ゴレ島は、かつて黒人奴隷の積み出し港でした。
ダカールの沖合いに浮かぶ島、ゴレ島。
ここには悲しい歴史があります。
16世紀、新大陸を征服したヨーロッパ人たちは、現地でヨーロッパ市場向けの広大な農場経営に乗り出しました。
農場での労働力として当初は現地のインディオを使役していたのですが、そのうち疫病や虐殺などでその数が激減していってしまったのです。
そこで彼らは、アフリカから黒人たちを連れてこようと考えたのでした。
16世紀中頃からはじまる、いわゆる「三角貿易」。
ヨーロッパ産の綿布や酒、鉄砲などをまずアフリカ西海岸へ運び、そこで黒人奴隷と交換する。
次にアメリカ大陸へと渡り、今度は奴隷たちを砂糖や綿花、タバコなど現地で栽培された原材料と交換する。
そして、それらの原材料をヨーロッパへと運び、商品にして世界中に売る……。
この奴隷貿易によってヨーロッパ諸国は莫大な利益を得たと言います。
一説によると新大陸に連れて行かれた黒人奴隷の数は1200万〜2000万人。
北朝鮮の拉致どころの話じゃない、ものすごい数の拉致です。。。
島の端っこにある要塞の跡です。
西アフリカ各地から集められた黒人たちは、この島で集積されたのだといいます。
大砲の跡があります。強い日差しに照らされ、その遺跡は静かにたたずんでいます。
丘の上にも巨大な大砲の跡がありました。今では観光スポットになっています。
丘の上から見たゴレ島の眺めです。かつて、そんな悲惨な歴史があったことなど露ほども感じさせないのんびりとした風景です。
奴隷たちの航海は悲惨極まるものでした。
参考資料からちょっと抜粋して紹介します。
「西海岸の各地から新大陸までは、ほぼ四〇日から七〇日の航海だったが、悪天候が続けば一〇〇日を越えることもあった。これは「三角貿易」の第二辺をなしており、「中間航路」(Middle passage)と呼ばれた。「中間航路」こそは人類史上例を見ない、凄惨きわまる奴隷航海のことであった。時期によって相違はあったが、航海中の死亡率は八パーセントから二五パーセント、平均的には船上の捕虜六人のうち一人が死んだと言われる。
奴隷船の大きさは一〇〇ないし二〇〇トンで、船に積み込まれる前には男女とも頭を剃られ、所有主か会社のブランドが身体に焼き付けられた。足首に鎖を付けられたほか、全裸で、船のトン当たり一〜二名が船倉にぎっしりと詰め込まれた。食事は朝夕の二回、少量の水がときどき与えられたほか、一日に二回程度は甲板に出て外気を吸うことが許された。船内は不潔そのもので、汚物と臭気が充満し、マラリア、天然痘、赤痢などの病気が襲うこともよくあった。そんな場合、死者だけでなく、病気にかかった者までが生きたまま海に投げ捨てられたために、奴隷船の後をサメの大群が追いかけたという。航海中の損失を少なくするために、船荷には多額の保険がかけられた。」
新書アフリカ史 宮本正興+松田素二編 講談社現代新書
ここから奴隷が海へと送りだされた。
「帰らずの扉」
私のおすすめ:
新書アフリカ史 /宮本正興/編 松田素二/編 [本]
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ところで、その記事はどこへ行けば読めるのですか?
2007/8/28(火) 午前 0:20
何となく、フラフラとやって参りました。又同じ記事に到着(笑)!!、トラバさせて下さいね☆
2007/11/30(金) 午後 1:57 [ ]
ぼすさん、ほんとにアフリカ好きなんですね〜。
トラバありがとうございます!
2007/11/30(金) 午後 11:21