ウニモグとランクルに工作機械2

明るい癌患者とその家族を目指します。

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ご挨拶

2017.2.20追記

49日法要も無事終了し、少しづつ日常になってきました。


お問い合わせがあったオリジナル商品の販売についてですが
製造先の社長さまから 是非ディーリアライズとして販売窓口を継続して欲しいとの
お言葉を頂きました。

修理整備は今後も出来ませんが オリジナル商品の販売は希望があれば続けます。
メールにてお問い合わせいただければと思います。


PCの整理をしているとメモ帳に最終更新日が10/5となっている【ごあいさつ文】がありました。

葬儀時のあいさつ文まで、用意していたなんて最後まで本人らしい・・・






本日はお忙しい中、私坂本勇次の葬儀にお集まりくださいまして、誠にありがとうございます。

本来であれば、葬儀委員長などがご挨拶すべきところですが、硬苦しい挨拶は抜きにして

55年間の簡単な生き様などを、ご紹介いたします。


生まれながらにして、音楽と分解と言う事が好きでやっと買ってもらったハーモニカーや手元のあった時計を分解し

目の前にあるネジのついた形あるものを分解し、二度と組めない状態で放置するのが常でした。

時計などを分解していると、ゼンマイが気になりはするものの、伸ばして終わりの壊しやでした。

もう少し学が付くと、モーターと電池になり、さらに進化してUコン、ワイヤー2本でつながった

模型飛行機へと発展し一回しか開催されなかった「室蘭Uコン大会」で3位になり、この小学校高学年時代は

バルサと模型エンジンに明け暮れていました。


中学校に入ると、女生徒の一番多い、ブラスバンドに入部しりましたが目的が多少不順でしたので苦労を重ねました。

3年生の時には港北中学校初の全道大会で金賞を取ることがでこの時の曲が。

チャイコフスキー、第9番、新世界から第一楽章で、ファーストトランペットでしたが

この頃既に、オートバイと言う乗り物に密かに引かれ、顧問の高木先生によ〜く拳固をもらった良い記憶がございます。

この時の全道大会でナンパしたのが女房の都志子で、以後文通で愛を育んで、少ない小遣いを貯めて中学卒業後に

合いにいった思い出もあり、まだケツも真っ青で心は真っ白の純情少年。


その後は、高校は今は無き室蘭大谷高校にラッパ吹きとして入り、今では考えられないようなスパルタ教育を受け

入学1週間目で頭は丸坊主にされ、唇以外ボコボコに顧問の児玉先生に殴られました。

原因は私の喫煙でしたが、その後当時の高校生のたしなみとして例外なく過ごしていましたが

その都度ボコボコになりましたが、停学はありませんでした。

当時は、横一列に整列し先輩方の憎しみを込めた、鉄拳がほほにめり込みましたが、全体が『コンナもんだ』でしたので

『殴る方の手が痛いだろうな』と心配するのがせいぜいでしたね。


当時トランペットを吹いていても怖いものは無く、全国大会に出上した時の練習場である東京音楽大学生の前で

『どうだ、お前らよりうまいべ』とハイドンの協奏曲を吹いていたら、数か月後に推薦枠で『来ないか』と言う事になりました。

暫くはそのつもりでしたが、オートバイの免許をすでに取得していて、通学はマメタンカスタムで通学し

3年生の夏休みに入ったその夕方に、事故を起こして私のラッパ人生は終焉いたしました。


好きなオートバイでラッパ時代が終わったのでその後は、北海道自動車短大へと進み

整備の道まっしぐらですが、卒業時には女房の腹の中には長男がやどり、教授がト○コの本社の就職を進めてくれましたが

大事な大事な腹の子のこともあり何事もなく道○プリンスに入社し

のちに旭川日○自動車に転職し、女房の実家のある名寄支店に配属されたのですが、周りは大自然の真っただ中

当然川釣りを覚え、イトウを追いかけまわし1時間半も走ればオホーツク海で出て、遊漁船でイシモチ、クロガシラカレイ

などのの釣りを覚えてから、今度はUターンで地元の鷲別○ラ自動車日入社させて頂き、トラックやクレーンの整備に

基本的な溶接や鍛冶屋仕事に油圧を学びましたが、個性的な工場長とは意見の対立が多く、学べることを学ばせて頂いき

その、ストレス解消として、M蘭釣具に入りびたり、現在の釣り仲間と意気投合したのがこの頃で、どこそこの社長も工員も

日雇いもプータロウも上下の関係なく、単に釣りの話で一日が盛り上がっていた時代です。

仕事の技術も大いに覚えた頃ですが、それ以上に人との付き合い方を学ばせて頂いた環境だったと思います。

生活はど貧乏の絶頂期で、女房にはこの頃より迷惑をかけっぱなしでしたが、やっと今(2016)解放されたかと思います。

この頃はザビエル、磯太郎氏を含めた釣行が多く、独身のザビエルは弁当すら持参することなく菓子パンだけだったので

女房が気を効かせて、沢山のおにぎりとおかずを持たせてくれたのですが、なんとザビエルが女房の手料理を食って

『塩味が足りない味が薄い、うまくねぇ〜』と大胆発言、女房も『安い給料から他人の分も作ってやってんだ、それならくぅ〜な』

このおにぎりしょっぱくない事件は未だに尾が引いてます。

丁度そのころ、欠員が出来た○菱ふそうの請負業の話も合ったのですが、町工場から大型ディーラーの請負となると

一抹の不安もありましたが、何せ27歳の時で『やればやるだけ自分の稼ぎになる』この一言につられ

始めることにしたのですが、当時は重整備は外注作業が主で、エンジン、ミッションデフ周りに、鍛冶屋と油圧ができる

私のことをとても重宝がられて、当時は理解力にある課長やフロントに恵まれて、寝ないで稼いでも終わらない仕事量を頂、

セレブ風味な生活を送ることがようやく叶いだし、稼いだ給料は工具や機械などに化けて、未だに女房や子供たちに

楽な生活はさせてやれずにいましたが、三年も過ぎた頃には、回転寿司にいっても皿の色を気にすることなく

寿司を腹いっぱい食べることができるようになり、少しは楽な生活をさせてあげられるようになり、家長らしく鼻高々

な生活を暫し送っていました。

丁度そのころ請負先で人事異動があり、整備課長が他店より来てその整備課長が作業伝票の調査までして

「社長より給料が良いのは変だ」と言うことになりましたが、無理難題な仕事を振ってくるのは会社側ですが

難癖つけてきやがり、『俺はお前や社長より現場技術があるんだこのカス課長』と心の中で叫んでいましたが

仕事を振ってくるのは、整備フロント側なので,何もなくその課長は以後左遷されました。

仕事では回転率が物を言うディーラの仕事内容、それも3月になると当然私の処には回転率の上がる、高効率の車検整備が多く,回され

ごく一部の一般社員や同じ請負業者の中では面と向かっての不満は言ってこないのですが、村八分になり、その首謀者は今でも

どこに行っても、半端者で通用しています。妬みは人を育てることは出来ないのになと、可哀想になります。

あいにく、仕事以外でも友人は山ほどいるので、尚更釣りに傾倒していくのでありました。


請負時代には、課長や取引先の社長とで「釣蘭会」(つらんかい)と言うクラブを立ち上げて親睦を深める一方

M蘭釣具を軸としたメンバーで川に海へと現老人グループを引き連れて釣行行脚しておりました。

釣具の社長は景気の良くなった、メンバーの動向を良く見いてルアーや仕掛け類は箱買いさせ、ロッドにリール定期的には社長の指定品

長老連中には海外遠征に連れまわし、その都度道具を新調させていましたが、道具の中には『バイアグラ』もあったはずです。


長老連中の中には政治団体を結成して、選挙に打って出る勢いの仲間もいましたが、その党名が悪かった

『非国民党』これだもの・・・・

みんなで、サケの跳ねを円陣に囲んでキャスティングしていると、真ん中の、今正に跳ねている場所に

『どこで釣れているんだ〜』と円陣の真ん中に船を入れて様子を伺う、それこそ『非国民』のK林工務店社長であった。


それ以後『非国民党代表K林』になり、なにがあっても逆らわず、党名が免罪符になっています。

党員は一名で室蘭焼き鳥発祥点『K昔』店主だけなので政治参加にはならなかったようです。


この焼き鳥屋『K昔』とは35年の付き合いで、35年以上前には腹巻に札束を巻き付けて

夜の中島を『したっけな』を連発しながら飲み歩いた挙句、今の腹巻にはハナカミしか入っていないのが現状です。


私、磯太郎、ザビエルが釣りに行く時には必ず「K昔」も付いてきて、本人は運転免許がないので、店まで迎えに行き

釣った魚は夜の営業に間に合うように本人共々店に送り届け、新鮮な魚を提供していました。

本人は気を使ったのでしょうか、いく度に若鳥の空揚げや、焼き鳥をパックに入れて持ってきてくれたので

『そんなに気を使うな』と大人の挨拶をした処、3度目からは何も持ってこずに当たり前のように自分のビールだけ

持ってくるようになった、船を出すのも降ろすのも一番いい席に座ってビールを飲んでいるだけ

こうなると、もともと上下関係の無い集まりなので、ザビエルと共同で大人のいじめ放題

釣りをしていると、最初は優しく口元につまみを運び入れ、ビールが切れたら新しい缶をあけてやり

至れり尽くせりの釣りを満喫させてあげていた。


本人の「K昔」も殿様気分のようで大満足そうだったので、口に運ぶツマミを釣り餌の腐ったサンマに変えて入れると

モグモグした処で『おぇ〜〜』と戻し、口直しのビールを慌てて口に含むも、ビールに中には

ホタテのウロの『汁』が入っており、今度は『ゲェ〜〜』と、目から涙を流して喜んでいました。

「K昔」とザビエル、磯太郎でサケ釣りにもよく行きましたが、「K昔」が目当てのメスがなかなか釣れず

やっと釣れたメスがもう腹からポロポロとイクラがこぼれ勿体なかったので、『イクラどんぶり好きか』と聞くと

『大好き』とのことでしたので、パンチパーマの頭のてっぺんにこぼれ落ちたイクラを擦り込んでやり

『のりとイクラ丼』の出来上がりでこぼれ落ちるイクラを無駄にせず、ぎりぎりまで釣りをしていたのでをのまま店に立ちました。

この時代は25年前ぐらいだろうかな、当時どこに行くのもトレーラー軍団で隊列を組んで、日本海やオホーツク海と

好き勝手に釣りに行けた時代です。

その後、請負と自社工場併用で55歳までは現役請負で行けると思っていたが、頑張りすぎた請負業で二度の痔になり、37歳で

自社一本に絞り付き合いの幅に、取引業者の拡大を進め、当時チューニングメーカー最大手の○KSとトラ○トと

お付き合いすることになり、特にH○Sさんとでは、開発課との直接の付き合いをして、色々な商品を

世にリリースするお付き合いをさせて頂きましたが、改造チューニング事態が落ち目になり、人員の配置換えやリストラにより

疎遠になっていったこともあり、ト○ストとでは社長が訪問され諸事情全般のお話しができ、本来の整備工場に戻る

きっかけになりました。

N産自動車時代に8ビットECUの基本を勉強して、フルコンにサブコンで5ボルト制御のイロハを学び

スズキのアルトワークスF6Aエンジンに日産のR32GTRのクラン角センサーを組み込み

3気筒エンジンを細かく6気筒制御して遊び、当時H○Sの電子開発課、佐○さんが自分のカプチーノに

欲しがっていましたね。

これはヤフオクで一応出品したのですが、なんとナント落札した人がいてびっくりしました。

点火を排気工程で入れたり5度ほどずらして点火させたりでは、ノーマルのコイルが持ちませんでした。

GTRのRB26をさわっているより楽しかったです。

この時代にディーゼルの0〜400にはまり、ランドクルーザー80で『12.173秒』が公式記録です。

11秒台突入はトランスミッションのメインシャフトの限界で公式的には未達成で終わっています。

13秒台には400馬力代が必要で12秒台には500馬力代が必要でした。

ランクル60で出した13秒台では、375馬力でした。

これは実測値で、後付の不確かなメーターでの計測でありません



当時はイケイケバンバンで、何が来ても恐い物無し、修理書があれば何でも可能と、体力も気力も満タンな時代でした。
整備士としては、一番チャレンジ精神旺盛な時季で色んな知識を吸収できた時代だと思います。


遅い紹介になりましたが、独立のきっかけは名古屋の『AESワ○ナベ』さんが4WD業界との橋渡しをしてくれたのですが

ものすごく狭い異世界で、羽根布団売りや八百屋さんに保険屋さんなど、どなたでもがショップさんを開業した

バブル時代でして、さんざんな目にあいましたが、きっかけを作ってくれた渡辺さんや斉○オートサービスの社長には感謝しております。

この時代には4WD業界では『坂本はエンジン屋で4WDの何もできない半端な奴』と思われていたようですが

能ある鷹は爪を隠すんですよ!俺の基本は一般整備士ですから!


その後工場を移転して一般整備工場として運営していくにあたり、整備機器も道具も、一般的な工場では全く不必要な機械ばかり集め、

たぶん一般的な整備工場では日本有数の設備だと少し自惚れ気味ですが、どんなに良い道具達も

あっただけではゴミに鉄くずであり、それを使いこなしてナンボのもんだと思いますので、道具に使われるか使うかので日々格闘

そのお陰で、多種多様な修理品目が出来るようになり、修理の裾野を広げていくことが可能になり、仕事も順調に回りだせば

貯金より『道具』でした。

しかし、悲しいかな信じられるのは自分の10本の指と2本の腕だけでして、これが良かったのか悪かったのか

今となっては良かったと思うことにしています。

社名や看板で来てくれると言うよりも、個人に来てくれるお客様が多かったのですが一般的に、従業員を雇い

業務拡張すれば、見せかけの業績は上がったでしょうが、仕事の『質』の問題が常に付きまとい、何かあると

タダでさえ悪い評判は直ぐに広がり、良い評判は水面下に没しますので『一人親方偏屈おやじ』程度の評判がお似合いな様でした。


貧乏は嫌という程味わいました、決して楽な経営状態ではありませんでしたが、女房が全て支えてくれ今まで乗り切ってきました。

精神的に病んでくると、30年来の友やクラスメートが支えになってくれて結果的には『ノー天気』な時代だったと思います。

またこの頃は、インターネットも普及して、遠方の友人も大勢増え異業種的ですが交流を深める事が出来、心の支えにさせて

頂きました。


後ろを振り返れば、いくらでも後悔に反省はありますが、もう後ろを振り返る必要は私にはありません。

十二分幸せなな人生でした。

皆様ご会葬ありがとうございました。


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