我が心の旅

ようこそ、月日は百代の過客なり、思うように自分の人生をあるいてみたい。

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歴史回顧

2010年8月毎日暑い日が続く。
朝起きて静岡新聞に連載の小説「3人の二代目」を1番に読む。
堺屋太一の書いた時代小説で現在山崎の合戦が終わり羽柴秀吉が天下取りに乗り出す件である。
山崎の合戦とは天正10年、1582年主君信長を本能寺に討った明智光秀と急変を知った秀吉の中国大返しのにより京都の山崎の地で戦った大戦である。
織田軍団一の教養人、知識人である明智が信長を討った理由は真実諸説があって藪の中。
天才でありカリスマ信長を倒し旧体制へ復帰を図ろうとした彼の誤算は娘婿の細川忠興と過って恩を売った大和守護筒井順慶等に参陣を拒否されたことにある。
大阪以西から織田に敵対した毛利領国までの大名が全て秀吉側についたのは細川、筒井氏の離反が効いたのだろう。弔い合戦を旗印にする秀吉軍には大儀があり、時代の流れに長けた策謀家として知られる細川親子の明智不支持が秀吉軍有利との世論をリードしたのであろう。
忠興の妻で光秀の娘お玉が救いをキリスト教に見出したのもむべなるかなと思う。
 
キリスト教に寛容な信長から神仏尊崇の念厚い光秀への宗教政策への恐れからか秀吉軍の左翼に参戦したクリスチャン大名高山右近等の勇戦と4万を数える大群に包囲された光秀軍1万6千はあっけなく破れ光秀自身近江坂本へ落ち延びる途中土民の手にかかり哀れ最後を遂げその首は三条が原に晒された。
 
歴史回顧は面白く悲しい。
信長、秀吉の為に武功を上げながらも戦国領主の栄光よりも信仰に生き後年日本を離れた高山右近、夫忠興の関が原での東軍支持が原因となり信に背かざるを得なかったガラシャ婦人お玉の自刃、近江坂本の西教寺にある光秀の墓(供養塔と称されているが)を囲む一族郎党の多くの墓石群を見ていると人は何のために戦うのだろうかと悲しい気持ちとなる。
 
 

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