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危機の日本

2001911日、いわゆる9・11。アメリカ経済の中心地ニューヨークと、首都ワシントン内にある軍事本部ペンタゴンを襲った同時多発テロは、21世紀初頭、同世紀の様相を一変させた。

テロとは、アフリカや中近東の一部に限られた現象とされていたのが、一挙に、超大国アメリカをも襲う事態となった。襲われたアメリカは、日本軍の真珠湾攻撃以来の本土攻撃として、大いに過剰反応した。入国検査が、常識を越えた厳重さとなり、「開かれた国アメリカ」が一転、閉ざされた国となり、従来からの黒人蔑視に加えて、イスラム教徒への警戒心が条規を逸するものまでなった。

やがて、アメリカのガード強化を避けることもあって、テロは、震源地たえる中近東、アフリカに近く、十字軍以来の因縁、第一次大戦後、イギリス、フランス両国が、両地域を、それまでの歴史等一切無視して、勝手に分割した恨みもあって、欧州諸国に伝播した。ここでは、両国の司令塔からの指示を受けて、フランス人がフランス内で、イギリス人がイギリス内で起こす自国民テロにまで発展した。オバマ大統領の無為無策、責任回避が、IS、イスラム国という、未曾有の大テロ組織育成に手を貸すことにもなった。これを殲滅すべく、アメリカは空爆を行い、イラク軍から、元々イラク、シリア、トルコ内にあって民族独立を唱え、反乱軍扱いされていたクルド自治政府軍まで動員しているが、アメリカが、オバマ政権下、地上軍派遣を拒み続けて来たため、一向にはかどらない。加えて、今年、欧州諸国で総選挙、大統領選挙が相次ぎ、いずれの国でも、移民・難民排斥、EUからの離脱を唱える極右政党が支持を広げている。第一ラウンドたるオランダでは、なんとか第二党に押さえ込んだが、続くフランス、ドイツで、極右政権誕生となれば、EU崩壊に繋がりかねないし、ロシアのプーチンは、ほくそ笑みながらそれを眺めており、東西共、極めて流動的なのである。そして、ISは、日本をも標的にすることを明言しており、東京オリンピックを控えて、その恐れは高まる一方である。日本は、言語も文化も違いすぎるため、中近東やアフリカのテロリストが直接仕向ける事は難しい。だから、日本人の同調者による自国民テロになる可能性が高い。

一方、北朝鮮は、核弾頭を搭載したICBMで、日本の米軍基地を攻撃することを明言しており、何をやるか分からぬ国だから、本当に実行する可能性もあり、そうなれば、日本列島は壊滅するのみだ。更に、昨今、韓国政局が極度に不安定化し、次の政権は、北に甘い左派になることが確実視されている。そうなれば、北と韓国新政権が呼応して、朝鮮半島を共産化することも考えられる。朝鮮動乱の再来である。

アメリカでは、白人の一部が貧しくて高等教育を受けることが出来ず、他方、黒人やラテン系、アジア系移民でも、高等教育を受けて、高い地位、収入を得ているため、彼等白人の不満が高まっている層を扇動して、トランプ大統領が誕生した。その言動は未だに支離滅裂を極めており、上下両院とも共和党が制している点では安定して見えるが、実は共和党内部でも、彼への不満が高まっており、彼が、上記の不安定要因の解決に向かうかどうかも定かでない。

日本の危なさは、日露戦争前夜にも似ており、安倍首相は、諸国と連合しながら、危機回避を狙っている。だが、彼を支えるべき、国権の最高機関たる国会の体たらくは一体何だ!

上記の国際危機に加えて、国内でも、各国と手を結んでテロ対策に当たるに不可欠のテロ等準備罪法案成立、天皇の譲位制確立、等、日本の未来に繋がる重要事項が目白押しなのに、そこで議論されているのは、大阪の小さな幼稚園をどうするか、それに関連して安倍首相の足を引っ張ること、

築地市場の移転問題、それに関連して石原慎太郎元知事、84歳のご老体を、医師付きで証人喚問する事、等である。本来、大阪幼稚園は、大阪府議会止まり、築地市場移転は東京都議会止まりの地域問題なのに、これらを国会で取り上げ、前記した国事行為を無視して騒ぎ、それをメディアがまた大騒ぎしている異常事態の犯人は、共産党に振り回されている民進党である。

肝心の案件を後回しにしているため、日本に不測の事態が生じた場合、それは民進党の責任とせざるを得ない。84歳の石原元知事を招致して詰問するような行儀の悪さは、今までの日本人にはないものだった。子供達はテレビを見ている。国会や都議会の醜態が、彼等に与える影響も考えれば、

共産党先導の民心進党は、本来、直ちに国会を去るべきなのである。ヒットラーの台頭は、かようなだらしない議会に起因したことも、改めて思うべきである

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片目失明者の弁

1983年、48歳。私は、23年間勤めた大メーカーを辞めて、ドイツ自動車、バイクメーカーの日本における販売に当たる、BMW{}に転ずることにした。新規まき直しに当たって、全ての面で万全であるべく務めた私は、その一環として、眼鏡を新調すべく、眼鏡屋に赴いた。数ヶ月来、視力低下を覚えていたからである。ところが眼鏡屋は、「右眼は全然視力がありません。眼科医の診断書を持って来て下さい」と言う。かくて初めて訪ねた眼科医は、「右目に白内障が進んでいます。手術が必要ですが、紹介しましょうか?」と思いがけないことを言う。私は、紹介は断った。BMWの勤務地は東京で、そこには極めて親しい医師もいるからである。

私の電話に応えて紹介してくれたのは、私達の母校たる、東大の付属病院医師だった。やがて上京した私は、その医師を訪ねた。彼は、「すぐ手術ですね」。手術後2週間入院した私は、退院後、仕事も生活も運転も、なんら不自由なくこなすことが出来た。コンタクトレンズを入れれば、視力1,2出ていたからである。ただ、古巣の大メーカーでは、「敵前逃亡の罰が当たった」とする旧友もいた由である。新しい職場で奮闘、それなりの実績を上げるうち、1年後、最初のバイク部門から自動車の営業部長に転じて、ますます多忙となった。退院時、「網膜剥離の恐れがあるので、3ヶ月に一回、必ず検診する」よう言われながら、それをサボっていた。なんとか時間をやり繰りして受診すると、「剥離が髄分進んでいます」即手術・入院。一度目は失敗。二度目も駄目で、片目失明の身となった。困ったのは、「なるべく運転しないよう」と言われたが、職業柄、バイク・自動車を、お客以上に巧みに、速く走らせるのは、楽しみでもあるが、職業上の義務でもあり、そう簡単に止める訳には参らない。自動車は、運転パターンが私に似ている部下に運転させて横で観察すること数日、今度は私が運転して、彼に観察させることまた数日。彼は髄分怖かったそうだが、なんとかやり抜き、以降、路上、高速道路では元より、ドイツでの新車発表会で、アウトバーンを時速200Km近くで飛ばすことも無事こなした。但し、バイクの方は、自動車よりも遙かに敏速な対応が必要で、これは、片目では無理なので、断念した。ある日、新聞に、加藤一郎先生が、自分も剥離を手術し、「網膜剥離友の会」を組織したことを書いておられた。彼がまだ助教授の時代、民事訴訟法を習った記憶がある。その後、教授、法学部長から、安田講堂事件などで一番大変だった時代の総長を勤められたこともニュースで承知している。早速ハガキで、教え子の一人であること、同じ病にかかり、手術に失敗して隻眼であることを伝えたところ、思いもかけず、自宅に電話を戴いた。「手術はどこで?」、「東大病院です」、「あそこは駄目です。総長だった私が保証するから間違い無い」、とのことで、自治医大の清水教授にご紹介戴いた。教授は、診察するなり、「右眼はもうどうにもならない。左眼にも、白内障、網膜剥離が必ず来る。3ヶ月ごとに受診、異常があれば、すぐ電話の上、来なさい」とのことだった。その後間もなく、プールで泳いでいる最中、左目に異常を覚え、土曜日の午後だったが、すぐ駆け付けたところ、「緊急手術」とのことで、すぐ受けた。弟子の一人から、「先生があんなに緊張され、万全の態勢で手術されたのは初めて見ました」と言われたが、隻眼だけに大事にされたのだろう。その後、ご預言通り、白内障、後発制白内障を手術戴き、隻眼を守って戴いた。加藤先生の「網膜剥離友の会」は、実は清水教授を支えるためのもので、私もその会員になっていたのだが、退官直後急死され、親が逝った時にも増して、悲しく、心細く感じたものである。間もなく加藤先生も逝かれた。

激務の連続だった会社生活40年を終えて関西の一隅に引退し、ノンビリ暮らす日々だが、加藤、清水両先生のご恩は忘れたことない。清水先生の持論は、「ゴルフのスウィングンの際、眼球が激しく動き、そのため剥離した例が、アメリカ、イギリス、日本にそれぞれこれだけある」と具体的な数字を示されてゴルフ禁止を命ぜられ、元々それほど好きなスポーツでもなかったので、仰せに従った。同時に運転禁止も言われたが、これは、職業上の必要性を力説して続けた。だが、数年前、家族達に視力低下を指摘され、少年時代以来の楽しみにも終止符を打った。近年、高齢者の事故続発を見るにつけ、これでよかったのだ、と納得、3ヶ月毎に眼科医の検診を受けながら、読書とパソコンン隻眼を駆使して楽しんでいる日々である。偶然、「片目失明者友の会」を知り、「会員相互の交流と権利の向上を目的とする」趣旨に大賛同、入会した次第である。

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「フレデリック・フォーサイス」ト言えば、ご記憶の向きもあろう。

1971年、「ジャッカルの日」で彗星の如く登場、以後ほぼ毎年、国際スリラーとでも称すべき作品を連発、その全てが、日本も含む各国で翻訳され、映画化され、何冊売れたか定かでないが、超ベストセラー作家の地位を築いた。本書、「アウトサイダー、陰謀の中の人生」(日本語訳書の題名)は、彼が、40年にも及ぶ作家人生を語って、2015年、イギリスで出版された本の紹介である。

彼は、イギリスの地方都市に生まれ、一人っ子として、両親の愛を独占して育った。第二次大戦中は、父が招集され、ドイツ空軍のロンドン空爆に怯えながらの日々だった。彼には小説家になる気は皆無だった。少年時代、ドイツ空軍を迎え撃った英国戦闘機のパイロットに憧れ、実際にパイロットの免許を取得している。だが、その頃、もう大戦は終わり、戦闘機乗りの夢は断たれた。次の夢は、世界中を旅するジャーナリストになることだった。記事を書くことではなく、世界中を旅することへの憧れである。この夢を果たすべく、両親の理解と援助の下、彼は、日本の中学・高校の頃、毎年夏休み、フランス、ドイツの両国にホームステイして、これら諸国の言語を、それらの国民として通用するレベルまでマスターし、その延長線上、スペイン語、ロシア語も、旅行するには差し支えないレベルまで習得している。日本や韓国でも、英語習得のための海外ホームステイが流行しているが、一度きり、ごく短期間のそれでは、英語圏の人々と同じレベルまで習得することは不可能だ。この語学力が、ジャーナリストとして広く海外各地で取材する上で、大きな資産になったのは間違いない。彼は、大学を修了することなく就職したため、一流新聞では採用されず、フリーランサーとして働かざるを得なかった。そんな彼のところに舞い込む仕事は、当時、アフリカ・中近東で繰り返されている内戦取材だった。危険が伴うため、新聞社は自社の社員を派遣したくなかったからである。彼は、こんな仕事を好んで引き受け、しかも、他のジャーナリストが避けたがる、最前線まで行って、現地人達に接触して取材した。こんな記事は確かに一部の読者には歓迎されたが、新聞社トップの好むところではなかった。この問題がはっきり顕在化したのは、ナイジェリア内乱である。彼は、最前線まで赴いて、政府軍の横暴、その犠牲になっている反乱軍及び現地人、特に子供達、の悲劇を生々しく報じた。だが、これはイギリスの国策に、そしてそれに従う新聞社トップの意向に反することだった。イギリス政府は政府軍に武器、資金を大量援助し、それに刃向かう反乱軍を悪として、その犠牲など知りたくなかったのである。彼は一種の危険人物とされ、取材要請も来なくなった。これで、ジャーナリストの限界を知った彼だが、無一文の身に借金が増える一方。窮余の一策として書いたのが「ジャッカルの日」だった。これは、当時のフランス大統領ドゴールを暗殺すべく、イギリスの殺し屋が、一人準備を進め、成功一歩手前まで行って失敗する話である。欧州各地の風物、風景、人物が、本当に生けるが如く活写されているのが、この作品の魅力なのだが、これは、彼が、言語力を駆使して各地を廻った体験に基づいているからである。

続く二作、「オデッサ・ファイル」、「戦争の犬達」も大ヒットで、彼は巨億の富に恵まれ、もう小説なんぞ書かずに、世界漫遊をしよう、と思うのだが、その富の半分は離婚した妻に取られ、後半分は金融詐欺で取られて、元の無一文となり、やむなく、この三作に続く多くの傑作を残して、我々を楽しませてくれるのである。

彼が登場した1971年の丁度10年前の1961年、司馬遼太郎の第一作、「梟の城」が出ている。これは、伊賀の忍者が太閤秀吉を暗殺すべく活動する話だが、ここでも、従来の忍者物にはない入念な考証が魅力になっており、これも、司馬が、ジャーナリスト出身だからである。フォーサイスの語学力も日本語までは及んでいないようだから、彼が司馬を真似たことはありえない。だから、偶然の一致に違いないが、興味深い偶然である。彼の諸作が、読んで面白い小説としては最高のものだが、それに尽きるのに対し、「梟の城」からスタートした司馬は、「龍馬がいく」「坂の上の雲」等、

面白いだけでなく、国や自分の行き方を考えさせる要素にまで及んでいる。だから、司馬の方が上、と断ずるのは、偏見に過ぎるだろうか?約40年間働き、退職してもう20年。司馬の諸作を再読し終えたところだが、今度は「ジャッカルの日」を読んでみよう。私の蔵書には、イギリス・ポンドの料金票が付いている。出張したイギリスで買い、帰途航空便で読み耽った記憶がある。

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朝の行事

前回に続いて、身辺雑記のようなものでご容赦願いたい。

 朝、4時半から5時の間に起床。たまに、6時半過ぎとなることもある。前夜、寝床で聞いた落語がとりわけ面白く、最後まで聞きながら焼酎を重ねた場合などである。普段は、焼酎を引っかけて寝床に入ると、誠に落語は大人の子守歌、30分程で熟睡するから、1時間かかるCDなど、1週間かけてやっと全編聞く始末である。

台所へ移動して、妻が買ってくれた健康薬、今様にはサプリメントか、を4種類飲んで梅干しを一個食べる。梅干しは塩分不足対策である。次いで、牛乳、野菜ジュース、糖尿をコップ一杯ずつ飲む。

寝室へ逆戻りして、処方された目薬3種類点けて、真っ向法に23追加した体操15分。内科、脳神経外科、泌尿器科で処方された薬10種類程、一日分だけ所定の小箱に入れて、また台所。

朝食くらい。家族揃って摂りたいものだが、5時半前後では皆、白河夜船だから、一人きりだ。

私の唯一の料理たるゆで卵を作りながら、前夜妻が用意してくれた、餅、トースト、納豆飯のいずれかを摂り、日本経済新聞を読む。そして仏壇に向かい、あの世の親族、諸先輩、友人諸君の冥福を祈る。仏教徒ではないが、日本人の朝の習慣である。

ゴミ捨ては私が責任を持つ唯一の家事だから、火、水、金、土曜にはそれを済ませて、2階の書斎へ。パソコンを起動しながら、窓を開け、海の彼方に向かって新約聖書の「主の祈り」を捧げる。

ミッションスクール九学で6年間祈った名残であり、教会や牧師とは関係ない。

パソコンでは、先ずメールを見る。私が最初から使い続けて十数年のマッキントッシュは、少数派でもあり、いわゆるジャンクメールに襲われないのをメリットの一つとしたものだが、最近、毎日100通ほどに悩まされるようになった。アップルに相談したが、予防策は施しており、それ以上、となると、個々の対応にならざるを得ず、時間も経費もかかる、とのことで、放置している。その大部分は朝届いており、その多くは、「迷惑メール」に入っていて、削除するのは簡単だし、土台、サンデー毎日の身、少々の手間は苦にならないからである。メールの多くはアメリカ英語で、簡単な金儲けや素晴らしいセックスを勧めており、「興味あらばここをクリックせよ」とあるが、勿論、クリックしたことはない。「ロシアから」と明言しているのも2,3ある。数多く送り続けていれば、偶には引っ掛かる者もいるのだろうか?

パソコンでは続いて新聞を読む。アメリカ紙4,日本紙2である。以前はドイツのフランクフルターアルゲマイネも読んでいたが、料金を請求されるようになってやめた。

トランプ大統領は、自分に不利な記事を掲載した新聞、テレビを閉め出している。これが、民主主義の大原則の一つ、報道の自由に触れるのは明らかだが、日本にも韓国にも中国に政治家がメディアを敵に回すのは大変勇気の要る事で、この点、彼の勇気には感服するし、今までのようなメディア野放しへの警鐘として、捕らえるべきだろう。アメリカの新聞を読んでも、その多くは日本紙が報じていることで、

社説欄位しか、読むべきところはない。だが、その地に住んで購読していた新聞では、その地域のニュースにも興味あるし、地名も懐かしい。ロサンゼルスタイムズやニューヨークタイムズを読むのはそんな興味もあるからで、フランクフルターアルゲマイネのもそうだったのだが。

北朝鮮指導者の実兄が、マレーシアの空港で暗殺された事件は、まことにショッキングで、各国、各紙、事件当初から、種々の推測記事を競っていた。

そんな中で、たまたま読んだ「聖教新聞」が、事件から1週間ほど経った225日、マレーシア当局の会見があって、初めて、その事実関係だけを伝えているのは、メディアのあり方について、一つの指針を示したものとして、興味深かった。

それにしても、北朝鮮という国は、日本人等拉致、この暗殺事件等、国際法も刑法も、全く無視した犯罪を重ねており、こんな国が、核兵器をアメリカ本土まで送り届けるICBNまで開発を進めているのは、人類の危機、とすべきだ。トランプ大統領が、アメリカ保全の見地から、この国を滅ぼしてくれないものだろうか?日本は、それと併行して、拉致被害者救出に努めねばならないのだが。

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私なりの健康法

「万歩計」なるものが出ると、すぐ買った。だが、すぐ手放した。当時、通勤日でも一万歩以上必ず歩いたし、休日には、二万、三万に及ぶのが常で、毎日一万歩以上歩いたか、一々確かめる必要もなかったからである。糖尿病対策として、五十歳を過ぎてからプール通いも始め、だから飲酒量はかなりのものだったが、なんとか血糖値は妥当な範囲内に収まっていた。退職後は、外で酒を飲む機会は減り、他方、プールで泳ぐ回数は増えたから、血糖値はますます安定したのをいいことに、晩酌は、ビール、日本酒、ウイスキーと手当たり次第だった。

様相が一変したのが七十五歳前後からである。プールでは、泳ぐ速度が激減し、他の泳者に気兼ねするようになってスッパリやめた。毎年夏には、すぐ下の海で泳ぐのもやめた。波を乗り越える自信がなくなったし、他方、1960年代頃には、海の家が何軒も建ち並び、我が社も一軒持っていたし、神戸辺から貸し切りバスで来る人々もあったのだが、最近はその海の家も一軒だけになり、泳ぐ人も激減した。「鮫が出た」という情報もあったし、土台、今の子供達にとって、泳ぐのはプールとなっていて、「海で泳ぐのは怖い」となり、それをモンスターマザー連が強調するからだろう。

昨年は、とうとう一軒だけ頑張っていた海の家も閉じて、私のように自宅で水泳着に着替えてサンダル履きで飛び出し、濡れたまま帰宅してシャワーを浴びることの出来る者しか海水浴は出来なくなって終ったのだ。学校にプールなんぞなかった終戦後、坪井川なる泥だらけの川で泳ぎ、たまにはドジョウなど捕まえる余録もあった私達の水泳とは髄分違って来たものだ。糖尿病に気兼ねして、晩酌は芋焼酎一升を五日で空け、一日二合とした。この辺が適量なのだろう。ΓGPT70前後だ。

水泳は兎も角、歩くことにかけては、そのスピードにも距離にも自信あった私だが、これも2年前から怪しくなった。血中の塩分が不足する、という奇病にかかり、脚元がふらついて、附近の道路で転んで起きることが出来ず、通りかかったおじさんに抱き起こされ、軽四のおばさん二人に家まで送られる始末。そこで医師の指導に従い、毎日梅干しを三個ずつ食って1年、NACLの数値はなんとか正常に服したのだが、脚元のふらつきは治らない。だが、私には糖尿病対策、という難業があり、水泳を辞めた今、もう歩くことしかないのだが、それが、スピードにおいては赤ん坊を乗せた乳母車押しの主婦にも抜かれ、距離も全然出ない。そこで、一念発起、また万歩計を買って、一日に六千歩、出来れば一万歩歩くことにした。だが、しんどい足を引きずって、漫然と歩くのは全く面白くない。何か目的がほしい。かくて、今月十七日(金)、この日は、内科、脳神経外科、とダブルヘッダーをこなすことになっていた。いずれも西明石駅付近で、我が家から約四キロである。そこで、七時過ぎに出発、内科に一番乗り、9時半には薬を貰って脳神経外科へ。ここは十時半の予約だったが、丁度その頃着き、若干待たされ、十一時過ぎに薬取得。また歩くのはちょっとしんどいな、タクシーにするか、など考えながら駅前へ行くと、うまいこと、一時間に一本のバスが停まっている。これは、普通百円のところ後期高齢者は、パスを示せば五十円、タクシーの七百円強よりは安く、降りてから家まで二キロほど歩ける利点もある。なんやかんやで、この日はなんとか一万歩をクリヤーした。土曜、日曜は、午後、海岸を三千歩ほど歩いた。以前は、朝早く歩いたのだが、「高血圧の者が寒い中を歩くのは一番危険だ」と内科医に言われ、渋々従って、午後三時過ぎから、としている。月曜日、この日は三ヶ月に一回の眼科医である。西明石からJRで朝霧へ。ここから、病院のシャトルバスに乗るかタクシーである。ところが、この朝、腰が痛い。真向法の体操で押さえ込んでいるのだが、たまに痛む。以前、それを押して歩いたら、途中で痛さ耐え難くなり、強情に携帯電話を拒否している身は、タクシーを呼ぶことも出来ず、人家の塀を頼りに、這うようにしてやっと辿り着いたことがある。同じ愚を繰り返すこともないので、息子の車で病院まで送り届けて貰った。帰りは、病院のシャトルバスで朝霧駅まで。JRで西明石へ。腰の調子はどうやら治ったようでもあるので、歩くか、とも思ったが、矢張り大事を取って、五十円バスから自宅まで二キロほど歩いただけ。病院通いは、私の歩数稼ぎの中心なのだが、どうやら、金曜日は合格、月曜日落第、はということだろう。中学時代はマラソンの第一人者、大学時代には、九州の標高千メーター以上の山を全部征服する目標を立て、船賃のかかる屋久島以外はほぼ果たした身、としては、なんとも情け無い晩年だ。頭の方はまだ大丈夫と自負しているのだが果たしてどうだろう?

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