掛迫古墳の謎
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掛迫古墳の謎
終戦後間もない頃のことという。小学生が山道を通って帰宅していると、小山のてっぺんに近い平らなところに穴があいていて、中をのぞくと径25センチほどの、土瓶の蓋のようなものが見えた。取り上げて見ると、ピカピカに磨かれた丸い銅版で裏に何やら怪奇な模様が描かれている。気持ち悪くなった小学生はその銅版をそばに放り投げて家路に急いだ。備後南部の代表的な前期古墳として有名な掛迫古墳(福山市駅家町法成寺)の発見だ。
手紙に添えられていた図
この銅版は「三角縁神獣鏡」と言って、古い古墳から出土する銅鏡であった。丁度その頃、この種の鏡は全国の考古学者の注目を集めていた。邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝からプレゼントされた「銅鏡百枚」こそ、三角縁神獣鏡に違いない…。
掛迫古墳の銅鏡はその後人手に渡り、世間に知れ渡った。当時府中高校で歴史を教えていた豊元国氏は、この銅鏡を研究するには古墳の発掘が必要と、調査に乗り出した。昭和29年夏、豊氏を中心に「掛迫古墳調査団」が組織され、真夏の太陽の照りつける中、発掘が行なわれた。人々の関心も高く、連日見学者で賑わい、登り口には屋台の店が並んだという。
掛迫古墳とRCCのお姉さん
調査の成果は、『芸備文化第5.6合併号』に「備後掛迫古墳」として発表された。それによると、この古墳は全長46メートルの前方後円墳で、後円部に2基の竪穴式石室があり、中央石室からは人骨とダ竜鏡が出土し、三角縁神獣鏡が副葬されていたのは、その南側の石室であることが判明した。
ここから長い論争がはじまった。掛迫古墳は、前方後円墳とは言っても、形を確認できる埴輪や葺石といった外部施設はなく、自然の隆起を利用して築かれた古墳であった。見方によっては「円墳」にも見える。昭和38年刊の『福山市史』上巻で「?」が付き、昭和57年刊の『広島県大百科事典』では遂に「円墳」として紹介された。
掛迫古墳の実測図
円墳と前方後円墳では古墳の位置付けが全く違う。前方後円墳の方が、「格」がずっと上である。学者は掛迫古墳が円墳であることを理由に、備後南部はこの時代「吉備」の支配下にあったと主張した。
平成7.8年に実施した、備陽史探訪の会の測量調査はこの論争に決着をつけるためのものだった。「歴史は市民の手で」をスローガンに、調査は毎回多くの人々の協力を得て行なわれ、大きな成果を収めた。
我々の出した結論は「掛迫古墳は前方後円墳」である。学者がこの結論をどう受けとめるか、見物である。 |




