2012年6月最首塾定例会ワークショップ「科学技術文明史と倫理」(顔合わせ)
科学技術文明社会という言い方がある。科学技術と社会政治文化が相補相乗的に形成するシステムの在り様を示す。このシステムは、石炭から石油、そして原子力に至るエネルギー所有の変遷と共にあるが、その一大特徴としては「最終目的がない」ことが挙げられるかもしれない。レイチェル・カーソンは、このことを踏み車にたとえ、一度踏み始めると止めたらどうなるかこわくて止められないと指摘した。
踏み車を踏み続けざるをえない現代の私たちは、その受動性ゆえに、自らを「第三者」と見なそうとする。強いて言えば「良心の立入禁止区域」(ギュンター・アンデルス)を設けようとする。だが、その「立入禁止区域」は今、少しずつ浸食される状態にあるのかもしれない。やましさや居心地悪さが強まり、「第三者はない」(宇井純)のだと、私たちを疼かせ始めてはいないか。 私たちの陥るこの「自縛装置」(十川治江)は、そうであれば尚のこと、そこに踏み込む必要がある。今回は、この科学技術文明史自体を解きほぐし、その表の歴史からは消えた可能性をも訊ねたい。私たち自身がかつて持った生命(いのち)観、有機体論のもつ可能性、そしてシモーヌ・ヴェイユの「脱創造」、進歩史観以前の中世哲学などから示唆を得たい。 |
