元寇の真実

一言メッセージ :元寇について学校などで教えられている知識はかなり歪んだものである事を知ってもらいたいです

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1259年2月9日

戦後の歴史研究者たちは、鎌倉幕府が大陸情勢に無知で、1268年にクビライからの国書が届くまでモンゴルの存在を知らなかったと説明しています。
そして、モンゴルの脅威を理解しないまま、準備不足の状態で、1274年の文永の役を迎えたと非難しているのです。
これは本当でしょうか?
実は、嘘で塗り固めた戦後の元寇研究が触れようとしない、こんな資料が存在するのです。

〔新御式目〕 
 條々
一、可被祟敬佛神事、
  九州為宗神社、破壞以下所遂檢見、且可令注進、損色之由所被仰使者也、但於遠所者、使者
  檢見為難渋者、可計沙汰、
一、次香椎社造営事、
  筑前國怡等庄為料所、可造営之由被宣下、年記之處々、不終其功云々、云未作分限云當社之
  所土可為注進、○中略
一、城郭事、
  次岩門并宰府構城郭之條、為九州官軍可得其構云々、早為領主所之沙汰可致其構云々、
一、寄役所致自由合戦、
  縦雖抜群之忠、不可被行其賞、所詮随大将命、可令進退由厳密可被相触九州守護並御家人
  以下輩也、
一、兵糧米事、
  先々可無其虚歟、殊加談義可令注進、
一、警固詰番事、
  為諸人煩労基之由、有其聞、仍同前、
一、兵船事、
  海上合戦、更不可有其利歟、同前、
一、大隈日向両国役所、今津役濱事、
  先度雖除之、為要海云々、如元警固 ○中略
   正嘉三年二月九日
                              武蔵守 判
                              相模守 判
                                   (福岡県史資料)

これは、正嘉3年(1259年)2月9日に鎌倉幕府が、後の文永の役の戦場である博多湾沿岸地域の防衛強化を命じた資料です。
海上合戦の是非や今津沖の警固に言及した内容から、鎌倉幕府が警戒しているのは海外からの侵攻であることが分かります。
また、城郭修築や兵糧米について言及していることを考えれば、想定されているのが大規模な侵攻であることもあきらかです。
一体何故、鎌倉幕府はこの時期に海外からの大規模な侵攻を、警戒する必要があったのでしょうか?
その理由を知るためには、当時の大陸情勢に目を向ける必要があります。

1257年春、モンゴル帝国の大ハーンであるモンケは南宋侵攻を宣言。
1258年には、朝鮮半島で長年のモンゴル軍の侵略によって求心力を失った崔氏政権が崩壊し、北ベトナムでも陳朝がモンゴル帝国への入貢を余儀なくされています。
この年の7月、モンケは南宋征服のため自ら大軍を率いて六盤山を出発し、10月に四川へと侵攻。
加えて、11月にモンケの弟のクビライも開平府から鄂州へ向って南下を開始し、翌1259年正月には名将ウリャンカダイが雲南からベトナムを経由して江西に攻め込んでいます。

1259年2月9日は、大ハーンのモンケのもと、モンゴル軍が東アジア全域で大規模な侵攻作戦を行なっている真っ最中でした。
つまり、鎌倉幕府は大陸におけるモンゴルの脅威が頂点に達したその瞬間に、博多湾沿岸地域の防衛強化を命じていたのです。
鎌倉幕府が大陸情勢に無知だったという戦後の歴史研究者たちの説明は嘘でした。
真実の鎌倉幕府は、大陸におけるモンゴルの南宋や高麗に対する侵略を対岸の火事と捉えることなく、文永の役の15年も前からモンゴルの日本侵略に備えていたのです。

更にその内容も的確で、軍事のプロフェッショナルである武家政権の面目躍如といった感があります。
例えば、「自由に合戦して例え抜群の手柄を立てても、それに恩賞を与えることはない。大将の指示に従い、進退は命令通りしなければならない」と、九州の守護や御家人に集団戦法徹底を命じている点は、とても重要です。
文永の役の際に、鎌倉武士が一騎打ち戦法で戦っていたなどという通説も嘘でした。
また、岩門大宰府の城郭修築を命じている点も注目に値します。
大陸で縦横無尽に暴れまわるモンゴル軍に対し、強い警戒感を抱く鎌倉幕府が、大宰府などの強固な城郭に拠って迎え撃とうと考えたのは当然でした。

こうして準備万端の状態で迎えた文永の役は、日本軍の完勝に終わりました。
博多湾から上陸したモンゴル軍は、鎌倉幕府が防衛ラインに設定していた大宰府に到達することすらできないまま、たった1日の戦闘で撃退されたのです。
鎌倉武士の集団戦法の前には、モンゴル軍も敵ではありませんでした。

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元寇史料

日本・元・高麗の史書に書かれた文永の役。

『十月五日、蒙古が寄せ来て、対馬嶋に着く。同二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北』
(『鎌倉年代記裏書』)

『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』
(『元史日本伝』)

『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人』
(『高麗史表』)

弘安の役における元軍の壊滅。

『八月一日、風舟を破る。五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して主師となし、これを号して張総管といい、その約束を聴く。方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。九日、八角島(博多)に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ』
(『元史日本伝』)

『閏七月朔、賊船ことことく、漂蕩して海に沈みぬ、・・・鷹島に打上られたる異賊、数千人、船なくて疲れ居たりしか、破船ともを、つくろひて、蒙古人、高麗人、七八艘うちのりて、逃んとするを、鎮西の軍兵とも、少弐三郎左衛門景資を大将として、数百艘おしよせたりしかは、異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、なしにけるとそ、又、かの長門の浦に吹入られたる、大将のふねともは、閏七月五日、関東より、はしめて、甲田五郎、安藤二郎着して、其手の者、新左近十郎、今井彦次郎等を一手とし、九國の兵、より集りて、いく手になりて、おしよせ、皆うちとる、但し、ことことくに、殺し尽しても、こたひの神の威徳を、しらて止へけれはとて、只三人を、たすけて、汝が王に事の趣を、いつはらす、いひきけよと、いひつけて、小舟にのせて、おひ返す』
(『八幡ノ蒙古記』)

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鎌倉武士は一騎討ち戦法で戦ったのか?

『蒙古襲来絵詞』に描かれた鎌倉武士たちは誰一人として元軍に一騎討ちを挑んだりはしませんが、通説では「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて一騎討ちを挑んだことになっています。
それは、『蒙古襲来絵詞』と並んで元寇の戦闘経過を記した基本資料の一つである『八幡愚童訓』に、鎌倉武士たちが「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」と解釈できる文章があるからです。
『八幡愚童訓』には多くの異本があるのですが、よく歴史書などで引用されているのは岩波書店の日本思想大系20『寺社縁起』に収められているもので、これは鎌倉末期の写本と考えられている『菊大路本』を底本としています。

『日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処、此合戦ハ大勢一度ニ寄合テ、足手ノ働ク処ニ我モ我モト取リ付テ押殺シ、虜リケリ。是故懸ケ入ル程ノ日本人漏レル者コソ無リケリ』
(『八幡愚童訓』)

この『日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処』という文章を唯一の根拠として、鎌倉武士が一騎討ち戦法で元軍と戦ったことになっているのです。

『八幡愚童訓』の異本の一つに、江戸後期の国学者・歌人の橘守部に所蔵されていた『八幡ノ蒙古記』があります。
橘守部によれば、これは元寇の一部始終を目のあたりにした箱崎八幡宮の社官留守図書允定秀によって正応2年(1289年)に書かれたもので、『八幡愚童訓』の原本とのことです。
三弥井書店から出版されている小野尚志・著『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』の中に翻刻されたものが収められています。
例の『八幡愚童訓』で一騎討ち戦法の根拠とされている文章は、『八幡ノ蒙古記』では『日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に』となっています。
「日本ノ戦ノ如ク」ではなく「日本の軍の如く」、「高名不覚ハ一人宛ノ勝負」ではなく「高名せすんは、一命かきり勝負」なのです。
これは一騎討ち戦法を意味する文章ではありません。
何故なら『蒙古襲来絵詞』の中で、日本の軍は相互に名乗り合っているからです。

『葦毛なる馬に紫逆沢瀉の鎧に紅の母衣懸けたる武者、其の勢百余騎計りと見へて、凶徒の陣をてやぶり、賊徒追ひ落として、首二、太刀と薙刀の先に貫きて、左右に持たせてま□□□と由々しく見へしに、「誰にて渡らせ給候ぞ。涼しくこそ見え候へ」と申に、「肥後国菊池次郎武房と申す者に候。斯く仰せられ候は誰ぞ」と問ふ。「同じき内、竹崎五郎兵衛季長駆け候。御覧候へ」と申て馳せ向かふ。』
(『蒙古襲来絵詞』)

このように戦場で味方同士の武士たちが名乗り合うのは、自分の名前を覚えてもらうことによって、後の恩賞請求の際に証人となってもらうためです。
鎌倉武士たちは、「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」のではなく、「日本軍同士で名乗りあって証人となり、高名のために一命を賭して戦った」のです。
恐らく、『八幡ノ蒙古記』を資料として『八幡愚童訓』が作成された際に、文章の意味が変わってしまったものと思われます。

実際には、文永の役で鎌倉武士たちは、一騎討ち戦法ではなく、集団戦法を用いて元軍と戦っていました。
『八幡ノ蒙古記』には、姪の浜に上陸した元軍が、赤坂で菊池次郎武房の集団戦法によって撃破されるようすが記されています。

『ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ』
(『八幡ノ蒙古記』)

赤坂に向う途中の竹崎季長が、元兵の首級を獲得して涼しげな菊池武房以下100余騎と名乗りを交わしたのは、この戦闘の後の出来事です。
一方、散々に駆け散らされた元軍は、菊池武房と別れた竹崎季長が鳥飼に到着した時には、まだ敗走の最中でした。

『武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く。』
(『蒙古襲来絵詞』)

竹崎季長は『弓箭の道、先を以て賞とす。唯駆けよ』とわずか主従5騎で追撃を決行しますが、旗指の馬が射殺され、季長以下3騎も痛手を負って危機に陥ります。
しかし、後方から白石通泰が大勢で駆けつけると、またしても元軍はあっさりと蹴散らされてしまいます。
ここでも、竹崎季長と白石通泰は相互に名乗りあい、恩賞請求の際に証人となる約束をしました。

『季長以下三騎痛手負ひ、馬射られて跳ねしところに、肥後国の御家人白石六郎通泰後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に上がる。馬も射られずして、夷狄の中に駆け入り、通泰通かざりせば、死ぬべかりし身なり。思いの外に存命して、互ひに証人に立つ。筑後国の御家人光友又二郎、首の骨射通さる。同じく証人に立つ。』
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_6727469_1?20060603054125.gif

http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_2953448_2?20060420214602
(『蒙古襲来絵詞』)

文永の役の3年前に元と高麗が三別抄と戦った時には、兵員の定数を満たすために、文武の無任所官や奴婢僧侶までも動員する必要がありました。
元軍はこうして掻き集めた訓練度の低い兵士たちを、太鼓や銅鑼によって無理やり前進させたり後退させたりしながら、「高名せすんは一命限り勝負」という覚悟の鎌倉武士たちと戦わなければなりませんでした。
そのため元軍は、菊池武房や白石通泰といった100騎余りの武士団が駆使する集団戦法には、まったく歯が立たなかったのです。

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過去の日本人の元寇に対する認識

戦後、私たちは元寇について「敗戦濃厚だった鎌倉武士が文永の役と弘安の役の2回とも偶然の大風によって救われた」のだと教えられてきました。
そして、この奇跡的な元寇の幸運を「700年間に渡って神風によるものだと信じてきた」日本人は、自国に対する神国観念を彫磨させ、そのことが明治以降の軍国主義をもたらし、日本を太平洋戦争へと導いたのだと教えられてきたのです。

江戸時代の歴史家・頼山陽が書いた『日本外史』という歴史書があります。
これは、源平二氏から徳川氏まで武家の興亡を漢文体で記したもので、『平家物語』や『太平記』と並べて、広く日本人に愛読された歴史書です。
漢文を訓み下し文にしたものが、岩波書店から出版されています。
『日本外史』は元寇の戦闘について以下のように記しています。

『(文永)十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。転じて壱岐に至る。守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殪す。虜兵乱れ奔る。』

『(弘安)四年七月、水城に抵る。舳艫相ひ銜む。実政の将草野七郎、潜に兵艦二艘を以て、志賀島に邀へ撃つ。虜の二十余級を斬首す。虜、大艦を列ね、鉄鎖にてこれを聯ね、弩をその上にはる。我が兵近づくを得ず。河野道有奮つて前む。矢、その左の肘に中る。道有益々前み、帆柱を倒し虜艦に架して、これに登り、虜の将の王冠せる者を擒にす。安達次郎・大友蔵人、踵ぎ進む。虜、終に岸に上る能はず。収めて鷹島に拠る。時宗、宇都宮貞綱を遣して、兵に将として実政を援けしむ。未だ到らず。閏月、大風雷あり、虜艦敗壊す。少弐景資ら、因つて奮撃し、虜兵を鏖にす。』
(『日本外史』 頼山陽・著 頼成一・頼惟勤・訳 岩波書店)

「虜」というのは敵を罵っていういい方で、この場合は元のこと。
『日本外史』の記述では、文永の役は完全に武力のみで元軍を撃退したことになっています。
弘安の役の「大風雷」も、単に日本に有利に作用した気象現象に過ぎず、「神風」などという言葉はどこにも出てきません。
幕末から明治にかけて最も多くの日本人に読まれた歴史書の認識では、元寇の勝利は鎌倉武士の奮戦によるものなのです。
日本人が元寇の勝利を「700年間に渡って神風によるものだと信じてきた」などという話は大嘘でした。

それから時代が下って近代になると、白鳥倉吉博士によって書かれた『国史』という歴史書があります。
これは昭和天皇のための歴史教科書として書かれたもので、そのままの文体のものも出版されていますが、現代語訳が講談社から出版されています。

『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』

『このため、元はまた大挙して攻めてきて、その軍は壱岐、対馬をへて博多と肥前の沿岸にも迫りましたが、南海、西国の将兵がよく防ぎました。また、偶然にも大暴風雨がおそい、敵の船は破壊され、多くの兵が溺死し、残った軍はあわてふためいて逃げかえりました。弘安四年のことでありましたので、これを弘安の役といいます。』
(『昭和天皇の歴史教科書 国史(口語訳)』 白鳥倉吉・著 出雲井晶・訳 講談社)

文永の役についても、弘安の役についても、基本的に『日本外史』と同じ認識です。
『国史』の見解では、元寇の勝因は『元軍にとって、海路から迫ることが困難であったといえども、これはわが将兵が奮戦したことと執権時宗の勇気ある決断が措置をあやまらなかったことによるものであったというべきでしょう』とのことです。
勿論この『国史』は昭和天皇のための歴史教科書ですから、一般向けの歴史教科書とは異なります。
大正時代になると、一般向けの歴史教科書では、弘安の役の暴風雨を「神風」とする明治時代にはなかった記述が、初めて登場します。

『元はすつかり支那を従へ、その勢いで、弘安四年に、四万の兵朝鮮半島からふたたび筑前にさし向け、別に支那からは十万の大兵を出した。朝鮮半島から来た敵兵は、壱岐ををかして博多に攻寄せて来たが、菊池武房や河野道有・竹崎季長らの勇士は、石塁にたてこもつて防いだり、勇敢にも敵艦へ斬りこんだりして、大いにこれを苦しめた。そのうち、支那から来た大軍が、これといつしよになつて、今にも攻寄せて来ようとした。その時、にはかに神風が吹きおこつて、敵艦の大部分は沈没し、溺れて死ぬものは数へきれないくらゐであつた。』
(『尋常小学国史』)

「神風」は登場しましたが、それ以前の武士たちの奮戦も強調しています。
それは、弘安4年6月6日に博多湾に迫った元の艦隊が、閏7月1日に「神風」に遭遇するためには、約2ヶ月間に渡って上陸を阻んだ武士たちの奮戦が、必要不可欠の要素だからです。
また、この時期の教科書でも、元軍が大風に遭遇したとされたのは弘安の役のみです。
元寇が、「敗戦濃厚だった鎌倉武士が文永の役と弘安の役の2回とも偶然の大風によって救われた」という私たちのよく知っているスタイルに変化したのは、戦後、GHQの占領下で作られた第七期国定教科書『くにのあゆみ』からでした。

『すると忽必烈は、文永十一年(西暦一二七四年)十月、九百せきあまりの船に、およそ四万の兵を乗せて、博多湾に攻めこませました。武士たちは、勇ましく戦ひましたが、敵が上陸してきたため、大そうなんぎをしました。ところが、大風がおこつて、敵の船をくつがえしたので、これを退けることができました。』

『こののち、弘安四年(西暦一二八一年)七月には、四千四百せきの船に、十四万の大兵を乗せて、ふたたび博多湾に攻めよせてきました。この時もまた大あらしがおこつて、敵の船を吹きちらしてしまひました。』
(『くにのあゆみ』)

第二次大戦後、日本を占領したGHQは、「日本を武装解除し長期的に弱小国の地位にとどめる」という戦略のもと、歴史教育にも介入しました。
GHQの認識では「武士」=「軍人」でしたから、武士の登場する記述には、その内容に関係なく問答無用で墨が塗られていきました。
このような状況下で、元軍の日本侵略を阻止した鎌倉武士たちの奮戦も消され、文永の役と弘安の役の勝利は、2回とも偶然の大風という幸運の結果にされてしまったのです。

戦後、私たちが元寇について聞かされていた話は、全て政治的に捻じ曲げられものでした。

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史料の信頼性について

元寇よりも200年ほど昔の1066年、イギリスで「へイスティングズの戦い」と呼ばれる合戦がありました。
この合戦でウィリアム征服王に敗れたイングランドは、対岸のノルマンディー公国によって征服され、その封建体制の支配下に置かれました。
へイスティングズの戦いについて、現代の私たちがその詳細を知ることができるのは、イングランド征服の一部始終を描いたタペストリーがバイユー教会に残されているからです。
イギリス史の本に書かれているへイスティングズの戦いの記述は、ほとんどがこの『バイユー・タぺストリー』から復元されたものです。

http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_6727469_0?20060603054125.gif

一方、元寇についてもその詳細を描いた『蒙古襲来絵詞』が残されています。
その描写は精密で、当時の武士たちによる合戦の様子を詳しく知ることができるのみでなく、モンゴル軍の軍装などを研究する上で世界的にも貴重な史料です。
また、絵だけでなく詞書として添えられた文章にも、文永の役と弘安の役での戦闘や、鎌倉での恩賞訴願などの様子が記されています。

http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_6727469_1?20060603054125.gif

ところが何故か元寇に関しては、武士の用いた戦術や戦闘の経過について、『蒙古襲来絵詞』の内容があまり活用されていません。
絵巻に登場する武士たちは誰一人として元軍に一騎討ちを挑んだりはしませんが、通説では「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて一騎討ちを挑んだことになっています。
絵巻に描かれた元兵たちは皆情け容赦なく狩り立てられ、負傷し、逃げ惑っていますが、通説では日本軍が一方的に劣勢だったことになっています。
これは大変おかしなことです。
何故なら『蒙古襲来絵詞』を作成した竹崎季長は、文永の役と弘安の役で自ら戦闘に参加した武士だからです。

例えば、紀元前四世紀にギリシアからインド西部にまたがる大帝国を築いたアレクサンドロス大王について、アリアノスの『アレクサンドロス東征記』、プルタルコスの『英雄伝』、ディオドロスの『歴史集成』、クルティウスの『アレクサンドロス伝』、ユスティヌスの『フィリッポスの歴史』の5つの伝記が現存しています。
その中で、戦闘の記述に関して世界中の歴史家から最も信頼性が高いと思われているのは、アリアノスの『アレクサンドロス東征記』です。
それはアリアノスの大王伝が、アレクサンドロスの側近として自ら戦闘に参加したプトレマイオスの記述を原典としているからです。
戦局の推移やそこで用いられた戦法について正確に記述するためには、軍事に関する高度な専門知識が必要です。
軍人として戦闘に参加した人物の記述が、最も信頼性が高いと考えるのは当然のことです。

世の中には、『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長が恩賞を得るために描かせた絵巻だと、勘違いしている人が大勢います。
だから「武士たちが優勢に描かれているのは当然」だというのです。
どうやら、絵巻では明らかに日本軍優勢な点が気に入らない人たちによって、嘘が広められているようです。
竹崎季長が恩賞として海東郷の地頭職を与えられたのは1276年で、『蒙古襲来絵詞』の作成はそれよりも後の1293年頃です。

絵巻の作成された1293年は、霜月騒動で討たれた安達泰盛とその一族の名誉回復が始まった年でした。
文永の役の翌年、恩賞訴願のため鎌倉に赴いた竹崎季長は、恩賞奉行だった安達泰盛によって海東郷の地頭に任じられたのみならず、馬と具足を賜るという破格の好意を受けました。
『蒙古襲来絵詞』は恩義ある安達泰盛とその一族への感謝の気持ちを込めて作成されたのです。

http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_6727469_2?20060603054125.gif

元寇当時、鎌倉で恩賞奉行として御家人たちの戦功を査定する立場にあった安達泰盛に対して、戦局を自分たちの優勢に歪曲した絵巻を作成することが、追悼になるはずがありません。
『蒙古襲来絵詞』について、「武士たちが優勢に描かれているのは当然」などということは言えないのです。

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開設日: 2006/4/18(火)


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