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ドイツ表現派の建築について
サリンジャーばかりではなんだから『ドイツ表現派の建築 近代建築の異端と正当』(山口廣/井上書院/1972年)を読むことにしよう。
小説は単語と文法だとは思わない。
もちろんデザインをやっている人は、デザインとは色や形の工夫のことだなんて考えてはいないだろう。
ドイツ表現派の建築家たちは平たく言えばドイツ的な理念を建築物に具現化しようという意志を持っている。
ただ、ドイツ表現派の建築家たちといっても、組織や組合というもので分類されている訳ではなく、ドイツ的な理念を建築物に具現化しようという意志を持っているという定義の下に、多くの芸術家なりその作品なりが束ねられるのである。
郊外の一戸建住宅の俗悪さとはなんだろうかと、ずっと考えていた。
そこには「まあ、こんなもんでいいかな」という安直さがある。「みんなと同じが一番。
あまり目立たない方がいいよな」という大衆性がある。
それらは必ずしも否定されるべきものではないとは思っていた。
今もしも郊外にドイツ表現派の建築物を立てたら、それは公共施設だと勘違いされるだろう。
お化け屋敷と呼ばれるかもしれない。
私は「現代」建築の典型である美術館や劇場の多くをやはり俗悪だとしか感じないが、それは思想もなく、精神もなく、たかり根性だけで巨額の公的資金がつぎ込まれている所為だ、と頭の中では考えていた。
ただ、実際には池袋のメトロポリタン劇場の広いホールには圧倒されるし、途中で切れた高速道路などを見上げていると人類の英知というものを感じない訣にはいかない。
人は何故大きな建物を立てるのかと言えば、都会には山がないからではないかと考えたことがある。
言わば見立てである。
ドイツ表現派の建築物に見られるような形而上学的な理念というものは、日本にはなかった。
躍動感、垂直水平の強調、ダイナミックな傾斜というものは、ある意味で合理的、実用的ではない。
例えば屋根のカーヴは、屋根というものの目的に従い雨量や、積雪の有無などを考慮したデザインであるべきだ。
パオは丸い。それは砂嵐に耐える為だ。日本の屋根はサイクロイド、トコロイドなどのサインカーヴが駆使されている。
天を突き刺すような尖塔は、東京タワーなど限られたものを除いて実利的な目的ではなく建てられたのだろう。
東京タワーにしろ、夜眺めると、何か思想性を湛えた宗教的建築物のように見える。
何を美しいかと感じるかと言う問題に、ぼくはかって極めて単純に幾何学的なシンメトリー、調和などのラテン系基準をあげた。
正確には美の基準とはラテン系のものだけではない。
ラテン系以外では、まず日本的な「みたての美」が上げられるだろう。
フランス料理のお皿と、日本料理のお皿では、同じだけの色が使われていたとしても、盛り付けの基本理念が異なる。
日本料理では「四季」あるいは「自然」を表現しようとする。お刺し身のツマの大根は白波を表現しているわけだ。
ドイツ表現派にとって美とは副次的な概念であるかも知れない。
そこではまず根源的な哲学が追求されている。
つまり形而上学的な「真理」があり、それは美しさというよりも荘厳さを湛えているべきものなのだ。
この『ドイツ表現派の建築 近代建築の異端と正当』という本を書いた山口廣氏はなかなか面白いことを書いていて、ドイツに於けるプロフェッサーの位置づけにも触れていた。
ドイツでは大学教授の権威は絶対である。
日本みたいに、へこへこしていない。
というより、日本でもドイツ系の学問を担当している教授は妙にいばっている。
これがドイツの国民性なのだ。
さて、ではドイツ表現派にとって根源的な哲学とはどのようなものであろうか。
それはネオ・クラシズムや、ネオ・ルネッサンスでもあるニーチェに還元される。
「ドイツ浪漫主義ロマンロマン主義は古典主義から発達した。」(P.60)と美術史家シュミットは語る。「古典主義がギリシアに熱中したのに対して、浪漫主義は彼ら自身の歴史のふるさと…… 宗教と芸術との全き統一を示した中世にまず目を向けた」(P.61)
…… と歴史的考察を丹念に追うならやはり現物をそのまま読んで貰いたい。これはなかなかいい本だ。
家は何故高いか。
それは多くの人が家を総合芸術であるとみなしているからではないだろうか。
そう思えてきた。
一点豪華主義の人が何に力を入れるかはその人の経済力に因る。
洋服やゴルフセットや車にミクロコスモスを見いだす人もいれば、『シム・シティ』の市長さんみたいに自分の町をデザインしたいという人もいるだろう。
家は、やどかりの貝みたいなものである。
しかし、洋服よりも手ごたえのありそうなものである。
洋服も芸術的価値を剥ぎ取られると価格は暴落する。
逆に一枚五百円のタンクトップは、場合によっては一万円で取引され得る。
ベルサーチのネクタイが五百円で売られていたのを見たことがある。
ところで、家は必ずしも洋服よりも高くなくてはいけないのだろうか?
小林幸子の紅白の衣装は普通の郊外の一戸建よりも高い。
芸術的価値は別として、家が洋服よりかならずしも総合的であるとも言えないような気がする。
秀吉の墨俣の一夜城はプレカットのプレハブ工法で建てられた建築物である。
この工法自体には有効性と実用性があるが、それが建築物であるからという理由で絵画よりも総合的な芸術であるとは思わない。
俳句と長編小説を比べ、長編小説が総合芸術であると言うのにも納得できない。
長編小説こそが本物なのだと言われると、ずっと「違う」と感じていた。
その「違う」という根拠が、サリンジャーという本質的な短編作家を読み直して、はっきりしてきた。
仮定の話をして悪口を言うのもなんだが、長編作家は『フラニー』と『ズーイー』を一つの話にまとめてしまうのではないだろうか。
そして『フラニー』が書いたこと『ズーイー』が書いたことの両方を、書き損ねたのではないだろうか。
これは相手のいない悪口ではあるまい。
筒井康隆さんが、最近の読み切り短編小説だか長編の一部だか曖昧な小説を批判していた。
おそらく形式に迷うということは悪いことではない。
しかし、連載=月々の原稿料=テーマの未消化=とりあえず書いちゃえ=あら、途中で終わった=続けて書いちゃえ=単行本化ねえ、ちょっと前半を直そうか的な長編小説というものは、「失敗した料理をカレーにする」発想とどこか似ていないだろうか。
ぼくは鳥肉をヨーグルトに漬け込む時、カレー粉を混ぜないような弱気なカレーは食べたくない。
カレーを作るには、カレーを作ろうという意志が必要である。
しかし、意志ばかり強くても困る。
新鮮な魚をカレーにする必要はないのだ。
むろんヌーベル・キュイジーヌみたいな短編小説も困る。
困るというか、そういうものばかりでは困る。
短編小説は自由だと思えるうちは短編小説を書き、そうでなくなれば別の形式を探すのが良いと思う。
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