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私なりの健康法

「万歩計」なるものが出ると、すぐ買った。だが、すぐ手放した。当時、通勤日でも一万歩以上必ず歩いたし、休日には、二万、三万に及ぶのが常で、毎日一万歩以上歩いたか、一々確かめる必要もなかったからである。糖尿病対策として、五十歳を過ぎてからプール通いも始め、だから飲酒量はかなりのものだったが、なんとか血糖値は妥当な範囲内に収まっていた。退職後は、外で酒を飲む機会は減り、他方、プールで泳ぐ回数は増えたから、血糖値はますます安定したのをいいことに、晩酌は、ビール、日本酒、ウイスキーと手当たり次第だった。

様相が一変したのが七十五歳前後からである。プールでは、泳ぐ速度が激減し、他の泳者に気兼ねするようになってスッパリやめた。毎年夏には、すぐ下の海で泳ぐのもやめた。波を乗り越える自信がなくなったし、他方、1960年代頃には、海の家が何軒も建ち並び、我が社も一軒持っていたし、神戸辺から貸し切りバスで来る人々もあったのだが、最近はその海の家も一軒だけになり、泳ぐ人も激減した。「鮫が出た」という情報もあったし、土台、今の子供達にとって、泳ぐのはプールとなっていて、「海で泳ぐのは怖い」となり、それをモンスターマザー連が強調するからだろう。

昨年は、とうとう一軒だけ頑張っていた海の家も閉じて、私のように自宅で水泳着に着替えてサンダル履きで飛び出し、濡れたまま帰宅してシャワーを浴びることの出来る者しか海水浴は出来なくなって終ったのだ。学校にプールなんぞなかった終戦後、坪井川なる泥だらけの川で泳ぎ、たまにはドジョウなど捕まえる余録もあった私達の水泳とは髄分違って来たものだ。糖尿病に気兼ねして、晩酌は芋焼酎一升を五日で空け、一日二合とした。この辺が適量なのだろう。ΓGPT70前後だ。

水泳は兎も角、歩くことにかけては、そのスピードにも距離にも自信あった私だが、これも2年前から怪しくなった。血中の塩分が不足する、という奇病にかかり、脚元がふらついて、附近の道路で転んで起きることが出来ず、通りかかったおじさんに抱き起こされ、軽四のおばさん二人に家まで送られる始末。そこで医師の指導に従い、毎日梅干しを三個ずつ食って1年、NACLの数値はなんとか正常に服したのだが、脚元のふらつきは治らない。だが、私には糖尿病対策、という難業があり、水泳を辞めた今、もう歩くことしかないのだが、それが、スピードにおいては赤ん坊を乗せた乳母車押しの主婦にも抜かれ、距離も全然出ない。そこで、一念発起、また万歩計を買って、一日に六千歩、出来れば一万歩歩くことにした。だが、しんどい足を引きずって、漫然と歩くのは全く面白くない。何か目的がほしい。かくて、今月十七日(金)、この日は、内科、脳神経外科、とダブルヘッダーをこなすことになっていた。いずれも西明石駅付近で、我が家から約四キロである。そこで、七時過ぎに出発、内科に一番乗り、9時半には薬を貰って脳神経外科へ。ここは十時半の予約だったが、丁度その頃着き、若干待たされ、十一時過ぎに薬取得。また歩くのはちょっとしんどいな、タクシーにするか、など考えながら駅前へ行くと、うまいこと、一時間に一本のバスが停まっている。これは、普通百円のところ後期高齢者は、パスを示せば五十円、タクシーの七百円強よりは安く、降りてから家まで二キロほど歩ける利点もある。なんやかんやで、この日はなんとか一万歩をクリヤーした。土曜、日曜は、午後、海岸を三千歩ほど歩いた。以前は、朝早く歩いたのだが、「高血圧の者が寒い中を歩くのは一番危険だ」と内科医に言われ、渋々従って、午後三時過ぎから、としている。月曜日、この日は三ヶ月に一回の眼科医である。西明石からJRで朝霧へ。ここから、病院のシャトルバスに乗るかタクシーである。ところが、この朝、腰が痛い。真向法の体操で押さえ込んでいるのだが、たまに痛む。以前、それを押して歩いたら、途中で痛さ耐え難くなり、強情に携帯電話を拒否している身は、タクシーを呼ぶことも出来ず、人家の塀を頼りに、這うようにしてやっと辿り着いたことがある。同じ愚を繰り返すこともないので、息子の車で病院まで送り届けて貰った。帰りは、病院のシャトルバスで朝霧駅まで。JRで西明石へ。腰の調子はどうやら治ったようでもあるので、歩くか、とも思ったが、矢張り大事を取って、五十円バスから自宅まで二キロほど歩いただけ。病院通いは、私の歩数稼ぎの中心なのだが、どうやら、金曜日は合格、月曜日落第、はということだろう。中学時代はマラソンの第一人者、大学時代には、九州の標高千メーター以上の山を全部征服する目標を立て、船賃のかかる屋久島以外はほぼ果たした身、としては、なんとも情け無い晩年だ。頭の方はまだ大丈夫と自負しているのだが果たしてどうだろう?

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「想定外」の世紀

「想定外」の事態が続発している。

その第一は、トランプ大統領誕生だった。常におかしな話題に包まれている男。その大金儲けの手法にも疑惑が持たれること多かった。齢70歳にして、政界進出、それもアメリカの元首たる大統領の座にいきなり手を出したのだから、アメリカでも外国でも、泡沫候補と見られていたし、選挙運動中の度重なる暴言、それも合衆国憲法に明らかに違反する言動には、共和党内部からも批判続出だった。それが当選した理由は、日本では取り上げられていないようだが、アメリカの社会構造分解がある。昔、白人は、黒人その他の少数民族に君臨していた。それが、今日では、黒人やアジア系の連中でも、学校を出てそれなりの技術を身に付ければ、教育のない白人よりも、遙かに高い給料を稼ぎ、それなりの地位も占めて、白人達を眼下に置いている。これらpoor whiteは黒人達を憎悪し、白人警官の黒人イジメが常態化しているのもその一例である。Lady Firstの国故に、家に帰っても、奥さんに従い、かつその絶え無き不満を聞かざるを得ない。そんな彼等には、トランプのAmerica Firstがなんとも心地よく響いたに違いない。オバマ前大統領は、黒人層のそんな基盤をベースに、華々しく登場し、結局、何もやることなく退いたのだが、トランプは如何に?私は、オバマよりは彼が、より強いアメリカを、世界のリーダーたるアメリカを再現して、もっとましな世界にしてくれるのを期待しているのだが。

第二は、未だに再建の道筋すら見えない東京電力である。曾て東電は優良株、資産株の代表だった。国家が付いているのだから倒産はありえないし、高配当で株価は安定しているから、老人の命綱、主婦のへそくり綱、とされたのが、ほぼ、無抵抗で瓦解した。考えて見れば、私の友人に東電勤務はいなかった。従業員の子弟で固め、役人天下りの定席であり、政界、学会、官庁のギャングに弄ばれていたから、の為体である。

第三は東芝だ。かつて東芝は、優良企業の代表だった。土光敏夫、石坂泰三と経団連会長を二人も出した名門企業、ワープロやラップコンピューターの先駆者、重電部門でも日立と競い合う存在だった。それが、一度蓋を空けてみれば、各部門粉飾決算を年々繰り返し、只今集計中の今季決算では、債務超過に陥ることが確定した。各部門毎に損益を計上する事業部制は結構だが、トップから各部門に示される年度目標が、土台達成不能な高さだが、各部門の長は、計画未達となればクビが危ないから、無理に無理を重ねた粉飾で計画達成を装い、それが積み重なって巨大損失判明ともなっているところに、これも隠されたままだった、アメリカのウエスティングハウス買収に伴う大赤字まで浮上して、未曾有の大赤字決算となりそうだ。これは、前に述べた通り、他所の会社にもある構図だ。計画達成をひたすら追求し、その中身を吟味することなく、トップは大きな顔をしている図である。計画達成は、ドラッカーの言う、Management By Objectiveの基本だが、それが未達の場合は、トップも一緒になって原因を追及し、もし計画そのものが高すぎたのなら、それを見直すことも辞さないのがトップの第一の仕事なのだ。山内証券の破綻以来の大惨事だが、メーカーの場合、部品等供給の関連会社群まで率いているから、それまで含めた従業員数は膨大になる。

債務超過が来期も続くなら、株式の上場廃止も免れず、既に暴落している株価は実質ゼロとなって、株主諸侯の損失は大変だ。そうなれば、アメリカにはこの種の集団訴訟に特化した弁護士群もあるから、世界中で損害賠償訴訟が多発し、その方のコストも膨大なものとなるだろう。だから、特に大衆株主を抱える上場企業は、健全経営を続ける責任があるのである。

こんなこと言うと、「従業員数百人の中小企業しか率いたことないのに、東電や東芝のような大企業を論ずるのは、噴飯ものだ」と指摘される人もあるだろう。確かに、私が社長を勤めた会社は、ドイツでも日本でもそんなものだった。アメリカでは、実質的には社長、名目は副社長を務めたこともあるけど、これも百名にも足りない小企業だった。私が大企業を論ずる資格はないかもしれない。だが、私が体験した大企業、川重で私が社長になる目途はゼロ、これこそ想定外だった。もう一つ想定外だったのは、若い母が、同居している男性と一緒に、子供を虐め殺す事件が多発していることだ。母の愛情の強さは、よく知られているだけに、こんな事件の多発は想定外だった。

日本社会も、何かにつけて、大きく変わったのだろうか?

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畏友N君のこと

1960年4月入学。我々のLⅡ3組は50名ちょっと、女性が数名いるのが、男子校だった九学から来た私には物珍しかった。ロクに登校しないのだから、友人もできず、9月頃だったか、珍しく顔を見せると、クラスでは、毎年秋に開かれる「駒場祭」にクラスとして何を出すか、の議論だった。駒場祭が何かも心得ぬ私は、一言も発言しなかった。各人が、天下の秀才気取りで畏まっているもんだから、議論は一向に噛み合わず、退屈した私は。「そろそろ逃げ出すか」と思案していた。その時「みんなで舞台に並んで、『お富さん』を唱えばいいんだよ」の一声。「お富さん」は当時大流行の歌謡曲で、こんなモノを唱う気は誰にもなく、それだけに寛いだ雰囲気になり、何とか出し物が纏まったのだった。「こいつ、集団心理操縦を心得てるな」がN君に関する私の第一印象だった。その後、なんとなく仲良くなり、「最後の橋」というドイツ映画を、池袋で一緒に見たこともある。教養課程が終わって、彼は志望通りドイツ文学へ進み、私は、心ならずも教育学部に廻され、同じ本郷へ通学したのだが、私は土台通学しなかったし、彼とは会うこともなかった。彼は大学院に進み、私は法学部に学士入学し、同じ本郷構内だったが、彼と話した記憶もない。卒業後、川重に就職した私はアメリカ、ドイツとバイク稼業に精を出し、彼は、ミュンヘン留学を経て、大学でドイツ語を教えながら、評論家として売り出し、私は、彼の本は残らず読んで、感銘を深めていた。川重時代の末期、アメリカ開拓時代の話を一書に纏めたが、出版の目途なく、彼を自宅に訪ねたところ、当時の「ダイヤモンドタイムス」社に紹介の労をとってくれ、かくて私の第一作、「モーターサイクルサム、アメリカを行く」は日の目を見ることができたのだった。ドイツ時代、一時帰国した私は、彼がニーチェに関する大作を出したのを知り、早速読み、ニーチェには、学生時代、被れた時期があるだけに、いたく感銘した。欧州からロシアまで、各国の学者と議論しながら纏めた手法も、日本人には珍しく、これも気に入った。取引銀行の支店長が、大変な読書家だったので、帰独後進呈したら、「この本は是非読みたかったんです」と感謝された。BMWに転じて東京勤務、毎年同窓会で彼と話すこともあった。だが、二人きりで談じ込んだ記憶はない。ただ、二人とも酒好きだから、二次会、時には三次会まで飲み廻ることもあった。やがて彼は「新しい教科書をつくる会」を組織してその会長となり、マスコミに登場することも増えた。この話も酒の上で何度も聞いて、その趣旨には大賛成だったから、直ちに入会した。ただ、仕事に忙殺されて、総会に顔を出すこともない会員だった。そのうち、BMW東京の社長となり、ますます多忙なある日、彼から電話。「社長就任のお祝いをやろう!」。これは一種の社内移動に過ぎないから、と断ったが、「いや、これは日本では祝うべきことなんだよ」。彼と一杯やるのは大賛成だから、その夜、懐かしい駒場に近い駅で待ち合わせた。当時の私は、一眼しかないその左目に白内障が進行していて、特に夜間は非常に不自由だった。石段を登りかねている私に、彼は手を差し伸べてくれた。右翼とかいろいろ批判されること多い彼だが、その手は小さくて、とても暖かだった。

やがて、定年を2年オーバーしてBMWを退職、故郷の熊本へ帰っていると、彼から電話。「もう暇なんだろう?つくる会の理事になってくれ」。「いや、わしは学者じゃないし、教科書なんか書けない」「会員が一万人を越え、年間億単位の金が動くようになった。その管理をやってほしいんだ」

かくて理事就任。間もなく副会長になった。彼は終始、私を活用してくれた。やがて私も70歳近くになり、八木秀次が数名の若手理事を率いて参加、私は彼等に譲って引退、と決め、前年9月の総会で副会長辞任を認められ、理事も3月末で辞めることとし、事務所にも理事会にも出なくなった。ところが2月末、ある理事から、次の理事会には是非とも出て欲しい、との要請。出てみると、八木会長と某副会長との大激論、結局、両者とも辞めて、私が会長を押しつけられた。私は、短期間で次会長を決めて辞任することを求めた。半年程、全然離れていたので、事務所の全員にヒヤリング、地方支部にも聴いたが、八木会長を推し、彼への誹謗中傷は全く根拠ないことがわかり、その旨理事会に計ったら、また反対。これでこの会に見切りを付けて退き、八木以下の若手理事も辞めて、「日本教育再生機構」を立ち上げた。これが、全ての面で「つくる会」を越えているのは明らかで、私達が正しかったことも証明された。だが、これはN君の意に沿わず、50年来の友情は消えたのだった。N君とは西尾幹二君、彼と過ごした「つくる会」の爽やかな記憶は今も残っている。

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音楽と私

東京都葛飾区金町幼稚園の私は歌がうまく、学芸会で独唱すべく練習を重ねたが、肝心のその時、砂場で遊び惚けていて舞台に間に合わなかった。余程ボンヤリした子だったのだろう。卒園式の際、園長先生の気配りで、その歌を唱わせて貰った。

国民学校時代、大東亜戦争が始まって、軍歌ばかり唱っていた。それが敗戦となると、全くの様変わり、流行歌一辺倒、ラジオから流れる歌を、大人も子供も唱った。私は、岡晴男の「憧れのハワイ航路」が一番気に入っていた。食う物もロクにない貧しさの中、アメリカは豊かで明るい国とされていたが、アメリカ本土は余りにも遠く、せめてハワイ、そこへの船旅が憧れだったのだ。そのハワイにも、実際に行った人なんぞいなかったから、歌の中身も航路に限られ、ハワイそのものについては、「椰子の木陰にホワイトホテル」とあるだけだった。

中学校になると、流行歌が昂じて、安物のギターを買った。教える人もなく、コードなど知りもせず、専ら歌のメロディーを引っ掻くだけだったが、それでも友人達には大もてだった。だが、やがて、それが本物のギター演奏には遠いことがわかって辞めた。代わりに、父が学生時代にでも用いたのだろう、古い、手回しの蓄音機と少数のレコードを見つけ、苦労して聞いた。レコードは古くて痛んでおり、まともに全曲聴けたのは、ビゼーの「カルメン」だけ、これを聞きながら指揮者の真似をして興じていた。父に、「お前が人並みなのは歌だけだな」と叱られて歌手を志し、同じ年頃の美空ひばりが売り出し中だったから、その歌を熱心に聞くこともやった。

高校へ進み、受験勉強に嵌るうち、発見したのが、毎週日曜日朝、NHKラジオで堀内敬三が解説役を務めた「音楽の泉」である。この博識な音楽評論家が、曲について、恐らく現在の私が聞いても感服するであろう素晴らしい解説の後、その曲を流すのだ。私は毎週、この時間だけは私がラジオを独占する旨家族に納得させ、夢中で聞いたものだ。私のクラシック音楽開眼だった。

東京での学生時代、酒代と本代で、全然余裕のなかった私が幸運だったのは、当時の東京には、コーヒー一杯でレコードをいくらでも聞かせてくれる「名曲喫茶」なるものが雨後の竹の子の如く沢山生まれていたことだ。加えて、学友の中には、クラシック音楽に詳しい者もあり、私は、彼等と一緒に聞き、彼等から、多くの知識を得ることが出来たのだった。

卒業後すぐ結婚、初任給で二人食う貧窮の中で、私が最初に買ったのが、安物のオーディオと、LPレコード数枚だった。妻も音楽好きだから出来た蛮行である。やがて生まれた長女にピアノを買い与え、習わせたのは、私自身、楽譜も読めないのを一生の不覚、としたからである。アメリカ時代、殺人的多忙さの中で、週一回、娘のピアノレッスンだけは、妻に運転禁止を科していため、欠かしたことがなかった。6年遅れて生まれた次女にはバイオリンを学ばせた。長女は、ピアノから歌に転じ、音楽課程を終えて後、ドイツに10年も留学、だが当時はドイツも不況で、オペラハウスの多くが閉鎖されていることもあって契約できず、帰国して「劇団四季」で唱っている。次女は普通大学を卒業したのだが、バイオリンの腕は確かなようで、アメリカでは、子供に教えたり、土地のオーケストラで弾いたりして生活していた。

引退の今、私は自宅で読書、パソコン興じていることが多いが、必ず、お気に入りの曲を鳴らしている。次女が小学校、長女が中学の頃、明石公会堂あたりで、長女のピアノ伴奏で次女がバイオリンを弾くコンサートがあり、私は最前列で、彼女等が登場すると、百面相を演じて次女を笑わせようと試み、彼女はその手にのらないため、他所を向いて顰めっ面をするため、隣席のおばさんが、「あの子、可愛いのに、なんで他所向いて怖い顔してるんやろ」と呟いていたものだ。

彼女等が大きくなると、私が社長をしていたBMW東京(株)の各支店で、プロのピアニストを入れ、お客さん方を招いて、コンサートをやったこともある。現横浜市長林文子さんの立案による。

妻は、「劇団四季」の長女を、見るべく、日本中くっつき廻った。アメリカ旅行の際は、必ず次女のオーケストラを聴くことにしていた。息子は、ギターと歌がうまく、ひと頃関西でバンドを率いていたが、これは聴くことないままだった。

かくて、私の音楽好きは子供達に伝わり、私はそれを聴いて楽しむことになったのである。

明石で暮らすようになった長女の、10時からの歌練習は、特に私の楽しみになっている。

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バイクレースと私

鈴鹿サーキットは1962年に生まれた。当時の私は、カワサキ新入社員。バイクが好きで、欧州メーカーの独壇場だったGPレースでホンダ以下の日本勢が各クラス次々に制覇して行くニュースに胸躍らせ,カワサキ2サイクル125CCB8でツーリングなど楽しんでいた。「鈴鹿に行こう!」となり、当時の名神高速は150CC以上しか走れないから、会社から150CCB8Sを借りて、数名でよく行ったものだ。ホンダ以下三社の勝負に痺れ、「カワサキもレースをやらにゃあ」と意気込んだものだが、B8好調で、バイク事業打ち切りを一先ず見送った当時のカワサキには、鈴鹿でのレースなんぞ絵に描いた餅に過ぎなかった。

初めてレースに関わったのは、何度も書いた、1966年夏、カリフォルニア一人ボッチの時だ。これも書いた事あるけど、「サイクルワールド」誌のロードテストが済んで帰って来た250CCA1を、勧められるまま、プロダクション・クラスに出して完勝、以後各地で連勝を重ねると、アメリカにたった1台だけのA!の速さが話題になり、私のアパートへの問い合わせやディーラー志望の電話相次ぎ、「バイク事業におけるレースの力は大変なものだな」と再認識した次第だった。

私帰国後の1970年代前半、カワサキH2Rは、アメリカのスーパーバイク・クラスを席巻した。最盛時、確か7名の契約ライダーを擁したが、スタートして周回して来ると、一位から七位まで独占、その後、転んだりマシントラブルで脱落する者もあったが、一位は必ずH2R,一位から三位まで表彰台を独り占めしたこともあり、「レースで勝つ、とはこれだな」と納得したものだ。

1970年代後半、私は欧州列国を周遊、ここでは、バイク・レースはテレビ中継され、その人気はアメリカ以上であることを知った。だから、1976年、ドイツの社長になると、ロードレースとモトクロス両者でドイツチャンピオン獲得を決意し、発足間近でまだ資産も乏しいのに、週末毎に国内レースから偶にはGPも観戦して、ライダー吟味に努めた。社員達も、こんな私に大賛成だった。かくて1978年春、ドイツでは一番有望なライダーにアプローチした。モトクロスの方は簡単だったが、ロードのマングは、他社からの話もあるようで、私の渋い金額になかなか同意しなかったが、前年1977年5月、ホッケンハイムリングンのドイツGPで、初登場のKR250で、欧州初めての清原明彦が二位となったマシンの魅力に惹かれてその金額で同意し、「但し、その金は全額メカニックのゼップにやってくれ。私は勝って賞金を稼ぐ」という異例の契約になった。二人は子供の頃からの親友だったのである。かくて始動した1978年シーズン、二人ともドイツチャンピオン確保、カワサキの知名度は大いに上がり、見事に目的を達した。だが、こうなると、マングはGPクラス参戦、GPライダーとしての契約を求めて来た。彼は、1978年にもGPで走ってかなりの成績を収めていたのである。だが、GPとなると契約金額もグット上がり、メーカーとの契約が普通である。だが、川重も財務状況は芳しくなくて縮小ムード、それにイギリス拠点に500CCクラス進出を目論んでいて、到底受け入れない。私は、熟慮の上、川重が部品提供と技術援助には万全を期することを条件に、マングと契約、彼は見事な走りを見せた。翌年、川重は、1979年モデル提供を申し出たが、彼は断った。ゼップと二人、1年間戦いながら仕上げて来たマシンの方が信頼性高い、と言うのである。かくて始まった1979年、彼はほぼ連戦連勝で、250CCクラス世界チャンピオンに輝き、ドイツは、久し振りのドイツ人世界チャンピオンに沸き返った。その中で、私は彼に解約を告げねばならなかった。勝つ度に支払う賞金も含めて、カワサキ・ドイツのコストは莫大になっていた。間もなく帰国する予定の私は、このコストを後継者に渡すに忍びなかったのである。ドイツ中が、世界チャンピオンをクビにした日本人を非難した。少年ファンからの抗議の手紙もあった。だが、経営者として私の決意は揺るぎようがなく、ただ、彼等が2年間戦ってきたKR250を無償で渡し、純正部品の供給は続けることを約したのだった。彼等はこれで、1990年チャンピオンになった。他方、帰国した私は、「ライダースクラブ」誌上に「アントン・マング物語」を連載した。川重が彼を認め、契約してくれることを期待してのことである。彼等は、1991年も勝ち、めでたくメーカー契約となって、日本へ招待された。彼は、この憎らしくも懐かしい私を一生懸命捜した由だが、私は、オーストラリア出張中のため、会えなかった。産みの苦しみは味わうけど勝利の喜びには無縁、これが開拓者の宿命なのだろうか。

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