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彼岸はどこにあるか?

私たち日本人にとって最も人口に膾炙したなじみ深い仏教用語に、『彼岸』という言葉があります。これは第一には春と秋年二回のお彼岸であり、主に先祖供養と結びついた仏事として私たちの生活に定着しています。

以下Wikipediaより、

彼岸(ひがん)は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ[1]。
最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶ。
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。

彼岸会法要は日本独自のものであり、現在では彼岸の仏事は浄土思想に結びつけて説明される場合が多くみられる。
浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられている(西方浄土ともいう)。
春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。

しかし本来の仏教用語としての彼岸とは、悟り(涅槃・解脱)の世界そのもののことであり、元々は先祖供養などとはとは全く関わりがなく、浄土思想などが登場する遥か以前に成立していた概念でした。

彼岸とはサンスクリット param(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Paramita パーラミター) の意訳「至彼岸」に由来する。

Paramita を param(彼岸に)+ ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え(三途川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする。
ただし、「波羅蜜」の解釈については異説が有力である。

私などは漠然と死後に渡るという三途の川の向こう側などとイメージしていましたが、調べてみるとこれは純粋に東アジア的な観念であり、本来のインド思想とはまったく関係がないようです。

この彼岸、つまりパーラムという言葉は、スッタニパータなど古層の仏典に頻出するだけでなく、ブッダ以前のウパニシャッドなどでも極めて重要な意味をもって使われていました。

ウパニシャッドのメイン・テーマ、それは個我の本質であるアートマンへの回帰と、そのアートマンが絶対者ブラフマンそのものである事に目覚める、ということなのですが、この絶対者ブラフマンの世界、それはしばしば絶対的な歓喜(アーナンダ)として表されますが、その『ブラフマンの世界』こそが『彼岸』という言葉で指し示されていたのです。

パーリ仏典における彼岸も本来はこのウパニシャッド的な世界観・心象風景の延長線上に位置するものだったのでしょう。最初期のブッダの言葉がヴェーダやウパニシャッド的な文脈を引きずった上に語られた事は、中村元先生なども指摘しているところです。

この彼岸という概念こそが、ブッダの瞑想法を含め仏教の根幹に位置する心象世界のカギであると私は認識しています。

そこで以下に中村元訳・スッタニパータより引用して、原始仏教における『彼岸観』を見ていきましょう。

3、奔り流れる水流を涸らし尽くして、あますことのない修行者は、この世とかの世をともに捨てる。

21、わが筏はすでに組まれて、よくつくられている。激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到達している。

539、(サビヤがブッダに向けて言う) あなたは苦しみの終滅に達し、彼岸に達せられた方です。あなたは真の人、さとった人です。あなたは煩悩の汚れを滅せられた方だと私は考えます。あなたは光輝あり、理解あり、智慧ゆたかです。苦しみの終滅に達した方よ。

545、(同)あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です。賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を絶って、みずから渡りおわり、またこの人々を渡すのです。

1070、「ウパシーヴァよ、よく気をつけて、無所有を期待しつつ、『そこには何も存在しない』と思うことに依って、煩悩の流れを渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、愛執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

彼岸とは、悪魔に支配された煩悩と苦しみにまみれた此岸、つまり私たちが住む日常世界から激しい水の流れによって隔たれた別世界であり、あらゆる煩悩・執着が消滅し止滅した世界でした。

1105、ウダヤ尊者がたずねた、「塵垢を離れ、瞑想に入って坐し、為すべきことを為し終え、煩悩の汚れなく、一切の事物の彼岸に達せられた(師)におたずねするために、ここに来ました。無明を破ること、了解による解脱、を説いてください。」

1106〜7、「ウダヤよ、愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、平静な心がまえと念いの清らかさ  ― それらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが ―  これが無明を破ること、了解による解脱、であるとわたしは説く。」

1109、「世人は歓喜によって束縛されている。思考が世人を運行せしめるものである。愛執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」

1111、「内面的にも外面的にも感覚的な感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用は止滅するのである。」

世俗の人々は思考と識別作用と歓喜によって束縛され、それらによって運行されており、それは塵垢の世界であり、愛欲や憂いにまみれた煩悩・執着の世界である。瞑想によってそれらの無明から解放された平静と安らぎの世界(彼岸)に至る事こそが解脱であり涅槃である。

その彼岸に渡るためには激流にたとえられる煩悩・執着を渡り超えなければならず、その難事業を成し遂げた者こそが、真の聖者(ブッダ)であると考えられていました。

この此岸と彼岸の対置構造は、時に大雨などによって増水した河の両岸にたとえられて語られていますが、これは恐らく聴衆の日常感覚に訴えるための文字通りの喩えであって、実際の彼岸がもつ『地理的なイメージ』は、単なる河の向こう岸ではあり得ないと私は判断しています。

何故そう言えるのか。それはこの彼岸のイメージが、これまで本ブログで詳細に論じてきた『輪軸の世界観』と密接に関わり合っていると考えられるからです。

その輪軸の世界観とは、もちろん、須弥山(メール山)の世界観にほかありません。

イメージ 1
人間界と須弥山の間には金輪の海が横たわる

須弥山の世界観において、人間の住まう世界は金輪という車輪世界の大海の中にあるジャンブ州という島大陸として描かれています。車輪世界の中心には梵天やインドラなど神々の住まう車軸なる須弥山が聳え立ち、それを東西南北に囲む形で4つの島大陸が配置されています。

この人間が住むジャンブ洲こそが此岸であり、須弥山(メール山)のふもとの岸辺こそが彼岸であり、両者を分かつ金輪の海こそが激流の大海であった。そのように考えると、様々な情報のピースが、見事にひとつの図柄の中にはまり込んでいきます。

〜次回に続く。


この記事は、ブロガー版 脳と心とブッダの悟り と連動しています。
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