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鎌倉幕府成立の歴史的意義

※参考文献
1.シリーズ歴史教科書の常識をくつがえす 徹底検証 「新しい歴史教科書」東アジア・
  境界域・天皇制・女性史・社会史の観点から 川瀬健一 第2編中世編 同時代社 
  2006
2.新版古文書学入門 佐藤進一著 法政大学出版局 2003
3.鎌倉幕府成立史の研究 川合康著 校倉書房 2004
4.石井進著作集第2巻 鎌倉幕府論 岩波書店 2004
5.鎌倉幕府と中世国家 古澤直人著 校倉書房 1991
6.中世仏教と鎌倉幕府 佐々木馨著 吉川弘文館 1997
7.日本中世の成立と鎌倉幕府の成立 上杉和彦 歴史評論 1996
8.鎌倉幕府の成立と守護制度 大饗亮 岡山大学法経学会雑誌 16(2)  1966
 一般に歴史教科書では、「鎌倉幕府の成立」は「武士が政治全般の実権」を握ったという意味での「武家政治の始まり」であって、故に「中世の始まり」であるとの評価を受けている。しかし、鎌倉幕府は本当に武家政治の端緒と言えるのであろうか?本論では鎌倉幕府成立の歴史的意義を、主に国家権力に及ぼした影響との関連から論じることにしたい。
 ここでまず、確認しなければならないのは鎌倉幕府が国家権力において、朝廷側・幕府側からどのように位置付けられていたのか、という問題であるが、1にあるように、これは慈円の『愚管抄』の執筆態度とも大きく関わっている。即ち、『愚管抄』とは「天皇家と貴族政治の歴史的由来を紐解くことを通じて、幕府と王朝国家との共存を説いた」ものであり、保元の乱以降、「末法の世である現代は『政治を行うに暴力をもってするしかない』時代」であって、源平二氏に代表される「暴力を生業とする」武者を「活用しないでは天皇・貴族の政治も立ち行かない」時代なのであった。従って、この慈円の考えは「政治全般を幕府=武士に任せる」という考えとは程遠いものであり、幕府は「天皇を頂点とした王朝国家と対立するものではなく」、寧ろ王朝国家から軍事的検断権を任され、天皇の下で朝家=国の安泰を図る任務を帯びた機関として補完的に認識されていたのであった。そしてこの認識は慈円に限られたものではなく、多くの貴族にも共通した認識であると同時に、「軍事部門を司る有力貴族」から派生した源氏将軍、有力御家人等棟梁格の武士にとっても共通した自覚的認識なのだった。
 これは無論、政権の意識上の問題に止まらず、実際の体制上・政権運営にもこの傾向は顕著に現れている。即ち、1に述べるように、鎌倉幕府は「将軍の家政を司る私的な機関にすぎず、それが実効的に権力を及ぼせるのは、実質的に治承・寿永の乱で横領し、源頼朝が知行国主となった将軍御料地としての関八州と奥州だけ」であって、実質全国を支配していたのは都の朝廷なのであった。
 この記述の論拠は以下の3点に集約できる。第一に、守護・地頭制の適応範囲と権限の特色が鎌倉幕府の地方政権性を如実に物語っている。つまり、適応範囲において、1185年時点の地頭設置は平氏支配の荘園・公領に止まり、それ以外の天皇・院・皇族・貴族支配の荘園・公領には及ばなかった上、さらに1186年10月には天皇・朝廷からの不満・圧力で、現在の謀反人、源義経・源行家領以外での地頭は停止となり、また1189年の奥州藤原氏滅亡に際しても、奥州藤原氏支配の荘園・公領が新たに加えられたにすぎなかった。一方の権限においても、幕府の実行支配の及ぶ東国であれ、そもそもその支配の根拠は貴族としての将軍を任命した朝廷の承認する知行国の範囲内のものであって、守護は軍事・警察の治安維持が、地頭は治安維持と文字通り税を集めるという徴税が、幕府がこれを恒久的に認めさせようとしていたにせよ、朝廷からは臨時の職分として元来承認されたにすぎない。即ち、幕府・朝廷はそれぞれ箱根を境界として東西に、二元的な地方支配体制を確立していたのだった。
 第二に、源頼朝の政権運営の方向性が、互いの勢力を侵食し合う対立した性格を持つ王朝国家と幕府の融和に向かっていたということが挙げられる。即ち、源頼朝は「関東武士の棟梁として彼らの多くを家人として従え、鎌倉にあって彼らの利益を朝廷との関係で保護してきた」という意識的な武人的性格を持つ一方で、王朝国家の長、後白河に直属する軍事組織の長として振る舞い、朝廷との折衝時には貴族の牙城である太政官を超えて、後白河と直接交渉する、或いは貴族の上部層の意向を汲みつつも、自分の意向を彼らを通じて朝廷の決定に反映させようと交渉する、さらに都の貴族を腹心化して、朝廷との折衝に当たるという王族の武門貴族的性格を持った。
 第三に、鎌倉幕府の文書様式も、幕府の貴族政権的性格を明示的に裏付けている。即ち、2で述べられるように、源頼朝が政権運営の為に用いた文書が、下文・御教書系統の公家様文書とその折衷とも言うべき下知状以外のものではなかったことは、「この武家政権が政治的にも経済的にも京都の朝廷・貴族から分離し、独立して存続しうる条件をもたず、ことにこの政権の中核を形づくる頼朝以下の武士上層部が京都文化の追従者であって、未だ彼らの間になんら独自の文化を形成しえなかった」ということに他ならないのである。
 さて、このように貴族的性格と武人的性格の共存する鎌倉幕府は、従来の王朝国家の体制下にその存在を承認され、私権行使機関から徐々に勢力を強めて二元的国家権力を樹立していくことになるのだが、学説史としては専ら王朝国家から鎌倉幕府への公権移譲に歴史的意義を重視して、公武交渉の過程を詳細に検討する鎌倉幕府成立史の議論が展開されてきた。
 即ち、3によれば、まず「鎌倉幕府を原則的に公家政権下の軍事権門と理解する」上横手雅敬氏の国家公権との接触や朝廷による保障・承認が、「律令国家やその変質した王朝国家を否定することなく、旧国家体制が健全な状態で、それと深い関係をもちつつ幕府が成立」したという特殊事情から、幕府の本質的条件として主張されていることが紹介され、これが「1980年代前半までの鎌倉幕府の成立をめぐる通俗的理解を示すものであり、現在でもなお多くの支持を獲得している見解」であることが示される。そしてその一方、幕府を東国の辺境に生まれた「中世国家の第二の型」と主張する佐藤進一氏においても、戦前の牧健二氏の「委任制封建制度」論の視角を積極的に継承して、権門体制論と東国国家論の視点を共に含む、公権との接触という観点からの東国政権としての鎌倉幕府成立論が唱えられており、この議論が権門体制論・東国国家論問わず、通説化したことが指摘されるのだった。この牧氏の議論は平安期に局限的・慣習的に行われたにすぎなかった封建制度の起源が、一転して統治権に接触し、国家及び社会の基礎制度となり得る為には、源頼朝は朝廷から「諸国守護権」を委任される必要があり、微力な私権に対して国土を処分し得る無限の主権を存する王権を借りることに依ってのみ、合法的に大改革を成就し得たというものだが、これは執筆当時の時代状況を色濃く反映し、武家政権の成立と国体の特色を如何に矛盾なく理解するかという問題に着眼点があった。3はこの戦前のイデオロギー的な研究枠組みが戦後も鎌倉期の国家秩序の分析に適合的であると捉えられた理由を、そもそも先述『愚管抄』のように中世に遡る伝統的発想が起源であることに原因があると考えているが、それ故に「中世社会の歴史認識に歴史学が規定された側面」が否定的に指摘され、石井進氏の言説を参照して、「国家権力の問題がもっとも典型的に提起されるこのような歴史的時期の研究が、公権対私権という形式的・抽象的な概念によって処理されてきたために、内容的歴史的研究がおろそかにされてきた」という状況が現在も克服されていないことを問題視するのであった。つまり、公権委譲論という大きな枠組みの中で捨象される具体的な歴史事実に目を向けることが提起されると同時に、この説を支える中世の歴史認識が研究対象として未だ客観化されていないこと自体も暗に示唆されているのである。なお、5でも牧氏の議論が、「以後の封建制論・幕府論に決定的影響を与えた」ものとして注目されているが、それ故に皇国史観・皇国史学がその影を落としている1930年代の時代背景を念頭に置いて、この学説自体が批判的に再検討されるべきだと主張されている。即ち、「委任制封建制度」論は意図的に天皇・朝廷を持ち上げる過大評価的な喧伝材料としても活用できるという観点からの見直しがここに問われているのである。
 こうした公権委譲論見直し論の流れに沿った研究として、例えば、3の第6章「武家の天皇観」では、「鎌倉時代を古代的な貴族政権と封建的な武士政権と見なすかつての研究史段階でも」、独立的な東国武士を統率する幕府権力自体の矛盾に、幕府の朝廷への忠節=隷属が読み解かれているし、また「幕府を公家政権下の軍事権門と見なすその後の研究動向」でも、尚更こうした側面が強調されるといったように、従来の学説史では「天皇尊崇」という幕府の保守性だけが強調されていて、事実単なる社交辞令でなく天皇・朝廷を尊重する態度を取ったし、室町幕府成立段階でも、武家は天皇・朝廷の権威を否定しなかったのであるが、それと同時に幕府の政治的成長に見合って、徐々に朝廷を強い干渉下に置いたのも事実であって、それに応じた天皇観が武士社会には生み出されていったのであり、それの武家首長の正当性に係る武士社会の集団的特質と幕府の「謀反人」「朝敵」を巡る軍事行動という現実の政治過程との関連からの考察から、結論として「天皇を頂点とする身分序列の観念からは相対的に自立した」、武家の正統イデオロギーとしての源氏将軍観が提出されるのであった。
 また、6でも「権門体制論」に立脚した黒田俊雄氏の「顕密体制」論における公武同一の宗教政策の見解が、永原慶二氏や佐藤進一氏の指摘を端緒に問い直され、幕府は「禅密主義」的な宗教施策によって独自の宗教的祭祀権を創出しつつ、同時に独自の国家権力の創出・整備を推し進めていたと結論付けられている。これらの研究は公権委譲論に基づく研究の隙間を埋めると同時に、公権委譲論の枠組み自体を問い直す画期的な研究の一つと位置付けて差し支えないであろう。従って、今日の鎌倉幕府の国家権力を巡る研究は、朝廷・幕府の二元的政権を前提としながらも、如何に公権委譲論に囚われない幕府の独自性を見い出していくかということに焦点が当てられているのであった。その意味では鎌倉幕府に武家政権の端緒とみなす動向が高まっているとも言えなくはないが、それは公家政権から武家政権への過渡期の中で幕府がどのように朝廷と対抗していったのかを示すものであって、教科書的な幕府一元論とはその性質を異にしている。

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