江戸川区 小岩田八幡神社と天祖神社へ
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12月7日(水)、JR金町駅から歩いて見ました。
今回は、小岩田八幡神社と上小岩天祖神社を紹介します。
小岩田八幡神社北小岩に鎮座する小岩田八幡神社の創建は不詳ですが、小岩田村の鎮守であったといい、元禄8年(1659)の記録には神社の名が見られるようです。
いつしかに
夏のあわれとなりにけり
乾草小屋の 桃色の月
北原白秋の碑がありました。
北原白秋は、大正5年7月から約1年間、妻の章子とともに、この小岩村字三谷の乾草商富田家の離れに居を構えました。
ここを、「紫烟草舎」と名付け、葛飾の風土や人情に見守られながら、短歌雑誌「煙草の花」を創刊したり、数多い短歌や詩、小品集などの素材を得たそうです。
屋根で覆われた本殿に、彫刻が見えました。
向拝中央に立派な龍の彫刻があります。
龍の裏側
木鼻は逆光で駄目でしたが、頭貫は上手く撮れました。片方の獅子だけ耳にギザキザがはいっています。
正面の扉に、昇り龍と下り龍の彫刻が見られました。
上小岩天祖神社上小岩天祖神社の創建は不詳ですが、上小岩村の鎮守であったといいます。
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あなたの記事を見ていて、自分自身に気付いたことがあるのですが、
今まで神社仏閣の建物よりも仏像に目が行っていたように思いますね。
だんだん建物の彫刻にも関心が出てきました。
ポチ!です。
2012/1/20(金) 午後 1:21 [ moriizumi arao ]
こんにちは、moriizumi arao さん
コメントをありがとうございます。
仏様はなかなか見ることが出来ませんし、まして
写真に撮ることは困難です。彫刻なら簡単に写して
載せることが出来ますから、お勧めです。
仏さまも見て彫刻も見て石像も見てと、
社寺の建物とともに境内にもたくさん見るものがあるのです。
私、更年期の時は一つしか見ることが出来ませんでしたが、
近頃は、いくつも見ることが出来るようになりました。
情報量が多ければ多いほど、脳には良いそうですよ。
2012/1/20(金) 午後 1:51
この神社は元々
この周辺の土地名主などが勧請してきた
神社だと思います。神社の屋根が瓦などの時は
土地の有力者などが勧請や元々お寺を神社に
変えることが多いです。このニ社の神社は周辺の氏子さん
達が守っている神社でもありますね!
小さな社殿に彫刻は見事ですね!
ポチ☆
2012/1/20(金) 午後 3:57
こんにちは、リップさん
コメントとポチとありがとうございます。
名主さんが勧請した神社なのですか。
そういえば、幸手市の浅間神社も呉服商が勧請したと
ありましたが、同様のことなんですね。
でも、お寺を神社に変えるってあるんですか?驚きです。
廃寺は聞きますが、その跡を神社にしてしまったということ
でしょうか。お寺には墓があります。その墓はどうしちゃうのかな〜と思ってしまいます。
2012/1/20(金) 午後 4:24
明治維新になって幕府の治世が終わると、維新政府は新しい国には
新しい宗教が必要であると考え、新しく国教を定めようとしました。この時
日本でもキリスト教を国教にしようという意見も出た、
多数派を占めるにはいたらず「国家神道」が構築されそして手始めに、まずお寺と神社を明確に分離しようと
いう意図で出たのが、この神仏判然令なのです、これは政府の意図を越えて破壊的広がりを見せ、全国的な廃仏毀釈運動を起り
それまで大きな顔をしていた僧たちに反感を覚えていた民衆が神仏判然令を「寺を廃し仏像は破壊せよ」と拡大解釈して寺を襲撃するという事態が全国各地で生まれました
これを守るためにお寺を神社に変えたのは日本に数多くあります。
出羽三山もその一つです。
2012/1/20(金) 午後 6:21
リップさん、詳しく教えていただいてありがとうございます。
神仏判然令というのは国からの命令で廃仏毀釈運動は民衆の
起こした運動だったのですね。
国とが宗教を決めるのも怖いですが、民衆運動というのはもっと
怖いものですね。襲撃されるのを逃れるためにお寺を神社に
変えてしまったとは、全く知りませんでした。
結局、私は何も知らずにこの歳になってしまいました。
2012/1/20(金) 午後 6:52
明治政府も民衆の過熱に驚き、寺を廃せよなどとは言ってない、という布告を出したりして対応しますが、沈静化にはかなりの時間を要しました。現在寺と神社が隣り合ってその間に何とも変な形の境界線の塀が築かれてあったりするところがあるのはこの神仏判然令の後遺症です。またお寺のような山門があって中に神社があるところ、神社で梵鐘を持っているところなども残っていますが、これは神社とお寺が一体になっていたものの、お寺側が廃された結果です。
「国家神道」は仏教側にも深刻な打撃を与えましたが、神道側にもかなりの打撃を与えています。政府が欲しかったのは政府の政策に忠実になってくれる臣民ですから、別に神社を保護したわけではなく、
2012/1/20(金) 午後 7:29
それをベースにひとつの新たな宗教を創ろうとしたようなものですから多様な信仰はむしろ邪魔でした。政府はひとつの村に神社は一つだけにせよ、という布告を出し、更に神社が持っている土地で、直接祭祀に関わりのないものは全て手放すように命じたりして、このため多くの神社が廃止統合され、神社の鳥居が境内からずいぶん離れた場所に建っているという事態が数多く引き起こします。更には全国の神社に調査官が派遣されて多数の神社で御祭神の書き換えが行われました。
このため現在では本来の御祭神が何であったのか分からなくなってしまった神社も多くあります。また国に忠実でないとみなされた宗派は大本教などのように厳しい弾圧を受けたりもしています。仏教・神道が本来の宗教としての姿に復帰できるのは戦後の宗教の自由化を
待たなければなりませんでした。
2012/1/20(金) 午後 7:29
お墓などは市町村などが霊園など作ってたり
残ったお寺などに移すなどしたと思います?
江戸時代は寺請け制度っていうのがあって、今みたいに、
何処の宗派など選ぶことが出来なかったんです。自分が住んです近くのお寺の宗派になってしますんです。昔は、今で言う役所がしていた戸籍や住民台帳はお寺の仕事でした。お寺のお坊さんが大きな顔をしていたそのせいだと思います。この時に数多くの仏像などが
海外に渡ってしまった。事も事実です。
今、思えば寂しい事ですね!長くなってごめんなさい
2012/1/20(金) 午後 7:31
リップさん、詳しく教えていただいてありがとうございます。
その当時、霊園などは無いと思いますが、別のお寺に移した
というのは見た事があります。その理由は、やはり廃仏毀釈なのですね。
お寺は役所の役割もしていたので、態度がでかくなった訳ですか。仏像はお金に換えてしまったと・・・
寂しく悲しい出来事だったんですね。ありがとうございました。
2012/1/20(金) 午後 7:45
「歩さん」こんばんは!
いや〜! 良い勉強になりますね。 私は中学時代に日本史を習っただけで、高校でも日本史は習いませんでした。そこで、どうも、室町から江戸にかけての民衆史や宗教史がよく判らなかったのです。ですから、明治維新の廃仏毀釈の運動も、それ以前の神仏習合の動きも、今一ピンと来ていないのです。今、資料を整理している柏市布施の東海寺も、門前に大きな鳥居がありまして、どうなっているのか、さっぱりなんです。むずかしいですね。
2012/1/20(金) 午後 10:24
リップさん、本当に詳しくそして分かりやすく
教えていただいてありがとうございます。
ノンキさんも言われるように、私もこの時代のごたごたは
殆ど知りませんので、非常にためになりました。
2012/1/20(金) 午後 11:12
こんばんは、ノンキさん
コメントありがとうございます。
リップさんは専門家で、いつも教えていただいています。
それに私のように何も知識の無いものに、優しく丁寧に
教えてくれるんですよ。
大政奉還は分かっていても、そのあとの明治維新から少しの
年代の内容は分からないですよね。でも、地方の小さな町まで
この力が及ばないところもあり、お寺の中に神社があるところは
私も見ますよ。いろいろ疑問を持って、勉強していきましょうね。
2012/1/20(金) 午後 11:41
あゆみさん
ウォーキングは体だけじゃなく脳を活性化させてくれそうですね。
お互い歩きに心がけましょうね。自分に言い聞かせているのかも(笑)
2012/1/21(土) 午前 0:06 [ moriizumi arao ]
こんばんは、moriizumi arao さん
コメントありがとうございます。
歩きは自分に「渇」を入れないとスタートできない時も
あります。私も一緒ですよ。「歩こう」と足にも脳にも
言い聞かせて歩くときもあります。
病気予防のため、脳の活性化のためにウォーキングは最高なのです。
2012/1/21(土) 午前 1:04