このまえの日曜日、2012年1月29日、夜10時からNHK教育テレビで「日本人は何を考えてきたのか」を見ました。
日本人は何を考えてきたのか
第4回 非戦と平等を求めて〜幸徳秋水と堺利彦〜
日露戦争にあたって非戦を唱えた幸徳秋水、堺利彦。二人は日本の社会主義思想の始まりをリードしたが、1910年の大逆事件で幸徳秋水は処刑される。
近年、大逆事件で処刑された人々の復権が熊野、岡山など日本各地で進むなか、非戦と平等を唱えた幸徳と堺の再評価の動きがひろがっている。フランス・ボルドー第三大学教授のクリスチーヌ・レヴィさんもその一人だ。ユダヤ人の伯父を第2次世界大戦で失ったレヴィさんは、帝国主義の時代が始まろうとする時、「非戦」を唱えた幸徳と堺の存在は世界的に評価されると考える。レヴィさんは幸徳の主著「廿世之怪物帝国主義」をフランス語に翻訳。二人が非戦と平等の思想を生み出した背景を探っている。
大逆事件は当時、アメリカやフランスでも注目され抗議が行われたが、幸徳ら12人が処刑される。残された堺は遺族を訪ね歩き、「社会主義・冬の時代」を生き抜いていく。文筆でなお「非戦」を唱え続けた堺にも新たな光が当てられようとしている。
番組ではフランス人レヴィさんの目で、非戦を唱えた幸徳と堺の思想を世界史の中で見つめていく。
【出演】クリスチーヌ・レヴィ(フランス・ボルドー第三大学教授)、山泉進(明治大学教授)、三宅民夫アナウンサー
あの『坂の上の雲』と同じ時代に生きていたけれど、司馬遼太郎が登場させなかった、幸徳秋水。しかし、随筆では、坂本龍馬・中江兆民・幸徳秋水の3人は同じ体質を持っていると述べています。
『竜馬像の変遷』より
竜馬のおもしろさは、倒幕ということが、竜馬にとっては、言わば片手間の仕事で、最終目標ではなかったことです。海援隊をつくったのは、貿易のためで、それも国内貿易ではなく、世界貿易を狙っていた。(中略)フランス革命についても、おそらくお伽ばなしのようなものとしてでしょうが、竜馬は知っていた。彼のように感受性が豊かであれば、それがお伽ばなしのような形で入ってきても、胸の奥にまで深く入っていたということが想像できます。(中略)そうでなければ、横井小楠のような、当時としての危険思想家から、乱臣賊子だと言われたり危険視されるはずがない。
中江兆民も明治の乱臣賊子です。その兆民が竜馬について、自分の兄だというような思いを抱いている。兆民が竜馬に会ったのは一度か二度で、それも兆民がまだ少年だったころですが、(中略)竜馬と兆民には、偶然の、体質の一致があります。また、兆民と幸徳秋水とのあいだも一本の線で結べる。兆民はむろん、幸徳秋水までは飛躍できない。しかし、同じ体質だとは言えます。竜馬にも、そのまま幸徳秋水につながるところがある。反面、どうしても幸徳秋水にまではいかないところもある。攘夷主義者とともにいるときは、自分も攘夷論を吐く。その点では老獪というか、きわめて柔軟な姿勢をもっている。幕末の時代に、どうしてこんな不思議な人物が出たのか、同時代の人たちから、ともかくとびぬけた人物です。
『歴史の中の日本』(司馬遼太郎著、中公文庫、1976年)
竜馬のような「柔軟」さは、堺利彦のほうが持っていたのかもしれません。堺利彦は、たまたま、別の事件で投獄されていたので大逆事件への連座を免れ、「売文社」を起こして、社会主義の人々が生活の糧を得る場を確保しました。近年、売文社の研究書が出ました。著者はもう亡くなられていますが、存命だったら、彼女もこの番組で、クリスチーヌ・レヴィさんと語り合っていたかもしれません。
『パンとペン〜社会主義者・堺利彦と「売文社」のたたかい〜』(黒岩比佐子著、講談社、2010年)
番組のなかで、大逆事件の後の日本の言論界はおとなしくなってしまったが、たとえ発禁になろうとも、やる人はやるのに、日本の人々はやらなかった、とクリスチーヌ・レヴィさんは言い、山泉進さんは、それは厳しい見方だ、できなかったのだ、と言いました。クリスチーヌ・レヴィさんはさすがにフランス革命の国の人です。1910年代の日本の状況については、必ずしも大逆事件と結びつけてではありませんが、当時も、石橋湛山が、鋭く批判しています。
『哲学的日本を建設すべし』(明治四五年六月号『東洋時論』「社論」)より
近頃或る処にこういう事があった。それは或る人が或る思想上の事件のために法廷に立つのやむなきに至ったが、不幸第一審において有罪の宣告を受けた。しかしこの人は固くその宣告の不当なるを信じておったが故に、更にこれを控訴するの手続きに出でんとしたが、弁護人や知人から、それはかえって不利である、軽微の処罰に済んだのを幸に、ここで服罪して置く方がよいと奨められて、ついにその言葉に委せて控訴することを断念したというのである。これはただこれだけの話しとして聞いてしまえば、それまでであるが、吾輩はここに決して見逃し難い而してはなはだ寒心すべき我が国現代人心の傾向が現われておると思う。(中略)けだし吾輩が今挙げたる我が国の或る人の訴訟問題というものの根底に横たわれる思想はいかなるものであるかというに、浅薄弱小なる打算主義である。吾輩は敢えてこれを「浅薄弱小なる」という。(中略)曰く、今述べたる利己に付けても利他に付けてもその他何事に付けても、「浅薄弱小」ということである。換言すれば「我」というものを忘れて居ることである。確信のないことである。膊力(はくりょく)の足りないことである。右顧左眄することである。
『石橋湛山評論集』(松尾尊兌編、岩波文庫、1984年)
堺利彦とともに生き残った社会主義者のひとり、荒畑寒村の若い頃の写真を見て、そのキザでハイカラなようすにびっくりしました。それにしても、大逆事件では何の罪もない人々までが処刑されており、それがとても恐ろしく、悔しく思えます。たとえば、森近運平という人。幸徳秋水と思想的に対立して、故郷の岡山に戻り、先進的な農業経営をしていた。彼が逮捕されたとき、地元の農民が無実を信じて救援運動をしたといいます。
私は、大逆事件は、江戸時代の蛮社の獄に似ていると思います。蛮社の獄は、小笠原諸島への渡航計画を企てたというかどで、実際に計画をたてたわけでもない蘭学者までが大勢、連座して捕えられました。三河国田原藩の家老として財政を建て直した渡辺崋山は、藩に迷惑がかかるのを恐れて自殺、高野長英は脱獄し、逃亡しながら、各地で蘭書の翻訳などをおこない、最後は江戸に戻って、捕り手に囲まれて不慮の死を遂げます。大逆事件もまた、実際に天皇暗殺を企てたわけでもない社会主義者までが大勢、連座して捕えられました。このでっちあげ事件が、韓国併合の翌年、西洋諸国との不平等条約改正の年、徳川幕府を倒すために「玉(ぎょく)」として押し立てられた明治天皇の末期、明治四十四年、1911年に起こったことは、象徴的に思えます。
さらにこれは、第一次世界大戦の勃発の数年前です。大戦中、ロシアのロマノフ王朝が倒れてソヴィエト連邦が成立し、大戦後、オーストリア帝国、ドイツ帝国も、王朝が倒れて共和国になります。つまり、ロシア帝国・オーストリア帝国・ドイツ帝国に分割されていたポーランドとリトアニアが、それぞれ、一つの国として独立します。エストニアとラトビアも独立します。何が言いたいかというと、「帝国」が隣国を自分の領土として併合する、というのがはやっていた時代は、「大日本帝国」が韓国を併合してから数年後に、終わった、ということです(もっとも第二次世界大戦後、ソヴィエト連邦がリトアニア・エストニア・ラトビアを連邦に加えちゃったけど)。私は、このとき、日本も、韓国の独立を認めたら良かったのに、と思います。そもそも、併合しなくてもよかったのではないか、あるいはせめて、あの「満州国」のような傀儡国家でも良かったのではないか、と思います。
社会主義の人たちは、「帝国主義」を批判していました。彼らを弾圧したのは、父親を塩にたとえた娘を放逐するのと同じようなことだったと思います。その後、「大日本帝国」はリア王と同じ運命を辿った……。
第一次世界大戦が終わってから三年後の1921年(大正10年)、石橋湛山は、日本が朝鮮半島や中国大陸の国や地域を領有して、どの程度の国益を得たのかを試算しています。
『大日本主義の幻想』(大正一〇年七月三〇日・八月六日・一三日号「社説」)より
今試みに大正九年の貿易を見るに、(中略)朝鮮(中略)台湾(中略)関東州(中略)この三地を合せて、昨年、我が国はわずかに九億余円の商売をしたに過ぎない。同年、米国に対しては輸出入合計十四億三千八百万円、インドに対しては五億八千七百万円、また英国に対してさえ三億三千万円の商売をした。朝鮮・台湾・関東州のいずれの一地をとって見ても、我がこれに対する商売は、英国に対する商売にさえ及ばぬのである。(中略)もし経済的自立ということをいうならば、米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国といわねばならない。(中略)我が工業上、最も重要なる原料は棉花であるが、そは専らインドと、米国とから来る。また我が食物において、最も重要なるは米であるが、そは専ら仏領インド、シャム等から来る。(中略)しかしかくて種々の干渉をした結果、全体として我が支那に対する貿易は、どれほどの発展を遂げたかといえば、過去十年間において、その増加は、同年間における米国に対する我が貿易の増加の約三分の一にしか当らない。(中略)例えば世人はしばしば支那の鉄、支那の石炭と、大騒ぎするが、昨年において、その鉄はようやく二億五千三百万斤、石炭は五十五万八千トンを、輸入しておるに過ぎない。(中略)普通の商売として、昨年米国からは十二億五千五百万斤、英国からは三億三千二百万斤の鉄の輸入があったのである。
『石橋湛山評論集』(松尾尊兌編、岩波文庫、1984年)
石橋湛山は、植民地支配の利益は少なく、かえって、USAやUKなどの国々との関係を悪化させ、不利益をもたらすから、むしろ、植民地を放棄せよ、と主張し続けます。でも、日本は、中国大陸への軍事的進出をやめませんでした。
石橋湛山の『大日本主義の幻想』の発表から約20年後の1940年(昭和15年)、衆議院議員齋藤隆夫が、演説のなかで次のように述べています。
『支那事変処理に関する質問演説』(昭和十五年二月二日、第七十五議会)より
諸君も御承知の如く、我国は曾て四十余年前に支那と戦った。三十余年前に露西亜と戦った。是等の戦は何れも国運を賭したる戦であったに相違はございませぬが、今回の戦と比べまするならば、其の規模の大なること、其の犠牲の大なること、日を同じくして語るべきものではない。(中略)併しながら唯軍費として吾々が此の議会に於て協賛を致しましたものだけでも、今年度までに約百二十億円、来年度の軍事を合算致しますると約百七十億円、是から先どれだけの額に上るかは分らない。二百億になるか三百億になるか、それ以上になるか一切分からない。それ等の軍費に付ては一厘一毛と雖も支那から取ることは出来ない。悉く日本国民の負担となる。(中略)事変以来歴代の政府は何を為したか。二年有半の間に於て三たび内閣が辞職をする。政局の安定すら得られない。斯う云うことでどうして此の国難に当ることが出来るのであるか。
『齋藤隆夫かく戦えり』(草柳大蔵著、文春文庫、1984年)
なんか、「支那事変の処理」を「原子力発電の廃棄物の処理」に変えたら、今の時代にも当てはまりそうな気がする……。
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