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水鏡、大空へ 〜支流を抱えて〜

「水鏡、大空へ 〜支流を抱えて〜」
 
 
2月7日、上野。BRASHで水鏡(みかがみ)とDaizoによる2MANライブが行われた。真っ直ぐなメッセージを歌い上げ、観客の1人ひとりに手渡しで歌詞を届けるDaizoに対し、水をたたえたような世界にいざなう水鏡。
 本来はライブのレポート、そして水鏡の紹介として書き始めた記事だったが、いつの間にか「出会い」というものへ僕のペンは向かいだした。思えばこの記事も、水鏡のメンバーである謙との出会いから始まったものだったのだ、と手の赴くままに任せてみた。
 これは僕と謙、そして水鏡との出会いに寄せるものだ。それから少しだけ、カモメの話でもある。
 
  *
 
 弦担当の謙と唄担当の馨によるアコースティックユニット水鏡は、2009年4月に、目黒の地で産声をあげた。当初は、別のバンドで活動していた2人のサブプロジェクトだったが、それぞれが母体を失い、同年6月に活動を本格化した。彼らが掲げるのはナチュラルミュージック。これは既存のジャンルを指しているのではなく、謙、そして馨それぞれの自然体から生まれてくる音楽のことだ。先にある道を歩くのではなく、自分たちで草を分けて進んでいくことを選んだ。翌、2011(訂1の6月にはチェリストのまつこが共同演出家として加わることで、生と死というテーマによって綾なされる彼らの音楽にもう一筋の糸が織り込まれた。
 水鏡ではアコースティックギターを構える謙だが、本来はベーシストであり、現在でも数々のバンドでサポートを務めるプロのミュージシャンだ。多くのバンドが生まれ、消えていく、もしかしたらその世界の住人の数よりも多くの生死があるような厳しい流れの中で、彼もまた水面に顔を出し、ずっと呼吸を続けてきた1人だ。
「続けることは難しい」と謙は言う。
 東日本大震災のあと、都内のライブハウスにあったのはひっそりとして冷たい静寂だけだった。あの日、僕は夜が明けるのが恐かった。津波が何を飲み込んだのか、暗闇の底で赤くうごめく炎がたった今何を奪っているのか、見えてしまうからだ。そしてやはり、朝は無情だった。希望を抱かせてくれるはずの「夜明け」という言葉すら、侵されたかのように感じられた。「音楽」という言葉からも何かが損なわれ、何かが加えられたことだろう。「続けることは難しい」という謙の言葉にも、それは例外ではない。
 出会いは1月だった。共通の知人を取材した僕のブログ記事を読んだ謙から、Facebook上でメッセージが送られてきたのがきっかけだ。
「僕とは違った視点から見た彼(共通の知人)が垣間見れてとても面白かったです。こういった感性を持つ人に水鏡を見ていただけたらどういった感想を持つのだろうと興味を持つ自分がいました」
 耳を貸してこなかった、と言えばいいのだろうか。僕にとって音楽とは、遠くで流れる小川のせせらぎのようなもので、どこからか聞こえはするが、その小川の姿をこの目で見たことはなく、小屋の窓をぴたりと閉め切って、幾度となく遮ってきたものだ。だから正直なところ、ライブを観にきてほしいと言われたとき、少しだけ迷った。記者である、という自分の立ち位置からすればこれはもちろん喜ぶべきもので、断る理由などなかった。しかし窓はおろか扉まで開け、外に出て、その小川の姿を目の当たりにする。それはちょっと、怖かった。
 恐る恐る、僕は扉の下のわずかな隙間から挿し入れられた謙からのメッセージに答えた。ゆっくりと扉を開け、遠慮がちにまず顔だけ出し、辺りの様子を確かめた。踏み出す一歩一歩、靴の底に触れる全てが未知の大地だった。僕は謙に手を引かれ、次第に大きくなるせせらぎの音に身を低くして構えた。
 2月7日。ライブハウスの入り口に立ち、とうとう来てしまったな、と思った。ごうごうと激しい音がぶつかってくる。小川どころではない。これほどの音が、窓を閉めただけで聞こえなくなっていたのだと思うと、今まで自分のいた場所が、いかに離れていたかが分かった。そしていかに遠くまで歩いてきたのかを知った。
 ライブの幕が開く。
 先に姿を現したのはDaizoだ。濁流にざぶざぶと分け入り、臆することなく腰上までを洗われるがままにしてみせる。こっちへ来い、と呼ぶ。君たちも入ってこい、と。観客はその声に導かれて次々と、つま先を飛沫の中に差し入れてゆく。簡単だろ、と今度は泳ぎ回ってみせる。岸辺でたたずむ者にも容赦なく、だが屈託なく、大きな両手で水をすくい、浴びせかける。
 なぜだろう。これほど急に見える流れなのに、そこへ入った者に水は優しい。僕はようやく決意を固め、あわよくば膝から下を奪っていこうとする流れの中に、足を浸した。
 「求生」という曲だった。すっと足下の飛沫が静まり返る。穏やかに、ただ自然の高低に滑らかに従うのみの水がそこにあった。
 最後の曲でようやく、僕は身を投じることができたのだ。Daizoは笑顔で岸を去る。
 そこへ一陣の風。はっと顔を上げると、もう一度、風。水鏡の一曲目、「群青の空」だ。謙のギターが上昇気流を生み出す。そこへ頬をなでるように軽く羽を乗せ、体を持ち上げるヴォーカルの馨。空への憧れを隠すことなく、抱きしめられようと、一心に大空を目指す。ふと水が足下で戯れだす。まつこのチェロだ。
 翼を持った人間というのは、いるのだな、と思った。太陽との距離の近さに、その翼が蝋で固めたものなどでないことがすぐに分かる。でも、人間の重さは空に嫌われるだろう。歌声にというか、その羽ばたきには、鳥ではなく人間の姿形をして生まれてきたことのどうしようもなさが滲んでいるような気がした。
 ジョナサン・リヴィングストンは世界一有名なカモメだ。飛ぶ、ということに何よりも焦がれた独りぼっちの飛行家。若かりし日の彼が、えさをついばむ他の仲間たちをよそに飛行の練習を繰り返す姿を、僕は馨を見て思い出した。
 こんな一節がある。
「すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変わりなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった。」(
 人にはない翼を持って生きるのは、地上ではひどく重いだろう。翼を持って生まれたら、羽ばたかずにはいられない。羽ばたく唯一の方法が、馨にとって歌うことそれ以外になく、彼女を大空へと送り届ける風は音楽しかない。彼女は歌い、その歌を乗せる旋律を求めて生きてきたのではないか。
 でもただ飛ぶだけではない。どこかを目指しているように見える。
「鳥のように、飛んでいこうじゃねえっすか」
 7曲目「渡り鳥」の冒頭、馨が呟いた。夜の砂浜で優しく折り畳まれる波の音を、一緒に聴きに行かないか、と誘われた気分だ。低く、落ち着いたメロディーが、誰もいない夜道で僕を砂浜へ導く。波は、遥か彼方からやってくる。その場所へ人が行くには、うんざりするほど幾重にも折り重ねられた手続きを通過しなければならないかもしれないし、どれだけ悪意のない笑顔を見せたとしても銃口を向けられる覚悟が必要かもしれない。でも鳥はそんなものは必要なしに、生への本能ゆえにただ渡ってゆくし、その場所も通ることができる。夜という闇に輪郭を解かされ、どこまでも、何もかも続いているように見える彼方を指差して、そこへいこうよ、と馨は夜の砂浜でささやき続けた。地上の線を、空にすら存在する線を、人も越えていこうよ、と。
 Daizoが再び川の中へ飛び込んでくる。
 水鏡とDaizoのセッション、ライブの終焉を飾る「終わらない旅」が、僕らに新たな道を開く。それは帰り道でも何でもなく、水の流れる先であり、波のやってくる世界のどこかにある場所へと続く。歩き出そうと足を上げると、蹴った川面にできた波紋につられ、僕はついそこに映った自分の顔を覗き込んだ。
 その時に知った。僕の中にはもうすでに、音楽が流れているのだということを。小屋の中に閉じこもり、窓を閉め切っていたのが嘘のようだ。川が、僕の中にも一筋、支流を与えた。僕という人間に、何かが加えられたように感じた。僕はもうこの川の支流を失くしては語れない存在になってしまったのだ。
「水鏡を見ていただけたらどういった感想を持つのだろうと興味を持つ自分がいました」
 謙の言葉が蘇る。彼は水鏡に新たな意味を欲していたのかもしれない。いや、僕がそれを付与できるとか、新たに意味を書き換える、あるいは何かを損なわせるなどということができるとは思っていない。当事者である彼らのいる場所から、少し角度を変えたところで眺めるのが、今回僕に与えられた役目だった。あの日以降、塗り替えられてしまった「音楽」というものとこれからどう向き合っていくべきか、そして水鏡はどう答えていくべきか、どうあればいいのか、何か、塗り替えられた世界で、新しく自分たちが意味するものを彼らも探しているように感じられた。だからこの記事は、僕なりの「水鏡」への参加だ。閉め切っていた扉の下のわずかな隙間に、謙がメッセージを挿し入れてきたのと同じような意味で。
 水鏡の音楽を聴いたことによって僕が自身の中に支流を得たように、これを書くことによって「水鏡」の中にこれまでとは違う何かを一瞬でもかすめさせることができたら、と思う。「水鏡」は僕を内包し、さらに僕の抱える支流をも一緒に、その中に含むことになる。それはきっと目に見えないし、耳をすませても聞こえてこないものだが、確かにそこにある。同じように、ライブを観た翌日からの僕が目に見えて変わったということもない。けれど確かに僕の中には支流が存在し、水をたたえている。
 水鏡はまだあの夜の砂浜で、遠く海の彼方を指差して、あそこに行こうよ、と言っているにとどまる。謙はとにかく馨を大空へ送ろうとするし、馨は高く高く舞い上がろうとする。羽の動かし方を1つ間違えれば、上空で安定を失ったジョナサンのように、硬い水面へと真っ逆さまに墜落しかねない。まつこはそんな2人を少しなだめるかのように、そして失速しないよう、航路を引いていく。周囲はその危うい飛行練習を嘲るかもしれないし、理解しようとすらしないかもしれない。だがいつかその砂浜を離れ、水鏡は大空から、地上の線を越える。線の向こうの地に降り立ち、そこでまた奏でる時、その地に新たな意味を加え、塗り替えるだろう。
 
 *
 
 新たなものに出会い、そこから流れを分けてもらう。分けてもらった支流を抱え、育んでいく。時には予期せぬ激流をくらうだろうし、全く無意識のうちに突然自分の中に注ぎ込まれていることもあるだろう。あるいは他の支流を飲み込んで、氾濫を起こすことがあるかもしれない。そういった不安を隠しながら、僕らはあらゆる本流へと足を運び続ける。謙と顔を合わせていたのは2日間の内のほんの数時間だ。けれど確かに謙という、そして水鏡という本流から支流をもらった。それはこちらへ流れてくるものだし、逆にあちらへも流れていく。たどれば必ず、いつでも彼らに合流できる。
 出会いとはそういうことだと思う。人々はそれを繰り返し、いずれお互いに、合流しあう。
 僕は彼らと出会った日からずっと、その支流のせせらぎに耳を澄ませている。窓も少し、開けている。
 
 
 リチャード・バック『かもめのジョナサン』(訳・五木寛之、新潮社)
 
1 2010年となっていたのを正しく修正致しました。失礼致しました。
 
(文・角田敏康)
 
 
   
【水鏡 LIVE SCHEDULE
 
 3月7日 上野 BRASH
 3月13日 新宿 OREBAKO
 3月26日 目黒 LIVE STATION
 3月27日 伏見 HEART LAND
 
 4月14日 町田 Play House
 4月17日 高田馬場 四谷天窓
 4月21日 池袋 CYBER
 4月24日 西天満 D'
 4月25日 伏見 HEART LAND
 
★6月25日 目黒 LIVE STATION
            3rd ONE MAN『遊鏡』
 

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かもめのジョナサン すばらしい

2012/3/8(木) 午前 7:30 [ IZANAGI ]

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IZANAGIさん
どうもありがとうございます。

2012/3/8(木) 午後 5:46 [ Tsuno Toshi ]

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