2011年年末の二つのドラマ
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2011年年末にNHKとTBSから二つのドラマが放送された。
一つは「坂の上の雲 最終偏」今一つは「99年の愛 Japanese Americans」である。
坂の上の雲は司馬遼太郎原作、99年は橋田寿賀子である。
貧しかった極東の小国日本が西洋列強の圧迫を避けながらその生存の生命線ともいうべき朝鮮半島や中国東北部の政治、経済、軍事の覇権をロシアと争った経緯を描き、99年の愛はアメリカの日系人の苦難の歴史を描いた力作であった。
テレビドラマとはいえその映像技術は見るものをして及第点を与えられるものであり殊にドラマに余り金を掛けない(?)NHKにしては日本海海戦のシーンは迫力と臨場感があった。
99年の愛はシアトル近郊の美しい田園やダウンタウンの風景描写に演出者の力量が現れた作品として飽きることが無く鑑賞する事ができた。
少し時代が異なる二作品ではあるが白人至上主義の人種差別の壁を如何に日本人がブレイクスルーしたのかと言う点に於いて底流はつながっている。しかもその偏見の破り方が戦争という武力をもってしか出来なかった事が残念であるが「人類の歴史は戦争の歴史である」という一つの視点から見れば仕方が無い流れではあったのだろう。
帝政ロシアの植民地獲得は他の列強の後塵を拝した為に強烈で一気に中国満州の地、朝鮮半島の地を奪い取ろうと動き出し結果、日本との全面戦争となった。
ロシアの敗因は幾多あろうが自らの後進性を気づかないまま彼らが東洋の猿と呼んだ日本人への蔑視と合理性に欠ける単純な優越感を持ち続けたからであろう。
片やアメリカがJapと蔑んだ日本人への差別の始まりは自国の近代化の為数多くの中国人や日本人の移民を受入ながら日露戦争後のアジアに於ける自国権益の擁護から反日に向かう世論を形成し始めた政策よってであろう。
国家としての日本は近代という新しい時代の世界国家の成立の代償として近代のあらゆる防御を施した旅順要塞の新兵器、機関砲の血の洗礼を受けた。
この旅順攻撃戦に参加した4万とも5万とも言われる名も無い庶民の多くは近代とは何か、または近代の持つ残虐性の何ものも知らないまま散華していった。
国力を超えた軍事費の重圧に喘いだ日本、殊に農村は極貧であった。軍需産業しか無いとも言える日本にはその様な極貧層を救う手立てが無く移民を奨励した。
国家が余剰対策として奨励した移民政策にのった日系人は近代国家建設を急ぐアメリカの地へまるで山野に打ち捨てられた様に単純労働者として送り出された。棄民同然の彼らには日本国の保護も無く、かの地では基本的人権すら認められない偏見の中で辛酸を舐めるのである。
近代というグローバルな世界が明けると同時に近代という野に放たれた日本人、日系人は先見無しに差別という
機関砲に曝されたのである。
近代国家の象徴、基本的人権を日系アメリカ人でありながら獲得出来なかった彼らはそんな屈辱的状況を打破すべく祖国日本との対決も辞さず戦役へ志願して行った。彼らは傭兵的屈辱に甘んじながらも442連隊としてヨーロッパ戦線での勇戦と多大な人的損害を払うことで漸くその権利を獲得したのである。
世界戦争や地域紛争の原因は市場、資源の争奪という経済的対立、宗教文化の対立と幾つもの要因があるがその底には人種偏見や差別の人間のおぞましい本性がある。先に述べた日露戦争やアメリカに於ける人種抗争もこの例に漏れない。
近代は中世の宗教律から開放された人間理性に本ずく人間主義の時代と言われる。しかし理性が解決出来ない生存本能に本ずく諸問題は未だ解決出来ずにいる。この現象は現代世界を見れば明らかである。
科学に根ざし人間開放をうたった人間主義も新しい人類の思想にとって変わらねばならない。
近代から続く今後の後近代(ポストモダン)は如何にあるべきか真剣に考えずにはいられない現代の喫緊の課題である。
そんな事を考えながらこの見ごたえある作品を鑑賞した。
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