、文学もまた時代を映す鏡に違いはない。
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